出立
出発の日、朝三時半から支度をしていると、外にすでに彼女は来ているようだった。
身支度をしっかり済ませてから外へ出ると、暗い空の下で彼女は肌寒さから頬を赤らめ、小さく震えて軽量版の鎧をかたかたと音を立てさせていた。
「ほれ、ちゃんと暖かくしろ」
鎧の背中をカイロくらいの感覚になるような火魔法を付与した手で叩いて鎧を温めてやると、「かたじけない」と彼女は小さい震えを落ちつけていた。
「中間区域は昼にかけて強烈に暑く、夜から朝は急激に冷えてくる。体温調整が巨大魔獣以上に気を付けなけりゃいかんからな」
「……わかった。……意外と面倒見がいいんだな」
「勝手に死なれたら俺が面倒なんだ」
道中、彼女は口を開いた。
「なぜ賢人と言われているのに、空間転移魔法とかを使ってくれないのだろう」
「三賢人についてお前あんまり知らんできたのか?」
「……ああ。恥ずかしながら、な」
それもそうか、信ぴょう性の低い伝説的人物の知識まで騎士団が頭に入れているとは思えない。
「まあ、そう俺も言ったが、三賢人に関する情報は極めて少ない」
「ほう?」
「彼らは不老不死であるとともに、それぞれ一つの体系の魔法しか使えないという噂もある」
「それは……」
「頼りがいがない、と思うだろ?」
「まあ、思わなくはないな」
「ただ、その一つの体系を、世界を消し飛ばすことができるほどに極めているとしたらそれは“賢人”という評価はあまりに過小評価だと思わないか?」
「……?!」
「あくまで噂の範疇でしかないがな」
「そ、それもそうだな」
「安心しろ、理性的な存在でいてくれているからこそ、今の世界が保たれている。もしくはそんな力を持っていないか、その二択だ」
安心したようにカリマは息をついた。年相応な表情を見た気もした。
しかし、考えてもみれば不思議なものだ。死なず老いず理性を保っていけることがあるのだろうか。いや、会ってもいない人物について考えるのは止そう。ラウールが言うには色男が来たって言うんだ、人間的に生きているということだろう。
今は中間区域を超えることを意識しなくては。
中間区域。カリマには説明したが、あまりに謎が多い区域だ。南北断絶帯、つまり言うなれば赤道直下の地域にして、この国をほぼ二分に分けている地域を指す言葉。昼夜の暴力的ともいえる寒暖差、研究すら追いつかないほどの魔獣の巨大化や独自の進化、そしてそれらがこの中間区域を一切出ないという謎。地質学者やら魔法生物学者やらがこぞって調査に行ってもまともな調査結果を得る前に帰ってきてしまうがゆえに、数千年経っても何一つ理解できない地域。
建国王、三賢人、そしてあと一人は中間区域の横断に成功したと聞く。しかし、その時の手記なども少なく、発見されたものも既知の情報ばかりだったという。
最近で言えばクーシーから帰ってきて十何年か後に飛行魔法で中間区域を越えようとした若者たちがいたが、超えられた奴はいなかった。戻ってこられたのも二人、その二人も戻ってから数日で死んだ。
「……地図もねえからな、ひたすら北上あるのみ、か」
俺がそうつぶやくと、カリマが紙を取り出した。
「役に立つかはわからないが、34年前のギルドと騎士団の合同地理調査の際に作られた地図ならあるぞ」
「……ないよりマシか」
そんなことを話していれば、中間区域への入り口にあたる検問所に着いた。無理やり超えようとして死んでしまう連中などを止めるための手立てらしい。
検問所は高い壁と頑強な門があり、衛兵が4,5人立って睨みを利かせていた。
その衛兵のひとりは俺を見るなり、いかにも『人殺しめ』と言いたげなような、蔑むような目つきで俺を見てきた。
「英雄くずれの爺さんが自殺にでも来たか?悪いがアンタみたいなやつでも死体は爪一枚でも見つけたら回収しなきゃならねえ。面倒だから帰んな」
さらにひとりがしゃしゃり出てきた。こういう扱いには慣れているから怒ったり凄んだりするような気力もない。
しかし、声を張ったのはカリマだった。
「我々はヴィルアゼルの森まで行かねばならないのだが」
向こうは相手が聖堂騎士団の副団長なんて夢にも思っていないのだろう。それもそのはずだ、聖堂騎士団の小隊長ですらこういった“辺境の衛兵”には顔も合わせられない。いわば雲の上の上くらいの存在だ。
「若い女まで連れて無理心中か、爺さん」
しゃしゃり出てきた金髪の若い衛兵はカリマの肩に手を添えて、「嬢ちゃん、アンタにココを越えんのは無理って話だ」と言い終わるか終わらないかのところで、カリマの一本背負いが衛兵を襲った。なかなかの重装備の衛兵が宙を舞えば、周りの衛兵も剣を構えて臨戦態勢となった。
面倒なことになってきたな、これは……と思っていると、カリマは声を張り上げた。
「誰に剣を向けている!私はロッツェ王国聖堂騎士団副団長、カリマ・ギグーだぞ」
思わず、その威厳に俺も「おぉ……」と声が漏れたが、それを聞いた衛兵たちは顔がさーっと青ざめた。
