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こんな俺でも

作者: 山口友斗

風呂敷を広げ、弁当箱を開ける。鮭の塩焼きとウインナー、卵焼き、冷凍のシュウマイ、ほうれん草とコーンのバター炒め。悪くないメンツだ。

ひとりで淡々と弁当を食べる。周りを見ると、みんな仲の良い人どうしで集まって、楽しそうだ。

みんなからの冷ややかな視線を感じる。アイツ、一緒に弁当食べる友達もいないんだ。そう思われている気がしてならない。

友達がいない奴だと思われたくない。でも実際、友達はいない。友達がいないということは、誰からも必要とされていないことを意味している。俺はここに存在するだけでお荷物なんだと思う。

それでも、俺は高校生だ。高校生である以上、嫌でもこの「教室」という場所に居なければいけない。いっそのこと、不登校になれたら楽なんだが。でも、不登校になったら親に「なんで学校行きたくないの?」「嫌なことあったの?」と根掘り葉掘り聞かれることだろう。それは面倒だ。

「アイツまじキモいよねー」

女子のグループが誰かの悪口で盛り上がっている。きっと、俺のことを言ってるんじゃないか。周りから悪口が聞こえる度にそう疑ってしまう。疑ってしまった以上、誰のことを言っているのか確かめなきゃ気が済まない。だからずっと密かに耳を傾け、注意深くその会話を聞いている。俺の悪口ではないということを確認しなければ、安心できない。高校生活はすごく疲れる。

かと言って、家に帰れば休まるという訳でもない。

家に帰れば、うるさい母親が待っている。俺がまだ小さい頃に両親は離婚し、母さんが女手一つで俺を育てた。それに関しては感謝しているが、一人息子の俺が余程心配なのか、少しでも帰りが遅くなると「誰とどこ行ってたの!?」と食ってかかる勢いで問い詰めてくる。

勉強に関しても、俺のことをちゃんと育てなければいけないという思いなのか知らないが、ガミガミ口を出してくる。勉強方法に関しては絶対に俺の方が理論的に正しい。母さんはろくに勉強なんてできない。そのくせして、よくもあんなに口を出せるものだな。

そんなことを考えながら、ひとりで黙々とやり過ごす毎日だ。卒業まであと1年半以上もある。早く開放されたい。


次の日。予報通り、雨が降っている。今日はチャリは無理だな。バスで学校に行こう。

バスを待っていると、中年のおじさんがため息をつきながらバス停にやって来た。この人もバスに乗るんだな。

この人は今、俺のことをどう思っているんだろう。天然パーマの長髪にメガネをかけた俺を見て、「こいつオタクなのかな」ってバカにしてるんじゃないか。きっとそうだ。間違いない。

遠くにバスが見えた。もう間もなく、このバス停に着こうとしている。

今日は結構大雨だし、人が多いかな。もし座れなかったら、どこに立っていたらいいかな。前の方かな。いや、でも前の方に立っていたら、降りる人の邪魔になるかもしれない。ここは後ろに立つべきか。いや、そしたら「こいつなんで後ろに来たの?頭おかしいんじゃないの?」と思われちゃうかな。

頭の中を幾多の心配事が駆け巡ったが、いざバスに乗るとそこまで混んでいなかった。ああ、座れてよかった。


「今日は雨のため、体育は中止で保健の授業になります」

先生がそう言うと、教室はため息に包まれた。このクラスの男子はみんな活発だな。他の何より体育の授業が楽しみっていう感じだ。

俺はむしろ逆。体育をやってて良いことなんて1つもない。球技はバスケが少しできるくらいで、それ以外は何も出来ない。チームを決めるときは必ず最後まで余る。ただでさえ俺は邪魔者なのに、体育のときはそれがさらに際立つ。体育のときの俺なんて、お荷物以外の何物でもない。

それに比べて、保健の授業は楽だ。真面目に話聞いてるフリをしていれば終わるんだから。俺はみんなに悟られないように、心の中で体育が中止になったことを喜んだ。

保健の授業が始まった。もうすぐテストだよな。今度のテストも恐らく、西山先生が作るはずだ。西山先生はだいたい、教科書の太字の部分をそのままテストに出す。そこさえ押さえておけば、80点は堅い。

授業を聞いているフリをして、テストのために教科書の太字をインプットする。それが俺にとっての、保健の時間だ。

「おい!うるさい!私語をやめろ!」

西山先生の怒号が響く。あんなモロ体育会系のゴリラみたいな先生の授業でよく私語ができたもんだ。尊敬する。正直、こいつらのおかげで俺は得をしている気がする。大人しく真面目に座ってるだけで相対的に評価が上がるんだから。




昨日の雨が嘘のように、今日はカラッとした青空が広がっている。いよいよ夏に差し掛かってきたな。

今日はチャリで学校に行ける。朝飯を食べ、制服に着替える。着替える時間は意外と億劫だ。「ああ、今日も学校に行かなきゃいけないんだよな…」と再認識してしまう。

そんな暗い気分のまま白いスニーカーを履き、家を出る。チャリに跨ると、より暗い気分になる。誰か学校を爆破してくれないかな…そんな有り得ないことを、少し本気で期待している自分がいる。

昨日の雨のせいなのか湿度が高く、蒸し暑い。気がつくと、じっとりとした汗がワイシャツを濡らしていた。

しまった、リュックを背負ったままチャリに乗るんじゃなかった。たぶん、リュックを下ろせば背中と肩にリュック汗の跡がついているはずだ。

ダサいよな、リュック汗。みんなにどう思われるかな。「あいつリュック背負ったままチャリ漕いだの?馬鹿だろw」と思われるのかな。まあ、まだ学校までは距離があるから、今リュックを下ろせばリュック汗は乾くかもしれない。でも、乾いたところで、今度は汗臭さが気になってしまう。「何あの汗臭い奴」ってみんなに引かれるのも嫌だな。どっちみち、俺は嫌われてしまうんだ。

学校に近づけば近づくほど、どんどん気持ちが暗くなっていった。


学校に着くと、下駄箱にちょうど同じクラスの木村が居た。木村はこんなクソど陰キャの俺にも、明るく話しかけてくれる。

「おお!おはよう、沖野くん!」

「あ、おはよう。」

木村とは正反対の、暗く冷たい挨拶を返してしまった。誤解されたかな。決して木村のことが嫌いなわけではないんだけど。

「沖野くん、今日はチャリで来たんだ?」

「うん、チャリだね。」

「沖野くん、こないだヴィレヴァンにおったでしょ?」

「え、ああ、居たね。」

なんかちょっと、恥ずかしかった。こんな陰キャが調子に乗ってイケてる雑貨屋さんなんかに居るところを、木村に見られてたとは。

俺はもう靴を履き替えた。木村はまだだ。これは待っておいた方が良いのかな。一緒に教室まで行く気かな。それとも、そうじゃないのかな。そうじゃないのに待ってたら、「こいつ何俺のこと待ってんだよ」って思われるかな。どうしたらいいんだ?

俺が歩き出す素振りを見せると、木村は「待って航ちゃん!一緒に教室まで行こ!」と俺を呼び止めた。急に馴れ馴れしく航ちゃんと呼んできたのは気になったが、呼び止めてくれて嬉しかった。

木村と横に並んで教室まで歩く。隣に人がいることが誇らしい。まるで「俺にだって友達がいるんだぞ」とみんなに知らしめているかのような気分だ。

「沖野くん、ヴィレヴァンで何買ったん?」

「え、ああ、この腕時計」

「へぇー!沖野くんセンスいいじゃん!」

「え?へへ笑」

センスを褒められて嬉しかったが、なんでまた呼び方が沖野くんに戻ったんだろう。まあ、いいか。

木村が少し鼻をすすった。なんで今鼻をすすったんだろう。風邪気味なのかな?いや、ひょっとしたら俺が汗臭いからかな。やっぱ俺、汗臭いよな。こんなに汗かいてんだから。

教室に着くまで他愛のない会話が続いたが、俺は自分が汗臭いのかどうかが気になって、ひとつも会話に集中できなかった。

そうこうしていると、教室についた。俺は静かにちょこんと席につく。木村は自分の席に荷物を置き、教室の後方で集まって話している陽キャのグループに合流する。

木村は陽の世界に居る。俺はポツンと陰の世界に居る。本来陽の世界で陽の人間とだけつるんでいればいいはずの木村が、陰の世界に居る自分とさっきまでつるんでくれていた。なんだか、不思議な気持ちになる。

でも、教室に着くや否や、俺を置いて本来属している陽のグループに合流した。やっぱり、俺を友達だなんて思ってくれてはいないよな。

結局、俺のことを本気で友達だと思ってくれる人はいない。俺に話しかけてくれるのは、友達が多い奴。つまり、片手間で俺と接する人ばかりだ。だから、俺に真の友達はいない。この高校に、友達なんてひとりもいないのだ。

ふと、さっきの「航ちゃん」呼びが気になってきた。もしかして木村は「航ちゃん」と呼ぶことで、俺に親しみを持って欲しかったんじゃないか。俺がこうやって暗い感じで話すから、もっとラフに話して欲しいと思って唐突に「航ちゃん」と呼んだのかな。

だとしたら申し訳ない。俺は自信が無さすぎる。自分なんて嫌われ者だとばかり思っているから、木村みたいな優しい奴と対等に喋ることすら、申し訳ないと思ってしまう。だから、ラフに話すことはできない。

決して木村のことが嫌いなわけじゃないのに、なんか暗く冷たい感じで接してしまう。コミュニケーション能力があまりにも無い自分のことが、嫌いで嫌いで仕方がない。

今、教室の後方で木村と話してる奴らは、みんなコミュニケーション能力が高い。まるでひな壇のお笑い芸人のように、面白い話をいっぱいできる。やっぱり、人から好かれるのはああいう奴らなんだ。俺みたいな、面白い話ができない奴に友達はできない。コミュ力ある奴らが憎い。もっと言うと、コミュ力ある奴しか評価されないこの学校社会が憎い。




「はい、前回の続きからやります。教科書54ページを開いてください」

辺りを見渡すと、教科書を開いた人数は約半分といったところか。山名先生の授業は本当につまらない。ほとんどの人が寝てしまい、誰も聞いてない中、先生が永遠に1人でしゃべり続ける。それが、山名先生の数Ⅱだ。

