4 出発
町には邪鬼があふれかえっていた。
邪鬼は斧の一振りで壁を壊し、家を薙ぎ倒し、逃げ惑う町の人を手にかけた。しかし迎え撃つ兵たちも負けてはいなかった。巫女の援護を受けて邪鬼を次々と打ち倒し、熾烈な戦いが町中で繰り広げられた。
その混乱の中を、千早は無人の野を行くがごとく駆け抜けた。千早の前に立つ邪鬼はすべて蹴散らされ、邪鬼の斧は千早をかすることもできなかった。
(何なの。一体何が起こってるの?)
楓は何が何だかわからぬまま、落馬しないよう必死で千早にしがみつくしかなかった。ついさきほどまで、ここは山奥の平和で豊かな町だった。春のひだまりの中で大好きな姉とお茶を飲み、庭を散歩する。それが当たり前の町のはずだった。
「楓!」
複数の蹄の音が近づいたかと思うと、聞き慣れた声が楓を呼んだ。
「飛高様!」
声の主は、領主の弟である飛高だった。すでに六十を超える年齢だが、大柄でがっしりとした体を鎧で包み、大きな槍を軽々と振るって邪鬼を退けていた。飛高は馬を千早に並べ、そのまま楓と並んで走った。
「無事で何よりだ」
「飛高様。何が起こってるの。この鬼は何なの!」
「全てを語る時間はない。だがこれだけは覚えておけ。これは我が一族の使命であり、人の存亡をかけた戦いなのだと!」
「人の……存亡?」
「西門から町を出る。来い!」
飛高の誘導で千早と楓は町の西門に向かった。そこには千を越える兵が集まっており、押し寄せてくる邪鬼から西門を死守していた。
「開門!」
飛高の一喝で西門が開かれた。だが、門の外には数えきれない邪鬼が待ち構えていて、門が開くと同時に襲いかかってきた。
「姫のご出発ぞ! 皆の者、血路を開け!」
ときの声が上がり、邪鬼と人が激突した。十重二十重に包囲する邪鬼の群れに、兵は一丸となって突っ込んだ。
たちまち敵味方入り乱れての乱戦となった。
楓は必死で千早にしがみついた。いくらおてんばとはいえ、楓は姫だ。戦場に出た経験などもちろんなく、馬に乗って戦う訓練など受けたことがない。そんな楓がいきなり戦場に放り込まれたのだ。目の前で次々と人が死ぬ光景を見てはさすがに怖くなり、もうどうすればよいかわからなかった。
いつのまにか飛高とははぐれていた。
名前も知らない兵が、血まみれになりながら楓と千早を守るべく奮闘した。千早も雄叫びをあげ、襲いかかってくる邪鬼を蹴散らして進み続けた。楓はもはや目を開けていられず、落馬しないよう千早にしがみついていることしかできなかった。
兵たちは邪鬼に対し捨身とも言える戦いぶりを示し、ついに血路を開いた。千早は開けた道に突進すべく、力強く大地を蹴って宙に舞った。
ついに包囲を抜けた。
千早はぐんぐん速度を上げ、追いすがる邪鬼を振り切った。剣戟の音が遠ざかり、千早の力強い蹄の音が聞こえるようになると、楓はようやく目を開いた。
はるか後方に町の城壁が見えた。周囲には、邪鬼はもちろん、兵の姿もない。楓はほっとすると同時に、こみあげてきた恐怖に体を震わせた。喉がからからで、ひりひりした。自分でも気づかないうちに、楓は何度も悲鳴を上げていたようだ。
千早は立ち止まる気配すら見せず、ますます速度を上げて北に向かった。
◇ ◇ ◇
太陽が西の空に移動した頃、千早はようやく速度を緩めた。
やがて千早は道をそれ、池のほとりにある小屋へ向かった。千早は楓を乗せたまま、小屋の扉を鼻で押し開け小屋に入った。
小屋の中は案外広かった。楓は千早から降り、土間を上がった。囲炉裏があり、さらに襖を隔てて奥にもうひとつ部屋があった。部屋の隅に布団が積まれているところを見ると、どうやら奥は寝室らしかった。
小屋の中は小綺麗に掃除されていた。人が住んでいる気配はないが、長い間放置されていた小屋でもない。
千早は勝手知ったる様子で、土間に置かれた桶から水を飲むと、その隣の飼い葉桶に頭を突っ込み、悠々と食事を取り始めた。そんな千早を見ているうちに、楓の意識にかかっていたもやのようなものが、少しずつ晴れていった。
「はは……」
楓は乾いた笑いと同時に、囲炉裏端にしゃがみこんだ。
「なんなの……一体なんなの?」
楓はこぼれてきた涙を袖で拭こうとして、悲鳴を上げた。服は血まみれだった。楓を守るために死んだ兵、あるいは邪鬼の、血だった。
楓は慌てて服を脱ぎ捨てた。血の付いた服など見るのも嫌で、脱ぐとすぐ囲炉裏に放り込み燃やしてしまった。寒さと恐怖で体が震え、今度こそ楓は大声で泣いた。
「なんなの、一体なんなの? なんで私こんな目にあうのよぉ……」
泣きじゃくる楓の側に千早が歩み寄ってきた。楓が泣きながら飛びつくと、千早は慰めるように楓の肩を軽く噛んだ。
長い間泣き続けて、ようやく楓は気持ちが落ち着いた。
「……ありがと、千早」
楓は寒さに震え、立て続けにくしゃみをした。長い時間下着一枚だったから、すっかり体が冷えていた。
日が沈み、空気はかなり冷えていたが、楓は小屋の前の池で、体についた血と泥を洗い流した。
震えながら小屋に戻ると、楓は囲炉裏に薪をくべ火を大きくし、鞍にぶら下がっている荷物を下ろした。中には旅に必要な物が一式入っており、楓にちょうどいい旅用の服もあった。
「あっと、いけない」
楓は囲炉裏の側に落ちていた橘の手紙を拾った。危うく服と一緒に燃やしてしまうところだった。なくさないようにと、楓は手紙を懐に押し込んだ。
荷物の中にはお茶の葉もあった。楓はお湯を入れた鍋を火にかけ、お茶をわかした。それを飲んでようやく人心地つくと、やはり荷物に入っていた弁当を広げ口に運んだ。
「今日は、お姉様と夕食を一緒に食べるつもりだったのなあ……」
一人で食べる冷たい弁当は、この上なくまずかった。楓はお茶で弁当を流し込むと、囲炉裏の側に布団を敷き、潜り込んだ。
夜になっても小屋には誰も帰ってこなかった。楓は囲炉裏の火をぼんやりと眺めながら、今日一日のことを振り返った。
「……みんな、こういうことになる、て知っていたのかな」
準備されていた荷物といい、姉や飛高の言葉といい、皆が今日のこの日を予想していたようだった。
「一体、何が起こってるんだろ」
一寸法師、鬼、神の卵。にわかには信じられない話もさることながら、そもそもなぜ北の山へ行かなければならないのか、楓にはさっぱりわからなかった。
「なんか……疲れちゃった……」
土間ではすでに千早が寝息を立てていた。楓は囲炉裏に多めの薪をくべると、布団にくるまり目を閉じた。
眠りは、すぐにやってきた。