1.おじいさまとひーちゃんのはなし
おじい様(白山彰蔵)とひーちゃん(姫奈子)の想い出。
おじい様視点。
「ねぇ、おじい様! あっくんたらひどいの!!」
部屋に飛び込んでくるなり、孫の姫奈子が泣きついた。あっくんとは、姫奈子の一歳になる二つ歳下の弟、彰仁のことである。最近歩き始めた彰仁は、ちょこまかと姫奈子を追いかけまわしている。
「ほう、今日はどうしたね?」
「あっくんたらね、ひーのねリボンを取ってね、食べちゃったのよ」
半べそをかきながら訴える姫奈子の二つに分けた髪の一つには、言葉の通りリボンがない。
「おやまあ」
「あっくんがね、ダメよって言ったのにね、お口に入れてね、食べちゃってね、返して、って言っても返してくれないの。ばあやに言っても、あっくんがひーのこと好きだから、っていってね、笑ってばっかりなのよ」
「彰仁はひーのことが大好きだからね」
「でも、だめなのはだめなの!」
「ああ、そうだね。駄目なことは駄目だね」
「みんな、あっくんばっかりひいきなのよ! かわいいからって怒らないのはダメなの!」
小さいながらも活発な彰仁は、怪我をしたり、病気をしたりと目がはなせない。母親は、慣れない男の子育児に振り回されていて姫奈子は後回しにされがちなのだ。
父親は仕事ばかりで、そもそも家庭をかえりみない。
だから、私が親の不足分まで可愛がる。姫奈子を一番に可愛がる。
プンスコと怒る姫奈子は可愛らしくて、その姿すらずっと愛でていたくなる。
しかし、そろそろご機嫌を取らなくては、姫奈子も拗ねてしまうだろう。
「ひーは、何色のリボンが欲しい? 新しいのを買ってやろう。古いリボンは彰仁にあげなさい。だけどこのことは彰仁には内緒だよ」
「本当? 内緒ね! おじい様。だーいすき! あのね、もっとレースでね、大きいのがいいわ」
「ああ、何でも買ってあげるよ。今度外商に持ってこさせよう」
「ねぇいつ? いつ? 今日? すぐ? 明日?」
「わかったわかった、すぐ連絡しよう。できるだけ早くと頼んであげるよ」
「ふふ、楽しみね。新しいリボン、楽しみね」
姫奈子はそう言ってもう笑う。本当に可愛い孫なのだ。
・・・
「ねぇ、おじい様! みんなひどいの!!」
今日もまた姫奈子が飛び込んでくる。
「今日はどうしたね」
「あのね、長くてね、ながーいパンを貰ったの。だからね、あっくんと私で半分こしようと思ったの」
「ああ、ひーはいい子だねぇ」
「そうよね。ひーはいい子なの! でもね、割ったら、ちょっと歪になっちゃったの。ちょっとよ、ちょっとだけ、小さいのと大きいのになったの。そしたらね、あっくんが大きいの欲しいっていうの。でもね、そのパン貰ったのはひーなの。だからね、大きいのはひーのだと思うの!」
姫奈子はぷりぷりと怒っている。
「そうだね。ひーのだね」
「それなのにね、お母様、あっくんに大きい方をあげなさいって言ったの。ヘンでしょう? あっくんの方が小さいのに」
「そうだね。ひーの方が大きいね」
「だからね、いやよって言ったらね、あっくんが泣いたの。すっごく泣いたの」
「おやおや、彰仁は泣いたのかい」
「そうなの、ずるいのよ。泣いたのよ」
「ずるいかい」
「そうしたらね、周りにいたみんなが言うの。あっくんが泣くから、あげなさいって。姫奈子は『ねーね』だから我慢しなさいって。ひーは『ねーね』にしてなんて、一度も頼んでいないのに」
「そうだね、ひーは頼んでないね」
「みんな、あっくんの方が好きなの。ひーよりあっくんが大事なの」
怒っていた姫奈子が俯いて、正座した膝の上で、ギュッとスカートを握りこんだ。スカートの上にポトリと雫が落ちる。泣いているのだろう。
「ひー。そんなことはないよ。みんな、ひーが大好きだよ」
「だって」
「ひーだって、彰仁と同じころ、みんなに大事に大事にされてきたんだよ。でもひーは覚えていないだけさ」
「だって、覚えてないなら一緒だもん! 本当か知らないもん!」
キュッと目元を拭って生意気に涙を拭いた顔をあげる。小さいのに勝気な子。彰仁を泣いてずるいと責めたから、泣けなくなったいじらしい子。
「ひー、お膝においで」
