前編
ステファニー・コート(18)
アドニス・フェザー(25)
昔から、この髪の色がカエルのようだと言われ続けていた。
「きみを愛することはない」
婚約者となった相手にそう告げられたとき、わたしは思わずまじまじと彼の顔を見つめてしまい、それからすぐに言葉の意味を理解し、惚けた顔を晒したことが恥ずかしくなって俯いた。
はじめから愛されるとは思っていなかった。けれど、そんな宣言をされるとも思っていなかった。
この髪の色がカエルみたいだから、きっとひと目見て気持ちが悪いと思ったのね。
第一声が、それだったもの。
だけど、仕方のないことね。実際こんな変わった髪色の人は、どこを探してもいないもの。
この国ではカエルは悪魔の眷属として、特別忌み嫌われる存在。
だから初見で嫌われてしまっても、仕方ない。わたしだって、カエルはあまり好きではないもの。
男性はみな、義妹のような、ピンクの愛らしい色を持った子に惹かれるのでしょう? ……元婚約者のように。
いつからそうだったのか、わたしの元婚約者はわたしの義妹と密かに恋人関係になっていた。
盛り上がって寝台にいるところをお父様とお義母様に見つかってしまい、両家を巻き込む大騒ぎとなったのはまだ記憶に新しい。
ただ、元々家同士の結びつきを強めるための婚約だったから、今から相手をわたしから義妹に挿げ替えても大した問題にはならなかった。
お父様の後妻であるお義母様は、由緒ある貴族のご令嬢だったし、わたしと義妹、どちらの血が優れているということもない。
わたしが長女で、義妹が次女だった。ただそれだけの違い。
むしろカエル色を持ったわたしの方が、後継を産むにはふさわしくないのではと思っていたところだった。
だって、この髪色、子供に遺伝するかもしれないでしょう?
カエル一族なんて言われて、後ろ指指されては、さすがに先祖に申し訳ないもの。
結局話し合いの末、誰も異議を唱えることなく、元婚約者と義妹が正式に結婚することで両家の話は纏まった。
盛り上がった晩に子も授かったらしく、我が家は安泰だとお父様もお義母様も上機嫌。
……ええ、そうよね。わたしより義妹の方がかわいいもの。義妹が家に残ってくれた方が嬉しいのでしょう。……わかるわ。
当初の予定ではわたしが彼と結婚して子爵家を継ぎ、義妹がどこかに嫁入りすることになっていたから、立場が変わった今、わたしは急いで嫁入り先を探さなくてはならなくなった。
そうしてお父様が見つけて来たのが、彼――アドニス・フェザー伯爵。
十八になったばかりのわたしよりも、七つ上の二十五歳の青年伯爵。
名前は知っていた。もちろん、お姿も。
その名を知らない人はいないのではないかと思うくらいに、社交界でも有名な美男子だった。
艶のある黒髪に、黒曜石のような神秘的な黒い瞳のスマートな紳士。
アマガエル色の髪と、ヤドクガエル色の瞳のわたしとは、全然違う。
その優れた容姿もさることながら、フェザー伯爵家は金鉱山を持っていて、とっても裕福。
一度婚約破棄をされたわたしの相手に、思ったよりも好条件の相手が名乗りをあげてきたことに引っかかりを感じたものの、それを飲み込んでもお釣りが来るくらいに、我が家にとっても利がある相手なのは間違いなかった。
そうして顔合わせの日に……ええ今ね、たった今、彼は件の台詞を告げたのよ。
――きみを愛することはない、と。
……やっぱり、そうよね。
カエル色のわたしが誰かに愛されることなどないのだと改めて思い知り、胸の奥が、きゅ、と締めつけられて痛いほど。
だけどそれを悟られないよう、わたしはすぐに令嬢らしく取り繕って微笑んでみせた。
動じないわたしを見て彼はどう思ったのか、少しだけ口元に笑みを浮かべると、そのまま事務的に話を続けた。
「だがこれは政略結婚だから、きみには伯爵家を継ぐ私の子を産んでもらわなくてはならない」
「……ええ、それは……もちろん。わかっております」
そうよね。政略結婚だもの、当然よね。