俺は寝ない。こう見えて意外と規則正しい生活をしている。学校で眠くなることはほとんど無く、だいたい内職をするか、考え事をしながらやり過ごしている。

今日はテストが近いので、テスト対策に時間を割こう。数学で点数を取るには、ワークの答えを見て、途中式の意味を解明していくのが手っ取り早い。この式はどこから導き出されるのか。どういう手順で解いていくのか。それを、ワークの答えと教科書を照らし合わせながら順番に解明していく。そして、ある程度解明出来たら問題演習をしていく。それによって、数学が自分のものになっていく。

この「自分のものになっていく」という感覚を手に入れたのは中3のときだ。それ以降、テストに対して、まるでゲームをクリアしていくかのような意識を持っている。

教科書やワークとのにらめっこに没頭していると、チャイムが鳴った。え、もう終わりか。早いな。




今日も無事、学校が終わった。下駄箱に向かうと、いつもより人が多いように感じた。そうか、テスト週間だからみんな部活をやらずに早く帰るんだ。俺ももう、帰宅部になってから1年くらい経つのか。帰宅部に、テスト週間で部活が無くなるという喜びは無い。部活が無いからと言って、どこかに遊びにいくわけでもないし。やはりテスト週間は、自分の部屋で漫画を読む。それに尽きる。

最近ハマっている漫画は、殺人犯が主人公の話だ。殺してはいけないという理性と戦いながらも、何度も殺人を繰り返してしまう。

その主人公の気持ちが、俺にはよくわかる。俺も、死んで欲しい人がたくさんいる。手を出したくなることもしばしばある。だけど、それはやってはいけない。俺の心の中では、殺意と理性の戦いが日々繰り広げられているのだ。

例えば、こういう漫画を買って帰ると、母さんは「そんなのばかり読んでると頭おかしくなるわよ」とか言ってくる。そのとき、俺の心の中で一瞬殺意が芽生え、すぐに理性がその芽を摘む。別に殺人がテーマの漫画を読んだからといって、本当に人を殺すわけではないんだけどな。でも、その母さんの言っているような理論と同じ意見の人は案外、多い。変な漫画を読んだり変な音楽を聴いたりすると、変な人になる。そう本気で信じている人が、世の中の半数以上を占めているのだ。だから俺はこの漫画を学校で読むことはできない。これを読んでいるのを見られることで、変な人だと思われるかもしれないからだ。

ふと時計を見ると、もう夜の8時を回っている。面倒ではあるが、仕方なく晩飯と風呂を済ませよう。風呂から上がって時計を見ると、ちょうど9時半。よし、まだ漫画を読む時間はあるな。俺は再び、部屋に閉じ籠って漫画に没頭した。

漫画を読む時間は非常に重要だ。唯一、俺が俺で居られる時間かもしれない。一歩家から出れば、人に嫌われないための戦いが始まる。周りの人にどう見られているかが気になり、生きた心地がしない。家の部屋で誰にも邪魔されず、ひとりで好きなことをする。そういう時間が無ければたぶん、俺は生きていけない。



テスト前日。明日のテストは保健と数Ⅱ、生物基礎だ。数Ⅱは自信がある。授業中にある程度、テスト対策はできたと思う。保健も滑りようがない。今日は生物を重点的にやるべきだろう。というか、ほぼ手つかずだからやらないとヤバい。ひとまず、教科書をしっかり読んでワークで問題演習。家に帰ってから4~5時間勉強すればたぶん、なんとかなるだろう。よし、気合い入れてやろう。

そんなことを考えながら帰宅したものの、家に帰るなり結局漫画を手に取ってしまった。やらなきゃいけないのはわかっている。だけど、生物の勉強法が全くわからない。だから、絶望的にやる気が起きない。

まあ、まだ大丈夫だ。1時間くらい漫画を読んで、晩飯を食べてからでも勉強する時間はある。

漫画を読みながらときどき、思い出したように時計を見る。

まだ20分しか経っていない。まだ大丈夫だ。

まだ40分しか経っていない。まだ大丈夫だ。

50分を過ぎたあたりから、だんだんと憂鬱な気分になってくる。もうそろそろ晩飯を食べなきゃいけない。そこから風呂に入って、その後は勉強が待っている。

「勉強しなければいけない」という事実がある。そのリミットが着実に迫っている。

俺は憂鬱な気分のまま漫画を置き、食卓へと向かった。

ふと我に返る。自分は今、何と戦っているんだろう。単純に、漫画を我慢して勉強をすればいい。それだけの話だ。なんでそれだけのことができないんだろう。俺は絶望的に努力ができない。絶望的にダメな人間だな。





「はい、今日はテストを返します」

今日は珍しく、みんな山名先生の話を聞いている。

数Ⅱは自信がある。早く解き終わって見直しもしたが、ミスはなかったはずだ。

帰ってきたテストを見て、唖然とした。69点。

何故なんだろう。俺は周りの誰よりも真剣に山名先生の解説に耳を傾けた。

どうやら、根本的に自分の解釈が間違っている範囲があったようだ。ワークの答えを見て自分なりに解釈したつもりだったが、それは大間違いだった。

「数Ⅱはいける」と過信した時点でダメだった。もう1度問題演習をして、自分の解釈が本当に正しいのかどうかを確かめなければいけなかった。漫画を読む時間を1時間でも削っていれば、問題演習をする時間は確保できた。

でも、それができない。そうやって後悔するのは何回目だろう。

ただ一方で、周りの人よりは点数が高い。勉強の効率はたぶん、他の人より良いんだと思う。そういう意味では、若干の優越感というものが湧いてくる。

並の人間は、これを頭が良い・悪いという能力の問題だと思っている。頭が良い人は点数が高く、頭が悪い人は点数が低い、と。でも、そんな単純なものではない。

俺は勉強はできるが、人付き合いは苦手で、運動もできない。木村は俺とは逆だ。運動神経抜群で性格も良く、誰からも好かれているが、勉強はいっそ、できやしない。

人の得意分野っていうのは、小さい頃の経験で決まると思っている。小さい頃に運動をやった人は運動が得意だし、小さい頃に人に囲まれていれば人付き合いができるようになる。

俺は、そうではなかった。なんせ、ジャングルジムに登るだけで「危ないからやめなさい!」と騒ぎ立てるような母親に育てられた。小学生のとき、友達とこっそりザリガニを捕まえて遊んだことがあった。家に帰ると、濡れた靴を見て「あんた何してたの!」と詰められた。正直に友達と側溝でザリガニを捕っていたと言うと、思い切り頬をぶたれた。2発も3発もぶたれた後、押し入れの中に閉じ込められた。今となってはそれが異常なことだとわかるが、当時の俺は、自分が悪いことをしたのだからそのくらいの制裁は受けなきゃいけないんだ、と信じて疑わなかった。次第に、友達と遊ぶこと自体に恐怖を覚えるようになった。

そんな母親だったが、テストで100点を取ると必ず「偉いねえ、いい子だねえ」と言って頭を撫でてくれた。だから俺は、勉強を必死で頑張った。絶対に100点を取り続けようと心に決めた。そういう小学校時代を過ごしたものだから、俺は運動や人間関係は苦手で、勉強は得意なタイプになったんだと思う。

「おう、沖野くん、何点だった?」

木村が俺のテストをのぞいてくる。

「69か…まあまあ高いね!」

そう言って木村は、笑顔でこちらを見る。

木村が笑うから、こちらも自然と笑顔になる。木村が持ってるこのパワーは何なんだろう。なんで木村と居たら気持ちが晴れるんだろう。

俺もそういう人間になりたかったな。こんな陰キャになりたくなかった。




「あら〜航ちゃん、久しぶりね〜」

そう言っておばあちゃんがこちらに近づいてくる。今日はおばあちゃんの誕生日。お祝いのために、母さんがこの洋食屋さんを予約した。

店に入り、席に着く。

「航ちゃん、元気にしてた?」

「うん、まあね」

「そう、それなら良かったわ」

おばあちゃんは嬉しそうにうっすらと笑顔を浮かべた。

「航太は最近本当に頑張ってるのよ」

いつも嫌味ばっかり言ってるくせに、一歩外を出るとこうやって良い母親のフリして俺を褒めてくる。

「偉いわねぇ」

おばあちゃんの顔がさらに嬉しそうになった。おばあちゃんが喜んでくれるなら、まあいいか。

「そう、偉いのよ。いつも部屋で勉強頑張ってるもんね?」

「あぁ、うん」

いや、本当は漫画読んでるんだけどね。テストの点数を取れるおかげで、勉強していないことがバレていない。

「そうねそうね、お勉強は大切だからねぇ」

「ははは」

一応愛想笑いしておいたが、俺は勉強が大切でないことをわかっている。結局、社会に出て戦力になるのは木村みたいな奴だ。勉強だけできても戦力にはなれない。

こういう「勉強重要論」が俺の価値を勝手に上げてくれているが、所詮勉強ができるだけのポンコツでしかない。

「航ちゃんはお勉強頑張ってて、お母さんの言うこともちゃんと聞くし、おばあちゃんは本当に嬉しいわ」

ツッコミたくなるポイントが何個かあるが、おばあちゃんの思う理想の沖野航太を演じられているのだとしたら、それは本望だ。


家に帰ってテレビをつけると、見覚えのある景色が映っていた。近所のヴィレヴァンだ。刃物を持った男が人質をとって立てこもっているとか。食事中、サイレン音が気にはなっていたが、まさかそんなことが起きているとは。

「物騒な世の中になったわね。あんたも気をつけんさいよ」

母さんはそう言って、心配そうな目で俺を見た。なんだかんだで、俺のことが心配なんだろうな。心配だからこそ、ウザいことを言ってくる。そう思うとちょっと、許せてくる。

しかし、こういう事件の犯人はどういう心理なんだろう。目的は何なんだろうな。

俺にはよくわかんないけど、少しだけこの犯人に憧れている自分がいる。自分も何か、こんなことをやってみたいという気持ちが確かに存在している。そんな自分の異常さを実感するたびに、俺の陰キャ度は増していくのだ。


