恋について語る我々のための迷惑な呪文
世に倣って言えばオールドミスまたは行き遅れと言ってよい私にしては青天の霹靂ともいうべき嵐のような恋だった。
我々はある日、主に業務上の偶然から出会い、とある場所に出かけ、礼節の伴ったいくつかの会話を交わし、取引は合意となりにっこり笑って書面をかわそうとしたのだ。
そしてよくわからないが恋に落ちた。
彼しかいないと唐突に熱病のような思いに襲われて、それは私だけかと思いきや彼もまた同じ思いだったようで、そのまま職場には直帰の連絡だけいれ、速やかにパブに飲みに行った。
そのまま私は家に帰らず週末を彼と過ごして、日曜日の夕方にのろのろと自宅に戻ったが、一か月後には彼の家に幾多の私物を持ち込んでいた。そのまま一年間をいわゆる熱愛状態で過ごしたところで、彼から求婚された。
もちろん断る理由なんてない。
ないけど、そこでなんか初めてあれっ?って思ったのだ。なんだかわからないけど、これが正しかったのだろうかと。目の前で跪き、私に婚約指輪を差し出している彼もまた、そのままの姿勢で違和感を覚えていることがわかった。
我々はとても親しかったので、そういうことまでよくわかってしまったのだ。
その違和感について話し合いを重ねて。
そして我々は吹っ飛ばしてきた経過のひとつである「友達」になった。
そこまでが二年前の話。
「メグ!」
バーの奥の席でレックスが私を呼んだ。多分十分ほど早くついたのだろう。駅前の大通りから一本入った路地のバーは週末ということもあって混雑していた。テーブルと椅子と人の隙間をぬってそこにたどり着く。
「遅かったな」
「今回の物件、相続人が三人いてそれぞれ仲が悪くて、間に立ってつらい」
私が一気に話すと、お疲れさんと言う代わりにレックスは店員に声をかけてピルスナーを頼んでくれた。確かに変な言葉よりもそのほうがありがたい。一瞬でも早くアルコールを補充したい。レックスが先に頼んでいてくれた私の好みにぴったりなつまみが嬉しい。
「俺も全然研究が進まなくてつらい」
レックスは肩をすくめた。その美男子ぶりがなかなかに際立っている動作だ。
レックスは私よりもニつ年下だ。仕事が行き詰まるとバカのように甘いものを食べまくることもあってちょいぽちゃになったりするが、ちゃんと余裕があって鍛えている時は、その大柄な体格もあって実に美男子になる。その端正な顔立ちとは裏腹の人懐こい笑顔が実に愛嬌があって可愛い。短い金髪の後頭部が今日もまた跳ねている。
ふと、店内の人間に話声ではない人の声が耳に入ってきた。顔を上げて棚の上を見るとそこには電信装置の機能を付与された禍石が淡く短い波長の発光を繰り返していた。
我々の文明は禍石によって成り立っている。現代では我々の文明よりさらに昔……数億年単位での過去に、幻獣文明というものが存在していたとわかっている。彼らの朽ちた体は経年や地層の重さによる圧縮で変容して禍石となる。禍石には多くの力が備わっており、それらを引き出す呪文によって機能を発揮すのだる。呪文を引き出す力や禍石の理解は多くの人間は備えているが、その能力には強弱がある。
単純に言えば禍石を資源として我々は魔法を使う。
使えない者はいないが、私のようにそれほど有能でないものから、レックスのようにそれで食べていくことができるくらいの器用な魔法使い、あるいは世界を変えかねない優秀な魔法使いまで能力はさまざまである。まあ魔法が苦手だからと言って別に生きづらいということはない。魔法の魔法たるゆえんともいうべきか、魔法が苦手な人間でも発動の呪文だけで、禍石にあらかじめ魔法使いが仕込んだ様々な機能の呪文を発動させることができる時代だ。
今から二百年前、わが国には歴史……否、世界史に残るレベルの大魔法使いがいた。そのものが大きく仕組みを変えたのだ。
まあ二百年前のことは世界史だけ知っていればいい。今、私は、五年前に始まって七年間続いてようやく終わったクソ世界大戦の戦後処理と、三年前の突発的な大恋愛から友人関係に落ち着いたレックスとの日常で精いっぱいだ。
「で、今日はどうなさった。今度はブルネットか赤毛か金髪か」
私の問いにレックスはつんと口をとがらせる。くっ、無意識なのにあざとかわいい真似を……。
「またダメだった!」
「やっぱり~」
私は本題の開始を知らせるかのように到着したピルスナーを店員から受け取った。ビールのかろやかな黄金が美しいったら。
「じゃあ推定一昨日終わったらしいレックスの失恋話を聞こうかね」
「人の失恋話を肴にして酒飲むとか鬼畜の所業だぞ」
「明日も仕事なのに愚痴をきいてあげるんだから肴くらいにさせろ」
私がグラスを掲げると、レックスは溜息一つついて杯を合わせた。チリーン。
「今回は、なかなか最低で、『他の人を好きになっちゃった』でした」
「ほほう、それはなかなか興味深い」
レックスはモテる。まあ見た目は文句なしだし、私がここに来た時には好きなつまみを並べて置いてくれたり絶妙のタイミングで酒を頼んでくれたりという気遣いがあって、そして言葉にユーモアがあっていつも楽しそうだとか。あと余談だがいくつかの呪文で特許も取得しているので素敵な高収入男子でもある。
女性から好かれる要素が盛りだくさんの男だ。
本人もそれを理解しているし楽しんでいるから、まあそれはそれは浮いた噂だらけなのだ。ところがどっこい問題はなぜかそれが長続きしないということらしい。
もともと私と付き合う前にもそういう傾向はあったようで、だからこそ当時ももう二十九歳だったにも関わらず結婚してなかった。その上私との婚約が一瞬で破綻してしまってから、さらに輪をかけて縁遠くなってしまった。いや、ご縁はたくさんあるんだからこういう場合はなんていうべきなんだろう?
とにかく破局までの起承転結がスピーディ。
惚れる、両想いになる、別れる。起承転結じゃない、三つで足りた。
これがとにかく遊び人で付き合ってちょっと楽しい思いをしてお互いに満足して別れました、ならいいんだろうけど、レックスの気の毒なところは本気で誰かと誠実にまとまりたいと願っているところだ。
「実は上司から見合いの話も来ている」
「すごいじゃん!」
私はレックスの背中をバシバシと叩いた。……どうだろう、ちゃんと普通通りの私の対応だろうか?
「でもなんか自信ないんだよな」
ありがたいことにレックスは私の内心など頓着しないで話を続けてくれる。
「多分、俺も悪いんだとは思う」
彼はエールの残りを煽った。
「今度こそ間違いないと思っても、付き合ううちにやっぱり違った……とか思ってしまうから。何が違うかはわからないんだけど」
「あのさ、我々の事を経験値にするの良くないと思うよ」
私は終わってしまった過去を率直に口にした。
「とんでもない勢いがあったから、レックスは次に出会う何かにもあれくらいの勢いを求めているのかもしれないけど、でも結局ダメだったじゃないか」
「勢い」
「そう。勢い、瞬間風速、なし崩し」
「最後の違くないか?」
「ともかく、次にあるべき本物の何かは今までとは違う形をしてるんじゃないかと思う」
「違う形って?」
「知らん」
良いこと言うように見せかけて最後突き放した!とレックスが抗議の声を上げる。今日は絡んでくるタイプの酔い方か、めんどくさいな!
