10.バレンタインもらえなかった生駒の話(275話ぐらい)
「生駒さん、もらってください。あと、こちらは社長へお渡しください。企画部からです!」
今日何個目かわからない義理チョコを受け取って、社長室へと向かう。
本日はバレンタインデーである。
朝から社内はウキウキとした雰囲気だ。私の元にも義理チョコが続々と集まってくる。食品企業だけあって、食べ物系イベントは市場調査も兼ね会社全体で盛り上がるのだ。
社長室では、第二秘書と一緒になって義理チョコを整理する。
開封し中を確認したあとは、給湯室へ置き自由に食べてもらうのが我が社の流儀だ。
みんな承知の上なので、自分が食べたいお菓子を本気で選んでくる。そのため、もらって嬉しいお菓子が集まり参考になる。
「今年の傾向は海外有名ブランドですね」
「希少性が高いもの購買意欲がわきますから」
第二秘書が笑う。
「そういえば、天使ちゃんは何か準備していました? 女子高生のブームって何なんでしょう?」
第二秘書が屈託なく聞いてきて、旦那様と私の手が思わず止まる。「天使ちゃん」とは、姫奈子お嬢様のことだ。
お嬢様が中等部に入ってから旦那様は仕事の進め方を変えられた。自身がたたき上げで職人気質の旦那様は、どうしても仕事の前線に立ちたがり、勤務時間も長いのだ。
上司が帰らなければ、部下は帰りにくい。そのせいで部下は仕事が休みにくく、自然と長時間労働が蔓延する職場になっていた。
しかし、お嬢様が旦那様に甘え、学校行事に引きずり出してくれたおかげで、有休も取りやすく定時で帰りやすくなったのだ。その上、社長の口から子供の様子を質問され、まともに答えられないと「育児に参加しろ」と窘めるほどになっていた。
お嬢様が白山茶房を継がれてからは、仕事上の相談はきちんと時間内にアポを取り、会社で打ち合わせるようになった。公私を別とするお嬢様のあり方に、旦那様も考えることがあったのだろう。仕事の仕方を少しずつ変えられた。
旦那様も、将来的なお嬢様の活躍を見越してか、社内の産休育休体制に力を入れ始め、女性の活躍しやすい企業として名前が挙がるようになったのだ。
そんな社内環境改善の立て役者、姫奈子お嬢様がオフィスに初めて現れたとき、社内が騒然となったことを覚えている。
いかつく男らしい旦那様から想像のできない愛らしさに、驚いた社員が多かったのだ。そもそも、旦那様が照れ隠しで「姫奈子のわがままに付き合って」とことある度にいうから、どんなにいかついわがままお嬢様かと思われていたらしい。
あどけなく気さくなお嬢様が溌剌と挨拶をしてまわったせいで、その愛くるしさで「天使ちゃん」と呼ばれるようになったのだ。
実際、お嬢様のおかげで、有休消化率も良くなり会社の雰囲気も良くなったので、まさに天使なのである。
白山家の離れから出た私たちは、当然ながら食事は別となり、今年のバレンタインは多分ご相伴に与れないだろう。
ただ、心優しいお嬢様なら、用意してくださっているのではないかと密かに期待をしているが、おくびに出すことはできない。
「最近は『ザ・本命!!』みたいな重いのより、友達同士で楽しむ感じなんですよね?」
第二秘書の問いに、チラリと息子の顔がよぎる。
何も答えられず困っていれば、第二秘書は笑った。
「あ、今年は秘密にされちゃいました? 天使ちゃんももう高三ですもんね。秘密もだんだん増えてきますよね」
「そんなことは!」
私が思わず反論すれば、第二秘書がチラリと私を見る。
「生駒さんも残念なのはわかりますけど、生駒さんなんて天使ちゃんから見れば、よそのおじさんなんだから」
ケラケラと笑いながら言われてよろめいた。
頭の中で、ガーンガーンガーンと大きな文字が反響している。
「……よその……おじさん」
「そうですよ。今まで素直に相手してくれてたのが奇跡なんですよ? やっぱり天使ちゃんは天使ですよね」
お嬢様が天使なのには反論はない。けれど。
ぐっと心を立て直す。
「よそのおじさんかもしれませんが、お嬢様と私の間には親子に負けない強い絆がありますから」
余裕を装い答えれば、旦那様から睨まれた。
「生駒さーん、社長が怒ってますよ」
「申し訳ございません」
さっと旦那様に頭を下げる。
「もう生駒は嫌われてるかもしれないぞ」
旦那様が口の中でモゴモゴとつぶやいた。
大丈夫。昔、お嬢様にプロポーズされたのだ!