愛されることはないと言われたから、てっきり白い結婚になると思っていたけれど、伯爵家直系の後継が必要なことはわたしも貴族の端くれ、よくわかっているわ。
「義務だと思って諦めてほしい」
「義務……ええ、そうですね。それは間違いなく、貴族の義務、ですね……」
お腹も膨らみ幸せそうな義妹の姿を思い出すと少し複雑な気持ちになるものの、仕方がないと受け入れた。
こんなに素敵な人だもの、結婚できるだけでありがたいと、感謝しないと。
そうして一抹の不安を抱えながらも、わたしは彼の婚約者となった。
断ることなど、できるはずもなく。
初対面で愛することはないと言われたので、婚約期間も最低限の贈り物やカードは届いたけれど、特に顔を合わせることもないまま、あっという間に月日が流れた。
そして無事に結婚式も終えて――……初夜。
ひと言も話さない伯爵家の使用人たちに全身を磨かれて、やたらと透ける素材の夜着を着せられる。
わたしの色がカエル色だからなのか、それとも旦那様に愛されない妻だと知っているからなのか、なんとなく彼女たちから一枚も二枚も壁を隔てたような距離を感じながら、夫婦の寝室へと踏み込んだ。
これから行われることは、単なる子作りのための義務でしかない。
だってアドニス様――旦那様は、わたしのことを少しも愛していないもの。
それ以前に、こんなカエル色のわたしのことを、誰も愛するはずがない。
ああ、だけど……頭では理解していても、後継を作るためだけに肌を暴かれて好きにされるのことを想像すると今にも逃げ出してしまいたくなる。
考えただけで背筋が震えて、それでも、少しだけ……ほんの少しだけ、はじめてのときくらいは優しくしてくれるのではないかと期待しながら、わたしは夫となった人を浅く寝台にかけて静かに待った。
彼は遅れて夫婦の寝室に入ってきた。ドアの開閉の音に、わたしははっと顔を上げる。慌てて立ちあがろうとしたけれど、彼のその手になぜか太いロープと鞭が握られているのを目にして、中途半端に腰を浮かせたまま、固まった。
「……え?」
初夜の寝所にはあまりにふさわしくない道具に、すっと目の前が真っ暗になり、膝から力が抜けてすとんと寝台にお尻をついてしまった。柔らかなシーツが受け止めてくれたけれど、なんの慰めにもならなかった。
彼は昼間とはまったく違う仄暗い笑みを浮かべながら、こちらへと一歩ずつ近寄ってくる。
そして、寝台へと片膝を乗り上げると、わたしの頭を片手で一度だけ、丁寧に、撫でた。
「子作りは義務だ。しっかりと完遂するために、私の趣向に合わせてもらおうと思う」
趣向……?
なにをされるのか具体的にはわからない、けれど、本能的に震え上がったわたしは、寝台の上を後ずさった。でもそれは、相手を喜ばせただけに終わった。
彼は小動物でもいたぶるように、涙をにじませ懇願するわたしを寝台に押し倒して馬乗りになると、素早くわたしの両手首をそのロープでくくる。
「おやめください、旦那様っ……!」
必死に抵抗するけれど、女のわたしが力で敵うはずもない。
愚かだった。
愛されていないわたしが、一瞬でも優しく抱かれる夢を見てしまうなんて。
堪えきれずにぽろりとこぼれたひと粒の涙を、アドニス様が唇を押しつけ吸い取った。こめかみに触れた彼の唇は柔らかくて、火傷しそうなほどに、熱い。
「心配しなくていい。痛めつけるのが趣味というわけではないから、傷がつくほど縛りはしない。……優しくもしないが」
その声にほんのわずかに気遣いが感じられた気がして、わたしは諦めて体の力を抜いた。
縛られた手首はびくともしないけれど、きつく戒められていないので痛みはない。動かすと擦れて、少しあまがゆいくらいだ。
「ステファニー。私にはね、愛している人がいるんだ」
この場面で告げられたその言葉に愕然として、わたしは旦那様の顔を思わずじっと見つめる。間近で見たその顔は真に恋する表情で、一瞬だけ、黒曜石のような瞳がドアの外へと向けられた気がした。
「あ……」
そこに、誰かいるの?
