後編
アドニス・フェザー(25)
リオン・クロッカス(15)
ステファニー・フェザー(18)
アドニス視点
一行目からドン引き注意!
昔から、私の性的嗜好はドアマットヒロインだった。
いや、なにを言っているんだと思われるかもしれないが、真実、私はドアマットヒロインのような女性にしか、性的に興奮しないのだ。
我ながらとんでもない性癖だと思っている。
可憐で一途で健気な女性が、家族や夫から虐げられていればいるほど愛おしくなる。胸はきゅんきゅんするし、ものすごく滾る。
さすがにこれはまずいと自覚して、母親の書棚のロマンス小説を片っ端から読み漁っては、歪んだ己の欲を満たし、沈静化させてきた。
定番の誤解からの、きみを愛することはないからの、白い結婚。もしくは、子供を産むためだけの道具扱いでもいい。家族に虐げられ、使用人たちに虐げられ、夫に虐げられ、夫の愛人にすら虐げられても、黙って耐え抜くヒロイン――……はぁ、素晴らしきかなロマンス小説!
なぜ下働きのようにこき使う継母や義理の姉妹のために、そこまで……!
なぜ愛人のいるクズみたいな夫のために、そこまで……!
ヒロインの境遇に涙しながら、申し訳ないが興奮した。
ドアマットヒロイン。愛おしすぎる。
しかしながら、ロマンス小説の多くが、妻を虐げていた夫が途中から改心して、妻を大事にしはじめるという結末へと続いていく。
もちろん素敵な白馬の王子様が迎えに来ることもままあるが、結局のところヒロインが序盤に冷遇されるのは、彼女の健気さに胸打たせ、後々のハッピーエンドをより劇的なものとさせるための布石でしかないのだ。
夫が改心する気配が見えた瞬間、なぜか私の気持ちが萎える。
そこは最後まで嫌な夫を貫き通せ、クズ夫。なぜ心を入れ替える。
だが、仕方がない! ヒロインが一途で健気で愛おしすぎるから!!
この葛藤たるや!
私は理不尽に虐げられている女性が黙って耐えながらも、ひたむきにがんばるその姿勢が好きなのである。
頭のネジと顔面を緩めまくった元クズ夫に溺愛される姿など見たくはないのだ。
ふたりが心を通じ合わせた途端、つまりヒロインが幸せになることが確定した瞬間、私はその先を読むことなく本を閉ざす。
ああ、わかっている。わかっているとも。
自他ともに認める、変態であると!
すでにおわかりかと思うが、この性癖ゆえに、私には婚約者がいない。
それはそうだろう、そういうプレイだとしても、虐げられるとわかっていて嫁いできてくれる娘など、いないのだ。
一生独身。それもまた人生。
大丈夫。私の心は常にロマンス小説とともにある。
ありがとう、母上。
たくさんの蔵書を溜め込んでいてくれて。
だがしかし、私の性癖は、間違いなくあなたからの遺伝だ。
責任を取ってほしい。
このままでは次代を望めないと、養子を取ることも本格的に視野に入れて、半ば諦めかけていたとき、彼女を見つけた。
ステファニー・コート子爵令嬢を。
翡翠色の艶やかな長い髪に妖精のような可憐な容姿ながら、自分に自信がなさげなどこか翳のある憂い顔。私の想像する理想のヒロイン像そのままの娘で驚いた。
しかも聞けば最近婚約者を義妹に寝取られたというではないか。
その境遇が気になり、私は速やかに事実確認の調査に乗り出した。
仕方がない、私の食指が動いてしまったのだから。義妹に婚約者を寝取られる令嬢……ああ、素直に認めよう。好きしかない。
これで家族に虐げられていようものなら……。
想像だけで胸が締めつけられて、身悶えそうになった。だめだ、愛おしすぎる。
社交界でそれとなく情報を得たが、婚約者が義妹とできていた、という噂自体は事実だった。
婚約者と家を継ぐという話も義妹に流れ、彼女は今、嫁入り先を探しているという。
えぇと?
……私の妻の席が空いていますが?