なんて思いつつも我々は酒を飲み続けるのだ。
我々は別れた後も友情を続け、酒を飲み、ソーセージとフライドポテトを貪り、ナッツの殻を床にまき散らしている。無意味な会話と共に。
「まあほら……選ぶ機会が多ければ、いつか見つかるって」
「メグに同情されるとか……俺はいったいどうなってしまったんだ。戦争で頭打ったんだろうか」
レックスの右のこめかみには怪我の跡が残っている。彼もまた徴兵されて戦場に行った過去がある。なかなか有能な魔法使いとして、活躍したが爆破型呪文の余波で吹き飛んできた石で頭部を打撲して撤退した。
もしかして頭を打ってどこかアレになったから私と付き合ったんだろうか。
そう、レックスが私と付き合った理由というものを私はいまだに納得できないでいる。
さっきも言ったとおり、彼は多くの女性に愛される資質を持っている。
それは出会った時もそうだった。実にさわやかに笑って『今日はお世話になります。身内らしい身内もいなかったので、突然の相続の話に驚いていますけど』なんてはにかんで言ったのだ。かわいい。
三年前の私ときたら、いい年して付き合った相手もろくにおらず、ただ長い戦争で若い男と優秀な魔法使いは戦場に駆り出されていったから、町は人がいなかった。そして戦争が終わってみれば仕事は盛沢山だった。幸運にも公務員として潜り込んで、ぱっとしないまでも生きるに足る仕事をしているだけだ。英雄にも誰かの妻にもうまくなれなかった。
そんな私になぜ惚れた、レックス。
だから逆を返せば私が求婚の瞬間にレックスに感じた違和感も妙な話だ。だって私には優良すぎる物件だ。この波に乗っておけよ、と今なら思うけど、あの時はどうしたってその違和感に耐えられなかった。
もったいないな、と今でも正直思う。
でもまあ、お互いに冷静だったから、充実した話し合いの末に穏健に恋人関係を解消し、今でも友達として続いている。
多分私は、彼が誰かを好きになって、それが運命で、改めてその相手に美しい指輪を差し出して……そして今度こそ受け取ってもらえたなら、ちゃんと喜ぶことができるだろう。女性なので彼の独身最後の日の乱痴気騒ぎの会には混ざることができないけれど、翌日の式ではちゃんと彼らの永遠の幸福を祈ってやることくらいはできる。
多分ね。
「まあ、あまり調子にのらない方がいいんじゃない?相手からの心変わりならいいけど、別れ話になって揉めて刃傷沙汰とか洒落にもならない」
「あ、それはもうあった。別れるに非常に苦労して、最終的に禍石沙汰だった。サラマンダーの禍石だったからあと一節分呪文を唱えられたら、一ブロック分吹き飛んでた」
「わあ、すごく優秀な魔法使い!」
「なんとか説得に応じてくれて、今は留学してる」
「将来を棒にふらないでくださって良かった……ぱっとしない男のことなど忘れて国家と魔法の未来に尽くして頂きたい……」
ド派手な痴話喧嘩の話を聞いて、震えあがりつつも酒の追加をする。
「多分、どこかで会えると思うんだ」
酔いが回ってきたのかレックスは夢見るように言う。
「メグと最初に会った時みたいな、何か圧倒的な運命に」
最初に会った理由、それは私の仕事だった。
とにかく戦争で沢山死んだ。この首都も何度も砲撃を受けて町の何割かは吹き飛んだのだ。建物も住人も十分すぎる数が壊れた。
勝ちも負けもないような世界大戦だったけど、二度と這い上がれないような致命的なところまでは追い込まれずに終わることができたことだけはわずかな幸運だ。
首都は再開発の時代になっている。
でもあまりにもたくさん人が亡くなりすぎて土地の所有者について混乱が甚だしい。戦争に担ぎ出されて命を失った優秀な魔法使い達は概ねもともと国の中枢におり、したがって先祖代々の資産家も多かった。登記も砲撃で散逸して、所有者を見つけて交渉をすることに難渋している。とはいえやらなければ町の再開発は進まない。
それが私の仕事だ。
私が担当したその首都の外れの屋敷の所有者を探すことは困難を極めたが、やっと見つけることができ、それがレックスだった。
そもそもその屋敷は非常に古く、歴史が長い。本来の所有者から委託される形で管理者がおり、とはいえそれはもはや贈与に近く『誰の物』なのかは宙ぶらりんであった。多分戦争がなかったとしてもよくわからない状態だったのだ。戦争があって関係者が多数亡くなったために候補者が絞られたという皮肉な見方もできるくらいだ。
歴代の所有者や管理者はここを住まいにすることはなかったが律義に別途管理会社に委託しており、放置された年月のわりに状態は悪くかなった。
登記を済ませて、土地を国家に売る手続きを進める段取りもサクサクすすんだ(この場所は屋敷を撤去し更地にされて住宅地になる予定である)。
ところが。
売買前にレックスは屋敷の中を見てみたいと言った。承知して我々はその屋敷に向かったのだ。案内役として私が選ばれたのは、面倒かつ業務が増えるだけだったので他の人間がやりたがらなかっただけである。
今まではずっと手紙で、そこで初めて顔を合わせたのだ。
ハンサムだったので、まあ眼福と思いながら屋敷に入り込んだ。
広い敷地内に立つその屋敷は薄暗く、あまり長居したくなるものでもなかった。でも木を切って日の入りを良くすれば悪くないのかもしれない。外から見れば二階建てだが、中に入れば屋根裏や地下室もあって愉快な……悪く言えば子供っぽい感じの家だった。
「本来の持ち主はわからないんです」
「そもそもの持ち主、という意味ですよね。不明です」
ただ、魔法使いであったのだろうということは、並んだ書物からわかった。レックスが本棚の前に立ち、書籍の名前を呼んでいる。
そして足を止めた。
「ここ、なんか奇妙ではないですか?」
呼ばれて近づいてみれば、本棚の最上部の横板が不自然に飛び出ていた。
「あそこだけ腐っているんでしょうか?
「歪みではないと思いますが」
レックスはそう言って棚板に触れるべく背伸びした。非常に無頓着に。
だからその指先は棚板ではなく、横にあった古ぼけた陶器の小物入れに触れてしまったのだ。落下したそれは床に落ちて埃のような何かを舞い上がらせた。
噎せながら我々は避ける。レックスが私をかばうように抱き込んできた。遠くで小さなかちんという音がしたような気がしたが、それどころではなかった。
「大丈夫ですか」
レックスが自分もゲホゲホ咳き込んで訪ねてくる。
「大丈夫です、小物入れは大丈夫でしょうかね。壊れていたら弁償を」
「いやそれは俺のせいなんで」
レックスの言葉が途中で奇妙に途切れた。ありえないくらいの近い距離で私は彼を見上げる。彼は妙に熱のこもった眼で私を見下ろしていた。
レックスの瞳がきれいな緑色だと気が付いたのはその時だ。
唐突に情熱が沸き上がったことは互いに恐ろしくはっきりと分かった。
そういう経緯でお付き合いを始めて、まあ結果的に別れた。
「それでレックスはあのお屋敷の件どうするの?」
「ああ、あれね」
私の仕事は相続人を探して状況を説明して、必要があれば屋敷まで案内する。そこまでだ。あとの金額等の交渉はまた別部門の話。別にあの屋敷を所有したいという願望はなかったらしいレックスなので、あっさりそれを売却するかと思ったのだがそうしなかった。まあ一年間は私と同じで頭に花が咲いていて恋愛沙汰にきゃっきゃしていたので、屋敷の事については完全に思考能力を失っていた。
すなわち放置。
当時、契約担当部門からは、早く売却するように説得してくれ恋人だろ!と喚かれたが私もお花畑だったので無理ですすみません。
別れてからは冷静さを取り戻して即売るかと思ったらそうでもなかった。二年間交渉は進展していない。まあそのほかの全ての物件が大体問題を抱えているので、それ自体は珍しくもない。
「まだ売ってないんだ」
即返事が返ってこないところから察した私は結論を自分から口にした。
「まあねえ」
レックスはつまみのチップスを口に放り込む。パリパリと小気味良い音がした。
「古い建物を全部取っ払っちゃえば、新しいきれいな町になるんだろうけどねえ。政府も今回は強権発動して新しい街づくりに本腰入れているし」
「あまり気が進まない?」
「いや……どうでもいいといえばいいんだけど、縁があった話だからちょっと考えようかなって」
そこでレックスは手を止めた。
「実はあの屋敷に三日ほど住んでみようかと思っている」
「えっ」
私は記憶にあるそれを思い出して眉をひそめた。
「あんまり住むには適さないのでは」
一応無事だった。それがあの屋敷のキモだけど、その比重は『一応』に係る。
爆風で二階のガラス窓の一部は破損しているし、尖塔も折れた。庭の木々は無秩序に生態系を構築している。そもそも二百年前に建てられて百年くらいは時が止まり五十年は人が(管理こそすれ)住んでいなかった建物だ。歴史的な価値を見に行くのなら興味深くても、現代っ子には住むには適さないのでは。
「うん、だから三日だけ」
「なんで?」
「もしかしたら歴史的な価値のある芸術品とか上がるかも」
「それは私が説明したじゃん!あったけど、価値があるものの鑑定はすでに行って引き取りか買い取り台に上乗せするって。これは百年前には無名だったけど今は評価が爆上がりの画家の絵画、三百年前の歴史的価値が半端ない彫像もあったし、きったない壺に見えて南部の人類文明発祥の地から発見された考古学的価値があるものだったとか。二百年前はガラクタだったけど今は目ん玉飛び出る価値があるものがいっぱいあるよって教えたじゃん!あとそういうものはもう不用心なので回収されているから屋敷には無いよ」
こいつは人の話を聞いているのか~。
「そういうんじゃなくて、なんかもっと、こう」
「何をぼんやりしたことをいっているのだ……?」
「すみません嘘です」
レックスはかこんと頭を垂れた。
「気分を変えたいだけです。上司から早く進めろと言われている研究が全然進まないからいやなんだよ。遠い場所に逃げたいんだよ!俺が今、どれだけパスポート掴んで南部のリゾートビーチに行きたいかわかるか?」
「しらんがな」
レックスはテーブルの上に片腕を伸ばしてその上につっぷした。ひさしぶりに彼のつむじをまじまじと見ることになる。
「……メグは大魔法使いの『禍石再生資源論』って知ってる」
「知らない人はいないでしょ、この国で」
禍石の発する魔力は有限だ。使えば魔力は枯渇して砕けて消える。とすれば禍石を採取しつくして使い終わってしまえば魔力自体も消えてしまうはずである。とはいえ禍石は無くなる無くなると言われつつ、いまだに新しい採掘場所は次々に見つかっているし採掘量が減ったという話も聞かない。
話は変わるが、わが国には世界に誇る大魔法使いがいたことは先ほど説明したとおりである。
まだ見つかっていない禍石の可能性に言及し(そしてその理論通りに現在新しい禍石が見つかっている)、新しい呪文を構築し、禍石と呪文の斬新な組み合わせで魔法を開発した。我々現代人もその恩恵をとてもたくさん受けているのである。
その大魔法使いは禍石の枯渇を懸念して、一つの仮説を打ち立てた。
魔力は消滅するのではなく大気中に放出されているのでおり、それを回収することができれば、魔力の再生が可能であると。
そしてとんでもなく長い呪文を構築したが、それはいまだ未完成である。途方もない天才であった大魔法使いでも、すべてを完成することはできなかった。
過去、この国では……いや世界中の魔法使いがその欠落部分を埋めるべく研究しているがいまだに欠片は見つかっていない。
「レックス、あんたアレに取り組めるほどの魔法使いであると……己を……?」
君、自己評価が高すぎやしないかね!!!
