始まり 1
近衛騎士のベージルというやつは、とにかく融通の利かない男だった。
そもそもにして家庭環境も良くなかった。
年子であった兄たちに対し、末っ子のベージルだけぽつんと年の離れている、男ばかりの六人兄弟だった。一応子爵を頂いているれっきとした貴族の家庭であったが、兄たちは暴れん坊で喧嘩ばかりしていて、親も使用人もそっちにかかりきりだったのである。
とくに母親なんて、十を過ぎても座って食事も取れない猿どもをなんとか人間に育て上げようと可哀想なくらい必死だった。そのため、いつもひいひい悲鳴をあげていたようなものだから、女性の細やかさだとかなんとか、そういうものなどとっくにタンスの奥にしまい込んでいたのだ。
かと言って、ベージルが放っておかれていたとか、そういうわけではない。
年の離れた弟とはさすがに喧嘩する気になれなかったらしく兄たちはベージルをよく可愛がっていたし、両親や使用人も比較的手のかからないベージルはこと更に可愛く見えていた。ベージルはてんやわんやの家の中で、大変愛されて育ったのである。
しかし物理的に手の足りない子爵家の中。ベージルの教育を引き受けたのは、彼の叔父であった。
母親の弟であるこの叔父、この人こそが、ベージルの融通の利かなさを育て上げた張本人なのである。
彼は小さなことにこだわらない豪快な人であったが、同時にどんな小さな悪をも許さない正義の人でもあった。
そんな叔父の背中を見て、かつ家族から溢れんばかりの愛情を注がれていたベージルは、そうして、どんな悪にも恐れず立ち向かう男に育った。
そして、それが、ベージルが騎士団で働き始めた頃になって、『融通が利かない』という短所として顕在化してしまったのである。
たとえば、こんなことだ。
その日、ベージルは第二王子の護衛の任務を仰せつかっていた。
護衛と言っても、下っ端の彼には大した仕事が回ってくるわけではない。書類仕事をする第二王子の護衛として、執務室の扉の前に立っているだけの仕事ばかり任されていた。
しかしその日は、何故か第二王子は執務室ではなく、別の区画にある会議室で書類仕事をすると言った。ベージルには理解不能なワガママだった。仕事で必要な書類やらハンコやらも持っていかなければならないし、第二王子に用のある人は一度執務室を覗いてからここまで探しにこなければいけないし、気分を変えるにしたってせめて執務室の近くの部屋を使えばいいのにと思ったのである。
しかも、中には側近と自分の二人だけしか入れないようにとか言って、文官とのやり取りはわざわざ廊下で書類を広げさせるし、そのやり取りすら第二王子本人はやらずに側近にさせているし。
ベージルは、第二王子がサボりたくてこんなことをしているんじゃないかと思い至った。
そう思って先輩近衛騎士に聞いてみれば案の定、その会議室は最も上級の会議室で、椅子も良いものを使っているし、休憩のためのお茶やらお菓子やらも置いているということだった。
部下に迷惑をかけ、側近に仕事を任せ、本人は快適な場で仕事をサボっているというのは、正義にもとる行いである。と、ベージルは判断した。
ベージルは、融通の利かない男であった。たかだか下っ端の護衛騎士、下手に目立つことは避けておいた方が良いに決まってるのに――――そんな風に器用に立ち回ることもできず――――その日の夜、第二王子と顔を合わせたときに言ってしまったのである。
仕事をサボるという目的のために周りに迷惑をかけるのは、いかがなものか、と。
そして。
「まあ、クビにならなかっただけ、マシなのか」
ベージルは左遷された。
その日の夕飯を食べる頃には、勝手に荷物をまとめられて寮から追い出されていた。
連れて行かれたのは、王宮の敷地の端にある古びた塔。
周囲は鬱蒼としていて明かりひとつ無く、甲高い音の鳴る入口の扉は少し歪んでいて、積み上がった石の壁はそれが覆われるようにツタが伸び放題になっていた。
ベージルは、この塔に住む貴人の専属護衛官になるという辞令をそこでようやく知ることができ、そして今日からここの一室に住むよう告げられた。
ここがどこかも、護衛対象が誰かも知らなかったが、紛うことなき左遷であることはよくわかる。それほどまでの惨状だった。
案内してくれた使用人はベージルに鍵を渡すとさっさと帰っていってしまったので、仕方なく一人で鍵を開けてそっと中に入る。
塔は、大きさの異なる円柱が二つ、横に並び重なるような形をしていた。入口のある小さい方の円柱は螺旋階段になっており、ここを上っていくことで、大きい方の円柱の上の階――――居住区へ行けるようになっている構造らしい。
まずは主人への挨拶が何より先か、と手当たり次第に扉をノックして回る。どこにいるかわからないので。
返事がない場合は勝手に開けて入っていったけれど、外から見ていたよりも中が綺麗でベージルはほっと息を吐いた。布類こそ一切ない室内だったが、簡素な家具すら置いてありどれもまだ使えそうであった。生活を整えることは難しく無さそうだ、と安心したのである。
そうして、塔の中を無遠慮に見て回り、ついに最上階の扉を叩いたときに、ようやく中から人の声が返ってきた。
若い男性の声である。
「誰? 何の用?」
「遅い時間に申し訳ございません。明日よりこちらに配属されるベージルと申します。ご挨拶に参りました」
「…………配属? ここに? …………えーと、何かの間違いではなく?」
「いえ、間違いなくここに。今日からここに住み、護衛の任に就くよう辞令を受けました」
「ええ、護衛? ちょっと待って、今開けるよ。中で話そうか」
そうして、目の前の重い扉が開かれる。
中にいたのは、周囲に置かれた豪奢な家具に負けず劣らず煌びやかな雰囲気の男性だった。
まだ若い。二十代半ばにもなっていないのではないか。ベージルと同年代か、いくつか上程度に見えた。
服は簡素なデザインではあったが、上等な生地ということが見ただけで分かる。そんな服に着られることもなく、むしろ服が地味すぎるという感想を抱く程度には、彼の容姿はいかにも高貴であった。
貴人とは聞いていたし訳ありだろうとは分かっていたけれど――――これは、下手をすると。王族なのでは、とベージルは想像してしまった。
にわかに緊張しだしたベージルを上から下までじっくりゆっくり眺めた後、その男性はふっと目元を優しく和らげる。
「こんなところまで、よく来たね。ようこそ、罪人の塔ヘ」