「ヴィレヴァンで殺人事件なんてヤバいな」

「こんな近所でそんなことあるんやね」

学校に行くと、例の事件の話題でもちきりだ。

結局犯人は、人質を殺してしまった。何故だろう。何があったんだろう。

凡人はこういうニュースを見て、怖いねー、ヤバいねー、だけで終わりだ。でも俺は、そうなってしまった背景に非常に興味がある。

何か訴えたいことがあったんだろう。それが何なのかはわからないが、俺は犯人に同情するし、なんなら少しだけ憧れの気持ちすらある。

…ああ、また異常な自分が現れてしまった。ここは学校だ。そんな自分をさらけ出すわけにはいかない。本当の自分を隠そうとする度、俺はどんどん陰キャが加速していき、どんどん自分の中の異常さが成長していく。

自分で自分のことが怖くなる。






「じゃあ、クジでいい?」

「うぇーい!」

このクラスは本当に仲が良いなぁ、とつくづく思う。修学旅行のホテルの部屋のメンバー決めを、クジでやると言うのだ。

その運命のクジが、俺のところにも回ってきた。

…いや、俺にとっちゃ運命でも何でもない。クラスに友達なんていないんだから、誰となったって一緒だ。1番左端にチャチャッと名前を書き、次の人へ紙を回した。

修学旅行なんて要らない。行って何になるって言うのか。思い出にもならないし、学びにもならない。1つも良いことなんてない。

でもきっと、こういうこと言ってたらひねくれ者だと思われるんだろうな。俺は、ひねくれた心を胸の奥にそっとしまった。


修学旅行当日。駅に着くと、みんなそれぞれ友達と合流して楽しそうに話している。みんなの高揚感がひしひしと伝わってくる。羨ましいや。

俺はどうすりゃいいと言うのか。合流する友達なんて居ない。

ふと見ると、ちょうど目の前に柱がある。その柱にもたれかかり、俺はひとりで下を向いたままやり過ごした。

そうこうしているともう、出発の時間だ。新幹線も億劫だな。東京に着くまで、何もやることがない。まぁ、1人で座って下向いてりゃいいだけだ。

なんか最近、「〇〇してりゃいいか」と思うことが増えた気がするな。そう思い込むことで、自分を守っているのだ。

でも、心の隙間から、病んでいるもう1人の自分が顔を覗かせるのだ。そいつを隠すことで俺はなんとか生きているんだけど、正直限界を感じる瞬間もある。

ふと、車窓に映った自分の顔が目に入る。なんか悲しそうな顔に見えた。母さんやクラスのみんなから、この顔はどういう風に映っているのだろう。楽しそうに映っているのかな。

はあ、なんで修学旅行なんか行かなきゃいけないんだろうな。きっと東京に着いた頃にはみんなのテンションが最高潮になり、楽しそうにはしゃぐことだろう。そうなると相対的に、俺の暗さが浮き彫りになってしまう。みんなが楽しくなればなるほど、楽しくない自分が浮き彫りになり、心の中の病んでいる自分に支配されそうになる。そのことが怖くてたまらない。


原宿探索。本当は誰か誘って、楽しく探索したかった。ファッションに少しだけ興味がある。だから、友達と一緒にいろんな店に行って、服をいっぱい買いたかった。

でも、俺に誰かを誘う勇気はなかった。もし俺に誘われて相手が嫌だったらどうしよう。そう考えたら、誰にも声をかけられない。

孤独の竹下通り。こんなにつまらないものはない。俺はテキトーに見つけた店にそそくさと入り、2着の服を購入した。これは、親に対して修学旅行楽しかったよと言うためのアイテムだ。高校生活が楽しいという設定の俺が原宿で何も買って帰らないのは不自然だろう。

これを買った時点で、ミッション達成だ。残り時間は3時間。みんなはきっと、いろんな店に行って服を買ったり、クレープやタピオカを買ったりしているんだろう。ミッションを達成した俺は原宿駅のトイレに逃げ込んだ。洋式便座に座り、息を潜めてただ、時間が過ぎるのを待つだけだ。1人でいるところを見られたくないからな。


3時間が過ぎ、バスでホテルへと向かう。車窓の外には、美しい東京の街。この美しさが、周りのみんなのテンションを上げさせ、俺の暗さを際立たせる。東京は憎い街だ。

ホテルは3人部屋。同じ部屋になったメンバーは俺、神山、石井。2人とも、今までほとんど話したことがない。

神山と石井は、普段からよく話している仲の良い2人だ。部屋に入って、2人で楽しそうに話している。俺はそこに存在するだけで邪魔な気がしてならない。振る舞い方がわからず、すごくしんどい。

神山がシャワーを浴びる。その間、石井と2人きり。俺はスマホに、石井はテレビの歌番組に集中する。

…いや、正確に言うと、集中するふりをしているだけだ。お互いに存在を意識してしまうと気まずいから、画面から目を離さないようにしている。

シャワーの音が止まった。頼む神山、早く出てきてくれ。何の意味もないが、スマホのメモ帳に「出てこい神山」と入力しては消し、入力しては消し、を繰り返す。こういう意味の無い行為が、少しだけ精神を安定させてくれる。

なかなか出てこないな。焦りとともにイライラが募ってくる。テレビから聴こえる乃木坂の新曲が耳障りだ。

もう3分は経っているぞ。そんなに時間かけて、どこを拭いてるんだろう。チャチャッと拭いて早く出てこいよ。

ガチャ。やっと出てきた。平気で下着1枚で出てこれるのが羨ましいな。俺は体育の着替えで裸になるのは平気なのに、こういう時に裸で人前に出るのは何故か恥ずかしく感じてしまう。

次は石井がシャワーに入る。そうか、今度は神山と2人きりになるんだ。なんで神山が帰ってきて安心してたんだろう。俺は再び、スマホの画面に集中した。




ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー




白いスニーカーを履き、家を出る。チャリに跨りながら今日も、誰か学校を爆破してくれないかな、と心の中で祈った。

今日から高3に突入した。高校生活は長い。まだあと1年あるのかと思うと、吐き気がする。

靴箱、階段、廊下、教室。どこを探したって、居場所はない。辺りを見渡すと、敵しかいない。

いや、居場所がないと言うよりはきっと、居場所を作ることができていないのだろう。あまりにも俺のコミュニケーション能力が無さすぎる。

実を言うと少しだけ、学年が変わったことを機に友達になってくれる人がいるんじゃないかと期待していた。でも、無理だな。俺のコミュニケーション能力では友達なんて作れない。

もう嫌だ。人生失敗だ。誰か殺してくれ。できれば、痛くないようにね。


「はい、教科書を開いてください」

はぁ、3年生になっても数学は山名先生のままだ。学年が変わってばかりでもっとやる気がみなぎってもいいようなものだが、やはりみんな寝ている。

「ほら!寝てないで起きなさい!今から数Ⅰ、数Ⅱの復習をやるぞ」

珍しく山名先生が寝ている人たちを起こす。先生として当たり前のことをやってるだけなのに、なんか腹が立つんだよな。山名ごときが偉そうに生徒起こしてんじゃねーよ。

山名先生は無言でプリントを配る。

プリントを見ると、数Ⅰ、数Ⅱの復習問題がズラリと並んでいる。解き方を多少忘れてはいるが、じっくり考えたら解けそうな感じだ。

因数分解は余裕。二次関数も全然いける。三角比か…怪しいな。

なんか、せめて問題解くのに使う公式くらいはプリントに書いておいて欲しい。ノーヒントすぎる。

しばらくプリントとにらめっこをしていると、徐々に教室が騒がしくなってきた。たぶんみんな、ノーヒントすぎて解けないから諦めて私語をし始めたんだな。わかる、わかるよ。普段は私語してる奴らを見下してるけど、これに関しては山名が悪いと思う。

「ねぇ、ちょっと教えてくれない?」

急に話しかけられてビックリした。声の主は、隣の席の女子の佐々木さんだった。ちゃんと話すのは初めてだ。

「この問題が全然わかんないんだけど…」

え、わからない問題を俺に聞いてくれてるの?高校に来てから初めて、人に頼られた気がするんだけど…

急に女子から話しかけられてアガっているのがバレたら恥ずかしいから、できるだけ冷静に答えなきゃな。

「あぁ、それはまず、左右両方の式を2乗するんだよ」

カッコつけて答えたけど、心臓はバクバクだ。この俺が女子と会話できるだなんて夢にも思っていなかった。最初は、高校に上がれば何とでもなるだろうと思っていたけど、友達なんてできやしなかった。そんな俺を頼ってくれるのが嬉しい。

「おぉ、すごい!やっぱ沖野くんって天才じゃん!」

興奮気味にそう言ってくる佐々木さんがとても可愛く見えた。今までは人に褒めてもらっても、どうせお世辞だろうと思っていた。でも佐々木さんの言葉は自然に、そのままの意味で受け取ることができた。

天才と言われたことよりも、「やっぱ」と言ってくれることが嬉しい。今まで自分が頑張ってきたことを見てくれていたのかな。今までのしんどかったことが全部、報われた。




それからというもの、俺は佐々木さんを異性として意識せざるを得なくなった。朝学校に着いたら、佐々木さんが居るかどうかをまず確認する。朝のホームルームでは、斜め前の席の佐々木さんの仕草を横目でチェックする。授業中も休憩時間も、俺は常に佐々木さんを意識している。自分で自分のことが気持ち悪い。

でも、それ以降特に佐々木さんと関わることはなかった。毎日密かに、また佐々木さんが話しかけてくれるんじゃないかと期待していたが、その期待は裏切られ続けた。

夜、風呂の中で考える。佐々木さんにとって、俺って何なんだろう。みんなにとって、俺って何なんだろう。俺が居ることの意味って、何処にあるのかな。あのとき佐々木さんが頼ってくれた気がして嬉しかったけど、佐々木さんは誰でも良かったのかな。俺だから頼ってくれたんじゃなくて、たまたま近くにいたのが俺だったってだけなのか。やっぱり俺って、居ても居なくてもどっちでも良いような人間なんだろうな。いや、むしろ陰キャすぎてクラスの中で、扱いに困る奴みたいな認識になってるから、居ない方がマシなんじゃないか。こうやってごちゃごちゃ考え出すと、簡単には抜け出せなくなってしまう。佐々木さんを意識してからというもの、俺はこの“ごちゃごちゃ”に支配されるようになってしまった。