しかし結婚とは一生の問題だ。
求婚すべきか迷いながら、執務机に頬杖で長いため息をつくと、金髪の美少年が怪訝そうに眉を寄せた。私の頼れるリオンくんだ。
「なぁ、リオンくん。きみ、ステファニー・コート子爵令嬢を知っているか? きみは、学院に通っていた時期が少し重なるだろう」
リオンくんは従者としてそばについているが、本当はなかなか妻を娶らない私にやきもきした母が養子候補として寄越した縁戚の子だ。いずれ私の養子としてこの家を継がせることになるかもしれないので、学院に通いながら今からそばについて勉強させている。男にしては華奢で美少年というにふさわしい容姿をしているが、わりとはっきりとものを言う子でもあった。
「ステファニー・コート? ……ああ、“カエルちゃん”のことですか?」
「カエルちゃん? それは髪色に対する差別的なあだ名か?」
「それも少しはあるかもしれませんが、違いますよ。アドニス兄上は、蛙化現象、という心理学の用語をご存知ですか?」
蛙化現象。好きだったはずの相手から好意を向けれた途端、生理的に無理になる、あれだろう。
「知ってはいるが、それが?」
「彼女はまさに、それです」
「それ、とは?」
「婚約者がいたんです。長年恋慕う婚約者が」
「ああ」
「だけどその婚約者は彼女のことを髪色を揶揄っては日常的に傷つけて……」
「ほう?」
「ほかの女性には優しくするのに彼女のことは煙たがり、それでも彼女は健気に尽くして支え続けて……」
「ほう!」
「もっと条件のいい優しい男たちからのアプローチもものともせず……」
「ほうほう!」
「とうとう婚約者がその存在の尊さを理解し……」
「おおぅ……」
「そこでまさかの蛙化現象です」
「うん?」
私はぱちりと目を瞬いた。
「あれだけ一途に思い続けていたはずなのに、好意を向けられた瞬間、すん、って冷めてしまったらしいです。生理的に無理、って」
「それは、なんと言うか……私の思っていたのと違うな? 婚約者を寝取られて悲しんでいたのではなかったのか?」
「むしろショックを受けたのは男の方で、それを妹が慰めているうちに恋が芽生えたのだとか」
「義妹、普通にいい子なのか……?」
てっきり親は義妹ばかりかわいがり、彼女を蔑ろにしているかと思っていたが、そこまでではないのだろうか。
「上の子よりも下の子に手をかけるのは、よくある話ですよ。僕だって、お兄ちゃんなんだから、と何度親に言われて弟たちに譲ってきたか」
ひとりっ子の私にはあまり馴染みのない感覚だ。
リオンくんが言うには、実の母親は彼女を産んですぐに亡くなって顔も覚えていないらしい。二歳年下の義妹は物心ついたときからの姉妹だ。それほど仲が険悪になることはない。
幼い頃から姉妹として育った義妹との仲は、思ったよりも良好だった。
というかそれはもう義妹ではなく、妹と表現していいのではないだろうか。
「ずいぶん詳しいな」
「美人姉妹で有名でしたからね。……だけどなぜそんな話を?」
私はリオンくんに正直に言った。
「コート家に、ステファニー嬢との婚姻を打診してみようと思って」
「えっ!?」
多少思っていたのと違ったが、私は己の直感を大事にしようと思う。
彼女ならば私の理想の女性になってくれそうな気がする。
「えぇ……?」
「嫌か?」
「ようやく奥様を娶る気になったところ悪いですが、あの子はやめた方がいいと思います。見た目こそ儚げな妖精みたいですが、自己肯定感低めで悲劇のヒロインである自分に酔っているだけの、自己陶酔型ナルシストですよ。冷遇されているうちが彼女にとっては華なんです。相手に蔑ろにされてこそ輝くんです。愛を伝えたが最後、どんな素敵な王子様も彼女にとってカエルに変わりますよ?」
ふむ、と私はしばし考えた。
それはむしろ……。
いや、なんというか……私たち、相性がよくないか?
