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2.いこまとひーちゃんのはなし


「父さん、これ、なに?」


 息子の綱守が不審そうに一枚の写真を見せた。いつも私の手帳に挟んである、大事な写真の二枚のうちの一枚だ。

 白いドレスをまとった少女と、彼女を抱き上げた私の写真。見るだけで笑顔になる、そんな写真だ。


 それなのに息子はニコリともしない。幼くして母を亡くした彼は、自分の感情を隠すことが得意になってしまった。

 多分、私に迷惑をかけないよう、そんな優しさなのだろうが、少し寂しくもある。


「お嬢様だよ」

「見ればわかるよ。でも、なんで、父さんが」

「ああ、三歳の七五三の写真をいただいたんだ」


 息子の眉がピクリと動く。少し興味があるのだろう。当のお嬢様の前では、彼は時折子供らしい感情を見せたりするのだ。



・・・



 それはお嬢様が満三歳となった春だった。夏に日焼けをしてしまう前に、七五三の前撮りをすることになった。


 大旦那様が用意した着物は、豪奢な絞りと刺繍に彩られた黒地の着物に真っ赤な被布。三歳のお嬢様にはいささか大人っぽいデザインだった。しかし、さすがの見立てというのか、色白でモダンな風貌のお嬢様を良く引きたてた。


 旦那様が用意したドレスは少し古めかしい雰囲気のロココ調。子供が着るには重厚すぎるほどのリボンとフリル。水色絹サテンの前開きのローブに、三段のパコダ袖、パニエを仕込んだ長い裾のスカートはむりやり膨らまされ、共布の縁飾りと白いレースが付いている。普通なら仮装に見えそうなドレスでも、灰色の瞳のお嬢様が着ると、古い絵画の中から抜け出してきたかのように見えるから不思議だった。

 小さなお嬢様がレースにうずもれているようで、それはそれで愛らしい。


 しかし、このあたりから雲行きが怪しくなった。


 不機嫌になったお嬢様は、自分の選んだドレスが着たいと駄々をこね始めたのだ。一着増やせば時間も長引く。その分、お嬢様に負担がかかる。大人たちが良い顔をしないでいれば、お嬢様は盛大にむくれた。そこで、仕方がなくお嬢様にも一着だけドレスを選んでいただいた。


 お嬢様がどうしても着たいと駄々をこねたのは、丈の短い快活な虹色のドレス。身頃は淡いピンク地に白い花のモチーフとそれを彩る煌めくビジューが付いている。短いチュチュはパステルカラーの七色が組み合わされ、大きなリボンは羽根のようだ。今までで一番の笑顔を見せるお嬢様は、可憐な虹の妖精にしか見えない。お嬢様はお気に入りのドレスを身に着けごきげんになった。



 しかし、ここまで三着を撮り終えて、残り一着となったとき、お嬢様の限界が来た。最後に残された純白のドレスを前にして泣き出してしまうお嬢様。

 上質ではあるが、子供から見ればシンプル過ぎて地味に見えるのかもしれない。お嬢様はそれを見てがっかりしたのだ。


「ひー、もういや! もうお写真いやよ! いやいやいや!」


 おろおろとするカメラマンを前に、奥様は必死になだめにかかる。それはそうだ。奥様だってこの日を楽しみに、白いドレスを用意してきたのだ。私はその様子も知っていた。


 子供の着替えは三着までが限界だからと三着しか用意しなかったのに、そこをお嬢様がどうしてもと、違う一着を着たがったのだ。そこを通してのこの事態、大人たちは少し疲れた顔になる。