少しくらい注意したくらいで、お嬢様と私の絆が壊れることはない。
指導だ。忠告だ。賢いお嬢様なら本当はわかっているはずなのだ。
ただ、今は素直になれない、そう、反抗期、反抗期だからであって、少し時間をおいて冷静になれば、何が正しいのかわかるはず。
一日の仕事を終え、白山邸に旦那様を送り届ける。
白山家を出てからは、会社の仕事を終えてから白山邸に戻り、執事の仕事をこなし、社宅へ帰るのがルーチンだ。
社宅へ帰る準備をしていると、お嬢様が両手いっぱいにプレゼントを持ってやってきた。
「はい生駒! これ、綱に渡してちょうだい!」
「何ですか?」
「今日はバレンタインよ? 学院で預かってきたの、綱の分。綱は学院でほんとーに人気なんだから!!」
顔だけは笑っているが目は笑っていない。わかりやすいお嬢様はきっと心を痛めておいでだ。
「……お嬢様にこんなことをさせるとは、綱守のやつを叱っておきます」
「生駒がいけないのよ、登校させないから私が預かるはめになるんでしょ?」
お嬢様はそう言って私の手にプレゼントを押しつけた。
「あの、お嬢様……」
……この中に、私宛のお嬢様が作ったチョコレートはあるんですよね?
とは無論聞けまい。
「なぁに?」
「その、」
「?」
「……お嬢様の作ったものもここに?」
恐る恐る聞いてみる。
お嬢様は不機嫌そうに私を見た。
「何言ってるの? 反対したのは生駒じゃない! あげませんよーだ!!」
「っ!」
「いじわるな生駒にもチョコレートなんかあげないわよ?」
お嬢様は挑発するようなつり上がった大きな瞳で、上目遣いで私を睨んで、口元だけうっすら笑った。
その表情にハッとする。そこには三歳の天使はいない。もう、十八になろうとする小悪魔が降臨していた。
「ではごきげんよう。第一秘書の生駒さん」
言葉を失う私を見て、お嬢様は機嫌よさげにきびすを返した。
ちょっとだけスキップをしているお嬢様の後ろ姿に、傷つきながらも愛おしいが勝ってしまうのだ。
私で憂さ晴らしをして少しでも気が晴れるなら、いじわるぐらい喜んで受ける。
天使なお嬢様には最高の伴侶と、最高の人生を歩んでほしい。
いくらお嬢様が好いてくれようとも、綱守ではダメなのだ。
せめて、八坂様、いやダメだ。女性関係で気苦労が絶えないのはわかりきっている。現に友人と言うだけで、お嬢様は嫌がらせを受けたのだ。恋人となったらどんな苦労をするかわからない。
修吾様なら彰仁様とも仲が良く、島津家の次男だ。あわよくば婿にと望めないこともない。だが、スポーツ選手など安定しない。海外暮らしも多いだろうし、お嬢様は苦労する。やっぱりダメだ。
やはりここは氷川様か。文武両道でご立派な方だ。しかし、あの方は家とお嬢様を選ぶとき、迷いなく家を取るだろう。それが正しい判断だが、そんな人にはお嬢様は任せられない。苦労することが目に見えている。
……綱守は……。
きっとお嬢様を第一に考えるだろう。いや、考えていないからこういうことになったのだ。お嬢様を第一に考えてさえいてくれれば、お嬢様を悲しませることはなかった。
あの子が不相応な思いさえ抱かなければ、ずっとお嬢様の側にいることはできたのだ。私と旦那様のように、伴侶より長い時間を過ごせたのに。
綱守にはお嬢様が必要だ。それはわかる。でもお嬢様に綱守は必要ない。代わりならいくらでもいる。親に反対されて諦める程度の想いなら、早く忘れた方がお互いのためだ。
はぁ、とついたため息は白い。
冷たく光った銀色のドアノブに手をかける。まだ慣れない、新しい住まい。
ここは白山家と違って少しだけ温度が低い気がする。離れより幾分広くなった社宅。今から夕食を作るのはおっくうだ。
何のレトルトがあったかと思い返しつつ、レトルトなら食べなくても良いかとも思う。
社宅へやってきてからは、食事が餌になっているのがわかる。生きるために仕方なく食べる。何を食べても同じだ。
育ち盛りの綱守には、好きなものをデリバリーして食べるようにお金はおいてある。受験で大切な時期だ。家事で時間を潰すこともない。
珍しく家から良い匂いがする。綱守は何を頼んだのだろう。これなら少し食べたいな、一口くらい分けてくれるだろうか。
「ただいま」
「おかえり」
いつも通りの声にホッとする。
あんなことがあっても綱守は変わらない。泣き言も言わなければ、言い訳もしなかった。淡々と謝って、淡々とすべきことをこなしている。多くの禁止事項でさえ、一切反抗せずに無表情で受け入れた。
今では、まるで初めから何もなかったかのように生活をしている。
「お嬢様から預かった」
たくさんのプレゼントを綱守に押しつける。
「ありがとう」
まったく無表情で答える姿はちっとも有り難がっていない。
お嬢様が作ったお菓子はあんなに美味しそうに食べるのに、甘いものは好きではないのか。
「おまえ、甘いもの苦手だったか?」
「そんなこともないよ」
「その割に喜ばないんだな」
「そう?」
関心なさそうに答え、これまた関心なさそうにテーブルの脇に置く。
ああ、お嬢様のものだったから、あんなに喜んでいたんだな。
目の奥がチリリと痛い。眼精疲労だということにしよう。
ふと不安が沸き起こる。
「……まさか、おまえ、お嬢様からもらったのか?」
「今日は登校日じゃないから会ってない」
「そうか、そうだよな」
「父さんは?」
無表情なまま息子が問う。
私が無言になれば、息子はそれが答えだと了解したようで、小さく鼻から笑いを漏らして、隠すように背を向けた。
……。今のは何だ? 同情されたのか?
