私と貴方は釣り合わない
少年が落ち着くまでフォトアは優しい表情で見守っていた。
ようやく落ち着いた頃にフォトアは少年の名前を聞いた。少年の名はナイラーというらしい。
フォトアとナイラーは市場の一端にて座り込んでいた。灰色の石段があり座るにはもってこいだった。丁度周りに店もない。
市場では人が行き交っている。そんな中で座り込んでいるフォトアとナイラーは時間が止まっているようだった。別に気まずいわけでもない。先程の出来事がはるか昔のように感じられただけだ。
もうナイラーは泣いていなかった。平静さを取り戻している。
「なにか食べる?」
フォトアは笑みを少年に向けた。
「ありがとう……でもやらなきゃいけないことがあって」
「あら、そうなの?」
フォトアが何をやらなければいけないの?という言葉を発しようとした時、一人の男がフォトアとナイラーから見て正面から二人のもとへ近づいてきた。その男は長い銀髪をしており、女だと言われても通るのではないかと思えるほど端正な顔立ちだった。
しかし青の服が作り出すシルエット、男の筋肉質をよく表していた。そして鋭い眼をしていた。威圧感というのだろうか。それほどに目が鋭い。腰には剣を装着している。白いマントが男を包み込んでいた。
「ナイラー君、探したぞ」
男はナイラーに小走りで近づいた。
「何かしていたのか?」
「えっと……ごたごたに巻き込まれて……このお姉さんに助けてもらっていました」
ナイラーは語る。銀髪の男はフォトアの方を見た。
そしてフォトアを見た途端に少し動きが止まった。
何かを感じた銀髪の男。
美しい。
絶世の美人というわけではない。だが今まで出会った女性で誰よりも美しい。その感覚を言葉にすることは不可能だと思われた。
「お嬢さんが何を助けてくれたんだ?」
男は平静さを保ちながらナイラーに質問した。内心は揺れていた。自分が何故この話もしたこともない女性に惹かれているのか?とわからずにいた。
運命のいたずらだろうか。
運命?そんなものはない……。
ナイラーが銀髪の男に事情を説明した。男たちに絡まれたこと。自らお金を払ってまで助けてくれたこと。人間の誇り。
「素晴らしい」
男は呟いた。
「お嬢さん、初めまして。話を聞く限りあなたにメリットはない。何故ナイラー君を助けたのですか?」
「初めまして。ええと……何故、ですか?」
フォトアも挨拶をして、そして首を傾げた。何故と言われてもという顔である。
うーんとフォトアは唸っている。
「何故、ですか……?」
フォトアはまだ悩んでいる。
その様子が可笑しくて男は笑顔で大きく笑った。
「理由も無いのに助けたのですか?」
「いえ、理由は……そうですね、多分」
フォトアは真剣な表情をした。
「間違っているから」
その言葉の響きは冷気のように風に乗った。
「見捨てられなかったという気持ちがあったのだと思います。人を助けるのに理由がいりますか?」
フォトアは語った。
男は思った。この娘は人間の悪意にあまり触れていない。
善良だ。いつか騙されてしまうだろうと思った。
お人好し。だがフォトアの言葉は男に刺さる所があった。
銀髪の男の名前はツヴァイ・ローレン。ローレン家といえば武力を始め全ての分野において国家に最も強い影響力を誇る貴族だ。国への影響力は計り知れない。
ツヴァイはそのローレン家の主。
貴族の生活で泥のように汚い人間のやり取りをたくさん見てきた。ツヴァイの家柄を求めてツヴァイに近づいてくる女たちもいた。
ツヴァイも若い頃は信念や信条と誇りのようのものがあった。
しかしそれが人生を過ごしていくうちに失われていった。疲れたのかもしれない。
自分が失ったものを目の前にいる娘はその誇りを持っているように思えた。
少し雑談に興じるのも良いだろう。ツヴァイはそう思った。
「お嬢さん、お名前は?私は申し訳ないのですが故あって名乗れないのです」
「あら、そうなのですね……。私は、フォトア・ブリッジと申します」
頭を下げるフォトア。ツヴァイが名乗らないことも咎めない。
「フォトア……良い名です。よろしければ少し雑談に付き合ってくれませんか?」
「雑談をするのに理由が要りますか?」
フォトアは笑顔で首を傾げた。
その仕草が美しく、ツヴァイはもっと話してみたくなった。この女性はどんな人物なのだろうかと。
フォトアとツヴァイは、雑談をすることにした。雑談をしたいと思ったのは、ツヴァイの方である。
ナイラーは、邪魔をしては悪いと思い、すぐに戻りますと言って、どこかにふらりと歩いていってしまった。
ナイラーは、ツヴァイと共に市場調査に来ていたのだ。ボロボロの服を着ていたがそれは、調査のためだった。しかし、それは秘密事項なのでフォトアに対しては言わなかった。ナイラーが持っていた銀貨は、ツヴァイから渡されたものである。
「この銀貨をやる。忠誠を、心に」
そう、ツヴァイが語っていた。
フォトアとツヴァイは、しばし話をした。雑談をしていて、ツヴァイが思ったのは、フォトアは非常に素朴な人間だということだった。