つまり放っておけば勝手に被害妄想で傷ついてくれるわけで、私はそばで存分に冷遇される妻を堪能でき、妻は虐げられる自分を憐れみながら陶酔することができる。
うん。悪くはない。
むしろいい。いいしかない。
「リオンくん」
「はい」
「きみ、私の偽装恋人になってくれないか?」
男同士なら間違いが起きないから都合がいい。
「はい?」
「やはり愛人がいるというのは定番の設定だろう」
リオンくんが類稀な美少年で幸いした。
「は?」
「演技しろとは言わない。ただ、私に愛されているだけでいいんだ」
「はあ!?」
それはいつもすまし顔のリオンくんが、はじめて表情を崩した貴重な瞬間だったが、すでにめくるめく新婚生活に思いを馳せていた私は、当然、気に留めることもしなかった。
そうして私は思いついたが吉日とばかりにコート家に婚姻の打診をし、トントン拍子で顔合わせとなったのだが……。
ステファニーの反応が、微妙な気がする。
私、これでも美男子で通っているんだが?
仕方ないので本来初夜で言うべきはずの文言を、あえてこの段階で伝えてみることにした。
一度は口にしてみたかった台詞No. 1の、それを。
「きみを愛することはない」
緊張したが、つっかえることなく一字一句慎重にそう告げると、ずっと虚無だった彼女の水色の瞳に、はじめて私という人間が映り込んだ。
それまでは焦点が合っているようでまったく合っておらず、私を個として認識していないような、無関心そうな顔と態度をしていたのに、だ。
視線が交わったのはほんの数秒で、すぐに彼女のその顔には翳りが差し、それから気丈に振る舞おうとして失敗したような、どこか儚い微笑みを浮かべて私を見つめてきた。……一心に、私だけを。
……え、どうしよう、愛おしすぎるのだが?
ああ……やはり、私は間違っていなかった。
たったこれだけのやり取りで、彼女の興味や関心が丸ごと私へと向けられたのを感じて、全身がぞくぞくとして打ち震えた。
この調子なら金の力で強引に娶るという非人道的な手段を使わずに済みそうだ。
私はどうにか表面だけでも冷静さを保ちながら、彼女と向き合う。義務として子供を作ることだけはしっかりと伝えておかなくては。
彼女はきっと白い結婚を想像していたに違いないが、それでは結婚する意味がない。
白い結婚もまたおいしくはあるが、私が我慢できそうにないのでそれだけは却下だ。
私も健全とは言い難いが、男だ。
欲望に忠実な男の中の男である。
どうせなら初夜から泣かせたい。
泣くまいと我慢して堪えきれずに流れる涙はきっと真珠にも勝るとも劣らないだろう。
そうだ! 初夜のときに、私に愛する人がいることを仄めかそう。
もちろん私が愛しているのはステファニーのことだが、彼女はリオンくんを愛人だと思って涙を流してくれるだろう。
ほかの人を愛する夫に子供を作るためだけに抱かれる妻……ああ、想像だけでかなりくるものがある。
罪悪感なくドアマットヒロインをこんな間近で観察し、あまつさえ抱くことができるなんて、神はなんたる幸運を私に与えてくれたのか。
きっと前世でよほど善行を詰んだのだろう。
国でも救ったのかもしれない。
「ふふふふふふ……」
さあ、いつでも嫁いで来るがいい、ステファニー!
もはや我が屋敷はきみを最高に輝かせるためだけの舞台装置!
好きなだけ悲劇のヒロインになってくれ!
