第86話 ジェイさんの蛇勢
青い、いや、濃紺の影を追跡するジェイ。この辺りまでは月明りは入らないようで、廊下は真っ暗だ。
それでも影はすいすいと進んでいる。自前かどうかはともかく夜目が利くのだろう。
ジェイも暗闇の中での戦いは多少経験がある。引き離され過ぎない限り見失う事も無さそうだが、周囲の状況が気になった。
真っ暗な廊下には、控え室などに使われる部屋への扉が並んでいるのだ。
影は、どこに向かって逃げているのだろうか。
もしジェイが考える通り影の正体が幕府の部隊であれば、考えられる可能性は二つ。
仲間の下へ逃げて共にジェイに対処するか、仲間の存在を知らせないために囮となって別の場所に逃げるかだ。
おそらく彼等は、この闘技場に潜伏していた。
幕府の和平反対派を警戒し、南天騎士団の目が厳しくなった町。試験期間に入り、部活などでも使われていなかった闘技場。
彼等の正体が何であれ、一時的に退避するには丁度良かったのだろう。
試験期間中である事は町でも噂になっているので、知るのは容易いはずだ。
もし自分が相手の立場ならば、この状況でどうするのか?
思考を巡らせている内に、影が角を曲がった。外に向かおうとしているらしく、正面玄関に近付いて行く。
だがそれは、ジェイにとってはチャンスだった。
「『添』!」
暗闇の中に紛れたジェイの影が、逃げるその足下に向かって伸びていく。正面玄関に差し込む月明りが生み出す影に向かって。
これは『影刃八法』のひとつ、自らの影の一部を対象のそれに付ける魔法だ。『添』付された影が目印となり、相手の位置を把握する事ができる。
そのためには分かる形で「相手の影」が必要となるが問題無い。正面玄関では、差し込む月明りが影を生み出しているのだから。
危険を感じ取ったのか、影は咄嗟に跳躍して攻撃を避けようとする。
しかし、どれだけ高く飛ぼうとも、影は地から離れる事はできないのだ。暗闇から伸びた影は、そのまま相手のそれとつながり、『添』が発動する。
攻撃されると思って回避し身構えていた相手は、何も起きない事に首を傾げる。
しかし、ジェイが近付いてくる事に気付くと、そのまま踵を返して逃げて行った。闘技場の外ではなく、正面玄関を通り抜けた向こう側へ。
幽霊騒ぎで学園内の警戒も強まっているので、外に出るのを避けたのかもしれない。
ジェイはその後を追わない。行き先は『添』で把握できる。
それよりも気になる事があり、彼もまた踵を返して来た道を駆け戻って行った。
一方、遅れてジェイ達を追っていた明日香達は……襲撃を受けている真っ最中だった。
彼を追っていたところ、背後から奇襲。それには明日香が気付いて対処できたのだが、前後の部屋から飛び出してきた者達に囲まれてしまったのだ。
ジェイが気になっている事、それは逃げる影が囮になっていた場合、仲間は一体どこにいるのか?
そう、廊下に並んでいた扉、控え室の中だ。囮は中にいる仲間に気付かれないよう、そちらには目もくれずに真っ直ぐに逃げて行ったのだ。
前後三人ずつ、計六人が通路を塞ぐ。全員青い影と同じ、闇夜で目立たない紺の装束に身を包んでいる。
同じく紺の覆面で顔を隠しているが、装束の方は動きやすさを優先しているのか体形は分かる。男四人に女二人といったところか。
手にした武器は短めの刀。最近はセルツにも流れて来ているので、これだけではダインの者とは断定できない。
明日香は正面からだけの敵に後れを取らないし、自衛だけはできるロマティが背中をカバーしている。
しかし、相手も手練れだ。二人は囲みを切り抜ける事もできず、明日香がロマティを庇う形で徐々に追い込まれつつあった。
「この剣筋……やはりダインの者ですねっ!」
剣を交えていた明日香が気付く。目の前の者達が振るう剣術がダイン武士の剣術である事に。
「あたしを、龍門伊織明日香と知っての狼藉ですか!?」
今この島に幕府の者がいるとすれば、それは和平反対派の者達。分かっているが、あえて明日香はそう声を張り上げた。
対する相手の反応は、無言の構え。相手が幕府の姫であっても構わないという事だ。その気迫に、明日香は思わず一歩下がる。
