もう、察しているのでしょう?
ツヴァイはフォトアの後を進みブリッジ家の中に入った。相変わらずいい香りの家だとツヴァイは思った。まるで昔に住んでいた屋敷のようだ。
ツヴァイは名家ローレンに生まれたが、子供の頃はローレン家の大屋敷ではなく大屋敷の側に立てられた学校に備えられた寮で暮らしていた。そこでたくさんの学びがあった。
そんな思い出を思い出していた。
いい香りのする家の者は同じく素晴らしい人柄だったりするものだ。
玄関から広間に入ってきたフォトアとツヴァイを見て大声を聞いて玄関前まで来たフォトアの父のエミールが近づいてきた。紫の服を着ているエミール。
白髪だらけの髪だがきちんと整えられており、むしろ白髪のほうが似合うくらいだ。
「フォトア、その方は一体誰なんだね?大声が聞こえたが……その方の声だな?こんな時間に何用なのか……?」
エミールは困惑していた。仕方ないだろう。突然の大声など誰もが驚く。
ツヴァイはさっと跪いた。
「初めまして。私はツヴァイ・ローレンと申します。フォトアさんとは文通をさせていただいています」
丁寧に頭を下げたツヴァイ。
「ツヴァイ様、この人は私の父です。エミール・ブリッジです」
フォトアは父を見ている。
「ああ、フォトアが最近している文通のお相手でしたか……む、ローレン?もしかして、あの名家ローレンの主……ですか?」
「そうです。名家と言われると困りますが」
ツヴァイは困ったような表情をした。慣れてはいるが落ち着かない。
「なんと……フォトアがお世話になっております。フォトアときたら、最近大変なことがありまして非常に落ち込んでいたのですが、手紙を出すときだけはどこか嬉しそうな表情を見せていたものです」
「お父様!」
フォトアが顔を赤くした。恥ずかしい。ツヴァイに知られたくなかった。
「そうでしたか……私もフォトアさんとの文通は心が踊るものがありました。非常に慎ましい手紙を書かれる方だと」
ツヴァイは立ち上がりながらいった。
エミールはツヴァイの方を見ている。
端正な顔立ちだ。それにしなやかな肉体。
まさかローレン家の主と出会うことになるとは……。エミールは娘とツヴァイの関係が気がかりだった。
「しかし、何故日も暮れようかというこんな時間に屋敷に?先程の大声は?」
エミールの当然の疑問だった。普通の出来事ではなかったからだ。
「私が困った手紙を出してしまって……それで駆けつけれくれたんです。本当に申し訳なく……」
フォトアは俯き気味になっている。
「フォトアさんのために駆けつけました。しかし無事でいてくれてなによりです」
「無事?フォトア、一体どんな手紙を送ったんだい?」
エミールは苦笑している。
「……酷い内容の手紙です……ツヴァイさんに助けを求めてしまって」
フォトアはさらに俯いた。
エミールは驚いた。娘は文通で誰かに助けを求める性格ではないと思ったからだ。
このツヴァイという人物、どれほどの者なのか……。
「何があった?ここではまずいか。私の部屋に行こう。ツヴァイさんも共に行きましょう」
「わかりました」
ツヴァイは頷いた。そして自然にフォトアの手を引いた。
あまりにも自然だったためフォトアもツヴァイの手を握り返していた。その感触が温かった。力強い手。
フォトアが少し顔を赤らめているとエミールは周囲の者達を見た。
「みんな、なんでもない!客人がいらしただけだ。大声で驚いたものもいると思うが各自部屋に戻りなさい」
皆に聞こえるように大きな声で話すエミール。周りの者達はそれを聞いたがなかなか部屋に戻りたがらない。銀髪のツヴァイが気になってしょうがないようだ。
やれやれとエミールは苦笑しながらフォトアとツヴァイを自室に案内することにした。
エミールの部屋は大きい。何しろ本の量が凄いのだ。本さえ片付ければもっと空間が出来るだろうし掃除も楽だろう。壁際に大量の本が並んでいるのだ。しかもエミールは並んだ本はすべて読んでいた。幼い頃から高齢の今まで読書を欠かしたことはない。
