ダークシャドウ
「ツヴァイ・ローレン様と結婚するのは、貴女じゃない。私、フィール・アトラがツヴァイ様と結婚するの。お分かり?フォトア・ブリッジ」
そうフォトアに言い放ったのは、長い茶髪の女性。艶のある髪。美しいと評価してよい顔立ち。髪の毛と揃えたような、茶色のドレス。漆黒の瞳が、フォトアを見つめている。
フィール・アトラ。ツヴァイと結婚すると言っているのは、根拠のない自信などではなかった。彼女をバックアップする存在がいたのだ。
この物語を語るには、少し、時間を巻き戻す必要がある。
フォトアの家、ブリッジ家。その家の中の、部屋の一つ。家の主であるエミール・ブリッジの部屋で、ツヴァイ・ローレンは唸っていた。長い銀髪は、相変わらず女性かと思うほど綺麗だ。目線の先には、チェスの駒。彼はチェスをしているのである。
相対するのは、エミール・ブリッジ。彼もまた、チェスの盤面を見ながら、唸っている。そんな二人の間に、フォトア・ブリッジ。彼女は微笑を浮かべていた。チェスはまったく弱いフォトアだが、真剣になっている二人を見つめると、つい微笑ましくなってしまうのだ。
そんな二人にお茶を出したくて、フォトアは一旦部屋から出て、紅茶の準備をするため、食堂へ向かった。
なんと幸せなことか。愛する婚約者、そして、愛する父親に、差し入れをすることが出来る。
食堂へ向かう途中、家の入り口に、手紙の配達員がいることに気がついたフォトア。上下真っ黒の格好に、これまた黒い帽子を被った配達員。誰かに手紙だろうか、そう想像したフォトアは、その人物の元へと向かった。
緑色の服を着こなし、金髪を揺らしながら、目標の人物に接近するフォトア。配達員も、フォトアに気がついたようだった。
「フォトア・ブリッジ様ですか?」
「はい、私はフォトアです。お手紙ですか?配達、お疲れ様です。お茶を出しましょうか?」
「い、いえいえ。結構です。お気持ちだけ。手紙の配達に参りました」
「そうですか……。手紙は、誰に宛てられた物でしょうか?私でしょうか?」
「いえ、ツヴァイ・ローレン様です」
配達員の言葉に、フォトアは驚いた。意外な名前だったのと、何故ここにいることがわかったのだろう、という疑問である。
「ツヴァイへの手紙なのですね。私から渡しておきます。サインはいりますか?」
「ありがとうございます。サインも、是非お願いします。何しろ、アトラ家からの手紙ですから」
「アトラ家……?」
フォトアは目をパチパチさせた。
大陸の中に存在する、フォトアの住む国。その国で、国王から絶対の信頼を得ている、二つの家柄。フォトアの婚約者、ツヴァイのローレン家。そして、アトラ家。この二つの家柄が、この国で一番影響力のある貴族なのである。アトラ家と特に親交も無かったフォトアだったので、手紙の内容には興味が沸いた。しかし、勿論盗み見る様な真似はしない。それが当たり前の大人というものだ。
手紙を受け取り、配達員の差し出した紙にサインをするフォトア。手紙は、綺麗な薔薇の様な刻印がしてあり、豪華さが伺えた。
サインをした紙を、配達員に差し出すフォトア。配達員はサインを見て、首を縦に振り、頷いた。
「確かに。それでは、用事も終わりましたので、私はこれで失礼します」
配達員は深くお辞儀をした。
「あ、お待ち下さい」
「何か?」
「せめて、お茶だけでも飲んでいって下さい。配達員さんは、休む暇も無いでしょう。すぐにお出ししますので」
「ありがとうございます。しかし、お気持ちだけで結構ですよ。優しいお嬢さんだ……なかなか、気を使ってくれる人は、いないものです。本当に気持ちだけで嬉しいですよ。私は仕事に戻ります。また、何かの縁があれば、お会いしましょう」
黒ずくめの配達員はクスりと笑った。フォトアは男の言葉を受け取り、お茶を出すのはやめた。深々とお辞儀をして、男を見送ることにした。
「配達、お疲れ様でした」
フォトアの言葉。その言葉を受け、配達員は、笑顔でブリッジ家を出ていった。
配達員は、いい気持ちだった。何を深々とお辞儀をしているのか、不思議なお嬢さんだ、と思いながら。
思わぬ遭遇に対応したフォトアだったが、とりあえず本来の目的である、ツヴァイと父に紅茶を淹れるという作業をしようと思った。手紙は、紅茶を持っていった時に、ツヴァイに渡せばいいだろうと。
彼女は、受け取った手紙を左手に持っていた。これから起こる……嵐を巻き起こす、その手紙を。
「長考するチェスというのは、楽しいですな」
自室でチェスをしているフォトアの父、エミールが笑みを浮かべなから言った。沢山の書物に囲まれてチェスをする。なかなかに贅沢な時間だ。エミールの対面には、ツヴァイの顔。
「え、何かおっしゃいましたか?」
顔を盤面から上げるツヴァイ。その様子を見て、エミールは笑い声を出した。ツヴァイの熱中ぶりが面白かったのだ。