最悪自分を囮にしてロマティを逃がす事を考えていた明日香。しかし、これではそれも難しいだろう。
姫だからといっても身の安全を担保されそうにないし、そこまでやる以上目撃者を逃がすとも思えない。
「御命頂戴ッ!!」
男の声を皮切りに、六人が一斉に攻撃を仕掛けてくる。
斬るのではなく、突き刺す。殺意の込められた攻撃。ロマティが咄嗟に明日香を庇おうとするが、明日香はそれを制し柄を握る手に力を込めて迎え撃とうとする。
「『射』ァッ!!」
丁度その時だった、ジェイが戻ってきたのは。
手加減無しの影の矢が容赦無く六人に襲い掛かる。二人は不意を突かれて背中に直撃。
四人は避けたが、影の矢は弧を描いてそれを追い掛ける。一人が逃げきれず、そのまま腕に矢が突き刺さった。
突き刺さった矢は形を変え、そのまま床に、壁に、三人を拘束する。影の猿轡を噛ませて、声を上げる事も自害する事も許さない。
「生存者確保……っと」
ここでジェイ自身が姿を現し、残りの刺客から明日香達を守る位置に立った。
男二人に女一人、残りは三人だ。
「ジェイっ!」
「すまない、少し遅れた」
そう言いつつも、視線は刺客から外さない。
ロマティは緊張の糸が切れたのか、その背中を見つめながらへなへなとへたり込んで腰を落とした。
「ジェイ、そいつらダイン武士です!」
明日香の方はまだ堪えられるようで、それを彼に伝える。
「やっぱり和平反対派か……」
その呟きに、三人はピクリと一瞬だけ反応を示した。
しかし攻撃はしてこない。彼等も気付いているのだろう。目の前に立ち塞がる男が、ダイン幕府最強の龍門征異大将軍輝隆を撃退した『アーマガルトの守護者』である事に。
「チッ!」
先に動いたのは刺客の一人、袖から小刀を数本取り出し、投げる。
「わざわざ生かして捕らえたのに、死なせると思ったか?」
狙いは捕らわれの三人。しかし、それはジェイの伸ばした影が叩き落とした。
情報が漏れないよう、捕らわれた仲間を殺して口を封じる。任務を第一に考える者達ならばよくある話だ。ジェイは経験上、それを知っていた。
そして、それをやるという事は、刺客達の意志は逃げに傾いているという事だ。
「……明日香、ロマティを連れてそこの部屋に。最低でも一人、まだ逃げ回っているから扉以外も気を付けろ」
「分かりましたっ!」
明日香はすぐさまロマティを助け起こし、手近な――刺客が飛び出してきた以外の部屋に入った。これで彼女達も一息付けるだろう。
それを見届けたジェイも、ひとまずではあるが二人の安全を確保できて一安心である。
その間、刺客も動く事はできない。ジェイは背を向けているが、伸びる影の先端は彼等に向けられたままだったのだ。
「ふー……」
ジェイは大きく息を吐き、そして改めて三人の刺客に向き直る。
「お前達、感謝するんだな……明日香の腕に」
刺客達は返事こそしなかったが、訳が分からないと覆面の隙間から覗く眉を怪訝そうにひそめている。
「……分からないか? お前達は、明日香だと認識した上で攻撃した……つまり、姫だからといって無事に確保するつもりもなかったんだろう?」
セルツ側の都合によるものだが、ジェイと明日香はまだ結婚していない。あくまで許婚であって、縁談はまだ完全に成立したとは言えない。
そのため正式に結婚する前に明日香を害する事で、破談にする事は可能なのだ。
だからこそ、彼等は明日香だと知っても攻撃の手を緩めなかったのだろう。
「だが、明日香は切り抜けた。無傷でな……だから、感謝しろ」
「どういう事だ!?」
理解できない物言いに、刺客の一人が声を上げた。
しかし、返ってきたのは言葉ではなく影。伸びた影が男の頭に巻き付き、そのまま壁に叩き付ける。
「怪我ひとつでもさせていたら、悠長に生かして捕らえたりしてないって事だッ!!」
その言葉と同時に蛇のように鎌首をもたげる影。八岐大蛇にようになったそれは、彼の手の動きに合わせて刺客達に襲い掛かった。
今回のタイトルの元ネタは、『孫子』の故事「常山の蛇勢」です。
先陣、後陣、左翼、右翼が攻防で協力し、敵に隙を見せない陣法という意味もありますが、『影刃八法』を使っている時のジェイがそれに近い状態といえます。




