ニコラとウォルター
ウォルターの幽閉されている塔は、別名『身投げの塔』と呼ばれている。
元々は高貴な血筋の思想犯を閉じ込めておくために建てられた塔で、王宮に住む王族たちが監視するために王宮の敷地内に建てられ、最上階は貴人を閉じ込めておくのに不足ない内装になっている。
しかし一番の特徴は、その部屋の窓にある。
塔から西の空に向けて作られた窓は大きく、窓枠の上部は天井まで、そして下部はウォルターの膝あたりの低い位置に作られている。そして窓を開けた先に広がる西日で染まる庭と城、遠くに広がる王都と山並み――――それは思わず窓台に立ってしまいたくなるほど美しかった。
身投げの塔、と呼ばれる所以はこれだ。
飛び降りやすい間取り、魅力的な窓の外の景色。身投げするまで出ることのできない、犯罪者のための塔。
ここは、そういう場所だった。
本来ならばウォルターのようなはっきりとした罪状も無い者が入るような場所ではないのだけれど、彼に不満は無かった。景色も良いし、ずっと一人でいることができるし、いつでも死ぬことができる。自分の罪を見つめるのにうってつけの環境だったから。
とくにウォルターのお気に入りは夕方の時間帯だった。
西を向いている塔は夕日を拝むことができる。赤くなった空がだんだんと黒に染まっていく様を部屋から眺めるのが好きだった。
そして今はそんな夕日も沈んで久しい時間、すでに月も眠りにつこうとしている真夜中。
ウォルターの前には、女性が一人座っている。
「久しぶりだね、ニコラ。何年ぶりになるかな」
第二王子アーヴィンの唯一の側近、ニコラ。
彼女は昔から優秀だった。
学生時代は女生徒の中で常にトップの成績を維持していたし、父親の仕事を教っていたらしい。家柄も名門伯爵の娘とあって、当時のウォルターらの婚約者候補筆頭だった。
アーヴィンの方でも名前は上がっていたようだが、最も有力だったのはこの自分の婚約者だ。何事も無ければ、ウォルターはニコラと婚約を結び、やがて結婚していただろう。
けれど結局自分は王位を継ぐ決心を固められなかったし、公表はしなかったが聖女クラリッサが運命の伴侶だったし、ニコラとウォルターには終ぞ縁がなかった。最終的にこうして自分が政争で負けた後も、ニコラはほとんど自分の婚約者として見られていたために結婚もできず働きに出て、アーヴィンの側近としての地位を築いた、らしい。そんな重役に彼女が収まっていられるのは、その優秀さゆえか、それともアーヴィンの婚約者候補として見られているからか、それは分からない。
何にせよ彼女の立場はとても不安定なもので、そしてそれは自分の優柔不断さのせいで起きた悲劇の被害者、その一人であった。
「…………私がアーヴィン様の側近になってすぐに挨拶に来て以来ですので、五年ぶりですね」
「そうか、もうそんなに経つんだね」
ニコラの表情は固かった。それもそうだろう、時間も考えず急にやってきたベージルの手によって説明もそこそこに無理やり連れだされたのだから。すでに就寝しようとしていたニコラは寝支度を整えていたそうだが、ベージルに連れていかれる場所には想像がついたためか、昼間と同じくきっちりと支度を整えてやってきた。
彼女はほんの一分の隙も見せないように装いを整え、居住まいも少しも崩さないようソファに腰かけ、目の前に座るウォルターを睨みつけていた。
ニコラをここまで連れてきたベージルは、ウォルターに促されて部屋の外に出されている。正真正銘二人きり、ニコラの目は鋭くウォルターだけを射抜いていた。
「それで、こんな時間に何の用です。もちろん、よっぽどな用なのでしょう?」
「もちろんだよ。ニコラ、君と秘密の話をする必要ができたんだ」
ニコラは一切の動揺を見せることなく、ぴんと張った背筋のまま用意されたカップに口をつける。琥珀色の液体は波打ったけれど、あまりその容量は減らされないまま静かに机の上へと戻された。
「心当たりがありませんわ」
「そうかな? 優秀な君が分かっていないとは思えないよ。…………中央聖堂の『リサ』 のこと、すでに知ってるんだろう?」
ニコラは艶然と微笑んだ。肯定とも否定ともとれる、すべてを忘れて見惚れてしまいそうな美しい笑みだった。
それを真正面から受けるウォルターはそれに動揺するようなタマではないけれど――――こうして確信をつかれてなお、この余裕。これはやはりベージルには荷が重かったな、と自分の判断が正しかったことを知る。