知識は人生だ。いくつもの本がありそのいずれもが人生を与えてくれる。人の人生に触れられる。より自分の内面を磨くことが出来る。エミールはそれが好きだった。偉人の人生を垣間見ること。己と向き合うこと。そのきっかけを与えてくれる読書はエミールの人生そのものだった。
その影響もあってかフォトアもエミールの本を借りることが多かった。子供の時から読書する父の姿を見て育ったからだ。
フォトアは最初は人形遊びの方が好きだったが、エミールがあまりにもたくさん本を読んでいるのでその背中に惹かれた。
故にフォトアには教養があった。しかしフォトアはそれを自慢したりはしない。むしろ、読書するたびに自分は未熟だとフォトアは感じていた。
エミールの部屋は真っ黒いドアがある。
その黒いドアを開けエミールが中に入る。フォトア、ツヴァイと続く。
左手に大きなソファーが見えた。緑色だ。エミールはそこで眠ることもある。右手に大きな机。オレンジのランプが机の上に乗っており読みかけの本が開かれている。
壁は白い。フォトアがエインセに裏切られたことを告げたのもこの部屋だ。
「ソファーにお座りくださいツヴァイ殿。フォトアもな」
エミールが促した。ツヴァイは頷き左手のソファーに腰掛けた。フォトアもその傍に座った。
「さて……何があったのか話しなさい」
エミールはフォトアを見つめている。
「……はい」
フォトアの声は小さかった。そして市場での出来事をゆっくりと話しだした。
「……以上です」
説明を終えたフォトアが区切りをつけた。
不安がフォトアにはあった。その程度のことで手紙を出すなど咎められるかもしれない。
「エリス・クラーレ……」
エミールは神妙な面持ちで呟いた。
フォトアは隣のツヴァイを見た。
ツヴァイは表情を変えていなかった。やはり大した出来事ではなかったのかもしれない。
「不思議ですね」
ツヴァイはそう言った。
「激情を超えると無表情になるようです」
そう言いながらフォトアの手を握るツヴァイ。
「なるほど……無表情にですか。あなたとは美味い酒が飲めそうですツヴァイ殿」
エミールは微笑んだ。
「そうですね。……フォトアさん。あなたは偉い。泣かなかったのですね。あなたは誇り高き人です。下衆の言うことなど気にすることはない。この世にはどうしようもない下衆がいます。しかしそんな下衆にあなたのような美しい存在が傷つけられるのは見ていられない。自信を持ってください」
ツヴァイのフォトアを手を握る力が強くなる。
「……ありがとうございます。来てくださったことも、その言葉も……。本当に、なんと言ってよいのか……」
フォトアは俯き気味になりながらいった。
「エミール様」
ツヴァイが不意に切り出した。
「何か?」
「今……フォトアさんに婚約者はいますか?」
エミールとフォトアは驚いた。現在フォトアに婚約者はいない。エインセに裏切られたからだ。
「いませんが……」
エミールがいった。
「それはよかった」
ツヴァイが微笑した。
その微笑を見てフォトアの鼓動は少し速くなった。婚約者がいないか……?いなかったとしてどうするつもりなのだろう……?単なる好奇心からの質問かもしれない。フォトアは黙っていた。
「その質問は……どういう意味ですか?」
エミールが答える。表情は笑っている。
「おわかりなのでは?」
ツヴァイの返答。エミールと同じく表情は笑っている。その答えにエミールは声を上げて笑った。
「いや、本当に素晴らしい日だ。こんな日があっただろうか……そうだな……今日は酒を飲む。フォトア、お前は酒を注ぎなさい。ツヴァイ殿の分も」
「は、はい。わかりました……」
フォトアはおずおずとしていた。
その表情はもう落ち込んでいなかった。むしろ……。