第85話 闘技場の怪人
全速力で青い影を追う明日香。しかし、追い着く事ができない。
青い影は走る素振りも見せていないというのに、まったく距離が縮まらないのだ。
「もしかして、飛んでるんですか!?」
明日香が悲鳴のような声を上げるが、青い影はまったく反応しない。直立不動のまま地面を滑るように進んで行く。
その動きは、人の不審者だとは思えない。明日香は、自分が追跡しているのが人なのか幽霊なのかが分からなくなっていた。
その少し後を、ロマティを抱き上げたジェイが追っている。
「この道って……校内闘技場に行く道ですよー!」
真っ先に気付いたのはロマティ。
彼女が推察した通り、青い影は尚武会でも使われた校内闘技場に近付いて行く。
「あ、あれ……?」
しかし、校内闘技場に近付いたところで明日香は影を見失ってしまった。
キョロキョロと辺りを見回しているところにジェイ達が追い着き、そこでジェイはロマティを降ろす。
揺れない地面に足が着いて落ち着いたのか、ここにきてロマティが頬を染めてもじもじしはじめた。許婚の明日香に何か言われるのではないかとチラチラ様子を窺う。
しかし明日香の方は、抱き上げられたロマティを見ても特に気にした様子は無い。
当の明日香は、自身に経験が無いとはいえ、戦場で救出のために人を運ぶのは珍しくもない事を知っているのだ。
それはそれとして、後で自分もやってもらおうと考えていたりはするが。
「明日香、青い影は?」
「それが姿が見えなくなっちゃって……」
ここは尚武会だけではなく、実技の授業や、武芸関係の部活などにも使われている。
周りは芝生と舗装された道で、見通しは良い。この状況で見失うほどの距離では無かったはずだ。
考えられるとすれば……。
「この中、か?」
校内闘技場を見上げるジェイ。釣られて二人も見上げるが、闘技場は暗く静まり返っており、人気が無い。
当然の事だが、正面玄関の鍵は閉まっている。
「ジェイ、鍵閉まってます!」
「……素通りしたのか?」
その時ジェイは、幽霊が扉をすり抜けたのではないかと考えてしまった。普通ならば誰も通っていないと考えるところなのに。
それに気付いたジェイは、不審者を前提に考え直す。
魔法国時代には本物の闘技場として使われていただけあって、古風なその建物は二階以降は窓ガラスも無い。魔法を使わずともロープひとつで忍び込めそうだ。
彼が知る幕府の特務部隊のレベルを考えると、明日香に気付かれぬ内に城内に入るのも不可能ではない、かもしれない。
むしろ問題は、ここで時間を浪費する事で中に入ったかもしれない青い影を逃がしてしまうかもしれないという事だ。
「俺は中を調べてみるから、明日香はロマティを連れて……」
「それだと、ジェイが一人で……!」
「大丈夫ですー! 身を守るくらいできますよー!」
明日香にロマティを預けてこの場を離れてもらおうとするが、二人は反対。
ここで時間は掛けられない。ロマティは、防戦については尚武会でも結果を見せた。いざという時の逃げ足もあると判断し、三人で調べてみる事にする。
「じゃあ、魔法を使って二階の窓から入るぞ」
一人がジェイの背中にしがみつき、もう一人は先程のロマティのようにジェイに抱き上げられて行く。
「じゃあ、あたしを抱っこしてください!」
判断が早い。ロマティも反対はしなかったので、ジェイは腕で明日香を抱き上げ、背中にはロマティにしがみついてもらう。
明日香は楽しそうで、ロマティは少々恥ずかしそうだ。しかし、後者も潜入調査のワクワクには勝てず、興奮気味に首に回した腕に力を込める。
そんな二人に挟まれた状態で、ジェイは鉤爪のようにした影をロープのように伸ばして二階へと登った。
縮める事で身体を持ち上げる事もできるので、腕は明日香を抱いたままでも問題無い。
中に入ると薄暗く、尚武会で来た時とは雰囲気がまるで違う。