国のトップ魔法使いが集う国立魔術大学校の研究員がいまだに見つけることができていないそれを……?やだ、レックス、私が思ったより自信過剰男子だったの?
「いや俺は凡人ですけどね!」
よかった正気だった。
「まあ魔法に関しては劣等生の私が言うのもあれですが」
一応自分を省みて言い過ぎたかと私はフォローを入れた。しかしレックスは言われたことにしょぼくれているわけではないようだ。
「……つーか俺が取り組んでいる研究は、禍石再生資源論の魔法が完成されることが前提の研究なので……」
「方向変えたがいいんじゃない?損切は早い方がいい」
「俺もそう思ってはいるのだが。上司が……」
「民間研究団体はつらいね」
「言うな……」
そしてレックスはようやく体を起こした。
「というわけで俺は追いつめられている。逃げたい。手近な場所でいい」
「理解した」
相続人が自身の資産を確認したいと申し出ることは珍しいことではない。週末には彼があの屋敷に泊まれるように手配することを約束した。
「ところでもう一つ頼みがあるんだけど」
「珍しい」
別れてから我々はとても節度の保った友人関係を築いている。頼み事はあくまでも一般の友人関係に留まる者である。そして良い友人関係というのはお互いの負担になることを避けたいものでもある。
「一緒に泊まろう」
「なんて?」
いや、今さら一緒に泊まったからと言って何かが起きるということは非常に考え辛いのだが。
「怖いじゃん、あの屋敷」
……わかるよ?
ちょっと強い風が吹くと壁がガタガタ言うし、そもそも軋まない廊下はないし、窓から入り込む庭木の影は不気味だし。
「君、なんで泊まろうと思った……」
ビーチリゾートに行けよ!という言葉は気の毒なので飲み込んだ。
とはいえ、私は友情に篤い。
週末には役所の手続きをすませ、屋敷の幾多の鍵を預かり、宿泊準備の伴ったトランクを片手に屋敷の前で彼と落ち合った。私たちは週末の休みを利用して、今日仕事の後でここに来ている。
レックスは軍の払い下げのような厚地の生地のナップサックを背負っていた。
私は超重量級の屋敷の鉄門に鍵を差し込んだ。
その時点で、怪奇小説であれば二人は死んでるような因縁を感じる不気味な音を立てて門は開いた。ゴゴギギギィガガガガガガキィィィィィーーーー!みたいな。
内側はかろうじて玄関までは雑草が刈ってあるものの、庭の木々はうっそうと生い茂り、腰高までの草や低木が風に揺れている。
その前で振り返って私は尋ねる。
「ところで一応聞いておくと、今レックス、君に恋人はいないだろうな」
「いません」
「あらぬ嫉妬を浴びるとか嫌だからね」
「メグこそ大丈夫だろうな」
「私は仕事に生きているからいいんだ」
「仕事に生きている奴は定時で誰より早く机を立たないだろ」
「なんで知っている」
軽口をかわしながら我々は屋敷に入り込んだ。
そう、これが廃屋敷における恐怖の三日間のはじまりであった……わけでは全然ない。
この一連の出来事はホラーでもサスペンスでもなく、間抜けな人々の話である。
玄関を入れば、広いホールがある。その奥にひっそりとある階段は半地下の厨房に続いている。厨房はまだ使えそうではあった。
「ジャックオーランタンの禍石とか持ってる?」
「持ってる」
私は有能なので、こんなこともあろうかと袋から持参したそれを取り出した。
サラマンダーでは強すぎる。これくらいの炎の方が扱いやすい。レックスはありがとうと言って受け取る。
「じゃあ夕飯は心配ないな。まだ日も明るいし、屋敷の中を探検でもするか」
「見て回ったのに?」
言った私はそれがなんと三年前であることを思い出した。うわー、歳月の経過って早いな。
「……ついてこないのか?」
「……行くけど。金目のもので見落とされている物があるかもしれない」
「見つけたら役所に申告しないとだめなのか?」
「私はやらないと職務に反する。でもレックスが見つけて黙っている分には仕方ない。私が知らないんだから仕方ない。きっとそれはいいワインに化けてくれると思う」
レックスは笑って私の背を叩いた。
「メグのそういうところが最高だな」
「だろ」
そう、私はまあまあ最高なのだ。
それはレックス限定なんだろうけど、最高なんだ。
ちゃんと知ってるかレックス?
我々は厨房に買ってきた食材を置き、一階の大玄関に戻る。玄関を入ったすぐの場所には左右に扉があって、片方は客間とダイニングに、片方が書斎に続いている。我々は書斎に進んだ。
魔術書がたくさん並んでいたのはこの屋敷に介入した当初の話で、数冊あった希少本はすでに回収されている。そのほか並んでいる本はだいぶ傷みが進んでいる。状態が良ければある程度価値があったはずだが残念だ。
「この屋敷って結局最初はだれのものだったんだ?」
「最初の持ち主……建築したのは、約二百三十年前の王族。その後何人もが買い取ったけれど、誰かに落ち着くことはなく、所有者が変わっている。少なくともここ数十年はだれも住んでなくて誰が最後の住人だったのかはよくわからないんだ。書類は紛失してしまって」
「最後の所有者と住人は違うのかい?」
「そう。どういうわけか住んでいない。管理だけしていたらしい形跡がある」
「金持ちだな」
「多分ね。でも現在の所有者は君で、その前の所有者は君の会ったこともない遠縁」
レックスはふっと短いため息をついた。
「そこから俺まで、誰かが続いてくれていたら良かった」
孤児というわけではないが、レックスには親族と言える人間は今は誰もいない。両親は若死にして、兄は戦死して、弟は爆撃で死んで、叔母は病死したと聞いた。他の人々も似たようなものなんだろう。生活に困ることはないけれど突然自分がぽつんと孤独の地にいると思ったりするのかもしれない。
私に対してどこか甘えた部分があるのは、私が彼より二つ年上というだけでなく、彼にそういう願望があるんだろう。
そういう女性が見つかると良いな、レックス、と私だって一か月に一回くらいは願ったりするんだ。
ひとしきり我々は書斎を眺めた。
そういえばここに最初にレックスを連れてきた日、戸棚には奇妙な張り出しがあったような気がする。でもあの時物を落として、そのまま恋に落ちてしまったのでその正体はわからないままであった。
改めて見直してみたけれど、どこにあったのかはよくわからなかった。今思えば見間違いだったのかもしれない。
だが、懐かしいものを見つけた。
私は床に落ちっぱなしのそれを取りあげた。この建物の管理で、私たちがやってきた三年前から何人か入ったはずだけど、部屋の隅まで転がってしまっていたから誰も気が付かずそのままになっていたのだろう。
落ちていたのは小さな小物入れだった。陶器製で良く割れなかったなと思う。美しい花模様が非常に細かく意匠化されて描きこまれている。アクセントにあしらわれた金色が鮮やかだった。さらに小さな蓋も脇にあった。それを閉めようとして私は中を見る。
「……何か入っていたのかな」
私の言葉に部屋の絵を見ていたレックスが振り向いた。
「なんだって?」
あの時の事はあまり今蒸し返すべきではないと思ったので私は事実だけを伝える。
「この小物入れ。床に落ちていたんだけど、どうも中に禍石が入っていた気がする」
「へえ」
レックスが近寄ってきて、私の持つそれの中を見た。
私が禍石の可能性に気が付いたのはそこに小指の爪ほどもない小さな禍石の欠片が入っていたからだ。これは何の禍石だろう。
レックスは指でつまんでそれを取り出した。
「ほとんど魔力はもうないなあ」
「なんの禍石?」
「残存魔力がないから、外観で予想するしかないけど、あまり見たことがない。クピドの禍石にちょっと似ているけど」
薄いピンクと緑色が淡くグラデーションを描いている美しい禍石だった。
「クピドはあんまり使い道なくない?」
希少価値もなくあまり汎用できる魔力の方向性もないため、注目されていない石だった。
レックスと私はあまりすっきりした気分にもなれないまま、その小物入れを棚に戻した。レックスは禍石の欠片を無造作にポケットにしまった。あんな小さいもの、無くすのでは……。
この小物入れを見て、レックスが出会いの日を思い出したかはわからない。思い出して欲しいような、そんな煩わしい思いはして欲しくないような、混沌とした気分になる。
応接室は全体的にがらんとしていた。それが希少なものを取り出してしまったためだからか、もともとそうだったのかわからない。
そもそも、所有者が変わっているのだからいつの時点をもってもともと言うべきなのかわからない。
「でも魔法使いが住んでいたんだろうな、いつはわからなくても」
「そうだね。優秀な人だったんだろうか」
「これだけの屋敷に住んでいたわけだから有能な人ではあったはず」
他の魔法使いについて語るとき、レックスの声のトーンがいまいちであるのなら。
私はその気持ちに気が付く。
「レックス」
私は彼を呼ぶ。声音が変わったのがわかったのか彼は少し緊張した瞳で私を見た。
「君、落ち込んでるのか」
「そういうことズバリ言うか」
「言って欲しそうだったから」
レックスはしばらく私を見ていたけど、その目から気力のようなものが目減りしたような気がした。
「落ち込むよ。戦争ではすぐに怪我をしてしまったから国の力にもなれなかったし、戦争が終わってもう七年もたつのに研究でなんの成果も出していないし」
真面目だなあ。
私は内心で肩をすくめる。
本当は彼にはそんな切ない悩みなど持っていて欲しくないのだ。あの戦争で生き延びただけ幸運ではないか。あとの人生は面白おかしく生きたって別に罰は当たらないだろって言ってあげたいが。
だが戦地でレックスが何を見たのかもわからない私はそれを言っていいはずがない。彼はその傷を抱えて生きていくし、私はそれをどうにか少しでも安らげるように手を尽くすしかない。尽くしてどうなるとかいう問題じゃなく。
何かを成しえたいというレックスのそれは多分呪いに近いと思う。
「多分それは」
言いかけてとっさに口ごもってしまう。切り出すべきじゃなった、失敗したと思う。レックスは聞こえなかったふりをする様子はない。
「プレッシャーが多大きすぎるんだと思う」
これ言っていいのかなあ。
「レックスが優秀じゃないとは言わないけど、それこそ私よりは万倍も優秀だけどさ。でも国を代表するレベルの優秀な魔法使いはみんな戦争に取られて死んだから。戦争で情報統制もあって華々しい活躍しか聞こえてこなかったじゃない。だから生き残っている魔法使いにはそのレベルの仕事を求められているんだよね。そうじゃないの?」
「……嫌な奴」
そういったレックスは笑っていた。目が笑っていて気分を害するどころか楽しんでいるんだとわかる。さっきの落ち込みからちょっとは回復してくれたようだ、といいなあ。
「ほんとメグはなんで俺のことそんなにわかるんだろなあ」
わかっているよ。
「俺、ふつーなんだよね。普通の魔法使いなの。呪文を組み上げるくらいはできるし改良開発くらいはいけるけど、そんなに斬新で革命的なことできるかー!上司、わかれ!」
そうだな上司には君の気持ちはわからないだろう。
私はわかっているから、君の本当の……心の底の本心を口には出さないんだ。
戦地で死んでいった人々に彼は負い目を感じている。彼らの分まで生きなきゃと思っているのだろう。死んだ人間の期待は生きている人間に期待よりはるかに重い。それは他人じゃなくて自分の声であり、自分自身でかけている呪詛だから。それこそがきっと本心なんだろうね。
でもそれを指摘してどうなる?
