無償の愛ですか?
賭博場ディザイアは、治安の良い街に存在する、ギャンブルをする場所だった。治安は良いはずの街だが、賭博場だけは治安が悪かった。
街の長は、街の悪さ、悪意を一箇所に集めるため、賭博場を設置することを容認したのだ。その策は当たり、賭博場を除けば、平和に皆が暮らしている。
賭博場の設置されているエリアの周りは、雰囲気がとても暗い。そして、地上には賭博場の姿は、欠片も見えない。何故ならば、賭博場は地下に建設されているからだ。地上には、その深い闇の底へ向かう、黒い階段しか見えない。
黒い階段を下れば、賭博場。一般的な市民でも、ポーカー等で賭けをすることはある。
だが、賭博場となると、クラスが違う。ここで人生を見失ってしまった人が、数え切れないほどいる。あるいは、命さえも。
賭博場の中は、緑のポーカー台がいくつも並んでいる。大きな机ほど、掛け金が高い。その他には、酒を飲めるエリアが存在し、机と酒が並んでいる。賭博場の中央には、最も大きい緑の机が設置されており、それを取り囲む様に、椅子が設置されている。一番大きな掛けは、見物客が発生するからだ。そして、『賭博の結果』に対しての賭博が行われる。この連鎖は止められない。
フィール・アトラは、酒が飲めるスペースで、悠々と座っていた。誰もが振り返るような、真紅のドレスを着て、ソーダ水を飲んでいる。
彼女の正面に、黒髪の男が一人。こちらは酒を飲んでいる。しかし、酔った素振りは欠片も見えない。黒髪に合わせたような上下黒の衣装は、威圧感を漂わせていた。
彼の名はシラール。裏社会で名を馳せ、この賭博場ディザイアのオーナーでもある。
「フィール、事前に皆には報告しておいた。チェスの競技があるとな」
「ふふ……それで?」
「まったくの予想通りだった。これでは、ほとんど集金は出来ない。ほぼ全ての常連客が、お前が勝つことに賭けている」
「あら、それは不愉快なこと」
「全員が賭けたわけではない、ということに対してか?」
「さすがね、シラール。その通りよ。まあ、フォトアに賭けたのは、大金持ちでしょうね。しくじったとしても、痛手にならないほどの。あーあ、つまらない……」
「フォトアに賭けた人物の中に、オルタール・ヘインがいる」
フィールの、ソーダ水を飲む手が止まった。表情はこわばり、グラスを強めに机に置いた。
「オルタールが賭けた……?いくら?」
「もしフォトアが勝てば、この賭博場を吹き飛ばせるほどの額だ」
「……馬鹿な」
悪意と自信に満ちたフィールだったが、少し緊張の色が見える。
「オルタールの考えはわからん。何故、このタイミングで、あんな大金を賭けたのか……だが、状況はわかるな?フィール。絶対に負けるなよ。調子に乗るな」
「負けるわけないじゃない!!馬鹿にしているのね、シラール。私は、そう簡単にチェスで負けない。人の幸せを、この手で粉砕してやるの。私が幸せが欲しいんじゃない。私は人の不幸が欲しい。苦しんで、苦しんで、それでも無様に生きるしかない姿が好きなの。必ずフォトアの人生を終わらせてやるわ。人生が終わった時、その表情が見れるなら、私は誰にも負けない」
シラールは黙って酒を飲んだ。彼とフィールは、ギブアンドテイクの関係。
そして、お互いに心のなかで相手のことを評していた。
『愚かな人間』と。
フォトア達は馬車に乗り込み、賭博場ディザイアのある街へと向かっていた。空はまったく快晴だったが、賭博場は地下。暗がりが予想された。
ガタガタと走る大きい馬車。フォトア、ツヴァイ、エリス、三人乗りである。
フォトアは、とても静かだった。自分から口を開くことはしなかった。
ずっと、彼女は想像していたのだ。チェスのことではない。ツヴァイとの、将来のこと。
自分が、運命の人に出会えるなんて、思っていなかった。
人間、一生に一度の運命の相手がいるという話がある。
しかし、道半ばで死んでしまったり、そういう人は、運命の人に出会えなかったことになる。
一度は婚約破棄された。裏切られた。
それでも。神様が合わせてくれたのか、必然だったのか、ツヴァイと出会えた。
