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せかい その3

 黙々と編み物を始めたメイドから微妙な距離にある書斎机へ本を置いて、残った椅子を引き寄せて座った。


 が、本を読む前に、折角そこに居るのだから尋ねてみる。


「そういえば、お前の名前、まだ教えてくれないんだな」


「気になりますか」


 俺の言葉に、編み物をしている手を止め、真っ直ぐにこちらを見るメイド。


「いや、まあ……呼びづらいからな」


 名前が分からないから、今のところは、お前、とか、おい、とか、なあ、とかで呼ぶしかないから、せめて名前くらいは教えて欲しい。


 だが、決まって返ってくる言葉はこれである。


「では、自分の名前を思い出しましたか?」


「……いや」


「ならば、教えられません」


 やっぱりこうなるのか。


 この世界で最初に意識を取り戻した日……いや、意識を取り戻したのか、そもそもそのタイミングにこの世界に生まれたのか、はたまた“夢に覚めた”のかは分からない。


 少なくとも“夢から覚めた”世界がこんな絶望しかない空間だったと思うよりも、この世界がまだ夢の中だと思う方が精神衛生上よろしいので、勝手に夢だと思い込むことにしておく。


「貴方が自分の名前を思い出して、わたくしに教えてくれるのであれば、そのときに私の名前もお教えします」


「だがなあ……呼ぶときに不便だろ」


 こいつが住んでいた世界が、俺の住んでいた世界と同じかどうかは分からん。


 こんな、作りかけで飽きてしまったゲームみたいなちっぽけな世界が存在するのだから、こいつが前に住んでいた世界が、実は魔法と剣が存在するような世界だったりするのかもしれない。


 ただ、どんな世界だったにせよ、複数の人間が存在したのであれば、各人を呼び分ける方法があったはずだ。


「ですから、メイドでも、お前でも、お好きなように。そして、私も貴方のことを好きにお呼びしますとも、申し上げたではないですか」


 ああ、取り付く島もない、というのはこのことだ。


 もう少し愛嬌あいきょうがあれば……と思うことは何度もある。


 見た目は、なんだ、その、悪くないからな。


 肩に掛からない程度に切り揃えられた黒髪は清潔感があるし、切れ長な黒目はややキツイ印象があるが、言い方を変えればクールな感じが悪くない。


 身長は比較的良くいているやや厚底のブーツ込みで、俺の目線くらいだから、低過ぎもせず、高過ぎもせず、丁度良いくらいだ。


 普段は手にはひじ辺りまで伸びた白い手袋、足は暑苦しいくらいまでに長いスカートだから、まじまじ見るわけでもないが、家事全般を一手に引き受けている割には華奢きゃしゃな方だと思う。


 まあ、色々とべたが、つまるところ容姿のみに限って言えば、ほぼ理想と言ってもいい。


 ただ、問題は性格と仕事の出来だ。


 確かに、俺がこの世界でほとんど役に立っていないことは事実だが、何でもかんでも俺をからかったり、言外ごんがいにディスりを入れてくる。


 その上で、仕事は完璧だから、一層たちが悪い。


 何故って?


 ……一切、文句の言いようが無いからだ。


 文句の言いようが無いということは、俺は何も言い返せないわけで、俺のフラストレーションは溜まる一方だったが、最近はその上限をぶっちぎったのか、もう怒りすら湧いてこなくなった。


 一時期はあいつを見返してやろうと、自由時間に書斎で料理や家事の仕方について書かれている本を探して勉強しようと思ったのだが、1冊としてそういう系統の本は見つからなかった。


 まあ、だからこの書斎には小説しかないと分かったわけなのだが、まさか書斎以外の場所に隠しているとか言わないだろうな。


 ……隠すとしたら、元の屋敷の主かあのメイドの2択になるわけで、どっちにも利点などないから、その説は無いな。


 ただ、もしかするとこの館を隅々まで探したら、1冊くらいは見つかる可能性もある。


 というのも、まだ完全にこの屋敷を散策しきったわけではない。


 むしろ、この世界の俺に意識が芽生えた後、自分自身が何も覚えておらず、この世界が定規でも使ったように綺麗に切り取った破片だということが分かったその日から、やる気メーターはマントルを突き破るほどに下限を突破したから、俺の脳内マッピングには自分の部屋、食堂、書斎、トイレ、風呂以外といえば、毎回同じ道を辿たどる外への散歩くらいしか登録されていない。


 ……ああ、後はあのメイドの部屋くらいか。


 今日、唯一外に出掛ける理由となっていた散歩まで禁止されたから、いよいよやることが無くなってしまうわけで、だったらせめてこの館を散策するくらいは許されるか。


 とりあえず、それは明日に回そうと、俺は本を開く。


 前回は、兄をさらった敵を追い詰めたが、最後の最後でビルの屋上からヘリで逃げられ、それを追っかけるところからだった気がするが……。


 存外ぞんがい、本の内容が面白く、没頭ぼっとうしていたらしい俺は、やや肩が凝り固まってきたところで顔を上げ、大きく伸びをしたときに、あのメイドがさっきまで居た椅子に座っていないことに気づいた。


 ……いや、だからどうした、って話だな。


 自分を除くと、唯一の人間であるということもあり、何かとあいつの姿を探してしまうが、別にあいつが居ても居なくても、本くらいは読める。


 が、そういえばそろそろ腹もこなれてきたから、風呂でも――


「そろそろ、お風呂の準備が出来ていますが」


「……」


「何でしょう。丁度良いところを邪魔しましたか」


 俺の視線に、相変わらずの無愛想な表情を返してくる


「……いや、何でもない」


 本当に、完璧すぎるのが玉にきずだ。


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