「暗いですね……」
ガラスの無い窓から差し込む月明りにより、石造りの床や壁が青白く光って見えた。
その色があの青い影を彷彿とさせて、明日香とロマティは肩を震わせる。
明日香はひしっとジェイに抱き着き、ロマティはジェイから離れるのも忘れて、その背にしがみついている。
「……青い影が逃げるかもしれない。探すぞ」
そしてジェイは、そのままでいたい願望を振り払いつつ、急ぎ調査を進めるために二人を降ろすのだった。
「ねえねえ、ロマティ。ここでも事件とかあるんですか?」
「事件というか……鍛錬中に事故は付きものですしー、その…………決闘する時に使われるのがここなのでー……」
学園での婚活において、一人の女性を巡って決闘する二人。よくある……とは言わないが、珍しい話ではない。最近は性別が逆のパターンもあったりする。
なおジェイ達が入学してからは、まだ一回も決闘騒ぎは起きていない。
決闘こそ婚活の華という意見もあるが、そこは賛否が分かれるところだ。放送部的に、盛り上がるネタである事は確かではあるが。
「……死人が出る事も?」
「調べてはいませんけど、決闘となるとゼロではないでしょうねー」
つまり幽霊が誕生する可能性もゼロではないという事だ。
「グラウンドの方を見に行くか」
「決闘するなら、そこですね」
幽霊優先の思考になっているが、無視もできないといったところか。三人はまず尚武会の試合場があったグラウンドを確認しに行く。
人気の無い廊下を進み、一階に降りる。三人の距離が心無しか近くなっているのは仕方がないだろう。
そのままグラウンドに出ようかというところで、ふとジェイが足を止めた。
「ジェイ、どうしました?」
「いや……」
言葉を濁しながら視線を向けた先は、グラウンドではなく控え室に続く廊下。
具体的に何かがあった訳ではない。しかし、何かを感じ取った。
無論、幽霊の存在ではない。
似ているのだ。言うなれば、空気が。
「……ロマティ、尚武会以降ここって使われてるのか?」
「そりゃ部活とかで……ああ、試験期間中は部活もお休みですねー」
「夜は管理人がいたり?」
「闘技場の、ですか? それはいないはずですよー」
学園全体を守る夜警はいるが、闘技場専門の人はいないとの事だ。
「なるほど……」
そこまで聞くと、ジェイは控え室側の廊下へと進み出した。
明日香とロマティは顔を見合わせ、そして彼の後を追う。
足早に進むジェイ。第五次サルタートの戦い以降、幾度となく幕府軍との戦いを繰り広げて来た彼。空気が似ていると感じたのは、その経験故だ。
廊下の角を曲がったその時、ジェイは視界の端にそれを捉えた。
それは向こう側の角を曲がって行ったであろう何か。一瞬の事で服の裾か剣の鞘か何かまでは判別できなかったが、確かに何かが角の向こう側に消えていった。
おそらくジェイのスピードが思いの外早かったので、逃げるのがほんの少し間に合わなかったのだろう。
ジェイは声を出さずに走り出す。ロマティは後を追おうとしたが、彼が足音を立てていない事に気付いた明日香がそれを止めた。
一人先行したジェイは角を曲がり、ハッキリと前方にいる者の背中を確認した。
青というよりも、闇夜で目立たない紺の衣服。その人物は武装している。先程の見えたのは腰の鞘の先端だったらしい。
間違いない。その背は幽霊ではなく人間のものだ。
その出で立ちは、ジェイの知る幕府軍の潜入スタイルに近かった。
相手はチラリとジェイの方に視線を向け、更にスピードを上げる。
「潜入者だ! 二人とも来い!」
追跡がバレたならば、黙っている理由も無い。ジェイは声を張り上げて明日香達に敵の存在を知らせると、自らはスピードを上げて追跡を続けるのだった。
今回のタイトルの元ネタは、『オペラ座の怪人』です。
原題では「ファントム」なので、幽霊の可能性もまだ微レ存?