そんなこんなで、私の性癖がバレることなく無事結婚までこぎつけ、初夜。
ことを終えて寝所から退出し、使用人たちにステファニーが身を清めるときは手伝うよう告げ、自室へと戻る。
本当は朝まで共寝をして妻の一挙手一投足を観察したいものだが、私は私がこうあるべきと思い続けてきたクズ夫を演じ続けなくてはならないのだ。
大丈夫。私は想像で補正できるタイプの人間だから問題ない。
妻は今頃、ひっそりと涙を流していることだろう。
もしくは疲れて眠ってしまったか。
「……」
やはり眠った頃合いに寝顔を見に行こうと決めて自室に入ると、そこでげんなりした空気を隠そうともしないリオンくんがすでに待ち構えていた。
「正直全然聞きたくはありませんが、初夜は無事完遂できましたか?」
私はよくぞ聞いてくれましたとばかりに、声を弾ませた。
「ああ! 最高だったよ! ほかの人を愛している夫から与えられるはじめての快楽。抗おうとしても結局堕ちてしまう瞬間のその涙の美しさと言ったら……! これでは二十人くらい子供ができてしまいそうだ」
リオンくんはかなりドン引きした顔で、持ち帰ってきた小道具を、手袋をした手で摘んでゴミ箱へと捨てた。逃げられると困るのでロープは使ったが、恐怖を煽るためだけに持参した鞭は使っていないのに。新品だったのに。
「子供ができたら、僕のお役も御免ですね」
「いいや、だめだ! それでは彼女が普遍的な妻になってしまうだろう。リオンくんは表向き後継候補のまま、妻の心を苛み続けてくれないと」
「僕の精神がしんどいんですが」
「それにしばらくは夫婦ふたりの生活を楽しみたいからね。もちろん私は避妊薬を飲んでいる。彼女も、子供ができないことに苦悩したいだろう」
周りから子供はまだかとちくちく言われたいはずだ。
そしてひとり寝室で涙を流す妻……ああ、最高に美しい。
そういう自分に酔っているだけだとしても、愛しさは変わらない。
むしろ罪悪感を抱かなくていいのでありがたい。
「使用人たちにもしっかりと通達しておいてくれ。妻に接する態度は、普段通りに、私に接するときと同じでいいと。ああ、だが、泣いているのを見かけても慰めるのだけは御法度だ。そこはあくまでも無視で頼むよ。これから彼女にはどんどん悦に入ってもらわないといけないからね!」
その姿を見るたびに、私も昂るというものだ。
リオンくんの私を見る目は、完全にゴミを見る目だったが、わりといつものことだったので見逃してあげた。
彼女が悲劇のヒロインでいられるよう、私も常に最善を尽くして行動している。
私の蒔いた小さな悪意の種が芽吹いたのか、その日はめずらしく彼女の方から私に会いに来た。
書斎でお気に入りのロマンス小説を堪能していたところに、本物が現れた。まるで飛んで火に入る夏の虫だ。
ステファニーが蝶ならば、私は蜘蛛だろうか。いや、私は人間だな。理不尽に蝶を捕獲し標本にして飾る、人間だ。
とはいえさすがの私も、この性癖が妻に知られるのは困るので、素早く表題を下に向けて本を置いた。間に挟み込んだ愛用の栞の紐が日に焼けて黄色になっていることに気づき、そろそろ買い替えどきかもしれないなと一瞬思考が逸れはしたが、まずはステファニーだ。
擦り切れるくらい読み込んだ愛読書ではあるが、「きみを愛することはない」とヒロインが告げられる、ある意味一番おいしいところで邪魔されてしまったこの行き場を失った感情は、彼女本人にぶつけて発散するしかない。
リオンくんが養子候補であることを知ったのだろう。嘘ではなく紛れもない事実ではあるが、彼女としてはショックだったはずだ。
ステファニーの顔にある焦りや悲しみに気づいた上で、私はなにもわからないふりをして用件を聞く。
自分から抱いてほしいと言わせるために。
そうして私の思惑通りに腕の中へと堕ちてきた妻を、午後の柔らかな日差しを受け、風に膨らんだ白いレースのカーテンの下で、机上に押しつけあまく苛んだ。
ああ……かわいそうに。
いくら抱かれても、今は実を結ぶことはないというのに。
結婚して数ヶ月も経つと、妻からの視線も怯えからどこか焦がれるものへと変わって来る。
普通ならばあり得ない話だが、ステファニーなら当然だ。
私は口で言えない以上、愛していることを伝えるように夜毎丁寧に抱いてはいるが、彼女は未だ、後継を作るためだけの愛のない行為だと思っていることだろう。
私たちの円満な夫婦生活のために、そこは存分に誤解していてくれ。
私のことを愛しているのに、愛されることはない。そのことに胸を痛めては、切なそうに目を伏せるステファニー。
私も愛している!
