第3話 人でありたい…
「……新川、国籍変わったってよ」
翌朝、翔が出社すると、そんな声がオフィスに広がっていた。
「ほんとに婚姻成立したらしい。向こうの国の人と」 「うまくやったよな。あいつだけ、“人間”のままだ」
「すげぇよな、あのタイミングで結婚とか……」 「俺も探さないとな…外国籍のパートナー」
同僚たちの声には、驚きよりも、嫉妬と焦燥が滲んでいた。
翔は何も言えず、ただ黙って自席に座った。
(新川が……助かった?)
イギリス人との婚姻届を出していたのは知っていたが、まさか本当に通るとは。
「一緒に出国したらしい」と誰かが言ったが、もうそれすら羨望の物語のようだった。
翔は自席に座り、メールを開いた。
> 件名:【重要】動物移行に関するガイドライン通知(第二版)
1. 日本人社員に対しては、最終週に「社会的義務軽減処置(給与支払い停止・通勤不要)」が適用されます
2. 企業所属の個人は「業務引き継ぎ動物」へと順次転換されます
3. 政府より支給された個別識別タグを首元に着用してください
4. 匂い管理のため、フェロモン抑制剤を3日に1度服用してください
文章を読み進めるたびに、翔の鼓動は重く沈んでいく。
(動物になる、って……こういうことだったのか
自我を保ちつつ、社会から完全に外される。
仕事も、金も、名前も、権利も、存在すらも。
“犬”や“豚”や“猿”と同じ枠の中に、人間が押し込まれる。
彼は首元を触った。数日前に届いた透明なリング状のタグが、うっすらと熱を持っていた。
それはまだ「動物」になっていない者にだけ配られる、最終の“マーカー”だった。
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昼休み、外に出ると、街の空気が一変しているのを感じた。
監視ドローンが空を行き交い、交差点には「移行センター」の案内看板。
ビルの壁には「動物移行応援キャンペーン」の広告が貼られ、“人類の平等な未来”というスローガンが白々しく踊っていた。
だが、何より異様だったのは――
“人間の顔をした存在たち”が、首輪をつけ、引率されていたことだ。
紙の上では。法の上では。定義の上では。
彼らはもう、人間ではなかった。
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夜、翔は小さなバーに入った。
カウンターの隅で、男と女が静かに話していた。
どちらも日本人の顔。年齢は30代前半だろうか。
「俺たち、結婚しようか」
「意味ないよ、同じ“種”同士じゃ」
「でも……せめて最期くらい、名前で呼び合いたい」
女が涙をこぼし、それを見た翔は、目をそらした。
(そうか、“人間らしさ”って、制度じゃなくて、誰かに名前を呼ばれることなんだ)
彼はふと、自分のタグを見つめた。
> 【Yajima Sho|♂|JP-Class:A.2|MIGRATION PENDING】
翔の“名前”は、もはやこのプレートの中にしか存在していなかった。