そこでわたしは思い出した。
今日も、前回顔を合わせたときにも、彼のそばにはいつも、金髪の美しい少年従者が静かに控えていたことを。
旦那様は彼を、「リオンくん」と、あまやかすような声で呼んでいた。
その親密さは単なる主人と従者のものではなかった。
ああ、なぜ気づかなかったの……わたしの夫は、アドニス・フェザー伯爵は、あの従者の少年を愛している!
愛する人との間に子供が作れないから、わたしはお飾りの妻でありながら後継を産む役目も担わされて……。
だから、婚約者を奪われたばかりの、瑕疵がついたわたしを選んだのね。
それとも、わたしがカエル色だったから……?
だってカエルは悪魔の眷属。きっとわたしは、生贄にするにはちょうどよかった。
すべてが腑に落ち、しかし今さらどうすることもできずに、わたしは夫に身を任せながら、硬く目を閉ざして涙する。
もう、なにもかもが手遅れ。
だってわたしは今日、この人の妻となったのだから。
そうしてわたしのほのかな期待と乙女の証は、儚くもほかの人を愛する夫の手によって、容赦なく散らされたのだった。
フェザー伯爵家の使用人たちは、みな夫のことを尊敬していて、愛人である“リオンくん”のことも受け入れていた。
だからなのか、彼らはわたしにとてもよそよそしい。普段から目も合わせてくれない始末だった。
それでも、あからさまな嫌がらせを受けるようなことがないのは、わたしが一応は正式な妻で伯爵夫人だからに違いない。
肩書きだけは立派なわたし。
実感が薄いのが切ないけれど。
わたしとは必要最低限しか話さない使用人たちは、わたしのいないところではわりとおしゃべり。
『愛されることのないかわいそうな奥様』
『旦那様は今日もまた“リオンくん”と一緒』
……そうよね。わたしみたいなカエル色と違って、あの子の輝くような金色の髪ははちみつみたいでとても綺麗。ずっと見つめていたくなる、類稀なる美しさ。
夫はわたしのことを、時折じっと見ていることもあるけれど、あれはわたしを見張っているだけのこと。わたしが、愛する少年を虐めないようにと、にらみをきかせているのね。
その夫とは、初夜以降、何度か子供を作る義務をこなした。
だけど今のところその成果は表れていない。
まだ時期尚早だとはわかっていても、焦るなと言う方がわたしには難しかった。
だって義妹は、たった一度で子を宿したというのに。
もしわたしたちの間に子供ができなければ……?
わたしはきっと、用なしになる。
実家に戻されたところで、一度嫁いだ娘の居場所なんてないに等しい。
そして石女として戻されたわたしに、もはや再婚すらも見込めない。
ここを追い出されたら、わたしに行く場所なんて、ない。
改めて考えると、わたしは薄い氷の上に立っているかのような不安定な立場で、それに気がついてしまうと、急激な不安に心が支配された。
そんなところに、“リオンくん”を養子にして爵位を継がせるのではないかという噂まで聞こえて、わたしは居ても立っても居られず、気づくと夫の元へと足を運んでいた。
「旦那様、あの……」
夫は書斎で本を読んでいた。彼はとても読書家で、本棚にはたくさんの本。本。本。
彼は熱心に読んでいた本から顔を上げると、開いていたページにそっと栞を挟んだ。そして表紙を下向きにして机の上に置くと、座ったまま億劫そうにこちらへと体を向けた。
「なにか用か?」
その声は冷たくはないものの、神聖な読書時間を邪魔されたことに対する、わずかばかりの不満がにじんでいた。
「い、いえ、いいのです……すみません……」
怖気づいて踵を返そうとすると、「ステファニー」と名前を呼ばれて、びくりと肩を揺らしたわたしの足は、その場へと縫い留められた。
「こちらへ」
