第232話 オーサの矛盾
「ハァ……! ハァ……!」
夕闇に染まる通り、オーサは息を切らせながら駆け抜けていく。
高城家との縁談話を聞いた彼は、気付くと家を飛び出していた。
どうしてこうなった。そんな疑問が、頭の中をぐるぐると回っている。
大声を上げたいのを堪え、ギリッと歯を食いしばり、そのまま走り続ける。
彼には魔法使いの才能があった。武芸の腕も幼い頃からソックより優れていた。
だがソックは長男というだけで家も幼馴染のタルラも手に入れる事ができて、オーサは弟というだけで何も手に入らない。そんな事は分かり切っていた。ずっと。
何故だと思ったのは、憤ったのは、一度や二度ではない。
初めてそう思ったのはいつだったか。魔法が使えるようになった日か。剣の練習でソックに十連勝した時だったか。
それとも……その後、ソックの手当てをしているタルラを見た時だったか。
「うおぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
耐え切れずに飛び出す叫び声。周りの人達は何事かと振り返るが、オーサは更にスピードを上げて、そこから走り去るのだった。
気付けばオーサは、十勇士を預けた寺院の境内にたどり着いていた。
ここは佐久野家の菩提寺。子供の頃から何度も来ている場所なので、気付かぬ内に足がこちらに向いていたようだ。
「おや、どうされましたかな? 若殿」
先程対応してくれた住職が声を掛けてきた。禿頭だが剃り上げているだけだ。年の頃は中年ぐらい。細身だが華奢ではなく、ガッシリした印象を受ける体格だ。
この住職とも幼い頃からの顔見知りである。基本的に親が応対するので親しいという訳ではないが。佐久野家の兄弟から見れば、親戚のおじさんぐらいの感覚だろうか。
「彼等に何か用ですかな?」
「あ、いや、そういう訳では……ああ、あいつらおとなしくしているか?」
「旅の疲れもあったようで、今は休んでいるようですが……ふむ」
住職は顎に手を当てて、じっとオーサを見る。
深く追及するため咄嗟に用をでっち上げたオーサだったが、その視線に見透かされている気がすると感じてしまう。
「……くっ」
小さい頃から知っている、いや知られている相手。この住職は礼法に精通しており、故事にも詳しい。この辺りの相談役みたいなポジションにいる。
それだけに耳聡い面もあって、オーサは少々苦手意識があった。
しかし、ここでふと気付く。彼ならば祖母ヤマツに対しても影響力を発揮できるのではないだろうかと。
「あの、一方的に婚約を破棄する事を、どう思われますか?」
「ほう……? そうですなぁ……」
もう少しぼかした方が良かっただろうか。口にした直後にオーサは考えたが、もう遅い。
住職の方は少し視線を上げて考え込み、やがてこう答える。
「破棄の理由次第ではありますが、一般的にはあまり外聞の良い話ではありませんな」
「おお、やはりか!」
声色に喜びが混じるオーサ。その方向でヤマツを説得できるのではないだろうかと。
「ですが……」
「ですが? 何だ? 何かあるのか!?」
「新しい縁談がセットであれば、破棄する事によるデメリットと、新しい縁談で得られるメリットを比べる必要がありますな。新しい縁談で得られるメリットの方が勝れば……」
「ぐぬ……! じゅ、住職がそんな考えで良いのか!?」
「よろしくはありませんなぁ」
そう言ってカラカラと笑った。
オーサは睨み付けるが、彼を口を開くよりも先に住職が言葉を続ける。
「ですが、若殿が言っているのは華族の話なのでしょう? それならば家の利益を無視する訳にはいきませんぞ」
「むっ……!」
きれい事だけでは済まないという事である。
これにはオーサも反論できなかった。何せ嫡男ソックではなく強いオーサの方を跡取りにという主張も、それと同列の話と言えるからだ。
そしてメリット自体は、明らかに高城家との縁談の方が大きい。
なにせ芽野家との縁談は、末端に近い家同士のものでメリットなど考えられていない。