「……」
姫奈子は唇を噛んで逡巡した。
「ひー、おいで。ここでは泣いていいんだよ」
ポンポンと膝を叩いて見せれば、姫奈子はそこへ飛び乗ってきた。私の首に抱きついて堰を切ったように泣きはじめる。
髪をすいて、背中を撫で、頬と頬を擦り寄せる。よしよしと慰める。かわいい、かわいい、私の姫奈子。
おじい様、髭がくすぐったいわと、姫奈子が笑った。
「ひーはお姫様じゃないか」
「ひーはお姫様?」
「そうだよ、姫奈子のひは、お姫様のひ。お雛様のひな。ひーはみんなの大切なお姫様だよ。だからおじい様のお友達は、みんな姫奈子をひーちゃんって呼ぶだろう?」
「ひーちゃんて、お姫様って意味なの?」
「そうだよ。ひー。お前はお姫様なのだから。あんなにきれいな千代子だって『ひーちゃん』って呼ぶだろう? 彰仁は呼ばれない」
「チョコちゃんも、ひーちゃんて呼ぶ!!」
「だから、心配しなくていいんだよ。さぁ、氷飴を持っておいで。好きなのを選びなさい。でも、彰仁には内緒だよ」
「彰仁には内緒なの?」
「ああ、二人だけの秘密だよ」
「氷飴って宝石みたいでだーいすき!!」
姫奈子はそう言うと、小走りで氷飴の入った缶を持ってくる。中でも大きなものを選んで小さな口に詰め込むから、かえってうまく舐められなくて困った様子も愛おしい。
甘い宝石で育てた子。私の大事ないとし子だ。
・・・
「ねぇ、おじい様! ひどいのよ」
今日は怒っても拗ねてもいない。それなのに酷いとはどういうことだ。
「あっくんがね、今度オジュケンなの」
「ああ、芙蓉を受けるのかい」
「そうなの。それで練習してるの。ひーのことをね、お姉さまって呼ぶように」
芙蓉学院幼等部は、姫奈子も受験をし、受け入れられなかった。彰仁が二歳になったから対策をさせるのだろう。
正直そこまで躍起になるのは理解できないが、祖父の私が口を出しても聞き入れられないのだ。
「そしたらね、『あっくんの、ねーねはいなくなっちゃうの? ねーねはどこいっちゃうの?』って泣くの」
「おやまぁ」
「だからね、ねーねはお姉さまになるのよ、って言ったらね、ねーねがお姉さまになったら、ねーねは? っていうの」
「ほうほう面白いね」
「ねーねはね、ずっとあっくんのねーねなのよって言ったらね、お姉さまにならない?って聞くの」
「それは、なかなか手ごわいねぇ」
「ね? あっくん、頑固なの。それでね、みんな可愛いっていうの。私もね、可愛いって思うの」
「彰仁が可愛いかい」
「あっくんはずっと可愛いのよ、おじい様知らなかった?」
姫奈子は笑って、マジマジと私を見た。
「ひーも芙蓉をオジュケンするの。小学校から芙蓉に行くんですって。あっくんと同じ学校に行けるように頑張りなさいっていわれたの。ひーはね、もうひーじゃなくて『私』っていうの」
「そうなのかい」
「前は失敗したから、今度は頑張りましょうね、って先生が言ったの」
私が言葉を失えば、姫奈子は不思議そうに、私の目を覗き込んだ。
「私、失敗したの? ひーはダメな子だった?」
私は大きく息を吐き、心を落ち着けようとした。なんて残酷な世界なんだろう。姫奈子は忘れていたのに。覚えてなくても良い挫折だったはずなのに。小学生にもならない娘に、自分は失敗したのかと言わせるのだ。
そもそも、姫奈子の幼稚園受験には反対したのだ。早生まれの姫奈子は、受験日はまだ二歳。三歳になった子に比べれば、考えずとも不利だからだ。しかし両親は「姫奈子なら大丈夫」と強行した。期待も信頼も過ぎればただのプレッシャーだ。
この子の未来は、こんなにも険しい。
「いいや。ひーはお姫様じゃないか。お姫様だから、神様が桜庭へ行けと言ったんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。桜庭はお姫様の学校だから。ひーは悪くないんだよ」
「ひーは、悪くないのね!」
「ああ、当然だとも。ひーはぜんぜん悪くないんだよ」
姫奈子は満足したようにニッコリと笑った。
「さぁ、お稲荷様からお菓子をおろしておいで。一緒に食べよう」
「秘密のお菓子ね!」