「姫奈子ちゃん? さっき虹のドレスを着たでしょう? その時にお約束したわよね? これを着たら白いドレスを着るからって、姫奈子ちゃんが言ったわよね?」

「そうだぞ、姫奈子。約束は守りなさい」


 奥様も旦那様もそう言って窘める。

 それを聞いてお嬢様はより盛大にひっくり返った。もう、何としても嫌なのだ。


「ひー、帰るの! もう、ひーはかーえーるー!! いーやーなーのーおー!!」


 スリップ姿でひっくり返って、足をばたつかせるお嬢様。その泣き顔すら可愛くて、私は微笑んでしまう口元を隠した。

 写真館の店主は、面白そうな玩具やら可愛いヌイグルミを持ってきた。それでもお嬢様は見向きもしない。

 ばあやは彰仁さまに付きっ切りで、今はお嬢様を宥められる人間がいないのだ。

 困り切った大旦那様が私を見る。デレりとしていた顔を慌てて引き締めた。

 大旦那様に静かに頷き、お嬢様の横に膝をつく。


「そうですね、お嬢様。お嬢様よく頑張りました。今日はもう帰りましょう?」


 そう言えばお嬢様はパッと抱きついてきた。


「いーこーまぁぁぁ」

「はいはい、生駒はわかっていますよ」

「ひーね、ひーね」

「ええ、お嬢様。大丈夫ですよ」


 オロオロする奥様に目配せし、お嬢様を抱いて店の外に出る。スリップ姿を隠すために、私のジャケットで小さな体をくるんだ。

 店内のこもった空気から解放され、二人で息をつく。


「お嬢様、今日はとても頑張ったので生駒からご褒美です」

「ごほうび?」

「ええ、好きなものを買っていいですよ」


 自動販売機の前へ連れて行き、コインを渡せば小さな掌でギュッとつかんだ。


「ひーね、これね、してみたかったの」


 お嬢様はガチャガチャはおろか、自動販売機も使ったことがない。だからとても目新しいのだろう、目をキラキラと輝かせる。


「お金を入れたら一つだけ、好きなボタンを選んでください」

「ひとつ?」

「ええ、一つだけです。お金はここに入れるんですよ」


 腕の中のお嬢様をコイン投入口に近づける。小さな指で一生懸命コインを入れるお嬢様の横顔は真剣で、なんともいじらしい。

 たくさんあるジュースを見て困ってしまうお嬢様。パッケージを見ても、きっと何味かわからないのだろう。


「いこま、これは?」

「コーヒーです。苦いですよ」

「じゃ、これは?」

「ちょっとシュワシュワするメロン味です」

「ならこっち」

「それは紅茶ですね」


 そうやって悩んでいれば、時間切れでコインが落ちてきた。


「い、いこま? でてきた! でてきたわ!」

「もう一度入れれば大丈夫ですよ」


 慌てる姿も可愛らしくて、もう一度初めからやり直す。


「ねぇ、いこまはどれがいい?」

「生駒はこれが良いと思います」


 お嬢様が飲み切れそうな小さな缶。ココアの缶だ。


「じゃ、それにする!」


 お嬢様はそう笑って、ココアのボタンを押した。


 二人で自動販売機の隣のベンチに座りココアを飲む。お嬢様は初めて飲む缶ジュースに戸惑いながらも口を付けて、ホッと笑った。


「あまいのね」

「甘いですね」

「おいしいわ」

「美味しいですね」


 二人で笑ってココアを飲む。ふと、お嬢様が遠くを見た。


「ひーね、もうつかれちゃったの」


 その言葉が三歳児に似合わずに驚いた。


「ひーの七五三なのに、みんな、かってよ」


 時折お嬢様は本質をつく。お嬢様の意見を無視してつくられた着物やドレスの数々。それは溢れんばかりの愛情で出来てはいたが、お嬢様にしてみれば自分を無視した押しつけでしかない。