むしろ騎士隊長家に嫁を出せる芽野家の方にメリットがあると言える。
対して高城家との縁談は、魔法使いが減ってきているとはいえタルバでは今なお権勢を誇る『純血派』とのつながりが持てる。それが佐久野家のメリットとなる。
しかし、その辺りの事は住職には分からない。何せオーサは、どこの家の話かも伝えていないのだから。
そして彼自身、自分が佐久野家の次期当主になるということを当たり前のように考えていて、そこで認識のズレができていることに気付いていない。
「これ以上の事は、時と場合によります。一般論では語れませんな」
俯き、握った両の拳をわなわなと震わせるオーサ。
耳が痛い。だが、それだけにヤマツに対抗できるのではとも思える。
ここで退いても仕方がない。更に踏み込むしかない。
「……お、お婆様が、高城家との縁談を勝手にまとめてきたのだ! それで、芽野家との縁談を破棄すると……!!」
「ほう、破棄……」
「そうだ! 勝手な話だろう!?」
自分が兄から後継者の座を奪おうとしてる事はどうなのか?という事には気付いていない。
「それまた不思議な事を」
「何が不思議だ!?」
「芽野家からはソック殿に嫁入り、オーサ殿は高城家に婿入り、めでたい話です。破棄する必要などどこにもないではありませんか」
「えっ? あ……いや……」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
しかし、オーサは気付く。誰と誰の縁談かを言っていない事に。
オーサが勝手にまとめてきたと怒っている事を踏まえれば、まだ縁談が決まっていない彼の話だろう。と考えるのが自然である。
ソックに二人目の婚約者という可能性も考えられるが、いずれにしてもわざわざ芽野家との縁談を破棄する必要は無いだろう。
「だから、それは……!」
両方自分の話だと言い返そうとして、言葉を詰まらせるオーサ。
耳聡い住職の事なので、最近のヤマツとオーサの動きをあえて知らない態で話しているというのも考えられる。
「ぐっ……ぬぅ……!」
結局彼は、それを告げる事ができなかった。
「あれ、どうかしたんですか?」
その時、十勇士の一人が境内に出てきてオーサに気付いた。
今の姿を見せたくない。そう感じたオーサ、彼に返事をする事なく踵を返して走り去る。
「くそっ! くそぉ……!」
寺院を飛び出したオーサは、呻き声を漏らしながら走る。
言えなかった。住職に、佐久野家の後継者になるのは自分だと。胸を張って言う事ができなかった。
もし言って、住職に「よろしくはありませんなぁ」と言われた時、自分は耐えられただろうか。そんな疑問が頭を過る。
言い知れぬ敗北感。寺院に向かって走っていた時よりも息苦しく感じられる。
やがて走り続ける事ができなくなり、歩調は鈍くなる。
打ちひしがれたような足取りになったオーサが向かったのは……タルラの家、芽野家だった。
家の前で扉を叩いていいものかとためらうオーサ。やはりこのまま帰ろうかと考えたその時、芽野家の扉が先に開いた。
中から出たのは芽野家の夫人、タルラの母だ。当然オーサとも面識があるが、今は顔を真っ赤にして人相が変わっている。
もしや、祖母がまた勝手に縁談破棄を伝えたのか。それは誤解だと言うべきか。言っていいのか。そんな事を考えていると、夫人が勢いよく近付いてきて、オーサの襟首を掴む。
「オーサ! あなた、タルラをどこにやったの!?」
「はぁっ!?」
「タルラの姿が見えなくなったのよ! あなたじゃないの!? さっき家の前にいるの見たわよ!?」
タルラがいなくなった。彼女の口から飛び出た言葉は、オーサにとっても予想外の事だった。
一方その頃、当のタルラがどこにいたかと言うと――
「お嬢様、こちらです」
「ありがとう。上手く町を出る事ができたわね。急ぎましょう」
――供の者を連れて、既にタルバ王都を出ていた。
南に向かう街道に出たタルラは、華族学園があるであろう、南の空を見つめる。
「ソック、今行くから……!」
そう、彼女は自力でソックの下に向かおうとしていたのだ。




