7 過去〜縁談
千早は、ほとんど休みも取らず駆け続けた。
いつ邪鬼が現れるかと、楓はびくびくしながら千早に乗っていたが、全速力で走る千早を止めるのは難しいのか、ついに邪鬼は現われなかった。
日が沈み始めると、千早は再び道をそれ、今度は小川のほとりに立つ小屋に入った。造りは昨夜泊まった小屋と同じで、やはり広い土間と囲炉裏の部屋、そして寝室があった。
「あ、そうか」
楓はこのときになって、ようやく思い出した。
楓が住む町と北の山の間は、修業のため多くの巫女が行き来している。そのため、道中巫女が休めるように、要所要所にこうした小屋が建てられていた。千早は橘一族の神馬、北の山には領主や橘姫を乗せて何度も往復している。小屋の場所を覚えていても不思議はなかった。
小屋に入って一息つくと、楓は千早から鞍を下ろしてやろうかと思った。しかし鞍は重く、楓一人では下ろせそうにない。それに楓が鞍を外そうとすると、千早は触るなといわんばかりに鼻を鳴らした。
「そうか……そうだよね」
千早の目を見て楓はうなずいた。千早は、今朝のようなことがあった場合に備えて、鞍を下ろさせないのだ。よほど馬に慣れた者でも、裸馬に乗るのは大変だ。ましてや千早は邪鬼と戦いつつ走るのだ。鞍がなければ、楓はあっという間に振り落とされてしまうだろう。
「ごめんね、千早」
この小屋の裏手には、温泉があった。
楓は、昨日落としきれなかった血がぷんぷんと臭っているような気がして、一日中気持ちが悪かった。温泉に入っている間に襲われたらと迷ったものの、これ以上血の臭いには我慢できそうにない。
楓は、厳重に戸締りし、いざという時にはすぐ逃げられるよう荷物を近くにおいて、温泉に入った。
楓が温泉に入ると千早もやってきた。もちろん温泉に入るためではなく、いざというときに備えてのことだろう。
「千早さあ……あんた雄だよね、確か」
楓が恥ずかしそうに体を隠すと、千早はフンと鼻を鳴らしそっぽをむいた。ガキに興味はない、と言わんばかりの態度だ。
「それはそれで腹が立つなあ」
楓は手拭いで全身を丁寧に洗った。逃げている時についたのであろう、腕や足にはたくさんの擦り傷があり、お湯がしみた。幸い、大きなケガはしていない。荷物の中には傷薬もあったはずだから、後で塗っておこう、と楓は思った。
何度も何度も体を拭い、やっと血の臭いが落ちたと感じられたところで、楓は湯に浸かった。
「きれいな星……」
星を眺めつつ、温泉の中で体を伸ばすと、体の節々が痛んだ。一日中千早に乗っていた上、いつ邪鬼が現われるかと緊張もしていたからだろう。心身ともにクタクタだった。
「鬼……か」
楓は邪鬼の笑みを思い出し、身震いした。鬼は、何が目的で楓の町を襲い、楓を追ってくるのだろうか。楓はなぜ北の山に向かわなければならないのだろうか。何もかもがわからないから、何をどうすればいいのかもわからない。
「とにかく、北の山へ行けばいいんだろうけど……」
柳宛の手紙を読んでみようかとも考えたが、手紙は橘姫の署名で封じてあった。姉とはいえ、橘姫は次期領主。その封を勝手に開けるのはさすがの楓もためらった。
「お姉様に、また会えるかな……」
そうつぶやいて、慌てて楓は頭を振った。北の山へ行けば柳が助けてくれる。そうすればまた町に帰れるし、きっと姉はそれを待っている。
楓はそう考え、不吉ともいえる考えを頭から追い出した。
◇ ◇ ◇
「いけっ、千早!」
橘姫があぶみを蹴ると、漆黒の巨馬は風となって駆けた。
千早は一年前、橘姫の屋敷の庭に迷い込んできた野性の馬だった。橘姫は一目で千早を気に入ったが、千早が心を許し橘姫を主と認めてくれるまで、三ヵ月もかかった。しかし一度心を許してからは、どこへ行くにも一緒だった。橘姫は、暇さえあれば千早に乗り、町の周囲を駆け回った。
心を許すといえば、ゲルンハルト=ビル=エフタナルと禅高もそうだった。
橘姫の従者となってすでに三年、博学でずば抜けた頭脳を持つゲルンハルトは、時には橘姫の父である領主の相談相手として政治を助けることもあり、皆に一目置かれる存在となっていた。
一方の禅高は、並はずれた体力と豪放磊落な性格で、老若男女を問わず、町中の人に親しまれていた。特に、いつもお菓子の袋を持ち歩いているため、子供たちに大人気だった。
「ひ、姫、お手やわらかにーっ!」
ゲルンハルトは振り落とされまいと、橘姫の肩に必死でしがみついた。橘姫は笑いながら、さらにあぶみを蹴った。
「情けないわよ、法師」
法師とはゲルンハルトのことである。彼の本名は長ったらしい上、縮めてもあまり響きがよくない。そこで橘姫は彼に「一寸法師」という名前を付け、普段は法師と呼ぶことにした。
町外れの小川に来ると、橘姫は千早を止めて降りた。そして小川のほとりへ行き、着物の裾をまくった。
「あー、暑いわねー」
「姫、はしたないですぞ」
「いいじゃない、誰もいないんだから」
「私がおりますが?」
「ああ、そういえばそうね」
