エリス・エーデンブルグ
エリスの手紙がエインセに届いたのは書いてから数日後のことである。到着が遅れたのは、エリスが手紙を渡してもいいものか悩んだからだった。
もしかするとこの手紙で婚約を解消されるかもしれない。そのくらいの気持ちだった。
しかしエリスは手紙を送った。『送らなければならないから』送った。
避けては通れない道。幸せのこと。不幸のこと。
願わくばエインセの心をほんの少しでも動かせたら。そう思った。
エインセ・エーデンブルグは自分の部屋で苛立っているような表情を見せていた。最近、エリスがエーデンブルグ家に訪れないのだ。なかなか連絡が取れない。
この前エリスはらしくないことを言っていた。エインセは思い出す。
しかしその話の内容もよく思い出せない。きっとエリスは調子が悪かったのだろう、くらいの思いだった。
そんな時エインセの部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「誰だ?」
苛立ちながら問いかけるエインセ。
「使用人です。エリス・クラーレ様からお手紙が届いております」
「ドアを開けていい」
そうエインセが言うと使用人がドアを開けた。女の使用人である。
使用人は素早くエインセに接近し手紙を手渡して、そのまま頭を下げその場を後にした。
エインセが一人取り残される。エリスから手紙がくるなど珍しいことだ。
興味深かったエインセはすぐに手紙を開封した。そして中の文章を読んだ。
「なんだ……?」
エインセは驚いたような表情で何度も手紙を読み返した。フォトアと友人になったと書いてある。何故?わからない。それに書いてある内容もわからない。
変わらなければならない?何故……そういえばエリスが前に言っていた事と重なる。
わからない。確かに婚約破棄は突然のことだった。だが実際に結婚していたわけではない。事前に解消しただけだ。それにエリスだって自分と結婚するつもりだったではないか。
頭を抱えるエインセ。金の髪が動く。
変わる必要がどこにあるのか?
都合の良い人間は利用してしまえば良い。
都合の悪い人間は排除するか放置すれば良い。
何故?何故エリスはこんなことを書いている?
エインセが手紙の内容を理解しようとはしなかった。
しかし同時に手紙を捨てようとはしなかった。エリスの手紙に、なにか真実のようなもの。核心を付くようなことが書いてある気がしたからだ。
それがエインセを苛立たせた。わからないのに捨てられない。
苛立たしい。これを解消するにはエリスに会わなければならない。
そう、もしかしたらフォトアに何かをされたのかもしれない。フォトアは昔からお人好しだ。騙される側の人間だった。エリスもフォトアに何か影響を受けてしまったのかもしれない。きっとそうだ。
人は家柄で人間を判断するものだ。今までもそうだった。これからもそうだ。
栄えあるエーデンブルグ家の人間として完璧であらねばならない。
エインセは部屋で出かける支度をし始めた。エリスに会うために。
彼は孤立していた。表面上の作り笑顔を向けてくれる人間ならいる。
だがエリスのようにエインセのことを本当に好いてくれる人間はいないのだ。
本当に心を許せる相手がいないエインセ。そして彼はその事に気がついていない。
そして変わるつもりもなかった。只々エリスを説得しようとしていた。
自分が変わらなければならないという現実からは目を背けたまま。
急ぎエインセはクラーレ家へと馬車を走らせた。
いつもの青い礼服。不機嫌そうに馬車に乗っている。
「急げ!」
御者を叱るエインセ。それに応えるように馬車は速度を増していく。
そういえば手紙に書いてあった。馬車に揺られているだけでも幸せを感じることが出来ると。
意味がわからない。これのどこが幸せなのか?