「あ、沖野くんおはよう!」

声の主は木村だった。久しぶりに靴箱で遭遇した。靴を履き替え、一緒に教室へと向かう。

「沖野くんなんか、最近良いことあった?」

「え?なんで?」

「いや、なんか最近沖野くん、かわいいじゃん」

「え、どうゆうことw」

「なんて言うのかな、人間味があるというか…今まで見たことない表情とか出してるから、かわいく見えるよ」

かわいいの意味はよくわからない。でも、自分では意識してなかったけど周りから見ても変化があるということだろう。もしかしたら今まで自分の中に閉じ込めていた感情が、佐々木さんとの一件で漏れていたのかもしれない。

「え、もしかして彼女とかできたん?」

「いやいや、別にそんなんじゃ…」

「じゃあ好きな人ができたとか?」

何て答えたら良いんだろう。俺は佐々木さんのことが好きなんだろうか。今までまともな人付き合いをして無さすぎて、これを「好き」と言うのかどうか、よくわからない。

「あ、図星だな?笑」

木村にそう言われてドキッとしてる自分がいる。

「沖野くんさぁ、進路とかもう決めてるん?」

「え、あ、一応。」

無難に、市内の理系の私立大学に行こうと決めている。夢とか特にないから、無難な進路に行くのが1番良い。

「じゃあ、勉強とかもうしてるんだ?」

「いや、全然」

ぶっちゃけ、勉強しなくても充分合格圏内だ。だから勉強をするつもりはない。

「だったらさぁ、今度遊ぼうや。勉強してないんだったら時間あるでしょ?部活もやってないし」

「え、あ、まぁ…」




「あ、沖野くん!お待たせ!」

黄色のシャツが眩しい。イケイケの木村が小走りでやって来た。俺の全身黒のコーディネートとは対照的だ。

バスに揺られること30分。こうして友達と市の中心部にやって来るのは初めてだ。

街には自分たちと同世代の若者がたくさんいる。みんな楽しそうに見えるし、楽しくない人生を送っている自分が蔑まれているんじゃないかと思ってしまう。でも、木村といるときの自分はなんか、いつものスーパーネガティブな自分とは少し違うような気がする。

初めてボウリングに来た。へぇ、靴を借りるシステムなのか。知らなかった。

玉も初めて持つ。結構重いものなんだな。これを投げてピンを倒すわけか。

「え、お前それ、15ポンドじゃん?大丈夫か?」

「え?何15ポンドって…」

「いやいや、ここに15って書いてあるだろ?この数字が大きいほど、玉が重いんよ。沖野くんは10とかで良いんじゃない?」

へー。勉強になるなぁ。


ボウリングも初めてだったが、大きな服屋にも初めて来た。ファッションには少しだけ興味があるが、一人ではなかなか入りづらい。

「沖野くん、服って何着持ってるん?」

春に着れるやつは4着くらいか。母が勝手に買ってきた黒いのが2着と、修学旅行の原宿で買ったやつが2着。

「これとかどう?」

木村はライトブルーの爽やかなシャツを俺にあて、嬉しそうに勧めてくる。正直、自分に似合うのかどうかはわからない。だけど、こういう明るい服への憧れはずっとあった。

「に、似合うかな…」

「似合うと思うよ、マジで!」

その木村の言葉に背中を押された。俺は、ずっと持てずにいた明るい服を買うという勇気を持つことができた。

店員さんにタグを外してもらい、ライトブルーに着替えた。そして再び、街に出る。

明るい服を着ることで、木村と同等の人間になれているような気がした。

着る服で気持ちってこんなに変わるものなんだな。ありのままの自分を表現できているという喜びを今、人生で初めて感じている。



気がつけば空が薄暗くなっていた。

バスに揺られること30分。地元に帰ってきた俺たちは、コンビニに入った。木村は慣れた手つきで缶チューハイを数本買い物かごに入れ、レジへと向かう。

画面に「20歳以上ですか?」と表示され、木村が「はい」をタップする。へぇ、これでお酒が買えるのか。

レジ袋をぶら下げて、ポツポツと街灯がつき始めた歩道を歩いて行く。

「沖野くん、今日どうだった?」

「楽しかった」

「マジで?それは良かった。楽しんでくれるか、ちょっと不安だったし」

「え、そうなの」

きっと、俺が陰キャ過ぎるがために、そういう心配をしなきゃいけないんだろう。そういう心配をさせるようじゃダメだな。もう少し、ポジティブに生きなきゃいけないな。

初めて木村の家に来た。なんだか、薄らといい匂いがする。部屋も意外と綺麗だ。

「沖野くん、酒飲んだことある?」

当然、ない。

「飲みすぎんようにね。じゃあ、乾杯しよっか」

缶チューハイを開ける。プシュッという音が心地いい。少し恐れながら、缶チューハイを口にする。なんだ、ただのジュースじゃん。

「いやあ、でも嬉しいわ。沖野くんとこうやってガッツリ話せるって」

「え、あ、あのさ、なんで俺なんかを遊びに誘ってくれたの?」

「え?だって友達でしょ?」

「あ、ま、まぁ…」

「なんだよ、その感じ(笑)」

「いやぁ、だって、俺より仲良い人いっぱいいるでしょ?」

「ははは、確かに仲良い奴はいっぱいいる。でも、俺は沖野くんと話すとき楽しいし、面白いやつだなぁとずっと思ってたから、1回遊びたいなと思ってたんだよ」

「あ、あぁ。へへ(笑)」

「沖野くんってさ、最初バスケ部だったよね?」

「あぁ、そうだね」

「なんで辞めたん?」

「うーん…辛かったから…かな」

「それはどういう辛さ?練習がキツい?」

「というか、自分がダメすぎて、チームに迷惑かけてるのが辛かった」

「え、中学のときもバスケやってたんだよね?」

「中学のときは正直、遊びだった。周りにガチな人居なかったし」

「あぁなるほど、それが高校ではガチになっちゃったから、ついていけなかったんだ」

「こんな本気でやってる人たちの中に、俺が居るのは違うかなって」

「それ、沖野くんは悔しかったんじゃない?辞めたら負け、というか」

「あぁ、それはあった。それがあったから、半年ズルズル続けちゃったんだよねぇ」

「めっちゃわかるわ。俺もそうだったもん」

「あ、そうなの?」

「俺も中学のとき、小学校からの流れでなんとなく野球部に入ったんだけど、まぁ本当にしんどかったな(笑)。それでしばらくズルズル続けちゃったんだけど、これ続けてても意味無いなって気づいたんだよ」

「なるほど」

「たぶん野球部で辞めずに頑張ってる方が、周りから見たらかっこ良く見えるんだろうけどさ。でも、そんなことより、やっぱり自分らしく居ることが大切なんじゃないかなって。そう思うんだよね」

俺は深く頷き、真剣に耳を傾ける。

「そのためには、周りにどう思われたとしても、自分のやりたいことを思いっきりやった方がいいんだよ。やりたくないことから逃げたっていいんだからさ」

自責の念が晴れ、気持ちが軽くなったような気がする。これまで、バスケを辞めた自分はダメな奴だと思っていたが、そうじゃなかったのかもしれない。

「なんと言うか、俺は沖野くんの気持ちがすごくわかる気がするんだよね。沖野くん見てたら、周りにどう見られてるか気にして、人生楽しめてないように見える」

この人はなんで俺のことをこんなにわかってくれるんだろう。

「でも最近沖野くん、ちょっとだけ生き生きしてるような感じがする。何かいいことあったのかなぁって思うんだけど。実際何かあったの?」

木村にだったら何を話してもいいと思った。俺は例の佐々木さんの件と、それ以降佐々木さんを意識してしまっているという正直な気持ちを木村に伝えた。

「なるほどね(笑)。いやぁ、やっぱ沖野くんも男の子なんだね。ちゃんと人の心失わずに持ってるよ(笑)」

そう言われて初めて、自分が人の心を無理やり胸の奥にしまい込んでいたことに気づいた。

「佐々木さんはたぶん、沖野くんのこと好きってわけではないんだよね。何というか、あの人はたぶん、人間自体が好きなんだよね」

「…どういうこと?」

「佐々木さんはちょっとだけ喋ったことあるんだけど、めちゃめちゃピュアな人なんだよ。で、人と会話することが好きな人だと思う」

「はぁ」

「だから、正体不明の沖野くんと話すことで、沖野くんのことを知っていけるのが楽しいんじゃないかな」

なんだそれ。






白いスニーカーを履き、家を出る。

ふと気がついたが、最近学校の爆破を祈らなくなっている。家を出るときの心の重さが、いつの間にか消えていた。

学校に着くと靴を履き替え、教室へ向かう。

今までより足取りが軽快になった。自分の晴れ晴れとした表情を、みんなに見て欲しい。堂々と歩き、颯爽と教室に入る。

佐々木さんをチラッと見ると、他の男子と楽しそうに話している。

木村は、佐々木さんは俺のことを好きなんじゃなくて、人間自体が好きなんだと言っていた。人間が好きって、どういうことなんだろう。

俺には好きとか嫌いとか、よくわからない。今、佐々木さんが何を考えているのか。何が楽しくて、あんなに笑顔で喋っているのか。俺にはよくわからない。考えても考えても、全くわからない。

そういうことを考え出すと、思考が止まらなくなるんだよな。気持ちは明るくなったが、精神は相変わらず不安定だ。

窓の外を見るとカラスが2羽、カァカァ鳴きながらじゃれ合っている。喧嘩しているんだろうか。

カラスは何を考えて生きているんだろう。カラスの世界にも俺みたいな陰キャって居るのかな。見ている限り、みんな強く生きているように見える。でも、強そうに見える人に限って、悩みを抱えているものだ。そういうのって、カラスの世界だろうが何だろうが、あるのではないかと思う。

ただ、人とカラスの違いは、生きることが簡単か難しいか、というところにある。

生きるだけなら簡単に生きられる、それが人間だ。どんなにウザい親だとしても、さすがにご飯は用意してくれる。家から追い出したりもしない。ほとんどの人間は、ちゃんと衣食住が確保されている。

でもカラスは衣食住が確保されていない。生きること自体に必死にならないといけない。

カラスが生きること自体に必死になっている中、人は思い通りに生きることに必死になっている。「生きる」ということは保証されているのに、思い通りに生きれないと気が済まないから、頭を悩まさなきゃいけないのだ。

