4 山の結界
塀の内側は、霊力が荒れ狂う死の山だった。
動くものは何一つなく、草木はおろかコケすら生えていない。乾ききった大地には大きな石が無数に転がっており、時折、地面の割れ目から気味の悪い蒸気のようなものが吹き出していた。
「かえでーっ、すいれーん、無事かーっ?」
荒れ狂う霊力の海には、ポポですら為すすべがなかった。
あらゆる方向から霊力が押し寄せては、引き返していく。ポポは必死で力を振り絞ったが、小人族の力を発揮しようとしても、周囲の霊力に押し包まれ、まるで力が出なかった。小さな体は霊力に翻弄されて宙を舞い、思うように動くこともできなかった。
宙を舞うことすらなかったものの、楓と水蓮にも、ポポの言葉に答える余裕はなかった。
水蓮は全神経を研ぎ澄まし、かろうじて霊力の流れを見極めていたが、その流れを利用することはできなかった。とにかく力が大きすぎる。吹き飛ばされないようにするだけで精一杯だった。
その水蓮の手を握る楓は、とうの昔に方向感覚がなくなり、自分がどんな姿勢でいるのかすらわからない。必死で握っている、水蓮の手だけが唯一の頼りだ。
「地面から吹き出す、蒸気みたいなのに気をつけろー! あれは鬼の邪気だからな!」
ポポの叫び声が聞こえた時、楓の目の前で鬼の邪気が吹き出した。邪気は意志があるのか、楓を見つけると取り付こうと襲いかかってきた。
しかし、この地を満たす霊力が、よってたかって邪気を押し包み、邪気を消し去った。こうやって千年もの間、少しずつ少しずつ邪気は浄化されてきたのだ。一体どのような術がこの山に施されているのか、楓には想像もつかなかった。
「かえでーっ、無事かーっ! すいれーん、返事してくれーっ!」
ポポが必死で呼びかけているのが聞こえた。楓はなんとか答えようともがいたが、そのとき思わず手の力を緩めてしまった。
「楓!」
水蓮の声が聞こえたような気がした。しかしそのときにはもう、楓は足元に口を広げた闇の中に落ちていた。楓は悲鳴を上げたが、その悲鳴は自分では聞こえなかった。
楓は、猛烈な勢いで闇の中を落ち続けた。
あまりの勢いに、楓は気を失ってしまった。
目が覚めたとき、楓はまだ落ち続けていた。
闇はどこまでも深く、果てしない。何も見えず、何も聞こえない。体を動かすと、かろうじて体を動かしたという感覚があったが、それもなんだか怪しい。大声で叫んでみたが、やはり聞こえない。霊力と闇で楓の五感がマヒしてしまい、思考もまとまらなかった。
霊力の嵐に翻弄されるまま、長い時間が過ぎた。
やがて、楓は奇妙なことに気づいた。
落ち続けていたはずなのに、なぜか上昇しているような気がするのだ。そうかと思えば横に動いているような気もするし、その場で回転しているような気もする。
楓は意識が混乱してきた。
(私……どうなっちゃうんだろ……)
楓はそう考えたが、次の瞬間には本当にそう考えたのかすら、わからなくなった。怖いとは思わなかった。いや、怖いと思う「楓」という存在自体が、輪郭を失い闇の中に溶けてしまいそうだった。
闇は、北の山を覆う霊力だった。あまりに濃い霊力は光すら通さず、そのため北の山は闇に覆われ、死の山となったのだろう。
(もう……溶けちゃうのかな……)
楓は、消えかかった意識の中でそう思った。
そのとき、楓の中で何かが灯った。
それは、十六年間目覚める気配すらなかった、楓の霊力だった。
北の山を覆う霊力が、楓の霊力に反応した。すべてを飲み込む北の山の霊力だが、ひとつだけ飲み込まぬよう命じられたものがあった。
それが、神の卵を天に返す役目を持った、橘の姫だった。
北の山を覆う霊力は、楓の霊力を認めると、自ら楓に同化した。北の山の霊力と同化していくにつれ、楓の意識が北の山を覆っていった。
やがて楓は、北の山そのものとなった。
楓の胸のあたりで、二つの力が動いていた。
ポポと水蓮だった。
霊力の海に翻弄されながらも、二人は懸命に北の山を登ろうとしていた。
ポポが何度も楓を呼んでいた。楓はポポの呼びかけに応えようとしたが、楓がほんの少し動こうとしただけで、北の山の霊力が大きく波打ち、ポポと水蓮をもみくちゃにした。
(いけない)
楓はポポに応えるのをやめ、大きく深呼吸した。
楓の気持ちが鎮まるにつれ、荒れ狂っていた霊力の海も落ち着いていく。ポポと水蓮は突然鎮まった霊力に首を傾げていたが、はぐれた楓を探すため山を登り始めた。
ポポと水蓮がいるところが楓の胸のあたりだとすると、柳や巫女が住む社があるのは腹のあたりだった。柳と大勢の巫女は、緊迫した様子で走り回っていた。
巫女と、巫女を守る兵は、武装し、隊列を組んでいた。
(鬼が……来るの?)
楓の右膝に鋭い痛みが走った。
楓は南を見た。鬼の攻撃を受けた砦が、楓の右足の先にあった。その砦の方から、不快な感じを持つ力が登ってくる。まぎれもなく、鬼の力だった。
鬼は、行く手を阻む結界を次々と破りながら進んできた。楓が鬼を阻もうと動くと、霊力の海が再び荒れ始め、鬼に向かって霊力が押し寄せた。
鬼は楓の意図に気づいたのか、霊力が届かぬ場所まで下がると、歩みを止め様子を見始めた。
どうしようか、と楓は考えた。
北の山に集まっている全ての霊力を振り向ければ、鬼を倒すことができる。
しかし、それはやってはいけない。
霊力と一体となって初めてわかったが、北の山を覆う霊力は、この近辺に生きる動物や植物、さらには地脈を流れている、霊力という霊力をかき集めてできたとんでもない代物だ。これが激しく動けば、北の山を中心とする一帯がどうなるか想像もつかなかった。
不意に、周囲が明るくなった。
東を見ると、山の向こうから太陽が顔をのぞかせていた。
夜明けだった。
楓がどうすればよいか戸惑っていると悟ったか、鬼が再び進み始めた。
楓はそれを感じ、決心した。鬼がこの山へ向かう理由はただ一つ、神の卵だ。柳と巫女が鬼をくい止めている間に、楓は神の卵を封じる結界を解き、神の卵を天に返せばいい。
楓は意識を反転させた。
膝から腹、胸と上がり、首のところで異質な力を感じた。それこそ、千年前に一寸法師が作った、鬼の力を浄化する術の中心だった。
楓の中で「橘の証」が動き出した。
「橘の証」とは、橘の名とともに引き継がれる、初代橘姫の記憶だった。町を出るとき、姉から楓へ、文字通り手渡しされたものだった。その記憶は、鬼に視られることを防ぐため、夢という形でしか見ることができないよう術がかけてある。
しかし、北の山の霊力と一体化した今の楓なら、その術を突破し、自在に記憶を引き出すことが可能だった。
楓は「橘の証」から、神の卵を守る結界を解く方法を引き出した。そして広がっていた意識を集中すると、まずは第一の結界から解き始めた。




