ウィルビーイング
確実に私の十代は奪われていった。
残すところ二年。成人はもう迫っているというのに、自分が大人になった姿など、全く想像していなかった。―――いいや、いいのだ。このままでいい。
「暑……」
ジーっと照り付ける真夏日。木陰で風を待つ。真っ白な体操着に染み付いた汗。真鍋里美、十八歳。三十円で買った学食のアイスを頬張って過ごす夏。
グラウンドではまだ元気に明日香は走っていた。無駄のない筋肉をつけた足で駆けていく。夏休みも残すところ二週間だというのに、私達は部活に没頭していた。受験勉強の息抜き、と称して。
「ああ、疲れた」
ぼーっとアイスを頬張っていると、いつの間にか明日香が上がっていた。タオルで額の汗を拭う姿は凛々しかった。全身無駄のない綺麗な体。少し小麦色に焼けた健康肌。
「羨ましいわ、その体」
ははっと明日香は軽く笑った。
「あんたには負けるわよ、そんなに真っ黒になるまで走ってたんだからね、里美」
健康的な明日香の肌に比べて、私は木陰の中にいると見えないんじゃないかと思うくらいに黒く焼けていた。紫外線を浴びすぎて、むしろ不健康に見える。
「何かあったの?そんなに必死に走るなんて」
明日香は私の前にしゃがみこんで、顔を覗き込んだ。ん?と促す明日香の癖。走っている姿とはまた違う、女の子らしさ。
「別に、いつも必死で走ってるよ?」
「でも、私達引退したのにまだ必死に走る理由なんてある?」
「私はいつでも真剣に走ってるんだよ」
にこっと微笑んで明日香は立ち上がった。その手に財布を握っていた。
「私達にはもう敵なんていないのよ?そんな怖い顔して走らなくても、もっと気分良く走ればいいじゃない」
明日香はそういって、自販機の方へと歩いていった
「ただいま」
大きなスポーツバックが肩に食い込んで痛い。走った後の気だるい体。べたついて仕方ない体。でも、寝たい。
「おかえり里美。お風呂沸いてるから入っておいでー」
母の声がキッチンから聞こえる。玄関の時計はもう夜の七時を示していた。
部活に行って、疲れて帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、寝る。
疲れが溜まるから就寝は十一時で、毎朝六時からはまたジョギングで始まる。陸上部に入部してから三年間、私はずっとこの調子で走り続けていた。周りの女子高生のように、友達と夜中まで電話をしてみたり、雑誌を読んで友達とメールしていたり、ドラマを真剣に見たりするようなそんな生活は三年間で一度も送ったことがない。周りの人間も自分がそういうことをする人間ではないと知っているから、わざわざそういう話題を振ってこないし、夜中に携帯が光るなんてこともない。
私は何のために携帯を持っているのだろうと思うほどに、携帯を持っていても需要がなかった。たまに部活の連絡が回ってくるのだとか、親からの連絡がくるくらいで、無意味に使用したことはなかった。
私の三年間は、部活一色だった。日常を含め、毎日が自分を向上させるためのプログラムが出来上がっていた。だからといってインターハイで活躍出来るほどの才があるかといえばそうでもなく、二年生の時に初めてインターハイへの切符を掴んだが、その結果は空しく終わった。
あとはどれだけ練習を重ねても、伸びはしなかった。必死の努力は、自己ベストの維持にしか繋がらなかった。
こんなに、練習を重ねてきたって、上には上がいる。こんな結果じゃ、プロにもなれはしない。もともとプロなんて世界は夢見ていなかったが。ただ、無我夢中でこなしてきた。その先に何があるわけじゃない。ただやり通してきた。
いざ「引退」という事実を目の前にして、私には残留の意志が芽生えた。ずっとここにいたい。進路をどうするんだ、何がしたいんだと、担任も親も進路指導の教師も騒ぎ立てる。したいことならある。私はここでずっと走っていたい。
「相変わらず、怖い顔して走ってんな」
早朝の川べりを走っていると、後ろから声がした。陸だ。
「怖い顔って何。相変わらずねぼすけだね、陸は」
「今日は五分だけ寝坊した」
私の隣を走る陸は私より十五センチほど高い。足が長いくせにフットワークが軽く、簡単に私は追い抜かれてしまう。
陸は中学の頃から陸上部で、毎朝ずっとこの川べりを走っていた。私が高校で陸上部に入って、ここで毎朝走るようになってからいやでも顔を合わすので、あまり面識がなかったが次第に打ち解けていた。
「お前ここんとこ毎日怖い顔して走ってるぞ」
陸の一言一言はまるでコーチのようで、私が不調の時でも原因を言い当てた。自分自身ずっと走っているからこそ分かるのだろう。そして私の走りも、ずっと見てきてくれたのだ。
「余計なこと考えてるから、そんなに足が重そうなんだよ」
