褒められてしまいました
フォトアは迷った。
黄金の蝶が縁を運んできたのであれば。
自分にも運命のような物があるならば。
風が吹いた。
暮れていく日。揺れる畑。
世界はとても広い。
道の途中で見つめ合う二人。
「……手紙をください。時間をください」
フォトアは迷いながら答えた。心が揺れている。時間がほしかった。
「勿論です。ブリッジ家に手紙を出します。時間が必要だというのもわかります」
ツヴァイは力強く頷いた。嬉しかった。フォトアと手紙を交わすことが出来る。
二人はそうしてブリッジ家の屋敷の前まで来た。ツヴァイは役目を終えた。見送りは終わりである。
「今日はあなたに逢えてよかった。あなたとはもう一度会いたい」
「……ツヴァイさん」
「なにか?」
「今日は職務などがお有りになるのですか?」
「職務ですか?今日はあの少年、ナイラーと市場の視察に来ました。特段報告することも無かった。特に用事はありませんが……」
「……なら、夕飯を召し上がっていきませんか?私、得意なことが料理で……それくらいしかお返しが出来ません」
「料理ですか……!しかし、お返しとは?」
「ここまで送っていただきました」
フォトアは申し訳無さそうに話す。その様子を見てツヴァイは思わず笑みを浮かべた。
「律儀な方だ。そうですね……その料理。食べてみたいですね」
ツヴァイは笑っている。そして料理を食べてみたいというのは本心だ。
「是非作らせてください……!お嫌いなものとかはありますか?」
「いえ、ありません」
「よかった……では私の裁量で作らせていただきます」
フォトアは暗かった顔から少し明るさが戻った。
それを見てツヴァイは嬉しかった。力になれたのだろうか。
そして楽しみだった。この女性はどんな料理を作るのだろうかと。
「美味い!」
ブリッジ家の食堂に声が響き渡った。よく通るきれいな声だった。その声はツヴァイのものである。当然食堂にいる者達はその大声に驚いた。
食堂は広く長机が五つ設置されている。とても長い。椅子は百個ほどあるだろうか。いずれもが長机の側に設置されている。壁は白く絵などが飾ってある。有名な美術家のものも少数あれば、ブリッジ家の者が趣味で描いた絵もある。暖炉には火は灯っていない。ツヴァイは注目の的だった。
ブリッジ家の者たちはパンやスープを食べていたが、ツヴァイに出された料理はフォトアが作った。ツヴァイのための料理がツヴァイの前に並んでいる。フォトアが直接焼いたパン、豚肉、人参のような野菜。肉のダシが効いた野菜のスープ。それに蜂蜜に漬けた葡萄。
「この肉は……なんですか?こんなに美味しい肉を食べたことはありません」
ツヴァイは一旦フォークを机に置き顎に手をやっている。本当に美味しいと思ったツヴァイ。一体何をすればこんな味になるのか?と考察している。
「その肉は豚肉です。少し香辛料を使っております。ブリッジ家では豚がよく育ちます」
フォトアは笑顔だった。ツヴァイの容貌の威圧感とはかけ離れた素直な感想が嬉しかった。
「この料理の腕前なら……どこの家でも喜ばれるでしょうね」
「家族が喜んでくれます。それに今ツヴァイさんが喜んでくれています。ふふ、子供みたいですよ。さあ全部お食べになって」
フォトアは微笑しながらツヴァイに先を促した。
ツヴァイはクスりと笑った。まさか自分が子供みたいなどと言われるとは。
「フォトアさんは食べないのですか?」
「お客様の料理の方が優先です」
「遠慮しないでください。一緒に食べましょう。とても美味しい。一人で食べるには勿体ない」
「……そうですね。料理はみんなで食べる方が美味しいですものね」
「早くしないと全部食べてしまいますよ」
「冗談もおっしゃるのですね」
フォトアは初めて笑い声を漏らした。これまでにも笑顔は見せていたが声を漏らしたのは初めてだった。
ツヴァイはその声を素晴らしいと思った。
「急いで厨房から料理を持ってきます。待っていてください」
フォトアはツヴァイと机から離れ厨房の方へ向かった。
ツヴァイは手を完全に止め物思いにふける。
何故こんなに楽しい気持ちなのだろうか?