多分忘れたがっているだろうそれを指摘できるほどの立場にもう私はいないんだ。
「どうやら仕事でいろいろあるらしいということは悟ることができた。もうちょっと突き詰めてその話を聞いてやるから明るいうちに夕飯の準備をしよう」
二階はまだ見ていないが、そろそろ日が陰ってきたことに気が付く。
日が沈むとこの屋敷で明かりを十分に満たすには禍石をかなり消費しそうだ。もったいない。
我々は急いで厨房に戻った。買ってきた玉子でレックスがオムレツなどを作ってくれる。私はパンを鉄棒に刺して火で炙っていた。チーズを切って、あとはいい酒ですよ。
レックスが「こんなことに付き合わせてちょっとは悪いと思っている」とばかりに、貴重な蒸留酒を持ってきてくれたのだ。
こういうところが実にいい奴なのだ。
簡単だけど酒のつまみには十分な食べ物を持って我々は書斎に戻った。各々残っていたソファに座る。風が強くなってきて外の木々がざあざあ音を立てている。
幽霊を怖がっていたレックスを脅してやろうかと思って、いくつか怖い話を口にしたが、全然怖がらなくてつまらないことこの上ない。幽霊を怖がってたから私を誘ったんじゃないのかこの野郎。
普段パブで話しているようなことと同じようなことを夜半まで続けて、我々はいい感じに酔ってきたところで、軍払い下げの寝袋を引っ張り出して書斎で寝た。
何かいい感じの雰囲気があったかというと、無いです。
そんな感じであと二日も終わるんだろうと思っていたら、翌朝はとんでもないことが待っていた。
「わー!!?」
翌朝私を叩き起こしたのはレックスの悲鳴だった。
「何?何??」
私はがばっと起き上がった。見慣れない壁紙に一瞬ぎょっとした後、そこがレックスの受け継いだ屋敷だということを思い出す。
昨日は午前様まで飲んでいただけあって起きたらもう日が高い時間だった。
先に起きたらしいレックスがもうなにやらテーブルに向かっていたのだ。
「何?」
もそもそ寝袋から這い出た私は、テーブルに向かって座り、計測器を当てている彼を見上げた。
禍石は計測器で調べることでその禍石の正体や付属する呪文の種類を確認することができる。といってもストレートに答えが出るわけではないので、計測器の数値を頼りに自分で推測することが必要なので、計測器を使えるということがレックスの優秀さのそのもので、惚れ惚れす……。
おっと、寝起きでうっかり何か言ってしまいそうになった。
私は立ち上がった。昨日庭の井戸から組み置いたバケツの水で顔を洗ってから、どうしたとレックスに近寄る。
「マジか」
大声を出すことの少ない彼にしてはとんでもない声だったから、よほどのことだったのだろう。
「どうしたの」
「あの時、少しかけらが残っていただろう」
レックスが見せたのは昨日ここで見つけた美しい小物入れ入れから手にいれた禍石の欠片だった。この屋敷を彼と二人で初めて訪れた時に落ちてきて、私たちの距離を縮めたものだ。
「うん。何を測定しているの?」
「禍石の種類と呪文の構成」
まあそれは予想通りだなと思ったけど、レックスの眉は顰められて結構深刻そうだ。とんでもない破壊系呪文でもあったんだろうか。レックスは難しい顔をしたままそれを小さなガラスのシャーレに入れた。
「なんだった?」
答えを言わなかったのでこちらから聞く。しかし返事は帰ってこない。口ごもるとか珍しいな。
「……大したことじゃない」
「おっ、嘘ついているじゃん」
「はあ?」
私のつっこみにレックスは目を瞬かせる。何か反論したいようだけど、根が素直なので自分の嘘をあっさり認めてしまっている態度だ。
「わかるって」
「……なんでわかるんだよ」
さあね。ちょっとは考えろ。
私がただ無言で薄ら笑いのまま見つめていると観念したように彼は言った。
「禍石はアフロディテ」
……学生時代になんかちょっと勉強したよな……。
……!
「うっそ……超希少禍石ってことくらい私だって知っている。国立魔法博物館で見た。これくらいの」
私は親指と人差し指を丸めて小さく示す。それこそ小指の爪くらいだった。
人の精神に働きかける系統が得意と分類されているけど、今まで一体しか見つかったことがなく、しかも片手分くらいしかないらしい。
「多分あの小物入れにはもともとは指一本分くらいはあったんだと思う」
「まあ希少性だけで、使い道はあまり無いって話だけど、」
私は言葉を途中で切った。
あの中には使用済みの禍石の破片があった。多分ほとんどは消費されてしまってこの小さな禍石はその残りだ。
使用済み……使用されたということか。
多分、あのタイミングで。
約三年前、この場所に初めて二人できたときに。
「……我々は魔法にかけられたということ?」
私の言葉に返ってきたレックスのため息で、あたりだとわかる。
「なんの魔法か解析したの?」
「独自性の強い呪文で前例がない。ただ、その呪文の構成で目的は把握した」
「何?」
「怒るなよ。俺のせいじゃない。それに終わった話だ」
あ、なんか察しそう。
私のひらめきはレックスの答えと同じタイミングだった。
「発生した時にその場にいた人間を恋に陥らせる呪文」
とっさに声が出ず、したがって恐ろしく深い沈黙が落ちた。
ようやく出した声は自分のものとは思えないくらいかすれていた。
「じゃああの一年間は」
「呪文のせいです」
「これを作ったのは?」
「知るか」
「そいつを殴りに行きたい」
「多分死んでるんじゃないかな。魔法は二百年前くらいに構築しているから」
よろよろと私は後ろに下がった。たまたまあった椅子に腰かける。
「……うそでしょ」
さすがにショックが大きい。
いや、だって……あれだけの熱烈な恋愛が、誰かのせいだったなんて悲劇通り越して喜劇じゃないかな。
確かにあれは変な感情だったなって思うことは多々あるけど、自分がレア禍石と教科書にすら載っていない呪文の影響を受けるなんて普通は考えない。職業的魔法使いじゃないんだから、我々は法によって定められた汎用性の高い魔法以外に接する機会なんてないはずだもん。
いや、いやいや、そういう理屈だけの問題じゃない。
誰ともわからぬ人間の魔法で感情を揺さぶられたとか、正直「怒髪天」以外の感想ってないよね。
……それに今は。
「大丈夫か、メグ」
気が付けばレックスがお茶の入ったカップを私に差し出していた。しばらくの間呆然としていたらしい。受け取って彼を見上げる。
「ショックだった?」
なぜかレックスもちょっと泣きそうな……寂しそうな顔をしていた。
まあ彼も落胆しているのかもしれない。ぱっとしない女と付き合って結局うまくいかず、それでもあれはなにかしらの運命であったのだろうと思って納得しようとしていたら、他者からの介入だったとかなれば。
この数年はなんだったんだと思うだろう。
「いや……そりゃそうでしょ」
私は見透かしたレックスの内心に向けてそう答える。
「……そうかあ……まあそうだよなあ……」
彼の煮え切らない返事は仕方ない。ぱっとしない人間でも一応今は友達で、そして目の前にいれば悪口も言いにくいものだ。
レックスはテーブルに乗せっぱなしの計測器の作動をとめた。それから妙に真剣に私を眺めていた。無言が重苦しくなりそうな頃合いで彼は口を開く。
