違和感
中間区域手前にあるこの巨木群はなかなかに広い。実際、東方の大陸を除けばロッツェ王国は世界最大の島国だ。そして、その国土の3~4割をこの中間区域、そしてそれに伴う生態系、つまりこの巨木群などが広がる環境になっている。だが、中間区域自体は十数キロメートル帯……らしい。この森はどれだけ広いのか、そして、これより危険なヴィルアゼルの森がどんなものか……、考えるのはよそう。とりあえず今ここを抜けることだけ考えるんだ。
「タツオ、この森はどこまで続いているんだ」
「さあな、まともな地図がないからな、ひたすら北上あるのみだ」
代り映えのしない景色、そしてどういうわけか前情報以上に少ない魔獣、退屈になるのもわけないな。前情報では魔獣の楽園のように言われていたから少し警戒していたものの、これまで遭遇したのはスライムらしきグロテスクな魔獣だけ。
「なあ、タツオ」
「どうした?」
「なんか奥にいないか?」
カリマの指さす先に目を細めて焦点を合わせていけば、不自然に巨大な影が音もなく蠢いて見える……気もする。
「なんか……デカくないか?」
俺の言葉を聞くと、カリマが急に肩を強くつかんできた。痛い。
「……見てる」
「え?」
「こっち見てるぞ、あれ」
カリマの言葉に奥を見れば、闇の中に赤黒い四つの玉が浮かんでいて、その中にある色の濃い部分の焦点は俺たちに向いていた。
そして、暗闇は徐々に俺たちの方に迫ってきた。
「こいつは……」
「逃げるぞ、カリマ」
有無を言わさず、俺は逃げることを選択した。迫ってきているとはいえ、まだ数百メートルは離れている……ように思える。だが、目測を誤った上に判断が遅かったようだ。走り出した途端に揺れを伴う轟音が急に後ろからすると、ただでさえ暗い森が一層暗くなるようだった。
カリマが風魔法を駆使してこちらとその暗闇の距離を引き離そうとした瞬間には完璧に俺たちはすっぽりソイツの体に覆いかぶさられたようだった。それに気づいた理由は一つだった。
俺たちの視界にさっき見た巨大な目がでかでかと、そして爛々と輝いていた。スライムのようなあの生き物とは異なる異臭が空間に満ちてきた。その臭いというのも、目に染みてくるような何とも形容しがたい刺激臭で不快感が強いものだ。カリマも何度か嘔吐いている。
「微弱な毒……、……カリマ、魔力で洗い流すイメージで体外への排出を試みろ」
この臭いは経験がないわけではない。モ・モルポの根城へ行ったとき、騎士団の精鋭たちと潜入中に遭遇した魔獣、クーシーの大蛇……とはいえ……。
「……デカすぎるな」
クーシーの大蛇と言えば、大きいものでも10メートル弱の体長だが、これは……そんな生ぬるいものではない。
「タツオ、燃やせばこんなもの……」
「だめだ、コイツと火魔法の相性は最悪だ。再生力や回復力がバカみたいに高いからな、内臓まで焼かなければ死なない上に、内臓を焼けばより濃度の高い毒素が放出されて俺らはイチコロだ」
「風魔法で切り刻む、くらいか」
「ああ、それもこの見るからに硬そうな鱗を断ち、さらに毒素の多い内臓を避けて毒素が極めて少ない心臓を狙うんだ」
「……結界は」
「あまり魔力消費を受け入れるな。まだ中間区域の最奥部にすら到達していないんだ」
時折俺たちに長い舌が絡みつきそうになるのを避けながら刺激臭のある暗闇の中での即興の作戦会議は続いた。
「心臓の位置は予想できるのか、タツオ」
「世界の常識が通用する相手なら、分からなくもない」
「なら、その周辺のうろこだけ焼き払えば……」
「『盛炎』の威力を見ただろう、制御がうまく効かん。この出力がこの環境のせいという可能性もないわけじゃない。そうなればお前の風魔法のほうが今は的確に捉えられるかもしれん」
「……そうか」
カリマは気合が入っているのだろう、ゆっくりと、それでいて的確に印を手で結んでいく。風魔法は詠唱が不要なものが多く、印や魔法陣を媒体とすることがほとんどだ。媒体とするものが違うだけでメリットがそれぞれ異なる。
風魔法の場合は、仕込み魔法陣や相手に悟らせないように印を結ぶことによる奇襲や、詠唱などとは違い、丁寧に行えば行うほど精度が異なる。ただし、火力は本人の魔力量に左右されるため、適性がある人間は魔力量と魔法センスの両面において定評のあるような者が多い。
対して火魔法は詠唱がほとんど。ゆえに相手に開示しながら戦うことが多いという大きなデメリットはあるものの、印を結んだり、魔法陣を用意したり、その他の道具を使うなどのプロセスを削ぎ落せるメリットはある。