今から少し前、ベージルから『メリッサ』のことを知ったウォルターは、絶対にこのままにしてはおけないと、一転して態度を改めた。
因縁の相手だ。メリッサがのうのうと生き延びていることなど到底許せる話ではなく裁きを加えるつもりだし、そしてそれを知っていながら黙認していたどころか恋仲になっているであろうアーヴィンの罪も問う腹積もりであった。
そのためにウォルターはまず、ニコラを密かにここへ連れてくるようベージルに命令し、彼は一つ返事ですぐにニコラの元へ急いだ。
ベージルの目的は元々、ウォルターが処刑されないために教会との関係悪化を防ぐことなので、今のうちに第二王子の秘密を暴いて中央聖堂へ忍び込む理由を潰しておくことは彼の目的と一致する。かつての悪女、偽聖女の名前が出てきたときは驚いたが、教会で匿っているのは紛れもない事実。あれがメリッサだと知らない可能性はあるが、これは間違いなくあちらの弱みになる。ウォルターは「こうなった以上、教会がアーヴィンの責任だけを問い詰めるような厚顔無恥な行いはできないし、させない。この事実をこちらが抑えた以上、一周目のような流れにはならないよ」と言い切った。ベージルはその言葉を信じ、ウォルターの手足となることを決めたのだ。
この件をウォルターが思うような図で解決するには、ニコラの力添えが必要だ。ウォルターに使える人はベージルしかいないし、彼は新人の近衛騎士だ。しかも前の職場では浮いていたというし、その前は田舎にいて王都の学校すら出ていないという。使えるツテもなにも無いに等しかった。
だからこそニコラの手がどうしても必要だった。教会の良いような結論にさせないために、王宮側の権力の手が。
しかし、ベージルはニコラと仲が悪いという。そしてベージルは正直な若者で、腹芸が得意な方には見えない。ベージルの前ではニコラは感情的に話すことが多かったようだが、こうして利害が関係してくる話し合いをさせてうまくいくとは到底思えなかった。
なのでこうして、わざわざ彼女をこっそりと招き、既知の仲であるウォルターが話をつけようとしているのである。
「何のことでしょう?」
「もう全部分かっているから、そういうのは良いよ。生きてるんだろう? あのメリッサが。そして、アルバートだけでなくアーヴィンのことも篭絡した。まったく、つくづく王家の男と相性が良いらしいね。…………国の恥だ」
「……………………」
「分かってるのか? メリッサは聖女を殺した大罪人だ。それなのに…………」
ピクリ、とニコラの腕が動く。よくよく見れば口の端が少しばかり歪んでいるようだった。
彼女は昔から少しばかりこういう煽りに弱かった。まだ変わっていなかったようで有難い限りである。
それに。
言っていることは何も嘘ではない。失望したのも本当だ。ニコラは優秀な女性だった。そう信じていた。かつては婚約を考えていた女性だ、この七年で変わってしまったとは思いたくなかった。けれどこの反応は知っていた者のそれだ。だからこそ、残念でならない。
ニコラは知っていた。知っていて、メリッサのこともアーヴィンのことも、見逃していた――――――
ギリ、とニコラは唇を噛んだ。拳を握り震わせ俯く彼女を見て、ウォルターは言い過ぎたかと口を止める。
しかしどうやら遅すぎたようで、ニコラは拳を握りしめたまま顔をあげる。全身を震わせ、ウォルターを強く睨みつけるその目には狂気が宿っているように見えた。
「………………あなたは、いつもそうですね」
「…………いつも?」
「ええ、昔からずっとそうでした。いつもいつもいつも………………聖女、聖女、聖女…………! あの事件があるより前からです! 聖女と初めて会った日から、あなたはずっとそうだった…………!」
次第に、ニコラの声は震えていく。感情が抑えられなくなったのか、大きく息継ぎをしながら悲痛そうな声色で、ニコラは叫んだ。
「あなたは私と結婚するはずだったのに…………!!」
抑えきれないとばかりに彼女の目が大きく揺らぎ、涙が零れ落ちていく。嗚咽を上げながら、それでも彼女は声を張り上げた。
「なのに、あなたは一度たりとも私を見たことはなかった…………! いつだって、聖女のことばかり! それなら婚約も決めてしまえばいいのに、そうはせずに…………!
