8 鈴の音
楓と千早は、ひたすら北を目指して走り続けた。
途中、追っ手とおぼしき邪鬼を何度も見かけたが、いずれも千早の俊足で振り切り、事なきをえた。怯えてばかりだった楓も次第に調子を取り戻し、自分なりに今回の事件を推測し始めていた。
楓の町を襲撃し、今もなお楓を追ってくるのは鬼に違いない。鬼の目的は、姉の言葉から考えると、「神の卵」と呼ばれるものを手に入れることだ。それを橘一族が持っているのどうかは不明だが、少なくともなんらかの関わりを持っているのだろう。それについては、北の山へ行けば柳が教えてくれるはずだ。
だが、北の山に着く前に詳しいことがわかるかもしれない、と楓は思った。
楓は町を出て以来、毎晩夢を見た。それは祖母が語ってくれた、橘姫と一寸法師の物語だった。どうしてそんな夢を見るのかはわからないが、現実感あふれるあの夢は、確かに千年前のことだと思われた。
もっとも夢では、祖母が一言も触れていない、禅高という男が登場している。
これについては楓もどう考えてよいかわからなかった。祖母が単に言い忘れただけなのか、それとも禅高は、鬼との戦いには何の関係もないのか。それは夢の続きを見なければわからなかった。
◇ ◇ ◇
五日目が終わろうとしていた。
その日も千早は一日中走り続け、日が暮れそうになると道をそれた。
「千早、疲れてない?」
楓が声をかけると、千早は耳を三回振って答えた。大丈夫だ、気にするな、と言っているようだった。
「もう半分ぐらいは来たのかな?」
そんなところだ、と千早は耳を振って答えた。
道をそれてしばらく行くと、竹薮の奥に見慣れた形の小屋があった。これまでであれば、千早はためらいもせず小屋に近づき、楓を乗せたまま小屋に入った。
ところが今日は違った。
千早は小屋から少し離れたところで、小屋の様子をうかがうように立ち止まると、耳をせわしなく動かし警戒心をあらわにした。
「どうしたの、千早」
千早が鋭く鼻を鳴らした。見ると、小屋の入口が少し開いていた。
「誰か……いる?」
楓は千早の手綱を取り、いつ千早が駆け出してもいいように身構えた。千早はしばらく様子をうかがっていた。その様子から、千早が迷っているらしいと楓は感じた。
「……行ってみよう、千早」
楓の言葉に、千早はためらうように足踏みした。しかし楓が重ねて促すと、ゆっくりとした足取りで小屋へと近づいていった。
千早は半分ぐらい進んだところで再び立ち止まった。楓は全神経を集中して小屋の中の様子をうかがった。誰かいるようだが、複数ではない。殺気というか、嫌な感じもしない。
「どうする、千早。入ってみる?」
楓がそっと囁いたとき、小屋の入口が開いた。千早はすばやく飛びのき、小屋から出てきた人物と距離を取った。楓は驚いて身構えたが、出てきた人物の顔を見て思わず叫んだ。
「葵!」
「楓様! ああ、楓様なんですね!」
小屋の中から出てきたのは、行方不明になっていた葵だった。
「よかった……ああ、よかった……」
葵はへなへなとその場に座り込み、泣き出した。葵の服はぼろぼろになっていて、ほとんど裸の状態だった。しかも体中に切傷や擦り傷があり、全身泥まみれだった。
楓は千早から飛び降りようとした。ところが千早は「待て」と言わんばかりに首を振った。楓がいぶかるように千早の顔を見ると、千早は「油断するな」と耳を激しく振った。
「葵……今までどうしてたの?」
楓が馬上から問うと、葵はみるみる涙を浮かべた。
「鬼に……鬼にさらわれました。私、必死で逃げてきて……ああ、でも、でも……」
葵はそう言うと、地に伏してわっと泣き出した。それを見て楓はいたたまれなくなった。葵の様子を見れば、葵がどんなにひどいことをされたのか、察しはついた。