「ええ、そうですね」


 私は頷いた。


「いこま、わかる?」

「生駒にはわかりますよ」


 私は両親ではないから、泣き顔も盛大な駄々も微笑ましく思える。だから、少しだけ客観的にお嬢様を見ることができるのだ。

 奥様や旦那様が悪いわけではない。私だって相手が自分の息子なら同じようには接することはできないだろう。


 きっと嫌がる着物を着せ、泣いたら「それくらい我慢しろ」と叱るだろう。そんなものだ。


 ココアを飲み切って、お嬢様は顔をあげた。私はお嬢様を抱き上げてゴミ箱へ誘導し、缶を捨てさせる。それだけでもお嬢様は嬉しいらしい。


「さて、姫君。いかがいたしましょうか? さすがにこの格好では帰れません」


 お嬢様はスリップ姿に気が付いて、頬を赤らめた。


「戻ってお着がえいたしましょう?」


 黙ってコクリと頷いてから、オズオズと私の顔を見る。


「どうしました?」

「あのね……ひーね、おきがえ、ひーね」


 口ごもるお嬢様。気持ちが落ち着いてきて気が付いたことがあるのだろう。もともと賢いのだ。自分が本当に帰ってしまえば、奥様が傷つくことがわかってしまったに違いない。

 でも、あれだけ自分で駄々をこねた後、なかなか言い出しにくい気持ちもわかった。


「生駒はもう一度だけお嬢様のドレスを見たかったです」

「いこま、みたい?」

「ええ、とても大人っぽいドレスでしたから、お嬢様がお召しになればとても麗しいでしょう」

「うるわしいってなあに?」


 はじめてかけられる誉め言葉に、お嬢様はキラキラと目を輝かせた。可愛いは聞き飽きているのだ。


「とても綺麗ということですよ」

「ひー、きれい? かわいいじゃなくて?」

「ええ、お嬢様は可愛い上にお綺麗です。だから、生駒は白いドレス姿も見たかったです。きっと花嫁のようでしょうから」

「はなよめ……およめさん?」

「そうです」

「いこま、みたい?」

「とても見たいです」

「……だったら、ひー、いこまのためにきてあげるんだわ!!」

「本当ですか? おつかれでしょう? 生駒の我儘に付き合わなくてもよろしいのですよ?」

「いいのよ! いこま」

「お嬢様はお優しいですね」

「そうよ、ひーはやさしいの!」


 お嬢様はそう笑った。


 そうやって写真館に戻り、メイクからやり直す。パフスリーブの純白のドレスは、フリルもレースもなくまことにシンプル。しかし、一見して手の込んだものとわかる子供だましではない最高の生地と、最高の仕立てだ。奥様が気合を入れて作らせていたのだ。

 たったこの日、一度だけのために。


「いこま、みて? ひー、うるわしい?」


 覚えたての言葉を一生懸命に使って、よたよたと回って見せる。


「ええ、麗しいですよ。お嬢様」


 答えれば、お嬢様は満足げに笑う。


「ひー、いこまとけっこんするのー!! きっと、いこまとけっこんするわ!」


 突然落とされた可愛い爆弾。

 ハッとして周りを見れば、旦那様が怒りに満ちた目で、大旦那様が絶望の眼差しで私を見ていた。二人とも今にも泣きだしそうだ。


 ……白山家の怒りにこれほど触れたことはなかったのではないか。


「それはとても光栄ですが……お嬢様、生駒はもう結婚してるんですよ」

 

 微笑んで答れば、今度はお嬢様が泣き出しそうだ。


「いこま、ひーとけっこんできない?」


 そんな潤んだ瞳を向けられたら、何でも応えたくなってしまう。しかし。


「生駒、嘘でもいい、結婚すると言ってやれ!! どうせ、子供の約束だ。大人になれば忘れるだろう!」


 怒気を含んだその声には、そうあって欲しいとの思いが滲んでいる。


「旦那様、さすがにそれは出来ません!」


 膝をついてお嬢様に目を合わせる。


「生駒はお嬢様に嘘をつきたくないんです。生駒にはもう妻がおります」

「ひーより、うるわしいの?」

「いいえ。お嬢様が世界で一番麗しい……ですが、一番大切なのは妻なのです」

「ひーのがうるわしいのに? ひーのがうるわしいならひーにしなさいよ」

「お嬢様は、生駒がそんな人でもいいですか?」

「?」

「新しいものを見つけたら、大切なものを捨ててしまえるような、そんな人でもいいですか?」

「……それは、いこまじゃない」

「ええ。それは生駒ではないです」

「ならしかたがないわね。だってひーは、いこまが好きなんだもの」

「申し訳ございません」

「ゆるすわ。でも、ティアラはいこまがつけて?」


 そうやって小さな頭を突き出すから、そっとその柔らかな髪に銀のティアラをのせる。ヘアメイクが取れないように固定をし、撮影が再開された。


 可愛らしいお嬢様。白いドレスが本当に花嫁衣裳のようだ。半泣きの表情の旦那さまや大旦那さまのせいで、まるで今日が本当に結婚式のように見える。私の鼻の奥までツンとする。