芙蓉など受けなくてもいい、喉まで出かかった言葉をようやく納めて、ため息をつく。子供にすべき話ではない。
熱い緑茶を入れて、姫奈子と一緒に一息つこう。
姫奈子は小さな手のひらにお菓子をのせて走ってくる。両手で大切そうに抱える姿は本当に愛おしい。
「今日のお菓子はなあに? だるまさんの形だわ」
「モナカだよ。だるまさんは強いんだ。倒れても何度も立ち上がるんだよ。ひーもこれを食べて、少しぐらい押されてもへこたれずに起き上がれるようになれるといいね」
「ひーはね、結構強いのよ。押されたら押し返しちゃうんだから!」
「そうかい。ひーは強いんだねぇ」
姫奈子は嬉しそうにだるま型のモナカに噛り付いた。
願わくばこの子に幸せがありますように。
転んでしまうのは仕方がない。しかし、再び立ち上がれるよう、差しのべる手がありますように。
・・・
「ねぇ、お稲荷様! ひどいのよ」
姫奈子は相変わらず嫌なことがあればここへ来る。桜庭女学園で三年目の小学校生活を送る姫奈子は、有名なグレーの制服ワンピースが汚れるのも厭わずに、お稲荷様の脇にある庭石に座り込んだ。学園から帰ってきて一番にここへ寄る。
そして、朝にお稲荷様に供えたおさがりを口にしながら愚痴をぼやく。
「私、劇の主役になれなかったの! お姫様になりたかったのに」
ああ、それは残念だ。おじい様も見たかったよ。
「……それで気がついちゃったの。……私、可愛くないんじゃないかしら?」
おやおや、そんなことはない。ひーは誰よりもかわいいよ。
「だってね、学園にはかわいい子がたくさんいるの。だからね、一番かわいい子がお姫様になるに決まっているわ」
ひーはお姫様なんだから、今更劇でお姫様にならなくたっていいじゃないか。
「……私……、一番じゃなかったわ。……お姫様になりたかったわ……」
こんなに小さいのに、過去形で話すのか。
小さな膝で頭を抱え込んで、クスン、小さく鼻をすする音。それでもこの子はきっと涙は見せない。もう安心して泣ける場所がないからだ。
抱き締めて髪を撫で、頬に頬を寄せ、思う存分泣かせてやりたい。泣き疲れたら一緒に眠り、甘いものを食べさせて。
しかし、私にはもうできない。手を差し伸べることはもうできない。
「お嬢様、また、ここにいたんですか」
小さな男の声に、姫奈子はピョンと頭をあげた。嘘みたいな満面の笑み。今泣いたカラスがもう笑ったのだ。
「こちらに来るのは、制服を着替えてからと奥様が言っていましたよ」
「いいじゃない」
口答えする姫奈子の唇の端。ついた白い粉を見咎める男の子。
その意味に気が付いて、姫奈子は慌てて唇を拭った。
「内緒よ? 綱。綱にも一つあげるから」
毎日の習慣で二つ供えた大福、残りの一つを綱と呼ばれた男の子に渡した。
「彰仁さまに差し上げないと」
「彰仁には秘密なの」
「秘密なんですか?」
「そうよ。おじい様との内緒なの」
姫奈子は悪戯っぽく笑った。私との秘密を共有する友達ができたのか。
男の子はお稲荷様をジッと見てから、大福を大切そうに掌に載せたまま頭を下げた。
「いただきます」
ああ、良い礼だ。
そして彼は姫奈子の隣に腰を下ろし、大福を食べ始めた。
「ねえ、綱! ひどいのよ!!」
姫奈子がいう。
「またですか? お嬢様」
男の子が答える。
「あのね、学園でお姫様に選ばれなかったの」
「……これ以上、お姫様になりたいんですか? 十分お姫様じゃないですか」
呆れたように男の子が答え、姫奈子は怒ったように言う。
「お姫様にそんなこと言う人いないもん! 王子様はそんなこと言わないもん!」
「私は王子じゃありませんからね。彰仁さまみたいな人を王子様というんでしょう」
「……彰仁が王子様? あっりえなーい!」
姫奈子はご機嫌に笑う。
「つーなー!! ひーなーこー!! どーこー!!」
彰仁の声が響く。姫奈子を探しに来たのだろう。
慌てて大福を食べ終えた二人は、可愛い悪事を隠すべく入念にお互いの粉を確認し、払いあってから駆け出していった。
願わくばあの子に幸せがありますように。
転んでしまうのは仕方がない。しかし、再び立ち上がれるよう、差しのべる手があの子の側にありますように。