そう考えると、人間は愚かなものだな。俺は自給自足の生活をするべきかもしれない。生きているだけで幸せなことだ、みたいな感覚を解りたい。

「うわっ!」

「へへ、ビックリした?」

木村が急に後ろから肩を叩いてきた。

「あぁ、ビックリしたなぁ」

「何か考えごとしてたの?笑」

「あぁ、いや、別に」

「佐々木さんのこと?」

「いや、違うよ」

違うよと言いながらも、実は佐々木さんのことで頭がいっぱいだった。






鶏の照り焼き、レタスとカニカマのサラダ、蓮根きんぴら、中華スープ。悪くないメンツだ。

最近、母さんが作る晩飯を楽しみにしている自分がいる。ちょっと前までは食事になんて興味なかったんだけどな。

「さあ1点を追いかける8回裏、先頭バッターは松原」

テレビから、野球中継の実況が聞こえる。

「え、なんで野球見てるの?」

「聖弥が出てるから」

画面下の松原聖弥という字幕を見て、母さんの言う“聖弥”がこの選手の名前なんだと知った。

詳しく聞くと、最近たまたま見たテレビ番組でこの選手の特集がしており、応援したくなったらしい。「にわかファン」の典型だ。

テレビの中の松原は甘い直球を捉え、右中間へはじき返す。

「きゃー!打ったー!走れ走れ走れ」

野球のルールも知らないくせに、よく野球にこんなに熱くなれるものだ。普段の嫌味ったらしいウザい母さんとは別人のようだ。

でも、考えてみるとそういうのもアリな気がする。新しいことに興味を持って熱中することで、人生が新鮮になっていく。それって素敵なことなのかもしれない。

夕飯を食べ終えた俺は部屋に戻り、スマホを手に取る。近所の映画館の上映スケジュールを確認する。アニメーション映画「エイリアン・パニック」は余裕で座席が空いている。

実は以前からこの映画が気になっていた。地球を侵略しに来たエイリアンたちと戦う少年の物語。一見つまらなそうな映画だが、たまたま見た予告映像で流れた「それでも少年は、1人で立ち向かった」というキャッチフレーズに妙に惹かれたのだ。

チケットの予約画面まで進んで、ためらう。普通映画って、1人で見に行かないものなんじゃないのか?

こないだ木村は、友達と映画を見に行ったと話していた。そうだよな、普通友達と見に行くよな。

映画館に1人で行くと、浮くんじゃないかな。しばらく映画館なんて行っていないから、よくわからない。

万が一、周りはみんな友達と一緒に来ていて、俺だけ1人で来ていたらどうしよう。大人ならまだしも、学生が1人で映画を見に行ってるのって寂しい奴だと思われるんじゃないか。

そもそも、エイリアン・パニックを見に来る年齢層も気になる。たぶん、小さい子どもが見るやつだろう。俺みたいな見るからに陰キャの高校生が見に行ったら、周りから変な目で見られないだろうか。

俺は予約画面を閉じ、漫画を手に取った。やっぱり、映画とか見に行かなくていいや。







「おはよう!」

佐々木さんが今日も元気に友達に挨拶している。佐々木さんっていつも楽しそうにしてるなぁ。そう思いながら、ボーッと眺めていた。

先生が入ってきて、朝礼が始まる。

「今日の1時間目の数学なんですけど、山名先生がお休みなので自習になります」

自習か…自習は良いんだけど、きっと自習の時間はみんな仲良しグループで固まって喋ることだろう。その状況において、自分の陰キャ感が際立つことが懸念材料だ。

自習が始まる。案の定、みんないくつかの仲良しグループに別れてベチャベチャ喋っている。

チラッと木村の様子をうかがう。木村は別の人と楽しそうに話している。それを邪魔するのか申し訳ないから、木村には話しかけられない。こういうとき、俺の友達は文庫本だけだ。

チラッと時計を見る。まだ10分しか経っていない。あと40分間、誰とも会話せず文庫本とにらめっこ。心にどんよりと厚い雲が差し掛かってきた。

「沖野くーん」

小さな声で俺を呼び、手招きしている木村のにやけた顔を見て雲が晴れた。木村は佐々木さんと2人で席を向かい合わせていた。あれ、さっきまで別の人と話していたのに。

「沖野くんって休みの日とか何してるの?」

佐々木さんが上目遣いで俺に聞く。俺はできるだけ平静を保ちつつ、答える。

「え、あぁ、別に何もしてない」

「何もしてないって何なの笑」

「え、いや、別に…」

キョドる俺を、佐々木さんは冷ややかな目で見ている。俺はチラッと木村にヘルプのアイコンタクトを送った。

「沖野くんはねぇ、漫画が友達なんだよね」

木村は嫌な顔1つせず、助けてくれた。

「え、何それウケるんだけど笑」

「でも、本当はいろんなことに興味あるんだよな?」

「え、あぁ、まぁ」

「たぶん沖野くんはねぇ、本当はいろいろやりたいんだよ。カラオケも行きたいし、ボウリングもやってみたい。だけど、気を使っちゃって人を誘えないから、1人で漫画を読んでるんだよ」

木村の分析力は凄い。

「そうなんだ、優しいんだね、沖野くんって。こないだも勉強教えてくれたりしたし」

佐々木さんに褒められた。木村のおかげだ。

「沖野くん、映画とか興味ないの?」

「え、あ、あ、まぁ、無いことは無い…かなぁ?」

「えー、じゃあ今度3人で映画行こうよ!」

佐々木さんに映画に誘われた。木村のおかげだ。

「沖野くん、何か観たいのある?」

エイリアン・パニックとは言えない。

「いや、何でもいいよ」

「そっか…じゃあ、平野君のやつにせん?ウチあれがずっと観たかったから」

キンプリの平野君主演の恋愛系の映画が公開中だった。平野君に興味はないけど、佐々木さんが観たい映画ならそれでいい。







「沖野くん、ポップコーンは何味が好き?」

「うーん…」

簡単な質問に頭を悩ませる俺に佐々木さんは優しく微笑み返し、キャラメル味を3つ注文した。

本音を言うと、俺はキャラメルが好きではない。シンプルに、塩バターとかが良い。

好きな味は塩バターだと素直に答えれば良かっただけのことなのだが、俺はそれが出来ない。でも、佐々木さんが選んでくれたのなら、キャラメル味で全然良い。

ポップコーンを持って、スクリーンに入る。映画館への正しい入り方がイマイチわからない。この券は係員に渡すんだろうか、それとも見せるだけなんだろうか。

俺はさりげなく歩調を遅らせ、木村と佐々木さんを俺より前に行かせる。

2人は券を係員に渡した。なるほど、渡すんだな。俺も券を係員に渡すと、係員のお兄さんは半分にちぎって返してくれた。

この返してもらった券は、後で使うものなんだろうか。出るときにまた係員に渡すのかな。

「どうしたの、沖野くん?」

「え、何でもないよ?」

俺は考えごとを頭の片隅に置き、2人に遅れないようにスクリーンへと歩を進めた。


3人で座席に座る。他の映画の予告編がやっている。アメリカのカーアクション映画。ホラー系の映画。安っぽいアニメ映画。どれもつまらなそうだ。今日見るやつはたぶん、比較的面白い方の部類だろう。

辺りが薄暗くなる。ビデオカメラをモチーフにしたスーツのキャラクターが踊って、盗撮禁止を呼びかける。懐かしいな、このカメラの人。小学生のときに見て以来だ。

やがて画面が真っ暗になり、映画が始まった。チラリと隣の佐々木さんを見ると、真剣な表情をしている。映画の世界に入り込んでいるんだろうか。

俺は映画より、佐々木さんと木村の方を気にしている。ポップコーンの減り具合をできるだけ2人と合わせておきたい。食べるスピードが早すぎても、遅すぎてもダメだ。

平野くんがヒロインに告白するシーン。ここがこの映画の1番の見どころだと思う。だけど、俺はイマイチ映画に入り込めていない。冷静に分析しながら映画を見ている自分のことを、冷酷な人間のように思えてくる。

チラリと佐々木さんの方を見ると、女の子の目になっている。きっと平野くんにときめいているのだ。あまりに可愛いから、映画そっちのけで見とれてしまいそうだ。

続いて木村の方を見る。木村は目に涙を浮かべている。平野くんの男気に胸を打たれたのだろうか。

2人とも感受性豊かだな。俺はどうにも、映画を見てジーンとしたり胸を打たれたりしない。きっと卒業式も泣かないだろう。

腕時計を覗くと、まだ1時間ちょっとしか経っていない。ここからさらに話が盛り上がるわけだな。一体、どういう展開になるんだろう。





家に帰ると、母さんが晩飯の支度をしている。俺は自分の部屋に直行し、服も着替えずにベッドに横たわる。

余韻が半端ない。佐々木さんと映画を見に行ったという事実が、俺にとっては重要だ。その事実があるだけで、ただの陰キャではなく、1つ上のグレードの人間になった気分になる。