「……まあ腹が減っていても面白くないから、何か食おうぜ」
意外と元気……みたいだな。
また厨房に下りて行って、我々は朝食づくりに取り掛かった。昨晩とは打って変わって意気消沈していなければならないはずだが、不思議なことにレックスはあまりへこんだ様子がない。妙に元気よく缶詰を開けている。やけになっているのだろうか。
「考えたんだけど」
我々が朝ごはんとしたのは缶詰の煮豆だった。厨房で適当に温めてきた不味くはないがうまくもないそれを、缶詰のままスプーンをつっこんで食べる。ダイニングの恐ろしく豪華なテーブルで。
罰が当たりそうだ。
「今日は二階および庭園を散策したい」
「ほう?」
私が顔を上げるとレックスは大真面目な顔だった。どうしてそんな使命感を帯びているのだ。
「あの恋愛感情を揺さぶる禍石があっただろ。ああいうヤバいものが他にあるとまずいような気がする」
「探して分かるの」
「魔力の有無と強弱を図る機能がある禍石があるからさ、それで探そうぜ。この屋敷を解体するときに発動したらことだから撤去したい」
「暇だからいいけど」
それから私は話を変えた。
「それより見合いの準備とかいいの?」
「えっ、なんで突然その話?」
「うーん」
まあ実は、昨日からずっと聞きたかったことではある。この三日間の幽霊屋敷合宿に参加したのだってあわよくば答えを知りたいと思っていたからだ。
「院で研究しつつ開発にも携わっているので、ほぼ研究所に詰めていて日々ヒマなどないであろうレックスにふって湧いた浮いた話なら聞きたい……とか思っていたから」
「俺の生活環境についてさりげなくバカにするのはやめて頂きたい。どうせ俺は豆スープか総菜屋のサンドイッチしか食ってないけど」
「ほら、誰かいい女の子と付き合えば、食生活が豊かになるかも」
レックスは心底バカにしている目で私を見つめる。
「俺はいい女の子がいたら、作ってもらうより自分でオムレツ作ってやりたくなる人間だけど」
「どちらにしても豊かになるじゃん、食生活」
また軽快かついい感じに辛辣な会話が続くかと思ったら、ふいにレックスは口を閉じてしまった。二口分くらい豆を飲み込んでから、面白くなさそうに雑な口調で私の問いに答えた。
「見合いはさ」
レックスの手元でスプーンが缶に当たってポコと間抜けな音を立てた。
「まだ釣り書きと写真を見せてもらっただけ」
「釣り書きってことはいいところのお嬢さんじゃないか」
もったいない話だ、はやく食いつけ!と言うべきなんだろ。展開的にも友情としても、そして私のキャラクターとしても。
「どうするの?」
「う、うーん。断ることにしようかな、とか」
「なんで」
私の質問にレックスは沈黙した。あれ、なにこれ。
「例えば彼女ができるじゃないか」
しばらくあってから彼は話を続けた。
「そうするとやはり彼女を大事にしないといけないだろう。女友達と遊ぶのは良くないと思うんだ。でもメグとこうやって下らないことやっていると楽しいから」
「……なるほど」
以外に何を言えばいいのか。
内心では喜んでいる。彼女欲しいなという願望よりも、私と一緒に居る時間が楽しいとているのだから。
でもそれはたまたま私の性別が女であるからで、男性だったらあまり問題にはならない(いや、性別は何であれ友達よりは彼女を優先すべきだが)。
じゃあ。
じゃあ私とつきあっちゃえばいいのに!が言えないのはそこだ。レックスにとっては友達どまりなのかもしれない、そこからは進むことができないという現実。
あ、と。
……そうなのだ、そういうことなんだ。
好きだよ。
そうとも、レックスのことは今でも好きだ。
今でもっていう言い方はおかしいな。
あのいきなり付き合い初めて一年で盛り上がって求婚されたときにあっさり醒めたというわけわからん出来事の後も、私はなんだか腑に落ちなかったんだ。私の性格上、あんなことあるわけないもの。
だからそれが何だったのかを知りたくてレックスとの付き合いは切らなかった。最初はお茶を飲みに行って、近況を話して、だんだんお互い警戒心と緊張が取れてきて酒飲みに居き深酒して夜道で二人でクダを巻いて。
惚れ魔法の一年間、私がレックスの何を良いと思っていたのかはよく思い出すことができない。まあ当然か、魔法の精神支配下にあったんだから。
でも今は彼の長所を沢山言うことができる。
短所もね。でもまあそこも含めていい人間だと思っているんだ。だから冷静になった今もレックスの事を日々好きになり続けている。
じゃあ改めて付き合えばいいじゃん、ていう選択肢もある。
あるよね~その選択肢を選びてぇ~!でも一人じゃ選べないんだよね~。
レックスがどう思っているのかわからないから。
二年前、レックスも醒めて私への求婚を途中で遮った。彼が私との付き合いを絶たなかったということの意味はわからない。
今友達として付き合いが長くなっているので、当然嫌われてはいないだろう。こんな奇妙なことにも誘ってくれているし。それでも再び恋愛関係になれるかというと微妙だ。一回ダメになった関係を再開するとかとんでもない難易度だ。
特に、あれが魔法であったということが分かってしまった本日では絶対言えない。もともと我々の間に感情を揺るがすに足りる何かはなかったってことだから。
いやはや、袋小路である。
そして私の缶からも豆は消えた。
本日次に何をするかを決める必要があるタイミングだ。
「……まあじゃあ、この楽しさがいつまで続くかはわからないけど、とりあえず二階でも行ってみる?」
朝食後、私たちは階段を登って二階に向かった。昨日もざっと見回ったが、室内をよく見たわけではない。すべての扉に鍵は掛かっていなかった。ただ、古い屋敷、そして外の庭の生い茂る木によって薄暗い。私は掌に明り取りの禍石を乗せていた。
廊下にはすでに絵は一枚もかかっていなかった。ということは私が説明を受けた以外にも、価値のある作品が多かったということだろう。
一番最初に入った部屋はかなり暗い。多分誰かの寝室だったのだろう。床の一部に傷がついていてロッキングチェアでもあったのかもしれないと予想させた。
「レックスはさ」
私は禍石を掲げて廊下の隅まで照らした。
「この売却でそこそこお金持ちになるじゃない」
「……あーそうかもね」
「しばらく仕事休んで、それこそどこかリゾートでも行ったら?」
私の言葉はレックスには意外なものだったらしい。ふいと沈黙が落ちる。答えを決めかけているというよりは問いを想定していなかったようだった。
「行きたがっていたリゾート」
私の追加の言葉にレックスはようやく答える。
「夢だよね」
「どういう意味?」
「行きたいけど、今は行くべきじゃない気がする」
「戦後だから?仕事が忙しいから?」
「うーん、それもあるけど」
それ以外の大きな理由があるということだろう。なんだろう、見合いの事かな。
「……わからない。もしうまくいけば明日にでも突然リゾートに行くって言うかも、そしたらメグは一緒に来る?」
「いや、仕事あるし」
「……まあ、うん、だからそういうことさ」
レックスの最後の言葉の意味はわかりかねた。
そういうこととは?