そう命令されてしまっては、逃げ出すわけにもいかなかった。
この屋敷では、旦那様の命令が絶対。
俯きながら夫の前まで歩いて行くと、腕をぐいっと引かれ、踏ん張りきれずに彼の膝の上に横座りになるような体勢で倒れ込んでしまった。
慌てて退こうとしたけれど、腰にしっかりと回された彼の腕が、それをさせてはくれなかった。
夫は妙に焦ったい手つきでわたしの髪を梳いて耳を露わにすると、頭の奥を溶かすような声で直接そこへと問いかける。
「なにをしに来たか、正直に言いなさい」
「あ……」
「望みでもあるのか?」
もし正直に話したら、叶えてくれるのかしら……。
「義務を……」
ぽそりと言ったわたしを叱ることなく、彼は思いがけず優しい声で、うん? と言って続きを促す。
「義務を果たしに、来ましたの……」
わたしは沸騰したように真っ赤になった顔を覆う。いくら焦っていたとはいえ、こんなはしたないことを言ってしまうだなんて、どうかしている。
逃げ出そうとしたわたしの腰を、夫はいとも容易く片腕で抱き寄せると、そのまま流れるような動作でさっきまで真面目に読書をしていた机の上にわたしの背を押しつけた。
ひんやりと固い机の天板が、否応なしにここが寝る場所でないことを知らしめる。
「残念だが、そんな誘い方では、その気になる男はいない。だろう?」
直接的な言葉を言わない限り、許してはくれないのだと、その愉快そうな目が物語っていた。
閨ではいつもそうで、すっかりと躾けられていたわたしは、涙と恥じらいを堪えて口にした。
「あ、あなたの……」
「うん」
「あなたとの、子が、ほしいのです……」
「……まあ、及第点か。素直な妻に免じて、義務を果たそう」
ふ、と笑った彼が、シャツの首元を緩める。男らしい首筋を陶然と見つめていると、彼はわたしの首筋に唇を落とし、軽く歯を突き立てた。
そこは太い血管の上で、まるで命をまるごと支配されているかのような感覚に全身が震えて、彼の腕を掴むように縋りつく。
彼はくすりと笑ってから、わたしの両手首を掴むと顔の横へと押しつけた。
まるでわたしに抱きつかれることを、厭うように。
それでも、
「そういう気分になったときは、いつでも部屋に来なさい」
優しい言葉をかけられると、愛されていると勘違いしそうになる。
「その方がきっと、子を孕みやすい」
彼の視線から逃れるように横を向くと、ちょうど目に入ったのは、手作りの栞。
金色の紐が括られた、栞。
まるであの少年従者の髪のような紐が、薄く開いた窓から吹き込む風でちらちらと揺れてわたしの心を苛んだ。
彼にとっては、これは義務でしかない。
愛されているみたい、だなんて……。
そんなはず、ないのに。
夫はわたしを社交の場には連れて行かない。
連れて行きたがらない、というのが正しいかもしれない。
やっぱり、この髪色のせいよね……。
わたしは人に自慢できるような美しい妻ではないもの。
カエル色の妻を人前に出したくない気持ちはよくわかる。わたしだって、そうだもの。
昔は妹のような、ピンク色のかわいらしい髪をうらやましく思っていた。
だけど、今は。
金色の美しい髪に、憧れる。……とても。
光に翳しても、水に濡らしても、カエル色はカエル色。どうやったって変わらない。
夫は不思議と、子供にこの色が遺伝することを不安視していなかった。
けれど、わたしは子供に、自分と同じ思いをさせてしまうかもしれないことが心苦しくて仕方ない。
男の子なら、短く切り揃えてしまえば、そこまで色は目立たなくなるかもしれない。
だけどもし、女の子だったら……。
一度聞いてみたことがある。
「もし、子供がこの色だったら、どうなさいます……?」
毛先を摘むわたしに、彼は一度瞬いてから、きゅっと眉を寄せて、考え込むように顎に指を当てながら言った。