木村と遊んだときもそういう気分になったが、そのときの倍くらい良い気分になっている。

ひとりでニヤニヤしながら、ふと我に返り、もしこの姿を他人に見られたらと想像してゾッとした。

「航太、ご飯できたよ」

豚の生姜焼きとキャベツの千切り。なんか今日は品数が少ないな。テレビでは巨人戦がやっている。

俺はニヤニヤが顔に出ないように、できるだけ平常心を保つように努める。質素だけど、美味いな。

「あんた、何かいいことでもあった?」

「ん!??」

思わず声が裏返ってしまった。ニヤニヤしてるのがバレたのかな。

「いつもより顔が優しいじゃない」

「どういうこと(笑)」

「目がいつもと違うよ」

意外とよく見てるんだな。てっきり、見る目の無い人だと思っていたんだけど。

「あんた、なんか最近かわいい顔してるよね」

かわいいってどういうことだ。以前、木村にも言われたな。

俺は愛想笑いだけを返し、会話を辞めて生姜焼きを口に放り込んだ。






自転車を走らせること20分。大きめの服屋に着いた。

もうすぐ夏に差し掛かる。Tシャツとか短パンで良いのがあれば買いたいな、と今朝思い立ったのだ。

黄色いTシャツに、イギリスかどこかの風景がプリントされている。

手には取らずに、ただ、じーっと見つめる。これを着ている自分を想像する。1分間ほど考え込んだ後、その場を離れた。

次に目についたのは、緑と白の縦ストライプの襟付きシャツ。袖は七分丈くらいになっていて、腕まくりをすると裏地が黄色になっている。

これは良いな。値段は2490円。やや高めだが、それだけ払う価値は充分にあるだろう。

カゴに入れ、他の服も見て回る。深い茶色のパンツ。緑と白のシャツによく合いそうだ。値札も見ず、即決でカゴに入れた。

他にも気になる服を見つけては、勢いでカゴに入れていく。ふと心配になり、値札と財布の中身を見比べた。なんとか全部買えそうだ。

「あれ?沖野くんじゃね?」

声の主は同じクラスの神山だった。神山とは3年間同じクラスだが、ちゃんと話したことはない。

「あぁ、神山くん」

「沖野くんもこの店来るんだ」

「いや、まだ2回目だよ」

1回目は中学の頃、おばあちゃんと一緒に来た。中学生がおばあちゃんと一緒に服を買いに来てるのがなんか恥ずかしくて、適当に地味な服を選んで、さっさと店を出たのを覚えている。

「今日は1人で買い物なの?」

「そうだよ、神山くんも?」

「うん、なんか服買うときは、1人の方がいいんだよね」

「なるほどね」

「沖野くん、この後の予定は?」

「別に、何もないよ」

「昼飯一緒に食べない?」

神山くんが飯に誘ってくれるとは思わなかった。喋ったこともないし、もしかしたら嫌われているんじゃないかとすら思っていた。

「じゃあ、レジ通して来ようか」

神山くんはレジへと向かった。俺もレジへと向かいかけたところで、これを全部買ったらご飯代が無くなることに気がついた。カゴの中を覗き、本当に要るものと要らないものの仕分けをした結果、最初にカゴに入れた緑ストライプのシャツと茶色のパンツだけがカゴに残った。


「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

神山くんが指を2本立てると、1番角っこのテーブルへと案内された。なかなか良い席だ。

神山くんはチーズインハンバーグ、俺は和風ハンバーグ御膳を注文した。

「沖野くん、なんか渋いの頼むね」

「へへ(笑)まぁね」

「凄いなぁ、沖野くんとこうやって喋るの初めてだもんなぁ。いや、話しかけるかどうか迷ったんだけどね」

「なんで話しかけてくれたの?」

「いやぁ、暇だからね(笑)」

「暇だからってどういうこと(笑)」

「いやぁ、休みの日もみんな部活やってるじゃん?特にもう今は引退試合の時期だから、休みの日に遊びに誘える人なんていないからさ。今日も暇だなぁ、どうしようかなぁと思っていたところで沖野くんを見つけたんよ」

「それは良かったね」

「今さらだけどさ、沖野くんは俺に話しかけられて嫌じゃなかった?」

「いやぁ、俺嫌われてるんじゃないかと思ってたから、話しかけてくれて嬉しいよ」

「どんな被害妄想なの(笑)別に沖野くんに嫌いになる要素なんてないでしょ」

「修学旅行のときも、気まずかったもん」

「あぁ、そういえばホテル同じ部屋だったよね」

「同じ部屋なのに一言も喋んなかったから、俺神山くんと石井くんに嫌な思いさせたかなと思ってさ。俺と同じ部屋だから2人は楽しくなかったんじゃないかなって」

「いやいや、全然よ。むしろ、俺の方が申し訳ないなと思ってたんだから」

「なんで?」

「俺なんか、勉強もしないで遊んでばっかりじゃん?沖野くんみたいな優等生は、俺みたいな人のこと嫌いなんじゃないかなと思って」

そんな風に思ってたんだ。神山くんみたいな社交性のある人の方が、俺みたいな陰キャより上の立場に立っていると思ってた。でも、神山くんは俺と同じ目線に立っていたんだ。お互い、ムダに気を使い合っていただけなのかもしれない。

「お待たせしました。チーズインハンバーグです」

神山くんのチーズインハンバーグが来た。神山くんが俺に気を使っているのがわかったから、俺は「先に食べていいよ」と声をかけてあげた。

その言葉を待っていたかのように、ハンバーグを貪り食う神山くん。よっぽどお腹が空いていたんだろうか。なんか、愛おしいな。

「やっぱ美味いなあ」

「はは(笑)いい食べっぷりだね」

「あ、ごめんね」

「いや、全然いいよ」

「沖野くんってさ、休みの日何してるの?」

「基本家にいるよ」

「良かったら、ちょこちょこ休みの日会わない?もっと沖野くんと喋りたいな」

「全然良いよ!」

「じゃあ、LINE交換しようや。あ、沖野くんってクラスのLINE入っとるんだっけ?」

「一応入っとるよ」

「待って、探すわ」

フォークとナイフを置き、スマホの画面を見つめる。

「あれ?沖野くんって下の名前何だっけ?」

「こうた」

そっか、陰キャすぎて下の名前も知られてないんだ。3年連続同じクラスなんだけどな。

神山くんが俺のLINEアカウント“kouta”を見つけ、友達登録した。

少し時間差で、“神山健人”がLINEの友だちになったと俺のスマホに通知が来た。へぇ、下の名前健人っていうんだ。

「沖野くんって、クラスの誰かとLINEするん?」

「いや、全くしないよ」

「クラスの人で、誰のLINE持っとるん?」

「木村くんと…」

佐々木さんと言いかけて、そういえば佐々木さんのLINEは追加していないことに気がついた。木村と佐々木さんとの3人のグループはあるのだが、追加はしていなかった。

「いや、木村くんだけだわ」

「へぇー、じゃあ、石井とかもLINE知らないんだ?」

「うん」

「じゃあ、今度石井も一緒に遊ぼうよ」

「あぁ、是非」

「ていうか思ったんだけどさ、沖野くんってオシャレだね」

「え、そう?」

「そのシャツめっちゃいいじゃん」

「ああ、これは木村くんに選んでもらった」

「へぇー、なるほどね」

神山くんはまた、ハンバーグに手をつけ始めた。木村の話題には興味がないのかな。

「お待たせしました、和風ハンバーグ御膳です」

俺は黙々とハンバーグ御膳を口にした。




その晩、家に帰ってからふと気になり、クラスのグループLINEから石井くんのLINEを探した。

“石井達章”を見つけた。アイコンは女性の後ろ姿の写真。どういう意味があるんだろうか。

あれ?待てよ。この女性が着ている服、佐々木さんが着ていたのと一緒だ。もしかしてこの女性、佐々木さんじゃないか?

俺は急いで佐々木さんのLINEを探す。

やっぱりだ。佐々木さんのアイコンは、男性の後ろ姿。よく見ると、石井くんに似ている。

この2人、どうやらつき合っているな。普段あんなに佐々木さんのことをよく見ているのに、全く知らなかった。

佐々木さんがLINEミュージックを浪漫飛行にしているのも、もしかして匂わせなんだろうか。

石井くんの名前が「いしいたつあき」だから、米米CLUBのボーカルと名前が似ているよな。

…いや、それは考えすぎか。

佐々木さんは、俺のものじゃないんだ。ふつふつと、石井くんへの憎しみの感情が湧いてきた。

よく俳優や女優が結婚したときにロス現象が起きたりするが、ロスになる人の気持ちがよくわかった。

まあでも、佐々木さんは正直、俺からすると高嶺の花だ。俺なんかより石井くんのようなかっこいい人の方がお似合いだと思う。

そう自分に言い聞かせ、なんとか精神統一を図った。






「おはよう!」

今日も佐々木さんは笑顔でみんなに挨拶している。

佐々木さんと映画に行ってから1ヶ月ほど経ったが、あれから会話はない。

なんか佐々木さんって、思わせぶりなところがあるよな。前も勉強を教えてから一切、話しかけて来なかったし。

佐々木さんへの好意が、ピーク時から比べたら7割ほどまで下がった。俺の好意に対して佐々木さんの反応があまりにも薄いから、好意を寄せること自体がだんだん、バカバカしく感じてきた。

「お、沖野くんだ!おはよう」

神山くんが挨拶をしてくれた。優しいな。

「神山くん、おはよう」

神山くんは挨拶だけして自分の席に着く。俺は神山くんを追いかけた。

「神山くん、今日の放課後は予定あるの?」

「いや、何もないよ?」

「良かったら、駅前のタリーズにでも行こうよ」

「お、沖野くんから誘ってくれるなんて嬉しいね。いいよ、行こう」

俺は自分の席に戻る。神山くんの方を振り返ると、はにかみながら親指を立ててきた。俺も同じように親指を立て、少しだけ笑顔を作った。


放課後。

タリーズコーヒーは空いていた。隅の方の席を陣取った。

「神山くんってさ、石井くんと仲良いよね?」

「うん」

「石井くんって、どんな人なの?」

「うーん、なんか、人気者の星の元に生まれてきた人だと思うんだよね。顔立ちもいいし背も高くて、サッカーも上手いし」

「なるほどね。石井くんって、佐々木さんとつき合ってるの?」

「ああ、今は佐々木さんか。彼女がコロコロ変わるから、よくわかんない」

「え、彼女をコロコロ変えてるの?」

「石井はあまり長続きしないタイプなんだよね。女の子に尽くす感じでもないし、割と自分の機嫌だけで行動する奴だからさ。それで、女の子にすぐ愛想つかされるんだよ。すぐ浮気もするし」

「なるほどなぁ」

「まあ、俺は悪い奴ではないと思ってるんだけどね」

神山くんが悪い奴ではないと言うなら、きっと悪い奴ではないんだろう。







「これから、リスニングテストを始めます」

校内放送で流れる音声に、必死に耳を傾ける。

今日は大学入試に向けた模擬試験だ。この結果が非常に大切で、ここで志望校の合格ラインが出るかどうかで受験までの過ごし方が全く変わってくる。

リスニングは正直、1つもわからなかった。でも文章題は、なんとなく雰囲気でわかるものだ。

勉強は得意な方だと思うが、英語だけはどうしても苦手なんだよな。だって日本人だし。翻訳アプリとか開発されているのに、なんで英語が必要なんだろう。

この英語の長文を読める人がどれ程多くいることか。こんなの読めなくたって、普通に暮らしていけるんじゃないか。

ふと木村を見ると、机に突っ伏して寝ている。まあ、そうなるよな。わかるわかる。ここで無駄なエネルギーを使っても仕方ない。俺は数学は得意だ。この後の数学のためにエネルギーを残しておこう。