レックスから見ても私はぽかんとしていたのだろう。彼はちょっと笑った。
「そういうこと、だってば」
ふざけ半分みたいな口調に私が追求しそうになった時。彼は全然別のことを言い始めた。
「メグ、ちょっと明かり照らして」
レックスに声をかけられて、私は部屋の真ん中で大きく明り取りの禍石を掲げる。部屋の隅々まで照らすとレックスは禍石の反応の測定装置を持ってぐるりと部屋一周をした。有効範囲を広げたらしく独特の蜂の羽ばたきのような音が大きくなる。でも反応はない。
「この部屋は大丈夫そうだ。禍石は残っていない」
「本当はこの作業は我々役人がやるべきなのでは……すみません民間の人……」
「いやあ、まさかあんなとんでもない禍石があるとは思わないだろう。禍石の有効期限だって二百年とか尋常じゃないよ。よほどの魔法使いだよ。ここいったい誰が住んでいたんだろ」
「そういえば魔法の力ってやっぱり親の能力が大きいとかそんな研究結果がでたよね。噂になった?」
「なったなった。もめてる。生育環境の影響の方が大きいとか上司が怒っている」
部屋の話をして世間話をして、我々は部屋を回った。結局二階に四つあった部屋は何一つ異常がなく、ただ我々の腹が減っただけで終わった。
昼になっていったん屋敷を出て、私たちは商店街まで足を延ばした。買ってきた食料は昨晩食べてしまったし、缶詰は二食続けて食べるものではない。首都爆撃の二日後には営業を再開したという逸話がある老舗のデリに出かけサンドイッチを持ち帰りとして包んでもらうことにした。
「なあ、君達、あの屋敷に寝泊まりしているって本当?」
デリの若い男性店員が聞いてきた。小銭を出しながら私は答える。
「よく知っているね」
「だって俺が生まれた時からあれ幽霊屋敷だったもん。おふくろとか昨日屋敷から光が漏れているの見てめちゃくちゃびっくりしていた」
「あはは、脅かしてごめんねって言っておいて」
「何やってんの?」
「秘密。でもあれだよ、不動産に関することだからめちゃくちゃ面白くないよ」
「そうなんだ。幽霊退治とかじゃないんだ」
「ないない」
気のいい彼との会話を適当に終わらせて振り返るとレックスはもう店の外に出ていた。まあ狭い店だから出たのだろう。
「知り合い?」
聞かれても、何のことか最初はわからなかった。先ほどの店員のことであるとであると気が付く。
「違うよ、初対面」
「……メグは警戒心を解くのがうまいからな」
「なめられているのかも」
「悪くとりすぎ」
私を注意しているのに、なぜか彼はその私の言葉自体には安堵したようだった。どうも朝から変だな。
屋敷について我々は庭に向かった。比較的雑草が少なく、木陰になっている場所を探して、その下に座った。ちょうど屋敷の全景を北から眺めることができる場所で、昼ご飯をとることにしたのだった。
虫よけの禍石を足元に置いて、我々は赤ワインを開けた。老舗のサンドイッチはハムが贅沢に盛られていて美味しい。
「俺の恋愛話ばかりが多いけど、メグは浮いた話無いよな」
「いきなり切り込んでくるね」
多分、レックスが認識している私の性格からすれば「人の事言えるんか」「誰か紹介してよ」「いつかいい出会いがあるはず」あたりが適切だろう。でもそのどれも言いたくなかった。レックスのいい話など正直聞きたくないし、紹介もされたくないし、私にとってのいい出会いはもう三年前にあった。
「私は浮いた話はないけど、この間友達の結婚式に出たよ」
「へー、楽しかったか?」
「友達のドレス姿見て美味しいもの食べて楽しかった。でも自分でやるかは微妙」
「やる当てあるの?!」
突然レックスの声がちょっと大きくなる。
「ないよ。ないですよ。主義としての話。準備している友達見ていたけどすごく大変そうだった。私はものぐさだからなあ」
「ああ、なるほど……。……友達の友達とか紹介されなかったのか?」
「知り合いにはなったけど、特に続かなかった」
「残念だな」
「残念極まりない」
普通の会話だったのに、なぜか突然途絶えて、沈黙が落ちた。鳥の声と風に揺れる葉の音が急に鮮明になる。なんだこの静けさ。
「俺はメグのドレス姿は見たいけどなあ」
とってつけたようなレックスの言葉にまたうまく返すことができず沈黙。
ええ~なんだこれ???
ほとんど気まずいといっていい状況を何とかしようと私が慌てた時、レックスが急に立ち上がった。
「どうした?」
サンドイッチの最後の一片を口に放り込んだ彼が、乱暴な足取りでバタバタと庭の真ん中に進んでいく。腰高までの草に埋もれてかれは屋敷を見上げた。
「この屋敷」
「どうしたの」
「なんとなく変だなって思って」
「幽霊ネタとかやめて欲しい」
「いや、建築上」
レックスは自分の歩数を数えながら進み始める。雑草の中を進んでいくが虫刺されとか大丈夫だろうか。
戻ってきた彼はまた西のはじの壁を見つめた。
「あの一番端っこの窓」
レックスは小さな窓を指で差し示した。
「あれ、室内からだと行きつけなかった。あの場所は廊下の隅だと思うけど、あんな場所に窓なんてなかったんだ」
「え、未知の隠し部屋とか。……わくわく廃屋キャンプが突然、怪奇ホラー物の様相を帯びてきたけど」
「楽しくなってきたな!」
「怖いよ!」
レックスはなんで、という顔で見ている。そうか本当に単純に面白がっているんだ、永遠の十三歳男児め。
「何かこう骸骨的なものとかあったらどうするん」
「そうなると別に怪異じゃなくて単なる遺体遺棄だよね。君、この屋敷の担当者なんだろ、調べた方がいいんじゃないか」
「そうきたか……」
公務員仕事しろ、と言いやがって……。
我々は……というか主に超楽し気なレックスが私を引っ張って行く感じで屋敷に戻った。問題の小さな部屋があるべき場所はレックスの言う通り、廊下の突き当りで、そこはきっちり壁になっていた。
「壁だ」
ご丁寧にちゃんと小さな風景画が飾ってある。
「でも壁の板の感じがそう言われてみるとちょっと違うなあ。この壁少し新しい」
「後から?」
かもね、と言ったレックスの次の言葉はアレだった。
「この屋敷、斧ってあったっけ」
「どうしてそういう力こそ正義みたいなことを言う。魔法使いなのに」
「それもそうか」
レックスはポケットを探った。さすが魔法研究しているだけあってしょぼい魔法か仕込んだ魔法を解放するくらいしかできない私とは違うぜ、きっと何か。
気の利いた魔法を持っているはず思った私の考えた甘かった。
禍石を壁にむかって置いてレックスが何か呪文を唱えると、禍石は爆発した。
いや正確には爆発とは違うけど。爆風や燃え上がる炎などはないけど壁にバキバキにひびが入って行って、そのまま下に崩れ落ちていく。
「結局破壊か」
「手っ取り早い」
ぽっかりと開いた壁の向こうは、確かに壁が後付けであったのだとわかる廊下の繋がりだった。
たった三歩分の通路の先には外から見えた窓があり、先の床は階段に繋がっていた。
「いよいよ怪奇小説じみてきた……」
「魔法こそ正義!迷信を吹き飛ばす!」
お前が恐怖に対して鈍感なだけだ!
レックスはもう一つ禍石を出す。それは小さく光ってあたりを照らした。このまま突入するのか……。マジか……。
階段はもとからあったようで、おどろおどろしい感じはない。屋敷に人がいた時代は普通に貯蔵庫として使われていたのだろう。
まっすぐ降りた怪談の先は扉もなく、ただ、小さな部屋がそのままあるだけだった。地下倉庫、と言った方がいいような武骨さだ。
レックスが掌に乗せている化石があたりをほの明るく照らし出す。
もともと魔法書の多い屋敷だと思っていたが、それはほんの一部でしかなかったのだとはっきりわかる恐ろしい量の書架があった。テーブルには禍石が積み上げられ明かりを放っているものもある。
レックスは手にしていた計測器をテーブルに置く。ほのかに反応はあるようだけど、すぐに発動してしまう可能性のある禍石はなさそうだ。
「これは」
レックスは手近の本を手にした。
「……これ著名な魔術書の初版本だ。二百年前の代物だ」
「お宝……!」
「いや、そういう俗っぽい問題じゃない。レベルが国宝!あっやばい、俺の手の油ついちゃった!」
わたわたとレックスはテーブルにそれを戻す。それからうろたえて何回か言い間違いながら手持ちの禍石に呪文を唱えるとまた少し光が強くなった。
積み上げられた書籍に散らばる禍石、床に散乱しているのは新しい呪文の構築式の研究の一部であろう。
とんでもない量の魔法関連のものが圧迫感すら感じる迫力で存在している。
レックスはなんだか怯えるみたいにおそるおそる床の紙を一枚取り上げた。
「……これ見たことがあるな。大魔法使い関連の何かだったと思うけど。俺じゃ理解が追い付かないけどとんでもなく高度な呪文だってわかる」
レックスの頬は紅潮して、いつもふざけ半分で余裕ある態度の彼にしては珍しいことだった。もう一枚、さらにもう一枚と彼は紙を拾う。私も一枚見てみたけどさっぱり理解できない高度さだった。
そして一枚の紙を手にした彼は、そのまま凍り付いたように動きを止めた。じっとその呪文式を眺めている。あまりにも時間が長くなって私は彼に声をかけた。
「……イアぺタス地下坑道連鎖爆発事件を覚えているかい」
レックスが唐突に言い出した。今の話の流れには全く関係ないような気がしてわたしは一瞬ぽかんとする。それを知らないというわけがないということを主張するため、慌てて口を開いた。
「知っている。十年前、戦争直前に起きた大事件だもの。イアぺタス坑道で大爆発が起きてそこに居た二百人くらいが亡くなった事件。なにか秘密の攻撃魔法の研究でもしていたんじゃないかって言われているけど、原因はぼんやりしているよね」
「まあ多分、戦争を控えて呪文の研究をしていたことは間違いないんだろうけど、問題はそこじゃないんだ」
レックスは言う。
「そこがかなり高度の密閉環境だったことだ。昔は完全に密閉された環境の作成って難しかったから存在しなかったけど、今の呪文精度だとできる」
「別に閉鎖状況は魔法の成功率に関係ないと思うけど」
「……昨日『禍石再生資源論』の話をしたよな」
「うん」
禍石再生資源論は空間から魔力を取り出すことができるという理論だ。禍石から呪文を持ちいて取り出した魔力は、消滅してしまうわけではなく空間に残存しているので、それを回収することができれば新たに禍石を生成できるであろうと。
「禍石再生資源論は資源の枯渇を恐れての理論だったんだろうけど、イアぺタス事件は別の側面をもつ。禍石の使用によって大気中に残った魔力の濃度が濃くなっていく可能性だ」
「あー、そうか、使用すればするほど、残るよね。でも何か問題があるのかな」
「イアぺタス坑道事件は、禍石に与えた呪文が大気中に残存している魔力に影響を与えて思いもよらない発動をしたから起きた事件だよ」
さらっと言われたことに私はぎょっとしてレックスの顔を見た。
「どういうこと」
「多分、密閉された空間で高度の魔法を何回も行っていたんだろう。空間中の魔力は、現実的には想像できないレベルの濃度になっていたんじゃないかな。そしてその想定外の連鎖反応が起きた」
「戦争目的の呪文なら、爆破系が多かったかもね。それが連鎖爆発でもおこしたってことか。なるほど怖いね。でもそれは現実では考えられないレベルの濃度ってことでしょう」
「今のところは」
レックスの答えは不気味だった。
「でも今後人口が増えて、使う禍石量も呪文も桁違いの量になっていくと思うんだ。大気中に放出される魔力は倍増していくはず。そうなったとき、いつか必ず魔法が予想通りにつかえない時代が来るよ」
連鎖爆発、なんて派手なことでなくても、呪文と禍石から予想された通りのことが起きなければ当然パニックにはなるだろう。
レックスの言ったことがいつになるのか、その深刻さがどれくらいなのかはわからない。でもいつか必ず来る異常状態だということは分かった。
「……それは公に?」
「まだできない。仮説にすぎないからね。でもイアぺタス坑道事件を再検証すれば必ずわかることだし、それは今俺がやっている」
「……それで、禍石再生資源論にも手を出しているのか」
私の答えにレックスは頷いた。
「メグは察しが良くていい」
「大気中の魔力を禍石に戻すことができれば、濃度を下げることができるから」
「その通り」
レックスは簡潔に答える。ごちゃごちゃつけたさず、私の回答を信頼している返事が嬉しい。
彼もまた私を少しはまだ特別に想っているのだろうか?