「足が、重そう?タイムは変わってないけど」
「疲れ方が変わってないか?今のお前はがむしゃらに足を前に進めてるだけなんだよ」
陸の言葉に、自然と足が止まった。全身から力が抜けて、立てなくなりそうだった
「……急に止まんな、ほら、歩くぞ」
私を支えて、陸は歩き出した。私は背中を押され、ほぼ無理矢理歩かされていた。頭の中は真っ白だった。
「何があったんだよ、一体」
「何って、何も」
「嘘つけ、昨日だって必死で走ってバテてたじゃねえか」
陸は全部見ていた。走っている自分を全部知っていた。それだけが、救いみたいなものだった。
「陸は、進路どうすんのよ」
「進路?大学」
陸はあっさりと言って見せた。その目はきょとんとしている。
「なんだお前、悩みってそれか?」
「べつに、悩みってほどじゃないけど…」
「ああ、大学に行きたいんだけど学力足りないとかか?悪いが勉強教えてもらうなら他をあたれよ」
ははは、と陸は楽しげに笑った。学力、そんな問題じゃない。
「陸は、この先も走りたいの?」
陸は、え、という声を上げた
「走らないの?」
「走るよ。俺ずっと走ってると思うぜ、また」
「そうなんだ」
「なんでそんなこと聞くんだよ、俺がずっと走ってきたの知ってるだろ?」
「だから大学行くの?」
「うん」
「そっか」
そうだ、もともと陸に聞いたのが間違いだった。彼はずっと昔から走るのが好きで、それをやめるわけがない。大学に入って走るのをやめるくらいなら、高校に上がった時点でやめている。
「将来は?プロの陸上選手、とか?」
「とか、じゃなくて、プロの陸上選手、なんだよ」
にかっと笑う陸は、本気の顔だった。冗談で言う顔じゃない。
「まあ、プロっていうのはでかい夢だけどさ、俺はずっと走ってたいんだよ。こんな住宅街の中でもいいけど、いつかは他の国の地面も踏んでみたい。とりあえずは、沖縄から攻めてもいいかな。何もない道を走ってみたい、なんて」
珍しく照れくさそうに陸は言った。それが、陸の「夢」なんだ。
「お前は?ずっと走んの?あ、もしかしてそれを迷ってる?」
私はしばらく陸の目を見つめて、こくんと頷いた。
そりゃ足も重くなるか、と陸は呟いた。
「走ったって、先が見えないじゃない。所詮私はインターハイ出場止まりなんだから」
「それでも十分すげえんだぜ?ていうかお前は、もう伸びないから走るのが怖いのか?」
まさに、その通りだった。もう伸びない。私の足はもう限界を迎えた。これ以上走り続けていたって、衰えを知る一方だ。
「もう、先がない。だから陸上と関係のない大学へ行こうって思ってる」
朝陽が眩しく背中を照らす。空は明るく夏空を浮かべる。熱気がどんどんこもる。走ったあとの疲れと脱力感が一層体を重くする。苦しい。
「人が、成長する時、一回深く沈むんだって。落ち目に入る。今のお前はその状態だよ。ずっと次の飛躍の機会を待ってる」
陸は静かに言った。蝉の声に、消されそうな声だった。
「……次の機会はいつくるの」
私は縋るように陸の顔を見上げた。陸は前を見据えていた。私はこの陸の強さにただ焦がれていた。ずっと。この強さを超えたかった。
「お前が走る道を選んだ時だよ」
陸は私の背をずっと支えている。ずっと、崩れそうな私を救ってきてくれた。それは彼自身が強く、自分の夢を追っているからこそ、私を支えられるんだということに今気付いた。
夏休みがもう終わる。あと五日で終わる。私はこの夏、精一杯走った。だけど相変わらず記録は伸びなかった。
明日香は私の隣で、自分のペースを維持して走り続けていた。敵はいないと言った彼女は、とても気持ちよさそうに走っていた。彼女はここで走ることで息を整えているように思った。彼女は、名目通り「息抜き」をしにきていた。
私も、自分のペースを保つことを考えた。走り続けるために。自己ベストから落ちることを恐れずに。
「お前、体育大学行くか」
陸は鬱蒼とした空気を取り払うかのように言った。陸はそれがいい、それがいいと勝手に納得していた。
「なんで、体育大学?」
私が驚いて声を上げると、
「なんでって、俺が行くから」と何とも無いように言った。
私はそれから親にも担任にも走り続けたい意志を告げ、体育大学の名を出した。進路指導の教師も頷いた。誰もが、お前にあっていると同意してくれた。
私は無我夢中で走ってきた。いつの間にかそこが居場所だった。走り続けることに私が楽しみを覚えていた。それを分かってくれていたから陸は私に色んなアドバイスをくれた。始めから私には走る道しかないことを分かっていた。失いたくない、と思った。私がしたいと思うこと。興味を持つこと。それを伸ばして行きたい意欲がある限り、止められないと思った。
私の十代は、どうせなら走ることで締め括ろう。それが私の十代だと、胸を張って。