おかげで私の人生はめちゃくちゃだ!! 婚約を嫌がった第二王子のせいで私の立場がなくなって! だから、こうして、側近と言って第二王子の最も近くにいる女になって…………お茶を濁して…………もう、これしか道はない。これしかないんです…………第二王子の泥船に乗るしか…………」
ニコラの狂気を湛えた目からは絶え間なく涙があふれ続けていた。彼女の目はほの暗い闇を見ていて、もうウォルターは映っていない。そして、ウォルターの目にもかつての才女の姿は映っていなかった。
ウォルターはぐっと目を閉じる。これが彼の罪の片鱗だった。しかしこれは、受け止めなければならない現実のほんの一片でしかなく、そして、自分が逃げ続けていた罪そのものだった。
彼は頭を下げる。これで何も解決するわけでもないと知りながら――――それでもやらねばならぬことだった。
「ニコラ。…………すまなかった。君の人生を振り回してめちゃくちゃにした。これは全て僕のせいだ。僕が、選択を誤り続けたせいだ。本当に申し訳ない」
ぼうっと、初めて見るその姿を彼女は眺める。
ウォルターは見ることが叶わないけれど…………彼女の目にじわじわと広がるのは絶望の色だった。
何も変わらないからだ。彼に頭を下げられたところで、彼女の過去は変わらない――――女神の奇跡なんて、ニコラの前には起こらない。この男のことを恨んでいたはずなのに、いざこうして罪を認めた姿を見下ろしたところで、胸に満ちるのは………………虚しさ以外に何もなかった。
「…………もういい」
「ニコラ、」
「もういいです。こんなの…………虚しいだけです………………。それに………………」
それに。
ニコラはあの日の卒業パーティーを思い出す。
学生時代最後の歓談を楽しんでいた場で、突如ホールの真ん中に踊り出し荒唐無稽な聖女への冤罪を喋りまくっていた第一王子アルバートと、彼の隣でべったりと寄り添っていた偽聖女メリッサ。彼らはまるで劇でも演じているように現実味がなくて、誰も何も言えなかった。当の聖女も…………そして、ニコラも。
「私も何もしなかった…………」
ニコラは卒業パーティーの日、ウォルターと違ってあの場にいた。そしてもし、彼らの暴挙に口をはさむことができるとしたら、それはニコラだけだったのだ。だって彼女は、あの日の段階ではウォルターの婚約者と同等の立場だったのだから。
彼女には自分は優秀だという自負があった。正しいことを正しいと理解できる頭脳があり、そしてそれを正しく行える強さを持っていると信じていた。
けれど、あの日。ニコラは最善を選べなかった。
その罪の意識が、今日まで彼女を苛んでいることを、ニコラ本人でさえ知らない。
ウォルターは静かに涙を流すニコラに言葉を詰まらせながら、それでもなんとか、言葉を絞り出す。
「…………ニコラ、僕が言えたことではないのかもしれないけど。それでも、あのメリッサの存在を黙認していた罪は………………公になれば、アーヴィンはもちろん、君の首も飛びかねないことだ」
「はっ…………脅すつもりですか?」
「そんなつもりはないよ。僕はただ、あの女に正しい裁きが下ってほしいだけだ。他のことは僕にとってはどうでもいいと思っているよ…………もちろん、君の進退についても。ニコラ、君になら分かるだろう?」
ウォルターはニコラの返事を、じっと待ち続ける。
ニコラは鼻で嗤う。ただの脅しだ。メリッサが生きていることを明らかにし改めて罪を償わせることを求めているのだろうが、第二王子の罪を公にした場合、その先にあるのは『ウォルターの復権』だ。でも学生時代、あれだけお膳立てされておきながら覚悟を決められなかった男が、今さら王になんてなれるものか。現に、ニコラの罪は問わないでおいてやると暗に言ったではないか。ニコラは第二王子アーヴィンの側近で、彼が罪を犯した場合は共に処分される立場にある。その罪を見逃してやると言っているのだから、アーヴィンの罪についても公にせず済ませるつもりなのだ。ニコラは嗤う。この臆病者が、アーヴィンとニコラの罪を公になんてできるものか――――――
でも。
ニコラにだって、あの卒業パーティーの日の悪夢に対し、思うことがないわけではない。
メリッサのことが………………嫌いだ。きっと、この目の前の男と同じか、それ以上には………………。
これは、メリッサを出し抜くまたとないきっかけなのだと――――ニコラは嗤った。