「このメモ」
そしてレックスは長い話を終えて、手にした紙を私に見せつける。
「禍石再生資源論の欠落した部分を埋めるのに、役立つ考察がさらっと書いてある」
「……えっ?」
「俺だけじゃダメだけど、これがあって知識が集まれば、いつか、あの呪文を完成できるかも」
「すごいじゃん」
「たださ……これを書いた人は相当大魔法使いだったと思うんだけど、それでもできなかったんだなあって」
「どうして君は肝心な時に気弱になる」
私はいつも通りのパターンになってきた彼がおかしくなってきた。本当にもうちょっと自信持っていれば、その態度に惹かれて女の子も彼に決めるだろうに。気弱さが「頼りない」になってしまうんだと思う。
まあそんなアドバイスはしてあげないけど。する義理もないし、私はそういうところが好きなんだから。
「……例えばの話」
彼はなぜか私から目を反らした。
「人間は危機感を覚えるのが苦手だ。将来怖いことなんて怒らないだろうってきっと思っている。だから俺が発表しても世界中でイアぺタス坑道事件が起きるなんて信じてもらえないかもしれない。興味も持たれないかもしれない。俺は禍石再生資源論の呪文の欠落部分を埋めることはできないかもしれない。触媒を発見することもできないかもしれない。何もものにできずにうだつが上がらないままかも」
突然始まった彼の個人的な人生の話に私は……全然退屈なんてしなかった。この先にあるものがちょっとは予想できたからかも。彼の個人的な思考を知ることができるのは純粋に嬉しい。
「それでもメグは俺に近い場所に居てくれるといいんだけど」
……ん?
思ったのと違うぞ。
『それでもまあ俺は俺の思う通りにやるんだけどね』とか、いつも通りの「結局君はマイペースだな!」と言いたくなるなにかだと思ったのだ。突然彼の個人的な部分に私が……一友人に過ぎない私が入ってきてぎょっとする。
とっさに返す言葉がなくて、困惑そのままに彼を見つめていたらレックスは繰り返して言った。
「近い場所に居てくれるだろうか?」
誤魔化すべきなんだろうか。
この最強に本質に迫る言葉をなかったことにしていいんだろうか。もしこれで何かが変わってしまったらもう友達ではいられなくなるかもしれないのに。
「……それは現状の、友達よりも近い場所?」
おそるおそる私は問いかけた。
「さあ。でも今までとはきっと違う場所」
私に選択肢は与えられていた。ちょっとずるいなと思う。私がどう答えるかに任せないで欲しいよ。これでうまくいかなかったら私はきっと自分の選択を後悔するだろうし。何も選ばなくてもきっと一生後悔する。
「今の場所はとてもいいから、次の場所に行くことは正直怖い」
遠回しに言ってから私は腹をくくった。
「もう二度とレックスと付き合って……そして別れるというワンセットは繰り返したくない」
レックスは私の反論が意外だったみたいだった。
「え、そうなの?別れるの?」
「別れなければいいけど、そんなのわかんないじゃん!」
「なんでそんなに怖がってるん?」
おめでたいな!
「だってもともと惚れ魔法だよ?あれがなかったら私たちはただの担当者と相続人だけで終わったってことで、恋愛感情なんて全く発生しなかったってことじゃないか」
「あー、そうかーそっちに行ってしまうのか」
レックスはなるほどなどと頷いている。おっとムカつく。
「レックスは違うのか」
「違う違う」
へらあと彼はなんだか楽しそうに笑ったのだった。
「俺はむしろあれが惚れ魔法でめちゃくちゃ安心した」
「なんで?」
えっ、全然思考が理解できない。
「いや、付き合っている人間が別れるのって、大体相手のどこかが我慢できなくなったからだろ。人間そうは簡単に変わらないからやり直してもまた同じところでダメになる可能性は高いと思うんだ」
「それは同意するけど」
「でも俺達は別にそうじゃなかったんだなって。惚れ魔法のせいでピークが恐ろしく高くって、魔法が切れた時の落差がとんでもなくて戸惑って別れちゃったけど、別にお互いのどこかに我慢できなくなったってことじゃないんだなって。そしたらやりなおしてもうまくいくかも」
レックスの発言に私は反論を失ってしまう。
そうなのか?
昨日、惚れ魔法についてショックを受けたけど、別に気にするほどではなかったとレックスは言う。
我々は多分、とても普通の恋人達なのだと。
誰だって恋に落ちれば相手のなにもかもを好きになるけど、いつか欠点が目に付きだす時が来る、必ず、それこそ運命的に。そこで別れるか、まだ続けるか選択肢はすべての恋人達の前に等しく存在しているのだろう。私達は魔法によりその落差が激しかったけど、きっとみんな体験していることだ。
「お互いの悪いところを直して改めてまた恋人になってうまくいく人たちもいると思うんだ。でも大変だと思う。そう思えば俺達はもっと楽じゃないか?」
レックスは両手を差し伸べて私の手を取る。
「魔法にかかっていた時も、それが解けて長く友達として付き合っている今も、メグのいいところだと思っている場所は変わらない。『あっ、こいつだめだ!』って思うところはいっぱい見えてきたけどそれをわかっても好きだな」
好きだな。
さらっと言ったな。
「それは……その好きは、友達じゃなくて恋愛対象として?」
「わからない。でも独占欲というのは特別な相手にしか向けられないものでは?」
「独占欲?私はレックスと違って見合いなど浮いた話もなくしみったれた日々を送っているが」
「デリの店員はまあまあ面が良かったし、幼馴染の結婚式に出る社交性もあって出会いの機会がないわけではないということがわかった」
「こっわ!マジ怖!デリの店員は初対面だし、幼馴染の結婚式では紹介あってもどうにもならなかったけど」
「そういうことが面白くないので、というたとえ話」
「レックスこそならばなぜ見合いの話なんて持ち出すわけ。私の知人達との妄想とは一線を画す真面目な恋愛話じゃない」
「そうでした、ごめんなさい」
「素直」
「もともと付き合っていた相手と友人関係を平気でできるので、もう俺に気持ちなどはないかと思っていたから。あー俺って意気地がない」
「知っている」
私が冷やかすとレックスはさすがにむっとしたようだった。
「……ごめん、こいういらん一言も私の嫌なところだった。意気地がないのは私も同じだった。同じことで一歩踏み出さないでだらだら居心地のいい場所にいた」
私は後悔の言葉にそって今度は一歩踏み出した。古い屋敷の床板がぎしと軋んだ。それには構わずレックスを抱きしめる。三年前はためらわずにできたことが今は万倍の勇気を必要とした。
レックスの体は昔と同じでがっしりしていてそして温かい。踏み出してみれば何も恐れることなどなかったかのように、あっさりとレックスの手が背に触れた。
私は見上げる。ハンサムに見えるがそれが冷静な視点なのか惚れた弱みなのかが、もうよくわからない。
だめだ、またきっと頭に花が咲き始めている。
「好きだよ」
「俺も好きだ」
そしてお互いに黙ったのはまたお互いに同じことを考えていたからだろう。我々が横目で見たのは卓上にある禍石の反応を調べる装置。
「光ってないね」
「惚れ魔法の発動の無しを確認しました」
装置はありがたいことに沈黙している。
「よし、今さらだがキスでもするか」
今さら?とレックスは笑った。
いつだって、今さらなんてことはない、とばかりに。
翌朝、我々は荷物を片付けて屋敷を退出する準備をした。
到着した時は友達で翌朝はちょっともめて、夕方に告白して、最終日は恋人として退出するとか、激動すぎるだろう。
あと私はこれで役所の上司に地下倉庫の事を説明するので、仕事もべらぼうに増える予感しかない。これもまた激動。『定時よしばらくさようなら』だ。
軽く憂鬱になりながら、門の前に佇む私の前でレックスは重々しい音を立てて鉄製の重厚な扉を閉める。音はやっぱり幽霊屋敷という雰囲気だった。
きらきらピンク色に輝いて見えたりしなくて良かった、私は正気だ!と思ったけど、鍵を閉めたレックスが立ち上がったとたんに私の額にキスしたりしてきたので、やっぱりちょっと様子はおかしいのかもしれないと気を引き締めた、つもりになった。
それから仕事は予想通り尋常じゃない忙しさだったけど、お互いになんとか日時を合わせてちゃんと会ったりしていた。
友人同士であれば時間は作れなかったはずなので、恋人同士になると時間が作れるとか我ながら意味不明である。時空が歪んでいるのだろうか。
惚れ魔法にかかっていた一年よりは多分正気だと思いたいが、己の現実が見えない。恋が人をバカにするのは魔法があってもなくても同じなのかも。
今日もまた、行きつけのパブで待ち合わせたところだ。
ほぼ同時に店の席に着いた。多分レックスも多忙なんだろう。