カリマの印がしっかり結ばれた。俺はカリマの後ろに立ち、心臓の位置を予想する。
「通常なら、鎌首のやや下、二か所に分かれて心臓が配置されている……が、コイツは目が四つもあるからな、そこから三枚に下ろすイメージで削ぎ切る。できるか?」
「善処はする……はッ!」
カリマが両手で空を切りながら、鎌首の辺りめがけて指を振り落とすと、火花を立てながら鱗が一枚ずつ斬られる。……ものすごい火力だ。
命の危機を感じた大蛇が太い尾を俺たちめがけてぶつけて反撃しようとしてくる。
俺はカリマの剣を引き抜くと、その尾に競り合わせた。
「重……ッ」
「タツオ……!」
「俺は大丈夫だ、斬ることに……集中しろ……!」
あの全盛期のモ・モルポの大剣に比べればまだマシだが……、重すぎる。うかつに火魔法は出せない。
よく見ると、カリマの風魔法による斬撃は予想以上の火力で大蛇の肉をすさまじい勢いで削ぎ斬っている。最期の抵抗とばかりに尾による押し返しはより強くなり、毒もまたその濃度が増したようで臭いがひどい頭痛を引き起こしてくる。身体強化と毒の排出を同時に行うのは無理だ。せめて、せめてカリマが心臓を断つまでは……いかん、意識が……。
視界がぼやけて、剣を持つ力も籠めにくく感じてきた、その瞬間に大蛇もまた限界を迎えていたのだろう。俺の視界の隅で肉を大きく削がれ、黄土色の血液を反乱した川のように溢れさせてその巨躯を地にゆっくりと倒れさせていくソイツの姿が映った。
切断面には確かに二つの心臓が真っ二つになっているのが見えた。ここまでカンが当たるのもありがたい話だ。剣を押し返していた尾も少しずつその力を失い、俺はようやく体内の毒の排出に集中できた。
ただ、カリマは違ったようだ。彼女こそ風魔法の駆使に全神経を集中させていたためか、顔を青ざめさせて、手足も痺れているのかその場を動けずにいた。
「いかん」
俺は応急措置として彼女の体を抱えると、鼻から魔力を注ぎ込んだ。帰化した毒の排出方法としては自力で行う場合、魔力を全身に行きわたらせてから異物を絡めとるイメージで呼吸とともにその汚染した魔力を体外に放出する方法が原始的なものとしてある。しかし、本人がそれをできる状態でない場合は、他者の魔力を流し込み、体内でわざと拒否反応を起こさせて毒ごと排出させる。一番脳に近い鼻から行うのが効果的らしい。解毒剤よりもこのほうがスピード的にも経済的にも効率がいいとかでこの世界で解毒剤がある毒というのは数えるほどしかないそうだ。
少しすると、カリマは激しく咳き込むと、呼吸を一気に取り戻そうとし始めたから、俺は背中をさすってやった。
「やったか、タツオ」
「ああ、毒の多い組織を傷つけることなく。見事なもんだ」
しかし、参った。こんな道のりが続くのなら魔力消費をケチらずにしっかり探査もしていかないことには生き残るのは難しいぞ。
「カリマ、今日はここいらで一度休もう」
「……ッ、心配は無用だ、少し態勢を整えさえできれば」
「そうじゃない、カリマには結界を張ってもらわねばならんし、俺は俺で魔力探査をしなければならん。その態勢を整えるために休もう」
そう言うと、カリマは小さく頷いた。
本来なら、俺はここまで苦労することはなかった。たらればを言っても仕方はないが、モ・モルポを殺したのが絶対的正義として今も語り継がれるものだったなら、海路を使い、王国北部へ向かってそのまま何の苦労もなくヴィルアゼルにはたどりつけていた。しかし、クーシーの一件は世界的な批判の的となったがゆえに、王国の軍部はメンツがつぶれた腹いせを俺にぶつけようとしている。
そんなこんなで軍事都市を二つ抱える王国北部地域は俺が気に入らないのだろう、海路を使おうものならリンチはまぬかれない。ただ、国王陛下はその現状を一応案じてはおられるのだろう、きっと聖堂騎士団や冒険者ギルドを俺に接近させたのはそういうことだとも理解している。
ただ、冒険者ギルドはさておき、軍都の連中と王都の連中は仲が悪い。特に北部最大の王立軍、北方王立軍と聖堂騎士団は犬猿では済まされないほどだ。内戦が勃発しなかったのが奇跡ともいえる。その軋轢の理由を簡潔に言えば出自にある。北方軍にしてみれば、教会の庇護を受けて王の身元に取り入れられた連中だけでなく、自分たちも本来は王都にも拠点があってしかるべきだという歴史に基づく主張を続けているのだ。しかし、騎士団としては、北方軍は国土の北部の護りや北方諸国の監視に徹するべきだという現実的な主張で突っぱねているというものだ。
