せかい その6
「では」
流石に靴下や靴は履いておらず、素足でぺたぺたと近づいたメイドは、そう言って、すっとスカートをたくし上げた。
「おわっ……!」
思わず目を覆ったが、手を開くと何ということはない、鏡の中には両サイド腰辺りにゴムで結び目を作って、スカートがずり落ちないようにしたメイドが立っており、いつの間にか持っていたスポンジで俺の背中を洗い始めた。
緊張して損した……!
お互い無言のまま、背中を洗われている俺は、ドキドキよりも無性に居心地の悪さを感じて、ずっと俯いていた。
それは多分……いや、間違いなく、さっきこいつに劣等感を感じていたことの裏返し。
そして同時に、母親めいた過保護感も感じて、鬱陶しく感じているからだろう。
だが、もちろんそんなことを言語化するわけにもいかないから、俺はただ口を真一文字に結ぶだけ。
せいぜい、会話といえば、
「痛くはないですか」
「ああ」
……この程度だ。
いたたまれない気持ちになった俺は、メイドの手が俺の胸辺りに伸びてきたところで、
「あ、後は全部自分でやるっ」
とスポンジを奪い取るようにして、乱雑に自分の体を洗い始めた。
見られてはまずい部分はちゃんとタオルで隠しているとはいえ、体の前まで洗われては俺だって落ち着いては居られない、かもしれない。
「そうですか。では、私は戻ります」
静かな動作で頭を下げ、ぺたりぺたりと浴室を出ていくメイドが扉を閉めた表紙に、俺の口から溜息が転げ落ちた。
体を流して湯船に浸かり、縁に頭を載せた俺は天井を見上げる。
「はあ……」
今日一日だけで、一体何度目か分からないくらいの溜息。
「何でだろうな……」
こう、ヒリヒリとするような精神状態。
あいつに当たったところで、どうせ俺は役に立たないのは分かってるってのに。
――分かってるのか?
分かっているさ。
――分かっているのなら、諦めろよ。
だからと言って、何も出来ないのは歯がゆいだろ。
――ならば、行動するしかないだろう?
だけど、料理だって何だって、勉強するための知識もない。
――1番良い手本がすぐ傍に居るだろう?
あいつは1人で何でも出来るから、俺が聞きに行ったところで、面倒くさがるだけだろう。
――だから拗ねてるのか?
拗ねてなんて……。
「……そうか。俺は拗ねてるのか」
風呂から上がって、いつの間にか準備されていた着替えに袖を通し、俺はずかずかと館を歩く。
あいつがどこに居るかは分からないが、あいつに会うための方法は分かる。
もちろん、あいつのことだ、あの青色の世界に落ちようとしてもすぐに出てくるだろうが、別にあてつけのつもりであいつに会いたいわけではないから、他の方法を使う。
その方法は実に地味だ。
「メイド、何処だ」
そう言いながら、扉を開けて回るだけだ。
あいつは忍者か何かのように、脳内で下手にあれこれ考えるよりも、あいつの名前を声を出して歩き回る方がよっぽど効率的だろう。
だが、来るだろうとは予測していたものの、初っ端に開けた書斎の扉でメイドを呼んだところで、
「お呼びですか」
なんて背後に一発召喚されたのには流石に驚いて、
「うおっ!」
と驚嘆の声を上げながら振り返った際に態勢を崩し、後頭部と地面が仲良く接吻する直前に、メイドが俺の腕を掴んだ。
……いや、こいつは本当に俺を監視してるんじゃなかろうか。
「もう少し、心臓に悪くない方法で現れて欲しいんだが」
「検討します」
「検討だけではなく、実践もしてくれ」
「……承知しました」
小さく頭を下げたメイドは、目で「それで何の用でしょう?」と尋ねてくる。
俺は頭を掻きながら、書斎を少し歩いた。
「正直、お前は優秀だと思う」
「そうですか」
俺の言葉に対し、否定でも同意でもない、ただ事実として受け止めるだけの言葉を返してきたメイドは、俺のゆっくりな歩に合わせて、微妙な距離を保ったままついてくる。
「だから、俺も出会った最初は、全部任せておけば良いと思った」
「はい。それで構いません」
「……確かに、最初はそれで良かったんだが」
「……?」
初めてかもしれない。
明らかに、戸惑うような息遣いが聞こえてきた。
後ろをついてきているだけだから、表情は見えないが。
「なんだ……その、男というのにはな、こう……見栄というものがある」
「……」
なんと返して良いのか分からなかったのか、メイドは黙ったままだ。
だから、俺はもう少し説明する。
「あー、つまりだな……。お前の年齢が幾つかは分からないし、俺自身の年齢も良く分かっていないが、幾つだったとしても、女の前ではちょっとくらい良い格好をしたいと、まあ……そんなところだ」
「……そうですか」
「もちろん、お前には敵わない部分が多すぎるし、自分自身正直あまり役に立たないとも思っている。だが、こんな狭い世界だ。何もしないでただ日々を過ごすというのは正直苦痛だ」
「苦痛、ですか」
俺の言葉に明らかに狼狽えた声をするメイド。
「ああ、その、だな。この世界に居ることが苦痛なんじゃなくてな。そうやって見栄を張れない自分に腹が立つという意味で苦痛なんだ」
「そう……ですか」
俺が足を止めると、数歩遅れてメイドの足音も止まる。
それは、さっきまでの距離を考えれば、ほぼゼロ距離に居るはず。
「だから、なんだ」
こほん、と咳払いをして。
「役に立たないかもしれないが、もう少し手伝わせて欲しい。まあ、ミスも多いから、本当に邪魔になったら追い出してくれて良いが、それでもちょっとくらいは役に立ちたい」
振り返らずに俺がそう言って、些かの沈黙がこの世界を広がった後。
「……承知しました。今度からは、少しずつで構いませんから、手伝ってください」
「ああ、分かった」
そう言ったメイドは、たたたっと足音を立てて書斎を出ていき、俺はその背中だけ見送ってから、さっきとは違う音の溜息を吐いた。