あの屋敷に行く前に追いつめられていた感じだったのが、少し和らいだようで良かった。ビーチリゾートじゃなくても何とかなったのなら。
……私がビーチリゾートだということなら一番いい。
「上司の見合いの話は断ったよ」
多分そうしてくれるだろうと思っていたけど、レックスからちゃんと報告されてほっとした。
「良かった」
「はは、今、メグから『もったいない』とか言われなくて良かったよ」
「多分、友達同士だったら言っていたけど、今は言わない」
彼が、ありがとうございます、とふざけた様子で頭をさげる。いえいえこちらこそ。
そんな話をしていたがさすがに今日はあまり時間がない。もう深夜になるのだ、早く帰って寝なければ。
だから私は早速本題にとりかかった。
「あれからちょっと調べてみたんだ」
私はバッグの中からメモ帳を取り出した。
「何を?」
「あの屋敷の経緯。仕事では、なによりも優先事項として、現在誰に相続権があるのかを調べるでしょう。現代から未来に向かうの。でもそうじゃなくて、過去に行きつけるだけ行ってみようと思って調べた。『高位の魔法使いが間違いなくいた』という大前提を立てることができたから、魔法学校とかの卒業生リストを当たったりして新しいアプローチができたから前より知ることができた」
「へえ」
「いつになく一生懸命仕事したので上司に褒められました」
「良かったじゃん。勤務評定が良くなるといいな」
レックスは興味深そうに足を組み替えて私を見てきた。
「一番わかりやすい起点だったのは、ナイトリー家。二十年前はここ所有していたことがわかってる。名家だけどそれほど裕福なわけではなかったから高名な人間はでていないわけね」
「そこから俺が見つかったんだろう。ナイトリーの一族は俺の大叔母の嫁ぎ先だ。そこから俺に来てしまうんだから本当に今回の戦争で死んだ人間が相当多かったんだろうな」
「そうだね」
戦争は終わった。私たちの国は負けなかった。負けなかったけど途方もなくたくさんの人が死んで歴史が不鮮明になってしまうほどの国土にも被害が出た。戦争という状態には勝てなかったのだ。
そして終わってみれば問題はいまだに山積みだ。
「ナイトリー家が管理していた時代はとても長いの。その前に二人ほど管理者が変わって、それ以前の管理者として出てくる名前が凄かった」
そこまでは私も昨日まで知らず、当然レックスも知らないはずだ。
「バージェス」
「マジで。それって伯爵家じゃん」
「マジで。どうして手放したのかはわからないけど、他にもいっぱい土地も財産もあるから当時は町はずれの屋敷なんてむしろお荷物と思ったのかな。でも驚くのはここじゃない。バージェスと言えば高名な人が一人います、誰でしょう」
「お前魔法使いに喧嘩売ってんのか。禍石再生資源論の提唱者、大魔法使いのアーシュラ・バージェス」
「その通り」
私がにっこり笑うと、レックスは逆に眉をひそめた。
「そのドヤ顔やめろ。まだ何か知ってんだろ。続き早く」
「さてあの屋敷ですが、おそらく最後の住人となったのはウィルクスランド家です。すごい、ここが新しい超発見!」
「……ウィルクスランド?…それも確か貴族だったよな。著名な魔法使いがいた気がする」
「さすが魔法使い。よく知ってるね」
ウィルクスランド家はいくつかの研究で現代でも名を残している魔法使いを何人も輩出している。現代ではそれほど差はなくなっているけど大体伯爵やら侯爵やら、貴族階級は魔法使いが多いのだ。二百年前はかなりその差ははっきりしていたはず。
「へー、ウィルクスランド家からバージェス家が買ったのかな」
「問題はそこじゃないです」
「どういうこと?」
「当時の女性は結婚すると苗字変わる制度だったんだよ。夫側の苗字になっちゃうの。あんまり良くないんだよね。家系が混乱するし、功績も分断されちゃうから。まあそれはともかくアーシュラ・バージェスの生家はウィルクスランドだよ」
最初レックスはぽかんとしていた。
「……えっ、じゃああの屋敷って、大魔法使いの因縁じゃん!」
レックスはのけぞって背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「そりゃ、あれだけの代物があってしかるべきだよ……むしろ今まで誰も気が付かなかったことが脅威だよ」
「バージェス家以降、住人はおらず管理だけが行なわれて、実態が混乱してしまったのが系譜の埋もれちゃった理由かね」
「大魔法使いの一連でも時代が変わるとそんなことになってしまうのか…」
「資料が残っていればいいんだけど、それも不運に散逸しちゃったからね」
レックスは起き上がって私を見た。
「で、それは報告するの?」
「相続人のご意見次第。今は何も…いろんな新発見を全く言ってない」
私はレックスに投げかける。レックスは渋い顔をして腕を組んだ。
「……俺は別に……報告してもしなくても……いや……した方がいいな。発見された新しい中身も率直に申告して」
「いいの?」
私はちょっと驚く。大魔法使いのものと思われる多数の書類やメモ。禍石。呪文の構成表。どうして大魔法使いが自分の屋敷ではなく生家に隠したのかはわからないけど、きっといろいろ理由はあるのだろう。少なくとも大魔法使いの住まいとされた屋敷は現代ではもう取り壊されてない。生家に隠したから残った。
他にももしかしたらとんでもない発見があるかもしれない。レックスがあそこを売る気はないとごねれば手に入るかもしれないのに。
「だってあんな屋敷、俺の給料じゃ維持できないし、中身だって管理できない。報告して、屋敷は解体するにして大魔法使いの研究遺産はしかるべき団体に保存してもらってできる限り公開した方がいい」
「自分だけの知識にしないの?」
「俺程度の研究者があれを単独で有効活用できる自信はありません」
「野心うっすー」
「身の程を知ってるだけ。俺や俺のチームだけじゃなくてみんなであれらの情報を共有すれば、研究も進むと信じたい」
でもまあそういうレックスが好きだなと思った。
知識の共有というものにとても価値を置いているからだ。不世出の天才、大魔法使いの研究を、そのまま単独で理解できるものがいなくても、より多くの人間の協力でなら理解できるかもしれない。そうやって考えるおおらかさが好きだ。今、戦争でいろんなものを失ってしまったからそう言うのかもしれないけど。
彼自身が心配しているみたいにレックスが一生うだつが上がらなくても、私はこの選択をした彼を好きでいられると思った。
「それに大事なものはもう手にしてあるから」
レックスはなんでもないことのように言ったが、こちらの方がはっとしてしまう。
「あそこにいかなかったらメグとは相続人と担当者で終わっただろうから」
「あの禍石の事?強制的に恋愛感情を持たせるとかなかなか強烈な出来事だよね」
「呪文が発動しなければ今こうして一緒に居ないだろう」
「いなかったかな」
「多分ね」
ちゃんと運命で恋に落ちたよ、ということは、我々の性格上確かにあり得ない。そうなるとあのわけのわからない激情の一年も意味があったということになる。
大魔法使い様ありがとうございます。
……いやどうだろ……。二百年後に騒動を引きおこすとかどうやってもそもそもダメだろう。人としてダメな魔法使いだ。
「あんな魔法を仕込んだ禍石を残すとか、恋愛脳だったのかな。夫であるバージェス伯爵とうまくいかなかったとか?」
なんとなく私が呟くと、レックスは首を横に振った。
「いや、多分好奇心だと思う。単純に」
「なんで言い切れる?」
「大魔法使いの呪文研究、くだらねーものいっぱいあるんだ。相手が裸足の時小指を家具の角にぶつける確率を上げるやつとか、外出のとき必ず一個忘れ物をする呪文とか」
「どういう呪文と禍石でできるの、そんなこと!!!」
「だから超天才の大魔法使い」
「才能の使い道間違ってる!馬鹿だ……大魔法使い、馬鹿だった……」
私がぼやくとレックスは、はたと何かを思い出したようだった。
「そういえば、あの時帰る直前で気が付いたので、言わなかったんだけど、実は俺達も馬鹿だった話をしてもいい?」
なんだろうと私が見ると、彼は言った。
「あの謎の壁、壊しただろ。実は壊す必要なかった」
「は?」
「書斎の棚に仕掛けがあって、俺達が壁の謎に気が付いたときには、ただ横にスライドすれば開くようになっていた」
「……書斎の棚の仕掛けって、もしかして張り出し?」
「そう」
……一番最初にここに来て惚れ魔法にかかった日に、張り出しの仕掛けを偶然解除していたというわけですかね、我々は。
「三年気が付かないとか、馬鹿だね」
「馬鹿だろ。やっぱり俺達はホラーやサスペンスやミステリーとは相性が悪いみたいだ」
我々はちょっと落ち込んで……そして爆笑しながら新しいビールで乾杯をした。
おわり