掴みきった未来
勝負の時が止まった。フィールが長考したからだ。
静かに、盤に向かうフォトアとフィール。フィールは、次の手を指していない。ただじっと、考え込むのみ。
その様子を見て、観客席では、違和感を感じ取る観客たちがいた。
「おい、何をあんなに考え込んでいるんだ?」
「フィールなら楽勝じゃないのか?」
「今どっちが優勢なんだ?」
「まさかフィール、負けないよな?」
「まさかだろ。俺はフィールに賭けているんだぜ」
観客たちの声は、フィールにも届いていた。
フィールの心は唯一。
うるさい。うるさい……うるさい!!
負けるわけねぇだろ!!この私が……たかが一手ごときに……。
フィールは、このままでは首を飛ばされると、覚悟していた。しかし、彼女もまた強者。
フォトアが最善手を指し続けてくれば、負ける。だが、フィールのキングが倒されるまで、そこまでの道のりでフォトアがミスをしてくれれば、状況は変わる。
フィールは思考を重ねた。とにかく、試合を引き伸ばす。それが、彼女の方針だった。
わずか一つでも。フォトアがミスをすれば、そこにつけ込むことが出来る。
終局までの道のり。それを思い描いた。
潰すのだ。希望なんて、持たせてやるものか。
ちらりとフォトアの顔を見た。
その表情は、瞳が、輝いていた。盤だけを見ている。
フィールには、それが苛立たしかった。
「調子に乗るなよ、フォトア……私に勝てるとでも思っているの?」
「勝ちます。愛する人がいるから。支えてくれる友人がいるから」
フォトアは断言した。それは、愛する者への渇望であり、友に支えられた言葉だった。
「理解出来ない。何故、愛だの友情だの言えるのか、わからない。フォトア、貴女は何もわかっていない。人を求めることなど無意味なこと。縁なんて、すぐ切れる。所詮人間は自分のために生きている。他人に期待することが、いかに無意味なことか」
「理解してもらおうとは思いません。ただ、私はツヴァイを愛しています。エリスを信じています。人間は確かに、最後は一人で死ぬのかもしれません。でも、だから、一生懸命生きるのではないですか?人生の終わり……最後に一人で死ぬ、その時まで。私は、人との縁を大切にしたい。勿論、切れてしまう縁だってあります。裏切られることもあるでしょう。でも……」
フォトアは深呼吸をした。
「誰も愛そうとしないのに、誰かに愛されたいなどと」
それは、フォトアの本心だった。
自分から相手を好きにならないで、どうするのか。
愛するから、愛してくれる。勿論、見返りを求めて愛するわけはない。あくまでも、結果の話。
彼女の頭の中に、人々の顔が浮かんだ。ブリッジ家のみんな、ツヴァイ、エリス、父……。
人生を語るフォトアに、フィールは憎悪を向けた。
「お前は何も知らない。人間の憎悪も、悪意も。人が不幸になるのは楽しいことだ!実際、人の不幸を話の種にして、喜ぶ人間はたくさんいる。人は争うために生まれてきた。昔の時代だって、動物に殺されることもあれば、人間同士で争って、その結果人間が殺されることもあったはずだ。人の不幸の蜜を知らないお前には、理解出来ないだろう」
「理解したくありません」
「お前の幸せを必ず壊す」
フィールは憎悪を身体に纏い、黒の駒を手にした。
そして、その駒で、フォトアの駒を一つ取った。
フォトアには一本の線が見えている。そして、フィールはそれを妨害しようとしている。
今度こそ、一本道。一度のミスも許されない。
終盤にもつれ合う試合。
フォトアは、透き通った瞳で盤面を見つめ、凛として悪意に立ち向かっていた。
それが、彼女の精一杯の証なのだ。
そこからは、お互いに一歩も譲らなかった。フィールはフォトアのミスを狙い続け、フォトアは最善手を指し続けた。
フォトアは、何かに取り憑かれたかのように、集中していた。駒たちが躍動するのが、肌で感じ取れるようだった。
勿論、考え込みはしていた。慎重に指さねば、負けてしまうのだから。しかし、彼女の心の中は、勝ちたいという気持ちさえ消え失せ、静かに相手のキングを取ることだけを考えていた。
それに対してフィールは、敗北へのカウントダウンに焦っていた。彼女も実力者である。だからわかる。このまま行けば、自分は負ける、と。彼女もまた、最善手を指し続けた。
故に、試合は長引いた。その緊張感は観客席にまで伝わり、誰もが息を呑んで、二人を見つめていた。
無論、ツヴァイもである。エリスは退場してしまったが、彼だけはフォトアの味方だった。
彼は、感動していた。フォトアが、あれ程までに真剣に、相手に立ち向かっている。自分との未来のために。
なにかしてやりたい。しかし、何も出来ない。そんなもどかしさを、ツヴァイは感じていた。只々、フォトアの勝利のみを望む自分を、情けないと思った。
だが、ツヴァイは何も出来ないわけではなかった。彼が試合前にフォトアの手を握ったことが、フォトアを支えていたのだ。
二人には愛がある。そして今、その幸せを壊そうとしている強敵に、フォトアは挑んでいる。
フォトアの手が駒へ。駒を動かした。
フィールの手が駒へ。ノータイムでの応手。
お互いに感じていた。相手は強者であると。
勝負はもう終盤戦。相手のキングの首を取るか、ドローになるか。
退場したエリスの考えは、中盤、終盤になれば、フォトアが不利になるという予想だった。
しかし、終盤戦において、フォトアは一歩も譲らなかった。それは、神がフォトアに微笑んだのかもしれない。力を与えたのかもしれない。
だが、違う。
フォトアは感じていた。『エリスの方が強い』と。