「夕飯いまから?」
綱守は背を向けたままだ。
「ああ」
「ちょうど今作ったから一緒に食べる?」
「作ったのか? そんなことしなくても良いんだぞ?」
「息抜きだよ。それにたいしたものは作ってない」
炊きたての白いご飯に、具だくさんのお味噌汁。焼いた肉にタレをかけただけの焼き肉。卵焼きにはネギがいっぱい入っていて、美味そうだ。
いただきますと手を合わせ、お味噌汁に手をつける。
ああ、これは懐かしい。ホッとする。白山家の味に近い。
温かさが体にしみる。心になにかが満ちてくる。一口食べて、腹が減っていたことに気がついた。この味に飢えていた。
「おまえ、これ」
「白山フーズのだしパックは、再現率優秀だね」
「だしパック……」
ボケッとして綱守を見た。相変わらず、表情がない。
「『お味噌汁だけで良いからちゃんと食べなさい』だって」
「お嬢様が?」
綱守はこくりと頷いて、お椀に口をつけた。
そして一口味わうと、無表情だったその頬が柔らかく綻んだ。
ああ、そうだ。この子はずっと、そういう顔を隠してた。お嬢様に会うまでずっと、私の前では良い子であろうと子供らしい顔を隠していた。
お嬢様に出会ってやっと取り戻した表情を、今は私が奪っている。
お嬢様はこんな風に、いともたやすく綱守を変えてしまう。料理に興味の無かった子が、お嬢様の一言で、味噌汁だって作るのだ。
だが。
でも。
しかし。
貧しい家に生まれ進学を諦めていた私を、書生にと引き上げて大学まで行かせてくれたのは大旦那様だ。そして、旦那様の右腕として育ててもらい、充実した生活とやりがいを与えてくれた。
旦那様と奥様は、綱守を我が子のように目をかけてくれる。母のいない寂しさは白山家が埋めてくれた。綱守がまっすぐ育ったのは、ひとえに白山家のおかげだ。
こんなに恩義のある方々を裏切るわけにはいかない。
なんとしてもお嬢様には誰よりも幸せに。
かわいそうだが綱守には諦めてもらうしかない。
ズズッと味噌汁をすすって、炊きたてのご飯をかき込む。「負け米」と名付けられたお米は、お嬢様のお気に入りだ。
ネギの入った卵焼きは、妻がよく作ったものだった。綱守が思い出して自分で作ったのだろうか。白山家の卵焼きは甘いことの方が多い。
「うまい」
卵焼きを口にして、なぜか鼻声になった声。
「なに? 鼻声だけど風邪?」
「外が寒かっただけだよ」
「カリンシロップないんだから、気をつけてよ」
お嬢様の作ったカリンシロップは、あまり美味しくないけれど、なぜか効くのだ。でも今は頼れない。
大事なときに頼れる場所を奪った父を、この子は憎むだろうか。
「そうだな……わるかった」
あの一瞬を見逃してやれなかった時点で、父であることを捨てたのだから。
一緒におまえの側に立ち、戦うことを選べなかった。
小さい声での謝罪の意味は今は伝えるわけにはいかない。
けれど。
おまえにだって幸せになってほしいと願っているのだ。
そんな私には目も向けず綱守も小さく呟いた。
「こっちこそ、ゴメン」
無表情で呟かれた言葉に、私は小さく笑ってしまった。
ああ、この子は嘘つきだ。悪いなんて思ってない。
諦める気などない息子に、父は少しだけ安堵した。