そう言ってしまいたい衝動をどうにか堪える。
せっかく私のことを愛しはじめたのに、ここで蛙化されては困る。
無性にたまらなくなったときは、リオンくん越しに愛を伝えるようにしてごまかした。
そのときのステファニーと言ったら……!
彼女の真価は、傷つき涙を堪えるその姿にこそある。
自宅でパーティーを開くと伝えたときのことだ。
彼女は着るドレスがないと言いたげだったが、私は妻に、それなりの量の普段着を与えている。本人は知らないかもしれないが、すべて既製品のドレスなどよりもお高い、オーダーメイド品だ。
ただ、私好みのアンティーク加工の施されたクラシカルなデザインばかりなので、古着と誤解されていても仕方ないし、むしろそのまま誤解し続けていてくれと願っている。
そもそもともにパーティーに出席するのだ。すでに私と揃いでドレスを仕立ててあるに決まっている。
私は甲斐性のある男だ。
ドレスを仕立てた瞬間から、引き裂く妄想しかしていない。
お高いドレスを欲望のままに一回で潰す、甲斐性しかない男だ。
しかしケチな男だと思われているのはあまりいい気分ではないなと思っていると、妻がなにやら床に伏して謝罪しはじめた。
ステファニーは少しでも私の機嫌を損ねると、簡単に平伏してしまう癖がある。
今どき使用人でも床拭きする以外で床に伏せたりはしないだろうに。おそらくこのまま靴を舐めろと言ったら舐めるだろう。
……ぞくぞくなどしていない。私はそこまで落ちぶれてはいないのだ。
ただ、家で私相手にするだけならまだいいが、これをよそでやられたら困りものだ。
「立ちなさい、伯爵夫人がみっともない」
こればかりは口頭でしっかり叱るつもりだったのだが、私は意図せず、妻が気持ちよく悲観できる急所を踏み抜いてしまったらしい。
唇を噛んで両手で胸元を握りしめて、必死に涙を堪えながら小動物のように震えているその姿を見たら、簡単に理性が切れた。濡れた紙くらいすぐに切れた。私の獣の本能が理性を凌駕した。
問答無用で寝室に連れ込み、気づいたら朝だったが、私は悪くない。
悪くはないが、良心はある。
妻のドレスを引き裂くのはやめておくことで、それをお詫びとしておいた。
私は実は、華やかな場はそこまで好きではない。
わかるだろう。内容はさて置き、読書が趣味の思慮深い男なのだ。
私の容姿や肩書きや持っているものに群がって来る女性たちは大勢いるが、彼女たちに教えてあげたい。ここにいるのは、稀代の変態であるのだと。
以前はこの中のひとりでも私の性癖につき合ってくれたらと、想像で楽しむことがいくらかあったが、今、私の心は湖の如く凪いでいる。
きっとこの世に妻を超える逸材はいないだろう。
たとえばの話、今目の前に私好みの冷遇される令嬢が現れたとしても、私の心がそちらに向くことはもうないだろう。
私にできるのは、善良な青年を紹介することくらいだ。
誰がなんと言おうと私が好きなのはステファニーであり、私が妻を愛していることに間違いないのだ。
本当はずっと屋敷にこもって愛する妻と戯れていたい。
それでも社交はしなくてはならず、ただでさえ妻に社交をさせず軟禁しているので、仕事が溢れて仕方がないのだ。
しかし元より私はできる男。
そして優秀な従者のリオンくんを得た今、パーティーを取り仕切ることくらいわけがなかった。
今日くらいは妻のお披露目をしなくてはと横に侍らせていたが、ステファニーは予想外にしっかりと伯爵夫人を演じてくれている。
学院も卒業しているし、中身がどうあれ元は賢い娘なのだ。
この調子ならたまに連れ出すのもありかなと思いながら、パーティーは順調に進んでいた。
だがひとたび仕事の話に移行すると、どうしてもステファニーには構っていられず放置することになる。
私の隣にいたときの嬉しそうな顔もなかなかよかったが、壁際に立ち、寂しげな表情でこちらを眺める妻の輝きたるや。
しかしいつまでも妻をねっとり見つめているわけにもいかず、しばらく完全放置して脳内補正を行っていたとき、