 撮影を終えて、お嬢様に願い出る。


「お嬢様、生駒とも一枚撮って頂けませんか?」

「いいわよ」


 お嬢様はそう言って、当然のように両手を広げた。抱っこしろ、そういう意味だ。

 私はフワフワと軽いお嬢様を抱き上げ、片腕に座らせた。お嬢様は両手でギュッと私の首を抱きしめる。柔らかなほっぺを私の頬に寄せ笑った。


「いこまもおひげ、はえてるのね?」


 ああ、なんて愛おしい子。まるで天使を抱いているような至福だ。



・・・



 思い出を息子に話せば、帰ってきたのは盛大に長い吐息。


「ラミネート加工までして」


 咎人を責めるような声に笑ってしまう。あまりにお嬢様の話ばかりしたから、父を取られるとでも思ったのだろうか。お嬢様に嫉妬しているのかもしれない。まだまだ、綱守も子供なのだ。


「お前の七五三もラミネートして持ち歩いているぞ」

 

 誤解を解くために付け足した。


 家族でそろってとった写真は、七五三の五歳の写真。今は亡き愛妻が柔らかく微笑んでいる。これが元気だったころの最後の写真だ。闘病中の彼女は入学式にも出られず、以後は病室での写真しかない。

 この写真とお嬢様の写真をいつも一緒に持ち歩いているのだ。これさえあれば、どんなきつい仕事でも乗り越えられる。


「自分の家族はまだわかるけど」

「でも、お嬢様は可愛いだろう?」


 まだ腑に落ちていない様子の息子に問えば、彼は小さく肩をすくめた。可愛いという言葉自体が恥ずかしい思春期特有な複雑な感情か。それとも父に対する反抗期なのだろうか。

 思えばこの子は、あの可愛い天使を可愛いと言ったことはない。小さいころから一緒に過ごし、きっと気が付かないのだろう。それはすこし気の毒に思った。


 息子はお嬢様に初めて会った日のことを覚えていないのだろうか。

 緑の芝生の中でブランコで遊ぶ二人を見た時、私は眩暈がした。子供ならではの張り合うような目に、屈託ない笑顔。甲高い歓声と、切れた息遣い。相手が誰だとか一切関係ない。二人だけの世界。

 息子の明るい笑顔をどれくらい見ていなかったのか、私にはとっさに思い出せなかった。

 失礼に気が付いて思わず制すれば、初めて綱守はこちらの存在に気が付いたようだった。子供ながらに聞き分けの良い子には珍しい振る舞いだった。


「この子が欲しい」

 

 まるで子供の遊びみたいにお嬢様がそう言えば、泣きそうな縋るようなそんな顔で笑った息子。

 まるで信じられない奇跡でも見たような、そう、天使に手を差し伸べられたかのような顔をしていたのに。


 しかし、だからこそ安心して側におけるともいえる。

 不埒な感情など持ったやからなど、あの天使の側には置いておけない。


「最近は特に麗しくなられて、父さんは心配なんだ。芙蓉は共学だろう? ちゃんとお守りするんだぞ」

「……わかってる」


 不機嫌にそっぽを向く横顔。本当にわかっているのだろうか。


 そう疑問に思いながら、私は二枚の写真を手帳に挟み直した。


「お前にもそのうちきっとお嬢様の素晴らしさがわかるよ」

「……」


 ムッツリと押し黙る息子の頭をグリグリと混ぜ返し、私は家を後にした。


「じゃあ、父さんは行ってくる」

「行ってらっしゃい、気をつけて」

 

 背中に息子の声が響いた。






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