英語の問題をほとんど勘だけで解き進め、残った時間は窓の外をボーッと眺めることに専念した。




それから1週間後。模試の結果が帰ってきた。

俺は志望校に対してA判定。よし、これから先は、安心して過ごせるな。

「沖野くん、どうだった?」

木村が話しかけてきた。

「あぁ、まあまあ、良かったかな」

「判定は?」

「A判定だったよ」

「さすが沖野くんだわ〜。俺、C判定なんだけど」

「それはしんどいな(笑)」

「いやいや、笑い事じゃないよ〜。マジ泣きそう」

「まだ受験に落ちたわけじゃないんだから(笑)ここから頑張れば全然いけるでしょ」

「…わかった、頑張るよ。ありがとう」

珍しく木村が落ち込んでいる。意外と木村みたいな奴ほど、大学受験に対して不安を抱えていたりするものだ。


木村が去っていくのを待っていたかのように、今度は佐々木さんが俺のところにやって来た。

「沖野くん、ちょっといい?」

急に話しかけられたから動揺してしまった。でも、話しかけてくれて嬉しい。

「どうしたの?」

「ウチさぁ、模試の結果やばかったんだけど」

「そんなに低かったの?」

「うん…」

「まぁ、まだ時間あるし大丈夫じゃない?」

「でも、ウチ頭悪いから、全然できる気がしないの」

「いや、そんなことないと思うよ」

「だからさ、沖野くんに勉強教えて欲しいなあ、と思って。今回の模試の解説じゃないけどさ、解き方を教えて欲しいの」

「でも、受験勉強だったら塾とか行ったらいいんじゃない?」

「塾の先生は頼りにならないよ。沖野くんに前勉強教えてもらったとき、すごくわかりやすかったし優しく教えてくれたからさ、沖野くんがいいの」

「まぁ、そう言ってくれるなら全然、俺は大丈夫だよ」

「本当に?ありがとう。今日の放課後とかでも良い?」

「うん、まあ予定ないし」

佐々木さんへの好意がまた少し復活した。




放課後。

誰もいない教室で、佐々木さんと2人で居残り。なんとなく、エモいシチュエーションだ。

「こういう問題は、まず両辺を2乗するんだよ」

「リョーヘンをニジョー?」

「はは(笑)ごめんごめん。イコールの左の式と右の式があるでしょ?それを両方、かっこでくくってみて」

「えっと…こういうこと?」

「そうそう!そこから…」

「あ!わかった!これ、やったことある!」

「だってこれ、俺が前教えたやつだよ?(笑)」

「そうだっけ?(笑)」

俺はできるだけ丁寧に、佐々木さんに勉強を教えた。気がつくと、もう午後6時過ぎだ。

「よし、今日はこの辺で大丈夫だよ。ありがとう沖野くん」

「いやいや、こちらこそ」

「沖野くん、今度の週末の予定は?」

「今のところ何もないよ」

「じゃあ、また勉強教えてよ。ファミレスか、フードコートとかでゆっくりやろう」

「わかった」

2人で門を潜り、自転車を押して帰り道を共にする。

「佳奈ちゃん?」

振り返ると、石井くんが居た。

「たっちゃん?今日部活終わるの早いね」

「早いねじゃなくてさ、何してるの?」

「いや、さっきまで沖野くんと勉強してて、今から帰るところだよ」

「なんで男と2人で歩いてんだよ」

石井くんの機嫌が悪くなっていくのがわかる。

「あ、お、俺、1人で帰るね」

俺はそう言い残し、逃げるように自転車を走らせた。佐々木さんに「待って」と言われた気がしたが、1秒でも早くその場を離れることを優先した。





白飯、オマール海老入りのクリームシチュー、ほうれん草とベーコンのバター炒め。

いやいや、シチューはご飯のおかずじゃねぇよ。そう心の中でつぶやいたが、口に出すと面倒なのでそこは堪える。

母さんはまた、巨人戦に釘付けだ。

俺は飯を食べつつ、“ひとり反省会”を始めた。今日の俺の行動は正しかったんだろうか。

俺が佐々木さんと2人で居ることが、石井くんの怒りの種だった。俺のせいで石井くんに嫌な思いをさせていることに耐えられなかったから、俺はそそくさとその場を立ち去ったのだ。

でも後になって冷静に考えてみれば、俺の行動はものすごくダサいものだったのかもしれない。佐々木さんの目にはどう映っただろうか。

ただ単純に、石井くんに怒られてビビって逃げただけのダサい奴と思われただろうか。

だとしたら誤解を解きたいところだが、言い訳をする気はない。自分が悪いんだと言い聞かせているうちに、佐々木さんへの申し訳なさに体が支配された。

やっぱり、シチューとご飯は合わないな。全然美味しくない。俺は無理やりシチューと白飯を胃に流し込み、部屋へと戻った。

漫画を読んでいたら、LINEの通知音が鳴った。佐々木さんからだった。

「沖野くん、追加させてもらいました!さっきはごめんね」

「いやいや、こちらこそごめん」

「たっちゃん、すぐキレるんだよね…汗」

「全然大丈夫です」

「今度の週末なんだけど、お昼頃にフードコートで勉強しよ?」

「え、いいの?」

「いいよ、たっちゃんは1日中部活だから」

「なら、いいよ」





週末。

やはり休日の昼のフードコートは人が多い。マクドナルドなんて、一生買えないんじゃないかってくらい長い行列ができている。

「沖野くん、お待たせ」

ブカブカのボーダーのTシャツに、ブラウンのオーバーオール。めちゃめちゃ可愛いファッションだな。さすが佐々木さんだ。

一瞬マジで惚れてしまったが、石井くんに怒られそうなので、できるだけ女として見ないようにしよう。

席に着くとさっそく、勉強会が始まった。

今日は前解説した問題と同じ範囲の問題を、数学のチャート本を使って解いていく。なんか、本当に先生になったような気分だ。人に頼られることが本当に嬉しい。

周りを見ると、学生もたくさんいるが、だいたいが友達どうしか、イチャイチャしているカップルだ。たぶん、恋人どうしではない男女で、勉強を目的にここに来ている人は俺たちだけだ。俺と佐々木さんは不思議な関係だなぁとつくづく思う。

2、3時間勉強した後、すっかり行列のなくなったマクドナルドでハンバーガーとポテトを買い、遅めの昼食をとった。

「沖野くん、何頼んだの?」

「チキンフィレオ」

「フィレオなの?ウチはクリスプ」

「ほぼ一緒じゃん」

「いや、ほぼ一緒なのに値段はクリスプの方が全然安いじゃん?それでもフィレオの方がいいの?」

言われてみれば、そうだ。別にチキンフィレオにこだわりは無いが、昔から惰性で必ずチキンフィレオを頼んでいる。よし、今度からクリスプにしよう。

「沖野くんって本当に面白いね」

「え?そう?」

「喋り方とかかわいいし」

またかわいいって言われた。ここまで言われたらもはや、俺は本当にかわいいんじゃないかと本気で思っている。

「喋り方もかわいいし、そのファッションもかわいいじゃん?」

「ああ、これはこないだ買った服だよ」

緑と白のストライプのシャツだ。

「沖野くんって、つい最近まで全然喋ったことなくてさ、どんな人か全くわかんなかったけど、話してみると本当に面白いし優しいなぁって思う」

「え?そうかな?」

今までの俺は、才能を隠していたのかもしれない。能ある鷹は爪を隠すなんて言葉もあるが、俺は長いこと爪を隠してきたものだから、そのうち「自分には能がない」と錯覚してしまったんだ。

今、自分のことが少しだけ好きになってきているし、生きることが楽しいという感覚も手に入れた。やっぱり、人と関わることでしか自分の良さって認識できないんだなと思う。

佐々木さんと他愛のない会話をしつつ、少しだけ勉強もしつつ、あっという間に時間は過ぎていった。


ぼちぼち、母さんが夕飯を作っている時間だろう。帰らなきゃいけないなと思っていたその時だった。

「沖野くん、良かったらウチに来ない?」

「え、いや…」

さすがに家に行くのはどうかな、と思ったが、佐々木さんの気持ちを否定するのもそれはそれで心苦しい。

「今日は親が居ないからさ。良かったらウチに来なよ。もうちょっと勉強教えて欲しいし」

「え…ま、まあ、いいよ」

「やったー。じゃあ、行こうか!」

佐々木さんはどういう感情で俺を誘っているんだろう。本当に純粋に勉強がしたいのかな。それとも、俺と過ごすのが楽しいんだろうか。

まあ、前者だよな、きっと。





「ここが私の部屋」

2階に案内された。佐々木さん家、めちゃめちゃ広いな。両親は何をしている人なんだろう。

「テキトーに座っていいよ」

「ありがとう」

ベッドとデスク。床にはピンクのカーペット。シンプルながら可愛らしい部屋だ。

「沖野くん最近、何かいいことあった?」

「え?なんで?」

「ううん、シンプルに聞きたいの」

「いやあ、最近はほとんど、いいことしかないよ」

「へぇ。やっぱり、沖野くんみたいに真面目に生きてたらいいことあるんだね」

「佐々木さんも真面目じゃないの?」

「ウチなんて全然よ。勉強も全然してないし」

木村も同じこと言ってたな。勉強が苦手な人にとって、自分は勉強をしていないということはそんなに後ろめたいことなんだろうか。

「ウチは最近、全然良いことないなあ。模試もダメだったし、たっちゃんもずっと怒ってばっかり」

「石井くんってそんなに怖い人なの?」

「いや、よくわかんないんだよね。友達とかにはめっちゃ優しいじゃん?」

「ああ、そうみたいだね」

神山くんが石井は悪いやつじゃないって言ってたな。

「だけど、ウチにはめっちゃキレてくる」

「へぇ、そうなんだ…」

「最初は優しかったんだけど、つき合いだしてから急に態度が変わったんだよね」

彼女のことを1つ下の人間だと思うタイプなのかな。彼女にキレることで、自分の強さを誇示したいタイプの人間なのかもしれない。

「別れないの?」

「うん…沖野くんになら言ってもいいんだけどさ。たっちゃんは、ウチの裸の画像を持ってるの。1回別れようって言ったんだけど、そしたらこの画像拡散するって言ってきて」

「…それは酷いね」

「あぁ、ウチって見る目ないなと思ったよ」

「あのさ、LINEのアイコンの画像って、石井くんなの?」

「あぁ、そうだよ」

「あれ見てたら、結構ラブラブなのかなとか思ってたんだけど」

「いや、あれもたっちゃんの命令なの。多分、ただ単純にああいう匂わせみたいなのをやりたいだけなんだと思う」

「浪漫飛行も石井くんの選曲?」

「いや、それはただ単にウチが好きなだけ」

やっぱり考え過ぎだった。

「そっか、そんなことされてると思わなかったな。辛いよね」

「ありがとう。ここ数日は本当に、沖野くんだけが心の拠り所だよ」

「なんでいきなり、俺に声かけてくれたの?」

「最近、たっちゃんに怒られすぎて萎えてたんだけど、模試の結果を見てさらに萎えたの。ああ、やっぱりウチってダメだなあと思っていたときに、ふと沖野くんが前、優しく勉強教えてくれたのを思い出したの。ウチの傷ついた心も、勉強ができないことも、全部沖野くんが治してくれそうだと思ったの」

