5 過去〜邂逅
「たのもーう、たのもーう」
よく晴れた春の朝だった。突然響き渡った野太い大声に、屋敷の誰もが怪訝な表情を浮かべた。
「こんな朝早くから、誰じゃろう」
留守を預かる家老が、急いで服装を整え玄関に向かった。
そんな屋敷内の様子を、少女は布団の中で聞き耳を立てていたが、言い争うような声が聞こえてくると、身仕度を整え玄関に向かった。
少女は今年十五歳。目鼻立ちのはっきりした、一見たおやかな美少女だが、その動作はきびきびとしていた。少々歩きにくそうにしているのは、最近着るようになった、女物の服に慣れておらず、つい大股で歩いてしまうからだった。
「そこをなんとか」
「おぬしもくどいのう」
玄関で家老と押問答を繰り広げていたのは、二十代半ばの大柄な男だった。薄汚れた着物を身にまとい、伸び放題の髪は荒縄でひとつに束ねていた。身なりこそ浮浪者のようだが、目はとても澄んでいた。
「誰なの?」
「橘姫様」
少女の声に、家老は驚いて振り向いた。
「お早いですな。どうなされました」
「大声だもの。起きちゃうよ。で、誰なの?」
橘姫が、好奇心に目を輝かせて男を見ると、男は歯並びのいい白い歯を見せて笑った。
「この者が屋敷で使ってくれと言いましてな。お館様がご不在ゆえ、日を改めるようにと言ったのですが……」
「ふーん。あなた名前は?」
「禅高ッス」
禅高はいきなりその場に座り込んだ。
「この通り。なんでもするから雇ってくれ。絶対役に立ってみせる」
「何度も言わせるでない。おぬしを雇うかどうかを決めるお館様がご不在なのだ。十日後には戻るから、そのときもう一度来なさい」
家老のその言葉が終わるや否や、禅高のお腹が盛大な音を立てた。
「……もしかして、お腹すいてるの?」
禅高は黙ってうなずいた。橘姫がどれぐらい食べていないのかと問うと、小さな声で十日と答えた。
「それでこんな朝早くから押しかけてきたわけね」
「……面目ねえ」
「仕方ないわね。ジイ、何か作ってあげて」
「めっそうもねえ!」
禅高は橘姫の言葉に、激しく頭を振った。
「施しは受けねえ。それが最後の意地だ。武士は食わねど高楊枝、だ!」
「腹が減っては戦はできぬ、とも言うわよ」
「いや、それはその……」
「ま、一般常識ぐらいはあるようね」
橘姫は禅高の前にしゃがむと、嬉しそうに禅高の顔を見つめた。
「あなた、ここまでどうやって来たの?」
「え? ああ、歩いて来たけど……それがどうかしたか?」
「海から、川沿いを歩いて来た?」
「そうだけどよ……よくわかるな」
「なるほど」
橘姫はあごに手を当て、何かを考えた。
「ジイ、食事の用意をしてくれる? ただし、二人分ね」
「は、二人分?」
「そうよ。あ、でももう一人の分は、人形用の食器を使ってね」
「人形用の、ですか?」
「うん、人形用」
橘姫は、にこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべ、禅高を見つめた。
「私ね、夢を見たの。とても不思議な夢よ。朝日とともに、ここへ二人が訪ねてくるの。一人は海から川沿いを歩いて。もう一人は山からおわんに乗って、川を流れて」
「おわん……すか?」
「うん。でね、その二人は私の生涯の友となってくれるのよ」
「はあ……」
禅高はポカンとした表情で橘姫を見返した。おわん、というのは、飯を食うあのおわんのことだろうか、と首をかしげる禅高。どう答えればよいかと家老を見たが、家老もまた、同じような顔で禅高に視線を向けていた。
「たのもーう、たのもーう」
そんな中、再び声が響き渡った。禅高の声とは異なる、声変わりしたばかりの、少年と思しき声だった。
「ほら来た」
驚く禅高と家老をよそに、橘姫はさらに大きな笑みを浮かべ、家老に扉を開けるよう命じた。
しかし家老が扉を開けても、誰もいなかった。家老はいぶかり、振り向いて橘姫に視線で問うた。橘姫は驚いた様子も見せず、家老の足元を指差した。
「なんと!」
家老の足元にいたのは、手のひらに乗るほどの大きさしかない、小人だった。白い着物に紺の袴、そして赤いちゃんちゃんこ。腰には縫い針でできた剣を差していた。
「早朝より、失礼つかまつる」
小人は、礼儀正しく膝をつき、一礼した。
「それがし、ゲルンハルト=ビル=エフタナルと申します。こちらでお雇いいただきたく、参上つかまつりました」
「いらっしゃい。待ってたわ」
それが、三人の出会いだった。