橘姫は木陰に座り、小川に足をつけて涼んだ。
それからしばらくして、大きな足音が橘姫目指して駆けてきた。橘姫は足音の方を振り向き、笑顔を浮かべた。
「お疲れ、禅高」
「おお、早かったではないか」
「お、おめえらなあ……」
足音の主は禅高だった。ここまで全速力で走ってきたのだろう、滝のような汗を流しつつ、両肩で息をしていた。
「ひでえじゃねえか、俺を置いて行っちまうなんてよ!」
「おぬしは千早に乗りたくないと言ったではないか」
「走るとわかってたら乗ってたわい! ああちくしょう、あちい!」
禅高はぶつくさ文句を言いながらふんどし姿になると、橘姫が頬を染めるのにも気づかず、小川に飛び込んだ。
「うひょー、気持ちいい! おーい、姫と法師も泳いだらどうだ?」
「バカモノ! 姫はこれでも年頃の女性だぞ。そんなことできるか!」
「……これでもって、どういう意味よ」
水遊びをして魚を釣り、木陰で昼寝をする。それは、最近体調を崩している父に代わって政治に携わるようになった橘姫にとって、久々の休日だった。
「あーあ、また明日から仕事か」
西の空に移動した太陽を見て、橘姫はため息をついた。
「そうおっしゃいますな。私も全力でお助けしますゆえ。姫はよくやっておいでですよ」
「ありがと。でも仕事はともかくねえ……」
「ああ、そうですね」
「なんだ、何かあるのか、法師」
「実はな、姫に縁談がきているのだよ」
「姫に縁談?」
禅高は驚いて声を上げた。
「へー、めでてえ話じゃないか。領主様も一安心だな」
「それがそうとも言えぬのだ」
「なんでだ?」
「この国の後継ぎは姫しかおられぬ。姫の夫になる者が、次の領主になる。それゆえに縁談を申し込んできたのだよ。うじゃうじゃとな」
その中には、七歳になったばかりの子供もいれば、五十を越えた者、さらにはすでに妻も子もいる者までいた。
「私が、恋愛感情だけで結婚相手を選べる立場じゃないことぐらいわかってるけどさ。それにしてもひどすぎるわよね」
「領主様も頭を悩ませておいでですよ」
「そうかぁ。大変だなあ」
「おぬし、他人事のように言うでない。我らの主人の問題ぞ」
「俺が考えても、ろくなことを思いつかないから考えるな、と言ったのは、法師じゃねえか」
「ええい、薄情な奴め」
「お、やるか?」
立ち上がった一寸法師を見て、禅高も身構えた。橘姫はあきれた口調で二人をたしなめた。
「もう、二人ともやめなさい」
「しかしですな、姫」
「法師、もういいの。それより私は禅高の話を聞きたいわ」
「は、俺の?」
「おお、そういえばおぬし、三条殿の姫君に思いを寄せておるとか聞いたぞ」
「げ、なんでそれを!」
「あら、やっぱり本当だったのね。それでどうなの?」
「どう、て言われてもなあ」
禅高は、照れ臭そうに頭をかいた。
「俺は親にも疎まれるようなゴロツキだからよ。どうもできねえわな」
「あら、弱気ね」
「姫君はまんざらでもないというぞ。文でも書いたらどうだ?」
「いいって、いいって。姫はともかく、あのカタブツ親父が許すかよ」
「そうねえ、あの人うるさいものねえ」
三条の大臣といえば、町で知らぬ者とてない厳格な男だった。躾がなっていないと、橘姫にすら口うるさい人だ。禅高のような素性も知れぬ男を娘の婿に迎えるなど、決して許しはしないだろう。
「なに、そんなもの方法はいくらでもある」
一寸法師はそう言って髪をかきあげた。これが、自分の考えを述べるときの一寸法師のくせだった。
「あら、どうやるの?」
「まず姫にご協力いただき、三条の姫君を屋敷に招いていただきます。それから、頃合を見て昼寝をしていただきたい」
「昼寝?」
「さようです。姫たちが昼寝をしているスキに、禅高がいつも持ち歩いている菓子袋を、三条の姫君の枕元に置きます。そのとき、中身を減らしておくのです」
あとは三条の姫君が目を覚ましたときに、三条の姫君が禅高の菓子袋を盗んで菓子を食べたと騒げばよい。禅高が菓子袋を持ち歩いていることは有名だし、厳格な三条の大臣のこと、娘が人の菓子を盗んだと知れば激怒し、おそらく勘当するだろう。そうなれば後は楽なもの、路頭に迷った姫を、禅高が家に迎えれば終わりである。
「あのなあ、法師」
禅高は、したり顔で説明する一寸法師を、あきれ果てた目で見た。
「そりゃ、サギ、て言うんだ。第一そんな子供じみた方法がうまくいくかよ」
「わかっておらぬな。策略とは人の心のスキを突くものだ。頭が固い三条殿なら、これで十分」
「ふうん、面白そうねえ」
「ご協力いただけますか、姫」
「するする。そういう面白そうなことは……じゃなくて、禅高のためだもの、はりきっちゃうわ!」
「おお、では急ぎ帰り、計画を練りましょう。善は急げといいますからな」
「うん、急ぎましょう!」
「あ、姫、法師!」
禅高が止める暇もなく、橘姫と一寸法師は千早に飛び乗りあぶみを蹴った。千早は風となって駆け、あっという間に見えなくなった。
「ちくしょーっ、また俺はおいてけぼりかよーっ!」