そんな中でのクーシーの一件だ。俺を召還したのも、モ・モルポ殺害計画を立てたのも騎士団だった。どうやらその際に北方軍の上層部との協議などはなく、騎士団や一部大臣の間のみで独断で決められたという。確かに実行に移したのは俺だが、そんな事情は知らぬ間にあの男を殺してしまって、いつの間にか英雄に担ぎ上げられ、そしていつの間にか怨敵のようにも見られた俺の立場にもなってほしいものだ。
海路、使えていれば……、そんなことを思いながら、少し快復したカリマの張った結界の中で大蛇の可食部を捌いていた。すると、その様子をカリマが覗き込んできた。
「食べられるのか」
「毒は特定の内臓、そして食道から喉肉、頭部にある。逆言えば、そこを避ければ普通に美味しい蛇肉さ」
「……そうなのか」
「この大蛇はクーシーでも食ったことがある。こんなサイズじゃないがな。あと、クーシーの一部民族はこいつの内臓を解毒する技術があるらしくてな、特定の植物の葉や塩で漬けたものをさらに大きな葉で包んで、砂浜に一年以上埋めておくそうだ。鼻が曲がるでは済まされないくらいの激臭だが、この世のものとは思えないほど絶品にして滋養強壮がものすごいらしいぞ」
「聞いた限りでは食う気になれないな、じゃあその蛇肉は馬力が付くってことなのか」
「ああ、魔力回復になるらしい。こいつはどうか知らんがね」
収納魔法で一部の肉を保管しながら、今食べる用のものを焼き始めた。
しっかり脂の乗った肉はぱちぱち、じゅう、と音を立てて、その脂を火に落とせば煙も立ってくる。煙は結界の上部に溜まると、カリマが小さく穴を少しの時間空けて時折換気した。予想以上に美味しそうな、香ばしい香りが満ちてくると、期待感に俺もカリマも唾を飲んだ。
そろそろ焼けた頃合かと肉をとれば、意外にもしっかりした肉質で崩れることもなく、だが見た目はウナギにも似ている。塩とハーブで味を調えて、カリマに先に出してやった。
「普通の蛇肉なら何の躊躇もないが……これは……」
いい香りといい見た目ではあっても、相手したときの記憶がやや邪魔するのか、カリマはふむ、と一つ息をついてから、目をぎゅっとつぶって一口食べた。
「……どうだ、カリマ」
俺の問いに答えることなく、彼女はもう一切れ続けざまに食べると、無言で俺のほうを見ると、うんうん、と激しく頷いた。
……美味いってことだよな。俺も一口食べてみると、驚いた。
鳥のせせりに近い触感だというのに、味はまるで赤身肉のような、豊かな旨味の塊ときたもんだ。こんなことがあるのか……、そしてすぐに魔力が体にみなぎるようだ。そう、スポーツドリンクよろしくな脂だ、胸やけは胃もたれするどころか、体に染みわたる。
あっという間に腹いっぱいになるまでカリマと俺は肉に食らいついていた。体力や魔力がみなぎるような肉、もしかすると、例のスライムもどきも食べようと思えば食べられたのでは?なんて考えたが、臭いがキツかったから無理だったかもしれない。
食に対してやや貪欲になってくると、ああ、やっと環境に慣れてきたのかなと思える。
この世界に来た時も、最初は食どころじゃなかった。魔法なんざ使ったこともないのに、生れたときから魔法だの魔力だのと扱える連中の中に放り込まれた。確かにこの世界に呼ばれたらいきなり魔法が使えてとんでもなく驚いたが、出力の制御を間違えて演習場を火の海にした挙句、魔力を急激に使ったことでぶっ倒れた日の飯は何にも味がしなかったし、数カ月は食欲もまともにわかなかった記憶がある。
クーシーの時もそうだった。終戦後しばらくはまともに飯を食う気力すらなかった。特に火魔法を使うというのは心身ともに疲弊しがちだ。風魔法や水、氷魔法なんかは相手に与える痛みがかなり少なくて済むし、光魔法なり雷魔法は速攻が第一だから相手への苦しみも少ない。だが、火魔法や闇魔法は相手の苦痛にもだえ苦しむ姿を見ながら、ということが多い。その点、実に俺も苦労した。というより、人相手に火魔法を出すのは正直もうしたくない。
満腹感とそういった感傷に似た感覚の中でまどろんでいると、カリマが口を開いた。
「……北部にたどり着いたとして、どうするんだ?騎士団の庇護は正直この中間区域を抜けたらほとんど紙切れ同然だ」
「俺にコネがないとは言わん。ただ、……いろいろと難ありでな、あまり頼りたくない」
「何を言っているんだ、いつこちらと武力衝突が起きてもおかしくない外国も同然の北部にコネがあるんだろ?使わなくちゃ」
「ゔ―ん゛……、まあ、たどりついたら……考えよう」
俺は眠ることにした。臭い物に蓋をする主義ということにして。