「アドニス兄上、バルコニーで奥様に監視対象が接触しました」
ステファニーを監視させていたリオンくんにそう耳打ちされて、私は歓談していた人たちに断りを入れてから急ぎバルコニーへと向かった。
今日のパーティーに、学院時代ステファニーに言い寄っていた男のひとりが参加することははじめから知っていた。
彼は前の婚約者との婚約が破棄された直後にコート家に正式に婚姻の打診をしたらしいが、こうして選ばれたのはこの私。……ふふ。
リオンくん調べによると、そうして妻に求婚をした男は二桁にも上るという。
見た目はあの通り妖精だ。しかも健気で一途。好きにならない方がおかしい。
クズな婚約者に尽くす姿を見ていたら、助けてあげたい、と庇護欲が湧くのが善良な人の心理だろう。
わかっている。性的に興奮する私がおかしいのだ。
その善良な青年を私たち夫婦のプレイのために利用するのも申し訳ないが、リオンくんが事前にステファニーの境遇を囁いてある。
アドニス・フェザー伯爵には真に愛する人がいて、ステファニーは後継者を産むための道具として散々慰み者にされている、と。
こうして言葉にすると、とんでもない人間だな、私。
だが私は一本筋の通った生粋の変態だ。
己の信念を曲げて、真人間の仮面をかぶることなど、できるはずがない。
さあ、異常者と呼ぶがいい!
今後の展開を想像して、もはや気持ちが昂り抑えきれないほどだ。
「アドニス兄上」
「……ごほん。わかっている。妻の救出が最優先だ」
私は緩みかけた頰を引き締めた。
今妻は、バルコニーで男とふたりきり。相手は純粋にステファニーを助けたいと思っている青年ではあるが、それを知らない妻はこんなところを夫に見られたら不貞を疑われると、震えていることだろう。
早くその顔が見たい!
喜び勇んでバルコニーへと踏み込むと、怯えるステファニーの手首を男が掴んでいるのが見えて、意外にも私の感情は興奮よりも怒りによって支配された。
そうだった。私は独占欲が強いタイプでもあったのだ。好きなものを人と共有するのが嫌いで、それ一口ちょうだい、と軽率にのたまう人間にイラッとするほど狭量な男だ。その一口にどれほどの価値があるか、理解してからものを言え。
「私の妻に触れないでもらいたい」
思いのほか唸るような低い声が出た。ガルル……。
驚いた様子でこちらを向いたふたりをすぐに引き剥がして、私は震える妻の肩を抱き寄せる。
かわいそうに、妻はわたしの胸に縋りついて泣いているではないか。こんな、下心しか詰まっていない胸で。
ああ、なんて愛らしいんだ、ステファニー!
今この場でめちゃくちゃにしてやりたい!!
リオンくんに小突かれて、私はイカれた衝動をどうにか理性で抑え込んだ。
さすがにそこまでの変態ではない。私は妻の痴態を他人に見せて喜ぶ類の変態でなかったことを神に感謝した。
「フェザー伯爵、失礼を承知で言います。彼女を解放してください! 私は彼女を、心から愛しているのです! 彼女にも幸せになる権利があるはずでしょう!?」
ステファニーは目を丸くして青年を見つめている。完全に寝耳に水という顔だ。婚姻の打診を受けた際に、一度顔合わせをしただろうに。もしかして、相手が誰なのかわかっていないのだろうか。
だが、まあいい。
善良な青年よ。私たち夫婦の仲をもう一段深めるための一助となってくれたまえ。
「ほう? ふたりで私から逃げるつもりだったのか?」
「ち、違います! わたしはこのような人、知りません! 信じてください旦那様!」
「妻はこう言っているが?」
「そんな、」
こちらに伸ばされた青年の手を彼女が振り払った。
ステファニーは相手を傷つけてしまったことに動揺しつつも、その瞳にあるのは恐怖と困惑と、ほんの少しの嫌悪だった。
彼女は髪色由来の自己肯定感の低さから、誰も自分のことを愛するわけがない、と思い込んでいる節がある。
だから前の婚約者は、愛を告げた瞬間嫌われた。