「むしろ、別の色が出て来た場合の方が困るな。きみの色でも、私の色でもないとなると、きみの不貞を疑わなくてはならなくなるが?」
わたしは予想外の返答に驚いて、慌てて言い募った。
「そんなっ、不貞など決していたしません!」
旦那様は口の端を吊り上げて皮肉げに笑う。
「口ではなんとでも言えるものだ」
「ど、どうしたら……?」
「ほかの男と外で会わなければいい。きみがこの屋敷にいる限りは、どこかしらに使用人たちの目があるので信じられる。茶会も、夜会も、きみが行く必要はない」
社交の場に連れて行ってはくれない理由に、わたしの不貞を懸念してという理由が隠されていたことを、このときはじめて知ったのだった。
髪のことで嘲笑されるだけの社交界。わたしだって、好んで行きたかったわけではない。
実家で用意されるドレスはいつも緑色で、元婚約者にはカエルは気持ちが悪いとエスコートすらしてもらえず、周りにも不快そうな目で見られていた記憶しかない夜会。思い出してしまうと今でも悲しくなる。
それで夫の信用を得られるのなら、わたしは大人しく屋敷で過ごす方を選ぶ。
「……わかりました」
「それと、私は髪の色で自分の子供を差別するつもりはないが、きみはまさか、私の子を――フェザー家の血を引く子供を、差別するつもりだったのか?」
じとりとにらまれ、私はすぐに首を振って否定する。
旦那様に言われて、自分がとんでもない間違いをしてたことに気づかされた。
髪の色よりも、その子がフェザー家の子であるかどうかの方が、よほど重要な問題だった。
確かにその通りなのかもしれないわ。
なにより重要なのは、フェザー家の血を明確に引いている、という事実だけ。
たとえわたしのカエル色を受け継いだとしても、フェザー伯爵家の子供を周囲が蔑ろにはしないはず。
だけどそれは、夫の子であることがきちんと証明できたら、の話で。
仮に夫の子なのだとしても、少しでも疑惑を持たれてしまったら、子供ともども追い出されてしまうということでもあった。
わたしは子供のためにも、旦那様以外の男の人と不用意に接触はできない。
それなのに、夫がわたしの目の前で愛人に愛を囁く。
そんな姿を見ても、黙って見ていることしかできないわたしは、必死に涙を堪えてその場を静かに去るしかない。
傷ついてなどいないと、何度も自分に言い聞かせながら。
わたしはこれまで以上に外へ出ず、人とも会わずにいたある日、夫はフェザー家主催でパーティーを催すのでそれだけは参加するように言いつけた。
「でも、ドレスが……」
わたしは自分の服を見下ろした。結婚してから夫に与えられた衣装は、どれもかなり古いデザインで、ところどころ擦り切れたり糸が出ていたりもしている。誰も指摘しないけれど、どう見ても古着。
愛されていない妻には、きっとお似合いの服ね。
「ドレスは用意してある。……それとも、私にはそんな甲斐性もないと?」
すっと目を細める旦那様。わたしが余計なことを言って機嫌を損ねてしまったのは間違いなく、すぐに床に伏せて平身低頭謝罪した。
「そんなことはっ……! 申し訳ありません!」
「立ちなさい、伯爵夫人がみっともない」
立て続けに叱られて萎縮してしまい、うまく立てずによろめくと、夫の腕で抱き止められた。
彼は呆れたような、失望したような嘆息をもらし、わたしはますます身を縮こまらせた。
みっともない。
言われた言葉が胸へと深く、深く突き刺さる。
確かに伯爵夫人の振る舞いではなかった。まるで物乞い……いいえ、まるでカエル。そう、地に伏せたカエルよ!
とうとうわたしは、人であるという尊厳すら捨てて、外見だけでなく中身までカエルに成り果ててしまったというの……?
