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小人族御伽草子 橘姫と神の卵  作者: おかやす
第一章 鬼の襲撃
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2 お見舞い

 「お姫様、失礼します」


 日野が扉を開けると、部屋の空気がふわりと動いた。部屋の中は春の陽射しと香りが満ちており、何ともいえない心地よさだった。しかしそれは、部屋の主がいてこその心地よさだろう。


 「あら日野。まだ何かご用?」


 この部屋の、そしてこの屋敷の主は、次期領主として橘の名を継いだ二十歳の女性だった。

 花も恥じらう美女とは橘姫のためにあるような言葉で、絹糸のような黒髪を春風に泳がせ、柔らかな光の中でほほえむその姿は、画家ならばぜひ絵にしたいと思う光景だろう。

 どうしてこうもお美しいのか、と日野は思わずため息をついた。

 橘姫の姿を見るだけで、日野はつらいことも悲しいことも忘れられた。それは日野に限ったことではなく、またこの屋敷で働く者に限ったことでもない。まるで天女を思わせるその美しさは、町中の人が憧れ、ため息をつくものだった。


 「また起きていらしたのですね。あれほど今日は寝ていてください、と申しましたのに」

 「大げさなんだから。ただの微熱よ」

 「そう言ってこじらせたことが、何度ありましたか」


 橘姫は小さいときから病弱で、季節の変わり目はたいてい体調を崩していた。死ぬのではないかと思うような高熱を出したのも一度や二度ではない。日野としては、どんな微熱でも神経質にならざるをえなかった。


 「さあ、横になってください。それと、窓は閉めさせていただきますよ」

 「あらどうして? こんなに風が気持ちがいいのに」

 「敷地内に賊が入り込んでいるそうです。ここは大丈夫とは思いますが、万一のことがあっては」

 「ああ、それで騒がしかったのね」


 橘姫は袖で口元を隠した。そんな橘姫を見て、日野は首を傾げた。日野が橘姫の付き人となって間もなく十年。橘姫がまだ子供だった頃から世話をしているのだ、日野は橘姫が何を考えているのか、たいていは察することができた。

 どうやら橘姫は、邸内に入り込んだ賊について心当たりがあるようだった。

 そういえば、と日野はさきほど様子を見に来たときのことを思い出した。いつもは必ずと言っていいほどお茶に誘う橘姫なのに、用件が済むとすぐ部屋を追い出された。元気そうに振る舞っているが、本当に調子が悪いのではないかと心配していたのだが、どうもそうではないらしい。