まだそんなに関わってないのに、なんでそこまで頼ってくれるんだろう。

ふと、最初に勉強を教えたときに「やっぱ沖野くんって天才じゃん」と言ってくれたことを思い出した。その“やっぱ”っていう枕詞がめちゃめちゃ嬉しかった。

佐々木さんって、本当に人のことをよく観察してる人なのかな、と思う。俺の良いところを全部見てくれているから、佐々木さんと居ると自分に自信が持てる。

「…佐々木さん、泣いてるの?」

「ごめんね」

佐々木さんは体育座りになり、親指の関節で自分の涙を拭いた。

「沖野くん…私を抱きしめてくれない?」

俺は激しく動揺した。尊すぎる佐々木さんに対して、俺が軽々しくボディタッチしていいんだろうか。

脳裏に石井くんの顔がよぎる。俺はしばらくオドオドとしてしまった。

「…ごめんね、沖野くん。困らせちゃったね。ごめん、やっぱり無しでいいよ」

その言葉を合図に、俺は佐々木さんを後ろから抱きしめた。体育座りの佐々木さんに、俺が覆い被さる。慣れないシチュエーション過ぎて、体が火照りまくっている。

その体勢のまま、何分経っただろう。時間が長く感じたが、途中で抱擁をやめることなんてできなかった。

「…ありがとう、もう大丈夫だよ」

その一言でホッとした俺は、少しずつ抱擁を解いていった。

佐々木さんは体の向きを変え、こちらを向く。かわいい顔についた涙跡を、俺はそっと指で拭いた。

佐々木さんの口元が緩み、「愛してるよ」と言わんばかりの真っ直ぐな目線を俺に向けた。

俺は佐々木さんの体を抱き寄せ、ゆっくりと口づけをした。目を閉じて、佐々木さんの体温を感じながら、キスを味わった。

俺はなんて幸せなんだ。ただただ、幸せな時間が過ぎてゆく。

ファーストキスを終えた俺に、佐々木さんは耳元で「幸せだね」と呟いた。俺はコクリと頷き、自然と頬の筋肉がほぐれた。

「……あっち行こ?」

佐々木さんはベットを指さした。俺に嫌らしい気持ちは全くなかった。ただ、佐々木さんと幸せな時間を共有したい。その純粋な愛情だけが、そこにはあった。

ベッドで横になり、再び熱いキスを交わす。そして、お互いに“愛してる”のアイコンタクトを送り合う。

それを合図に、佐々木さんの肩を撫で、徐々に手を下げ、胸を揉んだ。佐々木さんは完全に身を委ねている。

俺がオーバーオールの肩紐を下げると、佐々木さんは自分でオーバーオールを脱いだ。体を起こしたままキスを交わし、俺は佐々木さんのシャツをゆっくりと脱がせた。下着の上から両手で胸を揉み、幸せを噛み締める。

「脱がせていい?」

佐々木さんは口角を上げてゴーサインを出した。ブラホックを外し、美しい胸を堪能するようにじっくりと揉んだ。

幸せだ。俺はただ幸せだ。1年前の俺に教えてやりたい。高3のお前は、素晴らしい人に恵まれる。

俺の好きと相手の好きが合致する。そこに愛が生まれる。こんなに素晴らしいことはないだろう。

俺はじっくりと佐々木さんと愛を育み、ぐっすりと眠りについた。



「おい!」

誰かの怒鳴り声で目が覚めた。寝ぼけていて、状況がよくわからない。目をこすって視界を慣らすと、そこには石井くんの姿があった。

「た、たっちゃん!?」

佐々木さんが飛び起きた。

「お前ら、何やってるん?」

「いや、違うのたっちゃん、これは…」

「違うってなんだよ!じゃあなんで2人で裸で寝てるんだよ!言い訳できる状況じゃねぇって」

「…ごめん、たっちゃん」

「ごめんじゃねぇんだよ、なんでこんなことしてんだって聞いてんだよ」

俺はさりげなく下着を拾い上げて足を通した。

「別に、たっちゃんのことが嫌いとか、そういうことじゃなくて」

「は?お前、昨日の夜からずっとLINE送ってんだよ。全然返さねぇから、何してんのかなって見に来たら、なんでこんなクソ陰キャのキモい奴とヤッてんだよ」

「…キモいってなんだよ」

俺もカチンと来た。俺だって、言うときは言うさ。

「あ?口答えしてんじゃねぇよ陰キャ。俺の女に何手出してんだよ」

「お前が佐々木さんのこと愛してあげてないからこうなってんだよ!わかんないのかよ」

「うるせぇな!なんなんだよお前!」

石井くんが俺を殴ろうとする。

「やめて!!!」

佐々木さんは聞いたこともないくらい必死な声で、石井くんを止めた。

「沖野くんは悪くないの!ウチが沖野くんを家に連れ込んだの!」

「笑わせんな!こんなクソ陰キャのどこが良いんだよ!」

「…だってたっちゃん、最近全然ウチのこと愛してくれてないじゃん」

佐々木さんは声を震わせた。

「私だって、たっちゃんのこと好きでいたいのに、たっちゃんは全然ウチに愛情表現してくれんじゃん。他の女の子とばっかり遊んで、ウチには怒ってばっかりで。そんなたっちゃんとは違って、沖野くんはすごくウチに優しくしてくれるから…」

「うるせぇよ!彼氏は俺だろ!」

「そうやって人を下に見て偉そうにしてるのが嫌なの!!」

佐々木さんが必死に涙を堪えて、石井くんに強く訴えた。

「うるせぇ!うるせぇよ!お前ら死ね!!」

返す言葉があまりにも幼稚過ぎて、呆れる。石井くんの表情を見ると完全に目がイッている。こいつマジでヤバい奴だな。

そう思っていたら、石井くんはペットボトルを取り出し、液体を部屋に撒き始めた。

「ちょっと…何してるの?なにそれ?」

困惑する佐々木さんを他所に、石井くんは液体を撒き続ける。

そして不敵な笑みを浮かべると、ポケットからライターを取り出し、火をつけた。

あまりにも急で、あまりにも衝撃的な出来事すぎて、理解が追いつかなかった。

火は一気に燃え広がった。佐々木さんがデスクに置いていた家族との写真や、何かの表彰状も、一瞬で火に飲み込まれる。

「え?え?」

佐々木さんは固まって、ただただ震えている。

俺は必死に考える。ここから助かる方法はないのか。

窓の外を見ると、石井くんが走って逃げている。ここは2階だ。飛び降りても、骨折くらいはしても一命は取り留めるんじゃないか。

窓をこじ開けようとするが、全く開かない。なんで開かないんだ。ふと見ると、鍵穴がついていることに気がついた。

「佐々木さん!窓の鍵は!?」

「え?鍵?」

佐々木さんは蚊が鳴くより細い声しか出なくなっている。たぶん動揺しすぎて、鍵という言葉の意味もよくわかっていない状況だ。

「鍵!窓を開ける鍵!」

「か、鍵?窓を開ける?」

「そう、鍵!落ち着いて。鍵は持ってる?」

「か…鍵は…えーっと…たしか、リビングにある」

部屋の出入口は既に火が燃え広がっている。リビングになんて行けるわけがない。

身体中の力がスっと抜けた。俺たちにはもう、助かる方法は残されていない。

その場に腰から崩れ落ち、ただ火が燃える様をボーッと眺める。

はぁ、俺はもう死んでいくのか。やっと幸せになれたのに、ここで人生が終わるのか。

走馬灯が見えてきた。

小学生の頃、体育が苦手な俺がかけっこで1位になった。その日は全速力で家に帰って、母さんに自慢した。そしたら母さんは「はいはい、わかったから、早く宿題しなさい」と言った。俺は悲しかった。

中学生の頃、同級生が体育館の裏で泣いているのを見かけた。俺は「どうしたの?」と声をかけてあげた。そしたら「何お前?キショい顔して話しかけんといて!」と言われて頬をぶたれた。俺は悲しかった。

高校2年の頃。修学旅行は1人で行動した。俺が人に話しかけることは迷惑になると思い込んでいた。だから誰にも話しかけられず、友達は1人もできなかった。

でも、そんな俺に、佐々木さんが話しかけてくれた。佐々木さんが俺の居場所を作ってくれた。佐々木さんと一緒にいるだけで俺は幸せだと思えた。やっと俺は幸せになれたんだ。

「沖野くん…」

佐々木さんは、俺の胸の中で恐怖のあまりカタカタと震えている。俺は佐々木さんの頭をヨシヨシと撫でる。

佐々木さんと一緒に死ねるなら、それはそれで幸せな最期なのかな。幸せの絶頂で死ねるっていうのは、良いことなのかもしれない。

意識が遠のく中、俺は佐々木さんにたった一言、つぶやいた。

「ありがとう」

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