「こんな姿を見られるぐらいなら、いっそ死んでしまいたかった。ああ、でも、でも、鬼のことを姫様にお伝えしようと思い……」
「葵……」
楓は思わず千早から飛び降りてしまった。すると千早は激しく前足を動かした。千早は葵に厳しい視線を向けていた。
「千早、どうしたの」
「きっと……私の体についた鬼の臭いに、反応しているんです」
千早を見て、葵はさらに涙を流した。
「私は鬼に……私の体の中には、鬼の……」
「葵、もういいから。もう言わなくていいから」
楓は葵に駆け寄ると、泣きじゃくる葵を抱き締めた。葵は楓にすがりつくように抱きつき、嗚咽した。
「楓様、どうか、どうか私を殺してください。私……鬼の子を産むなんて……」
「ばか言わないで。ほら、まずは体を洗って……服、着替えよう」
「お願いです、どうか、どうか……」
「そんなこと、できないよ」
リィィーン。
それは小さな鈴の音だった。
楓は、かすかに聞こえてきたその音にはっとした。軽やかで、とても澄んだ音。しかし、この世のものとは思えない気味の悪い響きを持っており、楓の神経にザラザラとした感触を残した。
(何、今の音……)
ドンッ、と千早が大地を蹴った。
「千早?」
千早の顔から迷いが消えていた。はっきりと敵意をむき出しにし、葵をにらみつけていた。
葵から離れて、早く乗れ。
千早は目で楓に訴えた。
「そうですか……なら……」
ぞくり、と楓の背中に悪寒が走った。ほとんど無意識で楓は葵を突き飛ばし、大きく後ろへ飛んだ。間一髪で葵が振った短剣をかわしたが、足がもつれ尻餅をついてしまった。
「葵!?」
「楓様……あなたも私と同じ運命に……」
葵がニタリと笑った。その笑いは、邪鬼の笑いそのものだった。
雄叫びとともに、千早が葵に飛びかかった。葵は軽い身のこなしで千早の突進をかわし、短剣を構えた。
「葵……」
楓は唇を噛んだ。葵の表情はさきほどまでのものではなかった。精気がなく、感情が消えている。まるで人形のような顔だった。
千早が何度も葵に攻撃を仕掛けたが、葵は軽やかな身のこなしでかわした。そしてスキをみては楓に襲いかかろうとし、その度に千早が立ちふさがり、楓をかばった。
リィィーン。
また鈴の音が聞こえた。すると、どこに隠れていたのか、大勢の邪鬼が現われ、楓と千早を囲んだ。
「楓様。さあ、私と一緒に、鬼の花嫁になりましょう」
千早が再び葵に突進した。葵は千早の攻撃をよけつつ、楓に向かって飛んだ。楓は慌てて転がり葵の攻撃をよけたが、よけた先には邪鬼が待ち構えていた。
「き、きゃーっ!」
楓は、邪鬼が振り下ろした斧を奇跡的によけた。楓を亡き者にしようと、邪鬼が次々と襲いかかり、楓は必死で竹藪の中を転がって逃げた。
転がって転がって、竹藪の奥にあった岩の前へと出た。楓はその岩を背に立ち上がった。かろうじて危機は脱したものの、気がつけば千早とは完全に引き離され、すっかり邪鬼に囲まれていた。
「千早ぁ!」
楓の悲鳴を聞き、千早は楓の元へ行こうと雄叫びをあげた。丸太のような足で邪鬼を蹴散らすものの、今回は数が多く、しかも、密集するように生えている竹が千早の突進を阻むから、容易には突破できなかった。
「楓様」
葵が短剣を手に楓の前に立った。その目をみれば、葵が正気でないことがわかった。
「私一人はいや……楓様も行きましょう。姫様もお招きしましょう。皆で、鬼の花嫁になって、鬼の子を産みましょう」
鈍い光を放つ短剣を見て、楓は身がすくんだ。
楓は素手、しかも葵以外にも大勢の邪鬼が、斧を手に楓を囲んでいた。どうあがいてもこの場を切り抜けられるとは思えず、楓はへなへなとその場に座り込んでしまった。