嫌味がない。そして、気品があり、精神がしっかりしている。フォトア・ブリッジと名乗ったことをツヴァイは覚えていた。ブリッジ家といえば、農作において、知らぬ者はほとんどいないと言える家系だ。
己のローレン家の名前を出したらどうなるだろうかと、ツヴァイは思った。
多くの者は、ローレン家の名前を出すと媚びてくる。肩書だけで人を見る目を変える人間が、どれだけ多いことか。ツヴァイは、そういうことにウンザリしていた。
少し様子を見よう。そう、ツヴァイは思った。そして、そう思うと同時に、自分を恥ずかしく思った。相手を試しているようだったからだ。少し罪悪感を覚えた。
「銀貨で何を買うつもりだったのですか?」
ツヴァイが尋ねた。目つきは鋭い。確かに鋭いのだが、どこか優しい。
「緑色の果物を買うつもりでした。父とみんなに……。最近少し嫌なことがありまして……気分転換に市場に行くと良いと家族に言われまして」
「そうでしたか……嫌な事とは、聞いてもよいことですか?相談くらいなら、乗れます。いや……教えていただきたい」
「……少し、悩みます。人に話してはいけない気がするのです。私が至らなかった事ですから」
そう語るフォトアの両手は、震えていた。それを、ツヴァイは見逃さなかった。
ツヴァイの目には、フォトアの姿が、とてもちっぽけに見えた。
力になりたい。そう思った。
「一人で抱え込んでいては、辛いこともあります。聞かせてください」
「……ありがとうございます。そうですね。これも何かの縁でしょう。聞いて、くださりますか?」
フォトアは、何かを諦めたような、儚い表情をしていた。
ツヴァイは力強く頷いた。少しずつ、フォトアに惹かれていくツヴァイ。
「恋人がいたんです。婚約もして……結婚するつもりだったのですけど……」
フォトアは語り始めた。相手の銀髪の男は、名前すら名乗っていない。
なのに。不思議な事に、目の前の男に対してなら、なんでも話せる気がした。
見た目の美しさもあったかもしれない。それもあるが、フォトアの直感が、目の前の男は信頼できそうだと、感じたのだ。
そして、エインセ・エーデンブルグと、エリス・クラーレの話をフォトアは語った。
フォトアは、事情を話しているうちに、自分に突きつけられた現実をぶつけられた気がして、落ち込んだ。
頷きを入れながら聞いていたツヴァイは顔を赤くした。話の内容に怒りを感じたのだ。
「なんだそれは!!酷い、酷すぎる」
石段に座っていたが、立ち上がるツヴァイ。声を荒らげている。表情は鬼神のようだ。
「……エインセが戻ってくることは、ありません……」
フォトアは弱々しく呟いた。
「辛い思いを……さぞ憎いことでしょう……。相手が悪い。許されることではない。どうか、元気を出して」
ツヴァイは、座り込んでいるフォトアの手を、腰を低くして両手で握った。
助けてあげたい。なんとかしてあげたい。ツヴァイは本気でそう思った。
フォトアは少し驚いたが、触れてくれた人の手が温かいと感じた。
「……憎くはないんです。ただエインセを繋いでいるだけの魅力がない自分が嫌です」
フォトアは語った。本心だった。
裏切られたのは悲しい。悔しい。
だが、自分に魅力が無かったのだと。
悪いのは、自分のせいでもあると。
もう少し住んでいる世界が違って、自分に魅力があればと。
ツヴァイは怒りと哀れみを感じ、それと同時に、フォトアの気丈さに心を打たれた。裏切られて悲しい思いをしたのに、目の前のフォトアは相手を責める気配すらない。
儚い。こんな貴族の女性がいるだろうか。今まで会ったことがない。
ツヴァイは決断した。
「あなたはとても美しい人だ。自信を持って」
「……優しいのですね。ありがとうございます」
「本心です。私の名前を名乗ります。今度、我が家で舞踏会を開くのです。そこに是非お越しください。来てくれたら私は嬉しい。私と踊ってください。私の名前はツヴァイ・ローレンです」
「ツヴァイ・ローレン……」
フォトアも、当然ローレン家の名前は知っていた。しかし告げられた名前に驚きはしなかった。ただ、そういう名前だと認識したのみ。
「ツヴァイ様、折角のお誘いですが私は舞踏会など行けません」
「どうして!」
「……釣り合わない……」
フォトアの目から涙がこぼれ落ちた。
わかっている。自分は劣っている。自信がない。消えてしまいたい。
「釣り合わないの……」
エインセとのやり取りで、フォトアは家柄の差に敏感になっていた。身分の高い者と触れ合うのが、怖い。
「来てほしいんだ!!」
ツヴァイはフォトアを腕で引き寄せた。
二人の顔が近づく。
涙の顔のフォトアと、凛々しい表情のツヴァイ。
二人は見つめ合った。
フォトアの心が揺れた。
目の前の力強さと、優しさに。
「いつまでも待っています。手紙を送ります。どうか受け取ってください」
ツヴァイは顔を離した。そしてエーデンブルグ家とクラーレ家の名前を、頭に叩き込んだ。
フォトアは目の前の現実を受け止めきれていなかった。