 さては、と日野は部屋の隅にある机を見た。

 思った通り、そこには、さきほどはなかった茶器が二人分用意されていた。


 「お姫様、もしかして……」


 橘姫は体を「く」の字にして笑った。それと同時に、トタタタタ、と屋根を走る軽快な足音が聞こえてきた。


 「いたずら好きの子猫が来たようね」


 橘姫は窓から首を出すと、屋根を見上げた。


 「いらっしゃい、楓」

 「やっほー、お姉様!」


 楓は元気よく挨拶すると、ニイッと笑った。


 「いつわかった?」

 「あなたが私の庭に入り込んだときよ」

 「ちぇーっ、お姉様だけは、どうやっても気づくんだもんなあ。やんなっちゃう」

 「私は巫女よ。あなたほど強い霊力を持った人が来ればすぐわかるわ」

 「何か臭いでもするの?」

 「そうね。匂いなら、とてもすてきな匂いでしょうね」


 楓は試しに自分の体を嗅いでみたが、土と草と汗の臭いしかしなかった。


 「わっかんないなー。ホントに私に霊力なんてあるの?」

 「あるわよ。私よりもずっと強い霊力がね。ほら、いつまでもそんなところにいないで、入ってらっしゃい」

 「うん。お姉様、窓から離れててね」


 橘姫が窓から離れると、楓は花びらのような身軽さで部屋の中に飛び込んだ。

 着地は見事に成功、しかし目の前に腕組みして立つ日野を見て、楓は浮かべかけた笑顔を引きつらせた。


 「ひ、日野! いたの!」

 「ええ、いましたとも。相変わらずお元気そうで何よりです」

 「い、いやあ、おかげさまで」


 楓は乾いた笑いで日野に応じた。日野はにこりともせず、重々しい咳払いをした。


 「それで、楓様。今日はどのようなご用件でしょうか」

 「いや、その……お姉様がまた寝込んだ、て聞いたから、お見舞いに……」

 「楓様。ひとつお伺いしたいのですが」

 「は、はい……なんでしょう?」

 「今まで楓様をお屋敷に入れなかったことが、一度でもありましたか?」

 「えーと……」


 楓の頬を、一筋の汗が流れた。


 「……ない、かな」

 「ならどうして、玄関からお越しにならないのですか」


 日野の口調は静かだが、目を見れば怒っているのがよくわかった。楓は助けを求めるように姉を見たが、姉は楓の視線に気付いても知らんぷりして、お茶の準備を進めている。


 (た、助けてくれないのー!)


 「楓様」

 「あ、はい。その……面白いから」

 「ぷっ」


 楓の正直な答えに、橘姫は吹き出した。


 「面白い、て……」


 日野は、あきれた顔でこめかみを押さえた。

 どう叱ろうかと思ったが、笑いをこらえている橘姫を見て、叱る気が失せた。そもそも楓が何かしでかすたびに、一番楽しんでいるのは橘姫なのだ。それがわかっているからこそ、楓も無茶をして橘姫を笑わせようとする。どんなに注意しても、橘姫が楽しむ限り、楓は無茶をやめないだろう。


 (一度、楓様がおケガをする前に注意しなくては)


 日野はそう考え、大きなため息をついた。


 「わかりました。もう結構です」

 「え、終わり?」

 「お説教したほうがよろしいですか?」

 「いいです、いいです。遠慮しときます」


 楓は慌てて首を横に振った。良くも悪くも素直な楓。叱るべきか誉めるべきか、日野はいつも悩まされる。


 「いいですか、楓様。くれぐれもおケガだけはなさらぬよう、お願いいたしますよ」

 「はい。気をつけます!」

 「いつもながらお元気な返事ですこと」


 では私はこれで、と日野は頭を下げた。橘姫がお茶に誘ったが、日野は仕事があるからと出ていった。

 日野が出ていくと、楓はホッと息をついた。


 「お姉様、ひっどーい! 日野がいるならいる、て言ってよ! ああ、びっくりした」

 「相変わらず日野が苦手なのね」


 橘姫は袖で口元を隠した。橘姫にとって日野は気心の知れた相手だが、楓にとっては天敵と言っていい存在だ。恐いもの知らずの楓が日野の前ではカチンコチンになるのが、橘姫は面白くて仕方なかった。