彼女にとって、カエル色の髪をした自分を愛する人間は、カエルを愛する人間であり、イコール気持ち悪い人、となる。
難儀な思考回路だ。
おそらく、誰よりもカエルを嫌悪しているのは、彼女自身なのだ。
普通の男ならば、この愛らしい女性を前に愛を囁かずにはいられないだろう。
だが私は、プロのドアマットヒロイン愛好者。
そしてプロのクズ男でもある。
愛ゆえに、愛を囁くことはない。
私は悪役のような笑みをこぼした。
「……権利? ふ、ははっ! 私の妻にあるのは、義務だけだ。そこに愛など、必要ない。そうだな、ステファニー?」
「……はい、旦那様」
彼女は俯き加減でうなずいた。
その声は震えていて、一見怯えているようにしか見えないが、そこに潜められた確かな悦びを、この私が見逃すはずがなかった。
彼女は真綿に包まれるような優しく愛される幸せなど、はなから望んではいないのだ。
なぜなら私と同じ、性的に壊れた異常者なのだから。
これは運命だ。
私にはもうステファニーしかいない。
そしてこれが私の、私たちの、愛情表現。
ドア一枚隔てた向こうで、部屋に閉じ込めた妻が必死に弁明をしている。
ドアを叩く音を聞きながら、私は気長に待つ。
言質を取るまで、ひたすら沈黙を守る。
そしてようやく、
「なんでもいたします! どうか、お許しをっ……!」
来た!
危うく歓喜の声を上げそうになったが、ひと呼吸置いて気持ちを鎮めてから、なにも動じていないような態度で答える。
「……なんでも?」
「ええ! ですから、どうか、どうかわたしを見捨てないでください……」
開錠してドアを開くと、涙を流しながら座り込んでいたステファニーが、はっと顔を上げた。涙に濡れた顔がなぜこれほど美しいのか。
「今後、家ではこれを着るように」
私はこの日のために用意していたステファニー専用のお仕着せを投げ渡した。
冷遇されるヒロインといえば、やはりお仕着せだろう。
ただし使用人たちのものとは違い、これもフルオーダーであり、予備も私のクローゼットに溢れるくらいに用意してある。
黒は私の色だ。
私の色を纏う妻は、さぞや美しいことだろう。
「今後、自由な時間はないと思え。日中は私の執務室の掃除を。常に監視しているからな。そして夜は、しっかりと妻としての義務を果たしてもらう」
私の冷淡な言葉に、妻は涙してうなずいた。
あ、ものすごく嬉しそうだ。
妻が嬉しいと私も嬉しい。
「ありがとう、ございます……」
「着替えたらすぐに執務室へ。少しでも手を抜こうものなら……ふっ。夜、覚悟しておくことだ」
今日はドレスの代わりに、そのお仕着せを存分に引き裂かせてもらうことにしよう。
私は仕事ができる男だが、仕事が好きな男ではない。
「アドニス兄上。また国から、金の採掘量をもっと増やすようにとの命令が来ていますよ」
私は黙ってゴミ箱を指差す。
リオンくんはくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に投げた。綺麗な軌道を描いて見事に収まる。
「頭の悪い人間ばかりで困る。鉱員たちを使い潰す気か」
「それに採掘量が増えたらその分価値が下がりますからね」
「その通り。資源は無限ではない。掘り尽くして閉山となったら、困るのは国も同じだろうに。とりあえず、一生懸命がんばってます、とだけ返事をしておく」
「視察に来たらどうします?」
「そうならないよう手を打っておく」
つまり官僚たちに賄賂を握らせるわけだが、面倒極まりない。
やれやれとため息をついたところに、ドアがノックされた。
入室の許可を出すと、顔を見せたのはステファニーだった。
放っておくといつまでも掃除を続けてしまう困った妻なので、日々のノルマは少なめにしていたのだが、やはりもっと酷使されたかったらしい。それは申し訳ないことをした。だが部屋はもう十分綺麗だから、明日から私の靴を磨かせよう。
妻は健気にも忙しい私のために夜食を拵えてくれたらしい。なんていじらしい。夜食よりも妻を食べたいくらいだ。