「いや、貴方は不思議なお方だ、ツヴァイ殿。名門の貴族ならではの凛々しさを発揮するかと思えば、子供のように無邪気な姿を見せたりもする」
「申し訳ない。エミール殿に、退屈はさせたくないものですから」
「十分楽しいですよ。なかなかのチェスの腕前です。私はほとんどの勝負で、負けたことが無いもので……唯一、完全に負けた試合は、エリス・クラーレ嬢くらいですよ。いや、今は、エリス・エーデンブルグ嬢か」
「エリス嬢ですか。彼女は、別人のようになった……人間とは、生まれ変われるものですね。私はエリス嬢を許せませんでしたが……許すという行為は、人間だけの、高潔な感情、あるいは強さなのかもしれませんね」
駒を進めるツヴァイ。
「エリス嬢の行いを考えれば、当然でしょう」
「はい。しかし、今はフォトアの良き友人だと……フォトアは、どうして清らかな人間なのか、わからなくなる時があります。健気で、地に足のついた生活をし、謙虚です。見た目も可憐です。しかし、私は、フォトアの性格が愛おしくてたまらないのです。もっと早く、彼女と出会いたかった。そうすれば、もっと彼女と一緒にこの世界を楽しむことが出来ていたというのに」
ツヴァイは笑みを浮かべた。
その時、ガタンという音が、部屋の入り口の方で聞こえた。そちらを見るエミールとツヴァイ。
そこには、フォトアが立っていた。手に、紅茶の入ったトレイを持っている。そして、フォトアは、顔を真っ赤にしていた。
「フォトア」
ツヴァイが立ち上がった。
「す、すみません。盗み聞きするつもりでは……自然に部屋に入ってきて……その今の、ツヴァイの言葉は……」
フォトアは俯いている。
「聞かれてしまった。今の言葉は、言葉通りの意味ですが?」
「そ、それは、その、光栄です……」
そのフォトアの言葉に、エミールとツヴァイは笑った。光栄という言葉遣いが、フォトアのわかりやすい態度が、面白かったからだ。
「こ、紅茶をお持ちしました!そんなに笑わないでください!もう……」
フォトアはぎこちなく、エミールとツヴァイの座っている椅子の隣にある、丸テーブルの上にトレイを置いた。
そして、思い出した。手紙のことである。
「ツヴァイ、私、玄関で手紙を受け取りました。ツヴァイ宛てみたいです。何故、ブリッジ家に届いたのか、わかりませんが……この手紙です。なんでも、アトラ家からの手紙だと、配達員の方がおっしゃっていました」
「アトラ家?」
ツヴァイの表情が、不意に険しくなった。
「はい、この手紙を……」
フォトアは、立ち上がっているツヴァイに、手紙を手渡した。刻印のされた白い手紙。
ツヴァイは、エミールの方を見た。
「エミール殿、この勝負、持ち越して頂けませんか。いい勝負でしたが……この手紙を読まねば」
「構いませんよ。ツヴァイ殿は、我が子と結婚するのですから。またの機会が何度もあるでしょう」
「ありがとうございます。少し、失礼します。フォトア、通してくれ」
「は、はい……」
丁度、ツヴァイが部屋を出る道に陣取っていたフォトアだったが、ツヴァイの言葉で、道を開けるように横に動いた。
「紅茶は、この手紙を読み終えたら飲みに来る。持ってきてくれてありがとう」
ツヴァイはフォトアに微笑みを向けた。しかし、その表情は、どこかぎこちない物だった。
一礼し、部屋を出ていったツヴァイ。フォトアとエミールが取り残された。
エミールは、フォトアの持ってきてくれた紅茶のカップを掴み、悠々とそれを飲み始めていた。
「お父様、アトラ家といえば、国で知らない人はいませんよね?」
「その通りだよ、フォトア。ツヴァイ殿のローレン家と並ぶ、二つの名門貴族。そのうちの片方、国に対して影響力……いや、最早、国を動かしていると言ってもよい貴族の、アトラ家を知らないものはいないだろう。アトラ家は豊かな貴族だ……全てにおいてバランスが取れている。そして、現国王のアトラ家に対する信頼。アトラ家の者は、国の貧しい子供たちを救うための事業を営み、政では、隣接する国から甘く見られないように、国を守るための武力の示し。素晴らしい貴族だよ。性格の良い者が上にいるというのは安心だ」
「そんなアトラ家が、一体ツヴァイに何の用なのでしょうか……」
フォトアは、少し不安を感じているような声で呟いた。
何かの予感があったから。
幸せの中にある、その小さな隙間に、ヒビが入ったような、そんな不安。
「きっと、ツヴァイ殿が、アトラ家の誰かと知り合いなのだろう。ローレン家も、国で最高の影響力を持つ貴族なのだから、当然のことだ。……フォトア?どうして、そんな不安そうな顔をする?」
「いえ……なんでもありません。少し、本調子ではないだけです。私、幸せです」
フォトアははにかんだ。その様子を見て、父エミールも幸せそうだった。