唇を噛み締めて泣くのを堪えながら震えていると、旦那様が無慈悲に言った。
「……立場を理解していない妻には、仕置きが必要だな。パーティーまでにしっかりと躾けてやるから、覚悟しなさい」
夫に廊下を引きずられながら、何度も謝り続けたけれど、結局朝まで許してはもらえなかった。
だけどすべて、わたしが悪いのよね。
夫の望む妻になれない、このわたしが。
パーティー当日。夫が用意してくれたドレスが緑でないと知り、それだけでわたしのは気持ちは浮上した。
だけど今日の旦那様の正装に合わせて仕立てた衣装と知り、少し納得もした。
夫婦は同じ布で衣装を仕立てたりもするものね。
だからたぶん、わたしのドレスはただの旦那様のおまけ。
それでも、実家にいた頃ではお目にかかれないような上質な生地と流行のデザインドレスで、気後れするほど贅沢な気分になった。
伯爵夫人にふさわしいドレスを着せられて、夫の隣でお客様をお迎えする。このときばかりは彼もわたしを愛妻のように扱ってくれた。
微笑みながら彼の言葉にたまに相槌を打つだけで優しい眼差しを注がれ、お客様を喜ばせるような会話ができたら、褒めるように髪を撫でていただける。
ずっとお客様がいてくれるといいのに。
はじめてパーティーというものが楽しいものだと思えた。
だけどそれもほんの束の間のこと。
夫とお仕事の話をしたい人たちは想像以上にたくさんいて、彼らに囲まれてしまうと、話についていけないわたしは自然と輪の中心から弾き出されてしまう。
彼の周りには女性もちらほら見えて、あからさまにお誘いをかけている姿もあり、見ていられずにわたしはバルコニーへと逃げ出した。
旦那様は、誰の目から見ても魅力的な男性だものね……。
旦那様の周囲だけ、パッと華やいで見えるもの。
わかってはいたけれど、わたしとは正反対の存在。
旦那様の周りにはたくさんの人が集っていて、わたしの周りには誰もいない。旦那様は明るいシャンデリアの下がよくお似合いで、わたしには暗いバルコニーの片隅がふさわしい。住む世界が違う。これがありのままの、現実ね。
しばらくバルコニーで心を落ち着かせ、夜風が剥き出しの肩に当たって少し冷えてきたのでそろそろ室内に戻ろうかと思ったとき、突然背中に声をかけられた。
「こちらにいらしたのですか、ステファニー嬢」
振り返ると、どこかで見たような覚えのある青年が、バルコニーへと足を踏み入ってきたところだった。
誰……?
招待客だとは思うけれど、どこの誰かはわからない……。
ただ相手は、名前を呼んだ以上、わたしのことを知っているようだった。
わたしは驚き、それ以上に不穏な空気を感じ取って、後ずさる。だけどすぐに背中が柵に当たってしまい、そこから動けなくなってしまった。
怯えるわたしに気づかないのか、青年はかすかに震えるこの手を取り、まっすぐな目をして言った。
「逃げましょう」
「え……?」
「知っています。あなたはここで酷い扱いを受けていることを」
「え……酷い、扱い……?」
「ええ! 伯爵は愛人を囲い、あなたを蔑ろにしながらも、子供を産むための道具のように夜毎乱暴に抱くのだとか! 信じられません、耳を疑いました!」
あまりに明け透けな言葉に、わたしは羞恥心で赤くなった。
どこからそんな話を……まさか、旦那様?
青年は憤りを隠せず、わたしの手を掴む力も強くなる。
「お、おやめくださいっ!」
こんなところを夫に見られたら、不貞を疑われてしまうわ。
姦通していたかもしれない妻など、きっと容赦なく切り捨てる。
あの旦那様が、わたしの訴えに素直に耳を貸してくれるはずがないもの。
目の前が真っ暗になって絶望しかけていたとき、怒りを含んだ夫の低い声が聞こえてきた。
「私の妻に触れないでもらいたい」
はっとしてそちらへと視線を向けると、鋭い目でこちらを射貫く夫の姿があった。
夫はつかつかこちらへと歩いてくると、わたしから男を引き剥がしてくれた。
「旦那様っ……」
こ、怖かった……。
夫の胸に顔を寄せると、彼の胸の鼓動が速いことに気がついた。
もしかして、急いで来てくれたの……?
「フェザー伯爵、失礼を承知で言います。彼女を解放してください! 私は彼女を、心から愛しているのです! 彼女にも幸せになる権利があるはずでしょう!?」
わたしは恐怖に溢れた涙を一度引っ込めてしまうほどに驚いて、たった今、愛を告げた青年を呆然と見つめた。
愛している?
わたしを?
こんな、カエル色の、わたしを……?