そこで投げられた衛兵が吠えた。
「でっ、デタラメ言ってんじゃねえ!爺さんがどこぞの売女をそそのかしただけだr……」
また言い終わる前にカリマは彼の腕を曲がってはいけない方向にめきめき曲げてしまった。
彼の断末魔のような悲鳴のなかで、彼女は自分の腕を見せつけると、二の腕に白銀に輝く龍の紋章があった。この展開は簡易版の「この紋所」的な奴だな、と思い、俺は一種の劇を見るような感覚になってしまった。
「私は勅令により中間区域を越えヴィルアゼルの賢人に、この鬼塚龍王氏を送り届けねばならないのだ。戯言を言っている時間はない、通せッ!!」
泣き叫ぶ男と、すっかり怯んだ様子の衛兵たちにものすごい剣幕で怒鳴り散らすと、全員が激しく頷いた。なんて強権的だ、と思ったが、騎士団や衛兵たちの社会構造をまともに知らない俺が茶々を入れる必要はなさそうだ。
「……腕の一本で騒ぐな。お前たちは国の根幹たる地域の護りを任されているのだ、その誇りを持ち、汚さぬように努々務めを果たせ」
そういうと、折れた腕を抑えて倒れこんでいる彼を睨みつけて、「鬼塚氏もまた、当時の務めを果たしたまでだということを知れ」と吐き捨てるように怒鳴った。おいおい、本人の前で言ってくれるなよ。恥ずかしいじゃないか。
「行くぞ」
怯えきった衛兵たちを横目に俺は門の先へと歩みを進めた。とりあえず、これからの旅は口の使い方には気を付けよう。
門から先、そう遠くないところからもうすでに巨木がたくさん見えており、その奥はもう朝だというのに夜のように暗く見える。ぎりぎり数十メートルほどには草が刈られて砂利の敷き詰められた道はあるが、途中で途切れていて、そこから先は膝から腰ほどの高さの草が生い茂っていた。
「ここが……中間区域か」
緊張感あふれる表情でカリマはこの拳をぐっと握り直した。
「まだ入り口だ、ここは実質中間区域とはいってもまだエイオース平野の影響が強い。魔獣もそこまでデカくもなければ攻撃的でもない」
「……本当に詳しいんだな」
「これくらいは知っておくもんだ」
俺の言葉にそうだな、と素直に彼女は頷いた。
「私は騎士団の知っておくべき外交的な知識、剣術、魔法、生存術、それくらいしか教わらない。むしろいろいろ教わりたいほどだ」
「ほ~ん、外交の知識は身に着けるんだな」
「それはそうだ、もとはと言えば聖堂騎士団は王と典範教会の後ろ盾による組織だからな」
典範教会。この世界で最大級の宗教だ。……ん?
「もとはと言えば、ってどういうことだ?」
俺の言葉に彼女はまじめな顔でこちらを見た。
「典範教会の現状は知っているか?」
「いや、生憎……俺は知らん」
「典範教会は今権威を失いつつある。確かにロッツェ王国やその周辺国、つまり東方では全くその空気感がないが、数十年前に西方の大陸で巻き起こった大戦、そこで最大の庇護だったはずの南部の帝国が北部の軍に敗れてから西方での求心力を典範教会は完全に失ったんだ。その大敗の穴埋めに躍起になっている間に東方での影響力も弱くなり、形骸化しつつあるってわけさ」
「結果的に聖堂騎士団も王による影響のほうが強くなった、と」
「そうだ」
全く知らなかった、というのも俺自身が神を信じていても教会にはあまり興味がなかったのもある。俺は東方の情報しか知らないが、クーシー諸島はあの一件の後、ロッツェ王国の隣国の島国であるゾハラ公国が統治下におき、さらに教会の人間に摂政を任せてからというものの圧政がひどいと聞いて以降、俺は一切教会に対して何も働きかけるようなことも近付くことすらもしなくなったからだ。
そんな話をしているうちに巨木の数も増えてきて、ひんやりしているかと思えば蒸し暑くなってきた。地面や樹に這う虫のサイズも徐々に大きくなってきて、聞き覚えもないような鳥の声が聞こえてきた。やはりこの中間区域の急激な環境の変化には疑問符が付く。
「地脈に大量の魔力を感じる……」
ぽそ、と彼女は呟いた。
「わかるか、この中間区域が神の国、天上界に最も近いところと神話で言われている理由の一つだ。この生態系の独自性以上に魔力を土地自体が大量に保有している。数千年前には東方一帯を統治していたと言われる伝説の帝国、フーケロンの帝王たちはこの魔力をどうにかして国力にしたいと躍起になったらしいが、その泉源を知ることすら叶わなかったんだ」
話によると、太陽の届かないこの巨木群の土地が暑いのは地中の高密度の魔力によるものとする説もあるらしいが、それよりもカリマの魔力の探知力に俺は驚いた。魔力が流れる地脈は地中遥か深くだ。やはり加護の力というのはすさまじいらしい。
ひたすら北へ向かう。この巨木もあくまでヴィルアゼルやエイオース平野から飛来した種が異常な成長を見せただけのものでしかない。いずれ開けたところには出るだろうが、そこからがこの旅の一番厳しいところになりうるだろう。