その、運命の人と一緒に居れる権利が、目の前に落ちている。そして、それを拾おうとしている相手がいる。
負けたくなかった。
運命の人はいるのだろう。
だが、全てを運命にしてはいけないのだ。
努力して、挑んで、その結果が無惨に散る華のようであろうとも、結果がわかるまで、運命という言葉を使ってはいけないのかもしれない。
運命だと悟るのは、全てが終わった後。
運命と語れば、どこかで諦めてしまうかもしれない。
だから。だから……。
人間の強さを信じる。この馬車に乗っているのは、最愛の人と、最強の友人なのだ。
地下の賭博場。その暗き闇の底は、活気づいていた。フォトアとフィールの勝負に対する、賭けが行われていたからだ。
賭博場に来る客は様々だった。ギャンブル中毒の者もいれば、日常の小さなスパイスとして、自制心を持ってギャンブルをする者もいる。
彼らにとって、今回のギャンブルは、小銭稼ぎだった。フィール・アトラが勝つ方に賭ければいいだけの話だったから。
娯楽にすぎない。彼らにとっては。
しかし、フォトアにとっては違う。絶対に負けられない一戦なのだ。
フォトア達の乗る馬車は、賭博場ディザイアのある街に辿り着いた。黒い建物が立ち並び、テラスが食事を楽しむ人たちが見える。光景は、平和にしか見えない。
馬車は、まだ走った。賭博場の目の前まで行くためだ。
到着を待ちながら、フォトアは心を無にしていた。焦っていては、勝てない。
エリスとの特訓の日々を思い出した。今までの人生で、こんなに一つのことに対して、努力したことはなかった。頭を回転させ続け、チェスが強い人物の偉大さを知った。
書物を読むことも、苦ではなかった。読めば読むほど、新しい知識にぶつかり、それらをフォトアは吸収していった。
フォトアの隣に座っているツヴァイ。そのさらに横に座っているエリスが、ふとフォトアに声をかけた。
「フォトア」
「はい?」
「貴女は、たくさん努力してきたわ。普通の人間には出来ない努力を。私ね、幸せだった。人の為になることが出来るなんて、思わなかった。だけど、今、貴女の力になることが出来た。それが嬉しくて、勝ってほしくて仕方ない。稽古をつける日々も、忘れられない思い出だよ。貴女は勝てる。この私が言うのだから間違いない。……間違いないよ」
エリスは微笑んでいる。
その笑みが頼もしく、フォトアは力強く頷いた。
「ありがとう……ずっと、練習に付き合ってくれて……」
「いいのよ。今日の戦いが終わったら、この街で食事にしましょう。中々、美味しそうな料理が見えるじゃない。幸せな時に飲むお酒といったら、美味しいものよ」
「は、はい……しかし、今はそこまでは……」
「私とは飲めないって?」
「そ。そういうことではなくて!」
「ふふ」
可笑しそうなエリス。ツヴァイは苦笑しながら聞いている。
「冗談よ。大切な、戦いの前だものね。……どう?緊張、取れた?」
エリスは優しげな顔で、フォトアを見ていた。
ハッとするフォトア。
エリスは飄々としているが、その言葉の選択も、話の流れも、フォトアを緊張させないためのものだと、気づいた。
なんて恵まれているんだろうと、フォトアは感謝した。絶対に勝って、お礼を言おうと思った。
「気遣ってくれて、ありがとう」
「いいの。……あーあ、私、いつからこういう人間になったんだろうね」
自嘲気味にエリスは笑った。彼女は、フォトアが勝つために、いくらでも協力してきた。見返りも求めなかった。かつてのエリスなら考えられないことだが、彼女は心の中で祈った。フォトアが勝てるように。
世の中には悪意が蔓延っている。利用し、騙し、裏切る。そのいずれもが、笑顔で近づいてくる。そして人を突き放す。だから、笑顔とは危険なものだ。
だが、同時に、善意も存在するのだ。見返りを求めない、無償の愛が。
エリス・エーデンブルグの感情が、行動が、友情なのか。無償の愛なのか。
それは、エリス自身もわからなかった。
「勝てよ!」
馬車の外にまで聞こえるような、大きなエリスの声が響いた。