フォトア・ブリッジという女性が心のなかに入り込んでいる。
恋愛に興味はなかった。
昔は恋愛するのも楽しかった。
しかし女の醜い部分をたくさん見てきた。
いつしか女性に対して何も望まなくなった。
何故フォトアは心のなかに……。
そう考えいるうちにフォトアが戻ってきた。両手で盆を持っている。
フォトアはツヴァイの正面の椅子に座りながら盆を机の上に置いた。盆の上に置かれているのはツヴァイに出された料理と一緒だった。
椅子に座ったフォトアが語りだす。
「私……ダメですね。浮かれています。そんな権利はないのに」
「ダメとは?権利とは?」
「今日は気分が悪かったんです。でもツヴァイさんに料理が美味しいと言われて喜んでしまっています。婚約者がいた身なのに……」
フォトアは伏し気味の目つきになった。
その目つきが儚かった。
フォトアにかける言葉をツヴァイは考えた。
「今、楽しいですか?」
「え?……はい……楽しいです」
「ならばそれで十分です。苦しむことはあるでしょう。しかし今この瞬間フォトアさんが楽しいなら、それは我が事のように嬉しい。人生はそんな事の繰り返しです。所々で楽しめる今を探すしか無い。あなたは若く見える。これから先良い日がたくさんある。今はその日のための準備期間だと考えませんか?」
ツヴァイが熱弁した。
何故こんなにすらすらと言葉が出てくるのかツヴァイは不思議だった。
気づいていない。
運命の相手に出会ってしまったことに気がついていないのだ。
フォトアとツヴァイは料理を楽しみながら話をした。
自然と会話が弾んだ。フォトアにとってツヴァイの話は未知のことばかりで楽しかった。
ツヴァイにとってフォトアの話は自然を感じさせる温かさを伝えてくれるものだった。
二人の周りには人がいたがフォトアはツヴァイのことをただの客人だと紹介した。ローレン家の名前は出していない。何も事情は知らないが周りの者達はツヴァイを歓迎していた。お嬢様のお客だと。
ツヴァイは開放された気持ちだった。常に貴族としての立ち振舞いを強要されるツヴァイ。だが今はただの一人の人間になれた。
貴族という身分から離れてみたいとツヴァイは常々思っていた。
目の前のフォトアを見る。
美味しそうに人参を食べている。仕草は綺麗で無駄のない動きに見えた。
「……平民に生まれたら、どんな暮らしだったのだろうか。私が貴族でなければ、もっと……」
ツヴァイは思わず口にした。
それを聞いたフォトアは目をパチパチさせた。そしてツヴァイの声が暗いとフォトアは思った。
「貴族がお嫌いですか?」
「そう……私は、貴族でなくても良かった。当たり前の、当たり前の生活が……市場などに行くときに思います。何者にも縛られず……」
ツヴァイの表情が暗くなった。
フォトアはツヴァイの気持ちを考えた。ローレン家の主として大変な思いをしてきたのだろう。きっと自分などではわからないほど苦労してきたのだろう。家柄が枷だったのだろう。
力になってあげたいと思った。この人を楽にしたいと思った。なんと言葉をかけたら良いか。
「あの……あなたは嫌な気持ちになるかもしれませんが」
フォトアがおずおずと話す。
「私……あなたが貴族でいてくれて良かったです。だって、そうでなければ今日の出会いはなかったのですから」
フォトアは困ったように笑った。自分の心の隙間に入ってきたツヴァイという人物を受け入れ始めていた。
勿論身分差があるのはわかっていた。それでも目の前のツヴァイと話していると楽しいのだ。その楽しさがどうにも出来なかった。エインセを愛さなければならないと思いつつも。
「そうか……そうですね。貴族でいるというのもいい事があるものです。あなたには驚かされているばかりだ」
ツヴァイはふっと笑った。
今日フォトアと出会わなければどうなっていただろう?
舞踏会で虚無の踊りを踊っていたのだろうか。
それが今ではどうだ。舞踏会が楽しみで仕方がなくなっている。
そしてエーデンブルグ家とクラーレ家。その二つの名はツヴァイの頭に完全に定着されていた。
確かクラーレ家は舞踏会にも来るはずだ……。目の前の女性、フォトアを傷つける人物は許せない。
楽しい時間はすぐに過ぎ去り二人は食事を終えた。とてもゆっくりとした食事だった。二人共会話を楽しんでいたからだ。料理も美味しかったが、会話をするのが何よりも楽しかった。お互いの暮らしを語るだけで楽しかった。
フォトアにとってはツヴァイの話はとても珍しく面白かった。またツヴァイもフォトアの慎ましい生活に好感を覚えた。
食堂には窓がある。とても大きく外の景色がよく見渡せる。綺麗な畑が窓から見える。人間の生活を支える大切な畑だ。
本来山も見えるが辺りはもう暗くなり始めている。
ツヴァイはちらりと外を見た。時間の経過に驚いた。もうこんなに暗くなっていたとは。
「フォトアさん……そろそろ、帰らねばなりません。本当に美味しい料理をご馳走になって……こんなに楽しかった時間は久しぶりでした。ありがとうございました」
ツヴァイは名残惜しそうに言った。
「あ……すみません、もうこんなに暗いとは……気づきませんでした」
「私もです。本当に美味しい料理でした。私が食べた料理の中で一番です」
「そんな……」
フォトアは謙遜したが心の中ではとても嬉しかった。
自分の料理がそんな言葉で褒められるなんて。
美味しそうな顔で食べてくれるなんて。
フォトアはどうしたらいいかわからなかった。
また作らせてくださいという言葉を飲み込んだ。
そんなことを言う権利は自分にはない。エインセと恋人だったのだから。
「また食べさせてください」
ツヴァイは笑顔で言った。
フォトアの鼓動は高鳴った。
思っていたことを言ってくれた。
心が揺れる。この感情は、嬉しい、だろうか。わからない。
「お手紙を待っています」
フォトアは振り絞るように言った。手紙だけが二人を繋ぐ糸。
「必ず手紙を出します。舞踏会のこと、考えておいてください」
そう言うとツヴァイは立ち上がり深く一礼しフォトアに背を向けて歩き出した。食堂を出ていくツヴァイ。その背中を見守るフォトア。
ツヴァイはフォトアの方をもう見ていなかったが、去っていくツヴァイに向かってフォトアは深く一礼した。