私の真の夜食はステファニー、きみだ。
「ありがとう」
そう言ったときの彼女が一瞬見せた嬉しげな表情。それを凍らせるように、私はにこりと微笑んで続けた。
「だが、できれば私だけでなく、こういうときはリオンくんの分も頼む」
「あ……申し訳、ありませんでした……。今すぐ、ご用意いたします……」
彼女は泣くまいとスカートを握りしめながら耐え、逃げ出すように部屋を出ていく。
その姿を存分に楽しんでからリオンくんに目を向けると、吐き気を堪えるように手で口元を覆って顔を俯けていた。
「大丈夫か? 気分が優れないのなら、彼女の用意した夜食は私がふたり分いただこう」
「それはぜひ。僕のことを夫の愛人だと思っている奥様が用意した食事など、恐ろしくてとても受けつけません」
毒でも警戒しているのだろうか。
「ステファニーはそういうことはしないよ」
なにも言えずに我慢するのがステファニーではないか。
軟禁状態の妻が毒などそう簡単に入手できるはずがない。第一妻の買い物リストをすべて管理しているのはリオンくんだろうに、自分の仕事にもっと自信を持つといい。
だいたい、愛人を排除しようと動ける強い女性は、私の好みから外れている。彼女は私のことも、リオンくんのことも、憎悪していないのだ。なぜか純粋に、自分が悪いのだと思い込んでいるその姿が堪らない。
本当に私にとって理想的な妻だ。
そしてなにより愛おしい。
「はぁ……。妻がかわいい。かわいすぎてつらいよ」
ロマンス小説のクズ夫たちが改心する気持ちがよくわかる。
もちろん私は最後まで抗うつもりだが。
クズ男の都合のいい手のひら返しだけは、ほかが許しても私が許さない。
ヒロインが許しても私だけは絶対に許さない。
私はクズをまっとうして死ぬ!
「ああ、そうですか」
「そろそろ孕ませてしまおうかな? ほかの人を愛する夫との子……あの人はこの子のことを愛してくれるのかしら……みたいに憂いてほしい」
いや、不安なせいで子供が流れると困るから、そのあたりは繊細な調整が必要か。
髪色は気にしないとすでに伝えてあるので、その点を憂いたりはしないだろうが……うぅむ。
ステファニーのある意味打たれ強いタフなメンタルなら、なんとかなりそうではあるが、もう少し慎重に準備してことを運んだ方がよさそうだ。
「我慢をやめるのなら、ついでにもう諦めて素直に愛を告げたらどうですか。すでに結婚しているんだから、物理的には逃げられないでしょう」
「だめだだめだ! カエルはカエルのままでいないと、お姫様の魔法が解けてしまうだろう! 私のことが生理的に無理になったらどうしてくれる!」
「ほんっと、めんどくさい夫婦」
リオンくんが呆れ果てたように天を仰いだとき、廊下からかすかに足音が近づいてくる気配がした。
「まずい、彼女が戻って来た! リオンくん、こちらへ!」
私は無防備だったリオンくんを無理やり抱き寄せた。
リオンくんの目はもう百回くらい死んでいたし、もはや完全に無の境地に到達して悟りすら開いていたが、妻の方からは角度的に見えないだろう。
ちらりと見えた妻の切なげな横顔。……ああ、たまらない。
私は己の歪んだ欲望をそのままに、うっそりと微笑んだ。
ステファニーは用意したリオンくんの分の夜食を手近なところに置き、傷つきながらも慌てて去っていくその後ろ姿を見送り、私は熱い吐息をもらした。
はぁ……。
今夜も閨事が捗りそうだ。
(はぁ……。早く転職したい)
***
最後までお読みいただきありがとうございました!
*ステファニー・フェザー
悲劇のヒロインに酔っている妻(自覚なし)
*アドニス・フェザー
愛する妻を冷遇して滾っている夫(自覚あり)
*リオン・クロッカス
ある意味お似合い夫婦にドン引きしている美少年従者(一番の被害者)
ドアマットヒロイン+蛙化現象で話を書こうとしたら、なぜか謎の化学反応が起きて変態が爆誕してしまった問題作でした。




