ごめんなさいフォトア・ブリッジ
教会の椅子に座り込んでいたエリスは目を開いた。目を瞑って自分自身の声を聞いていたのだ。
それは不思議な体験だった。普段は自分の声なんて聞こえないのに、自分の声を聞いてあげようとするととめどなく言葉が溢れてくる。
今まで必死に生きてきた。そのことは悪いとは思わなかったが、自分の本当の声がこんなに弱いとは知らなかった。なんでもやってみるものだ。とても新しい気づきだった。
エリスは椅子の背もたれにだらりと背中を預けると天井を見上げた。天井はとても高い。教会に来てよかったとエリスは思った。そうしなければ気付けなかっただろうから。自分の声に気づかなかっただろうから。
エリスがぼんやりしていると紺色帽子の神父がエリスに近づいてきた。まるで、見計らったかのようなタイミングである。
「自分に自信は持てましたか?」
微笑む神父。
「自信は持てませんでした。しかし、自分の声を聞くことは出来ました。自分が他人に何かを求めていることも、自分自身の後悔も醜さも。すべて聞こえてきました。自分の声を聞くって不思議ですね。今なら、ほんの少しだけ優しくなれるような気がします。私は一人で生きてきました。そのまま変わらなかったら、私は一生一人だったでしょう。醜い女だったでしょう。今も醜い女だと思います。でも、少しだけ望みます。醜い女になりたくありません」
エリスがすらすらと本心を語る。ローレン家での挫折がなければ彼女は変わらないままだっただろう。
挫折がエリスを変えるきっかけだったのだ。人にはスイッチがある。普段はオフのままだが、挫折したり裏切られたりするとスイッチが入るのだ。空っぽの器になるのだ。その器を満たすのは醜さかもしれないし優しさかもしれない。いずれも本人が決めるものだ。
エリスの空っぽになった器を満たそうとしたものは優しさだった。
自分が愚かだった。
許されないことをした。そう思った。
「神父様、私は優しくなれますか?」
エリスが鋭い両の目で神父を見据えた。
「優しく、ですか。それは難しい道のりですよ。優しさというものは身体に身についていなければ発揮出来ないものです。かなりの鍛錬が必要となるでしょう。しかし、優しくなろうというその姿勢が尊い物に私は感じます。なれますよ。自分の声が優しさを求めているのであれば」
「そうですか……私、許されないことをしたんです。人を傷つけたんです。今更謝りにいっても相手にとっては迷惑だと思います。本人も私のことなど忘れているでしょう。謝りたいという私のエゴで、相手に迷惑をかけるわけにはいきませんね」
エリスはフォトアのことを想像しながらいった。
今更。今更……。
「その傷つけた人というのは、どんな人なのですか?」
「善良な人間です。私などとは程遠い」
「善良、ですか。ならば謝りに行くのは間違っていないと思いますよ」
「どうしてですか?」
「善良な人同士は惹かれ合うのです。あなたは自分で気づいていないかもしれませんが、善良な心を持っていますよ」
「まさか」
エリスは首を振った。欠陥品だってわかってる。
でも自分の声を聞いた。謝りたいと。そう言ったじゃないか。
「謝る権利、ありますかね?神父様」
「権利はいりません。心の赴くがままに」
神父はまたも微笑した。
エリスはその表情に背中を押された気がした。
謝ってもいいのだろうか。きっと、いいのだろう。
フォトア・ブリッジに謝らなければならない。
エリスは不思議な気持ちで教会を出た。何かに包まれているような気分だ。
気分が変わった。足取りが軽く感じられた。石橋を歩いていくエリス。上を見れば太陽が輝いている。緑も豊かだ。
足取りが軽いと同時にエリスは贖罪のことを考えていた。フォトアのことだ。
酷いことを言ってしまった。酷い態度を取ってしまった。フォトアだけに限らず誰にでも。自分にとって得になることだけを選び、得になる人間を選び、それ以外の人間を見下す。それがエリス・クラーレだったのだ。
自分の心の声に向き合ったエリス。
どうすればいいだろう。ひどい態度を取ってしまい申し訳なかったと伝えるべきだろうか。しかし、もしかするとそれは自分が楽になりたいだけかもしれない。謝ることで自分の気持ちを整理したいだけなのかもしれない。それは相手のことを思いやっているというよりは自分のことを考えての行動だ。なにか間違っている気がする。
相手の立場にならなければならない。フォトアは今幸せだろう。エインセに裏切られたとはいえツヴァイ・ローレンという男がいる。
姿を見せるだけで不快に思うのではないだろうか?エリスはそう思った。自分だったら顔も見たくない人間が目の前に現れるのは御免だからだ。
自分の謝りたいというエゴを押し通してはいけない。感情のまま動けばそれは悪い結果にも繋がるだろう。フォトアに謝ることは出来ないのではないか。今彼女は幸せなのだから。謝りたいという気持ちを押し殺して関わらないことがフォトアのためではないのか。
エリスは立ち止まってしまった。結局何も出来ないのだろうか。どうにかしてフォトアの様子だけでも調べられないだろうか。
調べる……。唯一の手段がある。ツヴァイ・ローレンに再び会いにいくことだ。確かにツヴァイには屈辱を受けた。しかしそれは当然の天罰だったのだ。今のエリスにはわかった。ツヴァイならフォトアのことはよくわかるだろう。会わせてもらえるかどうかはわからないが。
フォトアに会いに行く前にツヴァイから話を聞こうとエリスは決断した。
しかしその前にやることをエリスは見つけていた。
それは何か?
料理だ。エリスが侮辱したフォトアの特技。実際に自分が試してみないでどうやって謝ることが出来るだろうか?エリスは全て使用人に料理を任せてきた。
自分で試す時が来たのだ。そうでなければ謝れない。まだ作り始めてもいないが料理はなかなか手際が重要だなとエリスは頭の中で思った。
きっと大変な体験が待っている。
それでも償わなければ。
あれだけの仕打ちに対し言葉だけの謝罪など嘘だ。
自分自身が苦労するときがきたのだ。
エリスは馬車が通りかかるのを石段で待った。市場へ向かわなければならない。
誰に馬鹿にされたって構わない。
絶対に償いをする。それが今の自分の精一杯だから。