馬車は移動手段だ。それ以外の何者でもない。
わからないことだらけだった。
わからない中馬車はクラーレ家に向かっていく。
そして馬車はクラーレ家に到着した。エリスは不在かもしれない。それでも待つだけのこと。
馬車から身軽に降りたエインセはクラーレ家の屋敷に堂々と正門から入っていった。
クラーレ家の使用人たちがエインセを見ている。五人ほど。
エインセはそれを無視して屋敷の中に入っていった。
エリスはエインセには手紙が届いただろうと思いながら、クラーレ家の屋敷にいた。外出は極力控えていた。いつエインセが来るかもわからない。
あの手紙で変わってくれなくても。
捨てられるかもしれないけど幸せのことを教えてあげたい。
昔の自分と今の自分が相対したら、自分も優しさなんて馬鹿げていると言ったに違いない。
でも違うんだ。
人の優しさは見える景色を変えるんだ。
無くても生きていくことは出来る。
でも人間は優しさを持たなきゃいけないんだ。
すべての人が変われるわけじゃない。
だから争いだっておきる。
信じていたい。優しさの意味を信じていたい。
信じるしかないのだ。
人に優しく。
そうありたいよ。
たとえそれが茨の道であろうとも。
心の手紙がエインセに届きますように。
エリス目を瞑った。白い瞼に長い睫毛が流れるように伸びていた。
そしてエリスとエインセが相対する時が来た。
クラーレ家の図書室でのことだった。地図を筆頭に武術の指南書などもあるクラーレ家の屋敷。
本に囲まれながらエリスは紫の衣装を身にまとっていた。短い銀髪とよく似合っていた。
そこにエインセが入ってきた。ドアをがたがたと開けて。
エリスは少し緊張した。手紙は読まれているはずだ。
「ごきげんよう」
「エリス!いったいどうしたというんだ?あの手紙は、なんなんだ?」
「幸せになるための手紙」
エリスは即答した。一切の迷いがなかった。
「それがわからないというんだ!僕は十分幸せだ。地位もある。人生に不満はない。だからこれからも変わる必要はない!今のままで十分だ!これ以上おかしなことを言うなら、エリス……君に対する態度を変えなければならない」
エインセは怒り気味に言い切った。
エリスは俯いてしまった。しかし拳を握りしめる。届いて。
「態度を変えられたって構わない。私達、結婚するしかないんじゃないの?虐げられても、私、いつかあなたがわかってくれるって信じてる。その時がくるまであなたの良き妻になる。幸せを感じるあの瞬間をあなたもわかってくれるまで」
エリスの眼差しは鋭かった。エインセが少し臆するくらいの勢いがエリスにはあった。
「私達、きっと子供を授かることになるでしょう。子供にまで私達の価値観を押し付けるわけにはいかない。それでも唯一、優しい子に育ってほしい。それが今の私の望み。そしてあなたの幸せも。エインセ、キスしてくれる?」
エリスはそういうとすっとエインセに近寄った。
近づくお互いの顔。
エインセはエリスの顔は美しいと常々思っていた。
エリスにキスをするエインセ。
それを受けエリスは目を閉じた。
「この私に向けてくれる優しさは、なんなの?」
「当然じゃないか。君は僕の婚約者なんだから。妻に優しくするのは夫の役目だ」
エインセは疑問そうな表情でいった。
それを聞いたエリスは視界が広がるような感覚に包まれた。
「はは……」
笑うエリス。
死んでいない。エインセの心は死んでいない。
ほんの僅か。僅かだが優しさが残っている。それがとても嬉しくて笑ってしまった。
「私達、国で最高の夫婦になりましょう」
「勿論だとも。我々の家柄なら国で一番のはずだ」
エインセはまた家柄の話をしている。しかしエリスはそれを微笑みながら見守ることが出来た。
エインセを変えていくことが出来るかもしれない。
人を愛することが出来るかもしれない。
感謝を。
自分を変えてくれた人に。
変われてよかった。
自分らしさなどとうに捨てた。
優しさの意味をこれからの人生で知っていくのだろう。
意味はある。確信していた。
優しさを持つには強くあらねばならない。
『ありがとう』と人に声をかけたい。
『ごめんなさい』と間違っていれば言いたい。
『おめでとう』と人に笑顔を向けたい。
この美しき世界を歩いていくのだ。
エリス・エーデンブルグとして。