フォトアとエリスは、懸命に修行の日々を重ねたのだ。フォトアにとってエリスは友人であり、チェスの師匠だった。
その彼女と、幾度も対戦し、疲労の限界で、お互いに、いつの間にか眠ってしまったこともあった。
エリスはいつだってチェスの教えをしてくれた。何を求めるでもなく。
思い出す。
「ああ、ごめんフォトア。眠ってしまったわ……定石の本を読んでいるのね」
「はい……エリス、もう少し眠って下さい。体調が……」
「冗談じゃない。指すわよ、フォトア。勝ちたいんでしょ?」
「……はい!お願いします、エリス」
「……嬉しいものだな……」
「何が、ですか?」
「あなたの性格なら、私を、嫌でも休ませたがるはず。でも、今、私に教えを乞いている。信頼されてるんだな、って。それがなんだか、嬉しくて……」
「……エリス?泣いているのですか?」
「人生で、こんなに必要とされたことなんて、ないよ。ましてや、一番の友人に。ああ、目が……ごめんね、ちょっと待って」
「エリス……」
フォトアの頭の中を巡った、一瞬の思い出。
師匠であるエリスが、背中に付いてくれている気がした。
努力の日々は無駄じゃない。
自分は恵まれていると、フォトアは心から思った。
「今、どっちが有利なんだ?そろそろ終わるだろ?」
観客席の、タンクトップの男が口を発した。
「フィールだろ?」
「フィールの相手も、そこそこ粘ってないか?」
「チェスはわからん」
「フィールの顔色、悪くないか?負けないよな?冗談だろ!?俺の晩飯……」
「うるさい!!」
盤面に向かっているフィールが、観客席に向かって、声を荒らげた。
それに観客たちは驚いたし、戸惑った。
フィールは絶対絶命だった。今は、フィールの手番。
だが、指す手が見つからないのだ。フィールの渾身の攻撃をことごとく読み切り、フォトアはフィールを完全に追い詰めていた。
他人の人生を終わらすはずが、このザマ?
散々大口を叩いておいて、自分が恥をかく。その未来が、フィールには想像できた。
しかし、いくら両手を握りしめても、抗っても、フォトアがミスをしない。しつこい。ナイトの動きから、すべてが変わってしまった。
フィールは駒を動かした。それ以外、打つ手が無かったから。本来、フィールは降参していてもおかしくない状況だった。彼女の味方の駒はバラバラ。相手のキングを追い詰める力もない。
フォトアがすぐに、次の手を指した。もう、終局しているのだ。フィールはいたずらに時間を伸ばしているだけ。
フォトアの手で、フィールの心は完全に折れた。現実が襲う。負けたのだと。
彼女は、醜い、憎しみに満ちた目でフォトアを見つめ、唇を噛み締め、言葉を発した。
「負けました」
ざわついたのは観客席。唖然としている観客たち。エリスを連行して戻ってきたシラールも、唖然としている。そして、フィールに問い詰めた。
「おい!!フィール!!負けましたじゃない!!この賭博場ごと吹っ飛ぶんだぞ!?何をやってる!!」
「勝てねぇんだよ!!もう負けてる!!」
苛たしげにシラールに返すフィール。
シラールは、フィールを応援していたわけではない。『フィールの勝利』を応援していたのだ。故に、争いが起こる。
「勝てないじゃない!!さっさと勝て!!あの強気はどこにいった!!」
シラールに責められるフィール。フィールに賭けた観客席の者たちも、ブーイングを飛ばした。
混沌の場。怒声、驚き、罵声が轟き、混乱した場。
その空間を、ツヴァイが喝破した。
「フォトア・ブリッジは勝った!!フィール・アトラは負けたのだ!!」
ツヴァイの、すべての声をかき消すかのような声。その威圧感に、場は静まり返った。
彼は、急いでフォトアの元に駆け寄った。
「フォトア」
「ツヴァイ……私、勝てました。これで、これで、あなたのお側に……」
フォトアは少し、疲れた表情をしている。神経をすり減らしたためだろう。
「何も言わなくていい。よく、勝ってくれました……無力な私を許してほしい」
「無力なんかじゃありません!貴方がいてくれたから、私、頑張れた……結婚したかった。望んでしまったんです。幸せな未来を。いつの間にか、欲張りになっている自分に気が付きました。あなたの、あなたのお側にいたかった……だから、私は頑張れました……私は、あなたと……」
涙を流しているフォトア。ツヴァイは、彼女の手を強く握った。
「必ず幸せにします。貴女が、自分の力で未来を掴み取ってくれたように。本当に、尊敬に値するお方だ。貴女の心が、貴女の愛が、私を突き動かす」
見つめ合う二人。言葉は不要なのかもしれない。お互いの手の暖かさが、二人を繋いでいる。
その様子を、悔しそうにフィールが見ていた。唇を噛み締めて。
彼女の頭の中は、『理解不能』という感情に支配されていた。
「何が愛だ……幸せを求めるなど、理解出来ない……人間は一人で死ぬものだろ!!結婚するのが、そんなに大事か!?」
「大事です!!私にとって、結婚は、一生に一度の大事なものです!!結婚することが目的ではありません!!ツヴァイと結婚するのが私の望みなのです!!この人以外に考えられない!!愛しています!!だから、どんな努力だって苦じゃなかった!!支えてくれる友人もいた!!私は、人間の絆を信じています!!」
フォトアの言葉に淀みはなかった。フィールは、理解出来ないまま。
「フィール、お前には責任を取ってもらうからな。わかっているよな」
フィールの元に近寄ってきたシラールが、彼女の肩を叩いた。
賭博場での大失態。その責任を、フィールは取らねばならない。
フィールは俯いたまま、シラールから目を逸らし、立ち上がった。
決闘は終わった。フォトア・ブリッジの勝利によって。