 「あなたが騒ぎを起こさなければ、日野は何も言わないのに」

 「そうだけどさあ」


 楓は勢い良く座布団に腰を降ろすと、行儀悪くあぐらをかいた。


 「やっぱこう、一発しでかさなきゃ、ていうギムカンがあるのよね」

 「ほんとにしょうがない子ねえ」


 橘姫は笑いながら、鮮やかな手つきでお茶を入れた。お茶の香気がふわりと立ち上り、楓の鼻孔をくすぐった。


 「あっと、忘れてた」


 楓は上着の紐をほどき、胸元を広げた。すると、なだらかな曲線を描く二つのふくらみの間に、小さな瓶が挟まれているのが見えた。


 「はい、お見舞い」

 「またあなたは、そういうところに……」

 「落としちゃいけないと思ったからさあ」


 瓶の中は蜂蜜だった。


 「お姉様の大好きな、蜂蜜」

 「あら、ありがとう。嬉しいわ」


 姉の笑顔を見て、楓はほっとした。十日近く微熱が続いていると聞いていたので、楓はかなり心配していたのだ。


 「思ったより元気そうじゃん」

 「たいしたことないのよ。なのに日野ったら大げさにして」

 「しょーがないじゃん。お姉様、すぐ寝込むんだもん」

 「それもそうね」


 橘姫は笑いながら、蜂蜜をひとすくいお茶に入れた。


 「それで楓。今日はどうして屋根から来たのかしら?」

 「聞きたい?」

 「ぜひ」

 「それでは語ってしんぜよう」


 楓はそう前置きして、いかにして警備兵の目を盗み、ここまでやって来たかを話し始めた。身振り手振りを交えた楓の話を、橘姫はにこにこ笑いながら聞き、話が終わると、あまり無茶をしないようにとたしなめる。それがいつものことだった。


 「ちょっと待って」


 ところがその日は違った。楓が勝手口で見た光景を話し始めると、橘姫は楓の話に口を挟んだ。


 「警備兵に、新しく入った人はいないわ」

 「え? でも……」

 「隣は領主の館よ。万一のため、警備兵は必ず私と領主様に目通りする決まりよ。それに、新人が配属されるなんてありえないわ。あなたも知っているでしょ?」

 「じゃ、あれは誰?」


 橘姫は厳しい表情になった。


 「あなたと同じ頃に、ここへ近づいた者がいるようね。顔は覚えてる?」

 「うん」

 「そう……ごめんね」


 橘姫の言葉とともに、何かが楓の中を通り抜けた。

 橘姫が、霊力で楓の心を「視た」のだ。

 いきなりだったので、楓は心の準備をする暇もなかった。楓は一瞬気が遠くなり、体を揺らした。


 「……知らない顔ね」

 「あー、びっくりした」


 楓はお茶を口に含み、気持ちを落ち着けた。姉の力のことは、楓の他は領主である祖母しか知らない。他人に知られれば警戒され、心を許す者はいなくなる。それゆえ、姉もこの力を使うことは滅多になかった。


 (どういうつもりだろ)


 ますます厳しい表情になった姉を見て、楓は首を傾げた。姉の様子から、この一件をかなり深刻に受け止めていることが見て取れた。


 「お姉様の知らない警備兵が、葵目当てで来ただけでしょ?」

 「あなたが思うほど、ここの警備は甘くないのよ。それに……私も気づかなかった」


 橘姫はすぐに日野を呼び、葵を連れてくるよう頼んだ。

 だが、葵を呼びに行った日野は、しばらくして一人で戻ってきた。


 「いない?」

 「はい」

 「サボってどこか行ってるんじゃないの」

 「葵は真面目な子よ。仕事をサボったりしないわ」


 橘姫は頬に手を当て、しばらく考え込んだ。


 「そう……とうとう来たのね」


 橘姫の視線が楓をとらえた。


 (え?)


 それは、ほんの一瞬に過ぎなかった。しかし楓は、姉の瞳に深い悲しみが宿ったのを、確かに感じた。


 「あの、お姉様……」

 「日野」


 楓の言葉をさえぎるように、橘姫は強い口調で日野を呼んだ。


 「本館へ行きます。準備してください」

 「しかしお姫様、お体は」

 「大丈夫よ。さ、早く。それと、警備の者に警戒を強めるよう言ってください。人手が足りなければ警備隊に応援を求めるように。私の名でかまいません。葵も急いで探してください」

 「かしこまりました」

 「楓、着替えなさい。その格好じゃ、領主様にまた怒られるわよ」

 「えっ、私も行くの?」

 「当然でしょう。あなたは当事者よ」


 とんでもないことになった、と楓はつばを飲み込んだ。

 橘一族の本館。そこは日野よりも苦手な人物、すなわち、この町の領主である祖母、橘が暮らす屋敷だった。


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