2 橘姫
物悲しい琵琶の音で、楓は目を覚ました。すでに日は沈み、月が空高く昇っていた。
「起きたの、楓?」
軒先に出て琵琶をつま弾いていた水蓮が、振り向きもせず言った。
「こっちに来たら?」
楓は黙って立ち上がると、水蓮のそばに行き腰を下ろした。
「月……きれいだね」
「そうみたいね。明日は満月だそうよ」
「んあ? 楓?」
水蓮の肩でうたた寝していたポポが、寝ぼけた顔で起きあがった。楓が微笑むと、ポポは力強く親指を立てたが、すぐにまた眠ってしまった。
「ポポ、疲れてるんだね」
「大活躍だったからね」
楓は抱えた膝に頭を乗せて、水蓮の琵琶の音に耳を傾けた。ゆらり、ゆらりと揺れながら、むせぶように響く琵琶の音に、楓はいつの間にか涙を流していた。
「それで、どうするか決めたの?」
長い曲を弾き終え、水蓮は楓に笑いかけた。
楓は黙って首を振った。
「色んなことがいっぺんに起こって……私もう、わけがわかんない」
初めて聞いた橘一族の由来と使命、邪鬼の襲撃、北の山への出発、不思議な夢に、ポポと水蓮との出会い。何よりも衝撃だったのは、姉とは血が繋がってらず、自分こそが次期領主、橘姫だということだった。
姉から託された手紙は、柳宛ではなく、楓宛の手紙だった。
姉は淡々とした文章で自分が何者かを綴り、楓に逃げるよう告げていた。
「鬼の力は、橘一族が総力を挙げても太刀打ちできるかどうかわかりません。楓様、あなたはお逃げください。逃げて橘の血を残すようにとの、領主様のご命令です。私たちは何としてもこの地に鬼を封じ、神の卵を守り抜きます……」
最初から楓は逃がされる予定だった。だからこれまで楓には何も知らされなかった。手紙を読み終えた楓に、柳は明日にでもここを出発するよう命じた。 有無を言わせぬ柳の迫力に、楓は何も言い返せなかった。
「お姉様、私のこと……楓様……て、書いてたの」
「そう」
大好きな姉から、他人行儀に様付けで呼ばれる、それが何より楓にはつらかった。
水蓮は再び琵琶をつま弾いた。さきほどの物悲しい旋律ではなく、慰め、励ますような優しい旋律だった。楓は目を閉じて、琵琶の音に聞き入った。
「夢……また見たの」
月が南天したとき、楓は呟くように言った。
「禅高は、鬼を倒して英雄になったけど、ちっとも嬉しそうじゃなかった。いつも豪快に笑っていたのに、ほとんど笑わなくなって、ぼんやりしてることが多くなったの」
橘姫は色々と励ましたが、禅高の気は晴れなかった。鬼はいなくなった。国には平和が戻った。しかし妻を殺した鬼は取り逃がし、何よりも妻が生き返ることはなかった。
月を見るたびに禅高は泣いた。禅高の妻は、月を見ながら歌うのが好きだった。歌うのはいつも童謡だった。禅高は小さな息子を膝に抱いて、妻の歌を聴くのが大好きだった。
あの日々は、もう戻らない。
禅高は生まれて初めて後悔をした。なぜもっと早く戻ってこなかったのだろう、この身に代えても鬼から守ったのに。そう考えるたびに禅高は涙を流し、己の不甲斐なさを悔やんだ。
「大切な人を守ることができたはずなのに、できなかった……それって……つらいよね」
いつの間にか琵琶の音はやんでいた。楓が目を開くと、水蓮と目を覚ましたポポが、真っ直ぐに楓を見ていた。
「私のお父さんとお母さんね、私が生まれてすぐに、私を守るために鬼と戦って死んだんだって……柳様が教えてくれた」
「知ってる」
ポポは、楓の言葉にうなずいた。
「オイラの両親も、その戦いに行って死んだ。橘に生まれた、神の卵を天に返すことができる、たった一人の姫を守るために戦った。長老様がそう教えてくれた」
「……私も、大切な人を守りたい」
楓は決意を込めた口調で言った。
「お父さんとお母さんみたいに。禅高みたいに、後悔したくない」
「それが、あなたの決断ね?」
「うん」
楓は力強くうなずいた。楓の目に、もう迷いはなかった。
「よっしゃ、わかった!」
ポポがねじりはちまきを締め直した。水蓮は艶やかに笑い、琵琶を盛大にかき鳴らした。
「では、参りましょう。僭越ながら、私とポポが姫をお守りいたしますわ」
◇ ◇ ◇
その頃、砦近くの吊り橋の上を、一つの影が悠々と歩いていた。
「ここは変わらぬな」
鬼は鬼は吊り橋の中央で立ち止まり、感慨深げに周囲を見た。十六年ほど前、神の卵を天に返す役目を持って、一人の赤ん坊が生まれた。鬼は赤ん坊を手に入れようと、単身北の山に赴いた。
しかし、鬼は目的を果たせなかった。鬼の動きを察知していた赤ん坊の両親は、幾重にも張られた結界の中で出産し、そのまま結界にとどまり続けた。鬼はその力で結界を破ることに成功したが、そこでほとんどの力を使ってしまった。
赤ん坊の両親は、生まれたばかりの赤ん坊を守るため、捨て身で鬼に挑んだ。その戦いぶりに手こずっているうちに小人族の戦士も駆けつけた。
一瞬の隙をつかれ、鬼は重傷を負った。鬼はやむなく退き、次の機会を待つことにした。その後、風の噂で赤ん坊の両親が死んだことを知ったが、鬼は計を練り、慌てずにじっくりと事を進めた。十一年後、まずは目障りな小人族を滅ぼし、それから五年かけて、じわじわと橘一族の力をそいできた。
「こたびは、十六年前のようにはいかぬぞ」
鬼は鈴を手に取り、鳴らした。
リィィーン。
不気味に澄んだ音が響くと、北の山に張られた橘一族の結界がひび割れた。
鬼は、破れた結界を悠々とくぐった。