状況が飲み込めず困惑していると、現実に引き戻すような夫の冷たい声が降ってきた。
「ほう? ふたりで私から逃げるつもりだったのか?」
わたしははっとして夫の顔を仰ぎ見た。静かに怒りをたたえるその姿に震え上がって、必死に無実を訴えた。
「ち、違います! わたしはこのような人、知りません! 信じてください旦那様!」
「妻はこう言っているが?」
「そんな、」
こちらに伸ばされた青年の手をわたしは振り払った。
わたしはアドニス・フェザーの妻だもの。
手を弾いてしまったことは申し訳なく思ったけれど、ほかの男の人になど、触れられたくはなかった。
だってそんな姿を旦那様に見られたら、きっと……。
「……権利? ふ、ははっ! 私の妻にあるのは、義務だけだ。そこに愛など、必要ない。そうだな、ステファニー?」
「……はい、旦那様」
すべてを飲み込み、肯定するよりほかなかった。
わたしの反応に夫はその場では満足げにしていたけれど、ひとたび会場を連れ出されると、そこからはひたすら無言が続いた。
きっと酷く気分を害してしまったに違いなく、わたしは再度夫に弁解を試みた。
だけどなにも聞き入れてもらえず、部屋に押し込められると、そのまま外側から鍵をかけられてしまった。
閉じ込め、られたの……?
まさか、一生このまま……?
二度と外には出してはもらえないかもしれないという恐怖でパニックになり、わたしは何度も何度もドアを叩いた。
「聞いてください、旦那様! 本当にわたしは知らないのです!」
どうしよう。夫からの返事がない。
じわりと涙が溢れ出す。
否定したのに、信じてもらえなかった。
わたしは旦那様から逃げようとなど、していないのに!
だって、わたしは旦那様をっ……!
手が赤く腫れて、それでもドアを叩き続けた。
「なんでもいたします! どうか、お許しをっ……!」
「……なんでも?」
ようやく返ってきた声に、絶望の底から浮き上がって、後先考えずに藁にも縋る思いで飛びついた。
「ええ! ですから、どうか、どうかわたしを見捨てないでください……」
少しの間を挟み、かちゃりとドアが開く。
床に座り込んでいたわたしは、はっと顔を上げると、布の塊を投げつけられた。
「今後、家ではこれを着るように」
恐々布地を手に取って広げてみると、それは使用人たちの着ているグレーのお仕着せとは少しデザインの異なる、黒いお仕着せだった。
「今後、自由な時間はないと思え。日中は私の執務室の掃除を。常に監視しているからな。そして夜は、しっかりと妻としての務めを果たしてもらう」
夫の慈悲深い言葉をわたしは心から感謝して噛み締めた。
まだ妻としてここに置いていただける。今はそれだけで十分だった。
「ありがとう、ございます……」
「着替えたらすぐに執務室へ。少しでも手を抜こうものなら……ふふ、夜、覚悟しておくことだ」
その日からわたしの一日は、常に旦那様によって監視され、管理されるようになった。
だけど前よりも一緒にいられる時間が増えたのも事実。
そのことを嬉しく思ってしまうわたしは、どうかしているのかもしれない。
夫は最近少し忙しい。
金鉱山の件で国からなにか要求が来ているらしいけれど、わたしにはなにも教えてはくれない。
執務室の掃除をしながら、夫と“リオンくん”の会話に耳を傾けて胸を痛める日々。
“リオンくん”は年齢のわりにとても賢く、すでに夫の右腕だと噂だった。
それに比べ、わたしは……。
「ステファニー。真面目にやれないのなら、部屋に戻りなさい」
物思いに耽っていたわたしは叱責されて我に返ると、青ざめながらすぐに謝罪した。
「申し訳ありませんっ……!」
「それとも、鞭打たれたくて、わざとサボっているのか?」
「違うのです! ……ごめんなさい、旦那様。旦那様のお姿に、見惚れてしまい……」
「……ほう?」
わたしも少し学んだ。こう言うと高確率で見逃してもらえる。
旦那様は人に見られることを苦に思わない人だった。
「私の容姿が好きなのか?」
「そう、そうなのです……」
旦那様の容姿を嫌いな人なんて、いるのかしら……?
「ふっ。それならば好きなだけ見ていても構わないが、今日のノルマを達成できなければ……わかっているな?」
旦那様はすっと目を細める。
こういうとき、夫は決して慈悲をかけてはくれない。
わたしの尊厳を踏み躙るような数々のお仕置きが待ち受けている。
蒼白になりながらこくこくうなずくと、わたしにはもう用はないとばかりに、夫は、“リオンくん”と真面目に仕事の話をはじめた。
わたしはため息で曇ったキャビネットのガラスを丁寧に拭き、そこに映る夫の姿を見つめる。
わたしに許されているのは、ただ見つめることだけ。
夫から触れられるのを待つことしかできない、名ばかりの妻だもの。
身を焦がしながら、必死に掃除のノルマをこなして部屋に戻ったけれど、夫は夜になってもまだ仕事が終わらないのか、なかなか部屋に帰って来なかった。
ひとりきりで部屋にいるのはどうにも落ち着かず、わたしは様子見ついでに、旦那様のために夜食を作って持って行くことにした。
実家にいたときから料理はよくしていて、自信があった。
考えてもこれくらいしか、わたしにできることなんてないもの。
厨房を貸してもらえるか不安だったけれど、頼むと食材と調理器具を使わせてくれた。
きっと旦那様のためにすることだから、みんな容認してくれるのね。
これまでは控えていたけれど、これからはもっと自分にできることをやってみてもいいのかもしれないわ。
掃除は許されているもの。
料理もきっと許していただける。
もっとたくさん働いて、わたしが伯爵家の役に立つことをわかっていただけたら、少しは……少しは、愛してくれるかもしれない。
夜だからあたたかいものがいいと思い、オニオングラタンスープを作って執務室へと足を運ぶ。
一度部屋に戻ったはずのわたしが訪れたことに夫は驚いていたようだったけれど、夜食を作ったのだと言えば目を丸くしながらも微笑んでくれた。
「ありがとう」
お礼を言われて、わたしの心が歓喜する。
「だが、できれば私だけでなく、こういうときはリオンくんの分も頼む」
わたしははっと息を呑んで、そばに控えていた少年へと目を向けた。
彼は口元を手で覆うようにして俯いていた。
悲しいのか、怒っているのか、わからない。
それとももっとほかの感情があるのか。
とにかくわたしは失敗した。
「あ……申し訳、ありませんでした……。今すぐ、ご用意いたします……!」
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
気の利かない女だと思ったはず。
だけど……愛人のための夜食を作れというのは、あまりに、酷すぎる。
慌てて戻った厨房で、しゃがんで膝に顔を埋めた。
……いいえ、泣いていてはだめね。
早く持って行かないと、不審に思わせてしまうわ。
奮起して、もうひとり分の夜食を持って、旦那様の執務室へと重たい足を引きずるようにして向かう。
そしてドアを開け、顔を上げたわたしは――……固まった。
夫と“リオンくん”が、抱き合っていた。
わたしはじわりと目を見開いて、抱擁するふたりの姿を呆然と見続ける。声なんてなにひとつ、出ては来なかった。
一瞬、夫と目が合った気がした。
わたしを見て、薄く微笑んだような、そんな気が。
「あ……」
目の前の光景が溢れ出た涙でぐにゃりと歪み、わたしは慌ててテーブルに夜食を置くと、そのまま部屋を飛び出していた。
わたしは愛されない。
わたしが愛されるはずなんてないのに……!
カエルはカエルのままで、わたしはきっとこの先も、旦那様から愛されることは永遠にない。
わたしは愛されない。
わたしは、愛され、ない。
その言葉が全身に毒のように染み渡って、胸の奥が、きゅ、と疼く。あまく、苦しく、切ない痛み……。
ああ、なんて……。
なんて……。
ぐ、と言葉を飲み込む。
「ああっ……旦那様。……アドニス様……」
いつか愛される日が来るかもしれないと儚い夢を何度も見ながら、わたしは今日も、愛人に触れた手でわたしを抱く酷い夫に、性懲りもなく期待し涙すのだった。
後編に続きます