1 楓姫
内陸にあるその町は、「橘」と呼ばれる一族が千年以上も治めている町だった。
町の北にそびえる山々を霊峰として祀り、山脈から流れ出る霊脈と呼ばれる力の流れを維持、管理していた。そのため、多くの霊能者を指導、育成することにも力を注いでおり、町の民の三分の一が霊能者という、特異な町でもあった。
その町を治めるのが、「橘」の名を継ぐ巫女だった。初代橘から脈々と受け継がれてきたその霊力は、並の者では足元にも及ばない強さを誇り、諸国に鳴り響いていた。
春も終わろうとしている、よく晴れた日だった。
町の中心にある橘一族の敷地内で、ちょっとした騒ぎが起こった。敷地内に賊とおぼしき者が入り込んだのだ。しかも賊は警備を次々と突破して、領主の館近くまで迫っていた。
「いたか?」
「いや、いない。あっちは?」
およそ三十人の警備兵が、慌ただしく敷地内に散っていく。その様子を、庭の茂みに隠れて見ている一対の目があった。
「行ったかな?」
その言葉とともに茂みから顔を出したのは、目がぱっちりとした、なかなかにかわいいおかっぱ頭の少女だった。
名は楓。
今年十六歳になる、橘一族本家の次女だった。
「ほーんと、すぐだまされるんだから」
クククッと喉の奥で笑いながら、楓は茂みを出た。
楓は並の男の子よりはるかに元気な、おてんば娘だった。武勇伝には事欠かず、十六の成人を間近に控えた今でも、男の子の服を着て毎日元気に町中を飛び回っていた。
そんな楓が目下熱中しているのは、警備を突破し、領主の館の隣にある、姉の屋敷へ遊びに行くことだった。もちろん警備する側にしてみれば迷惑この上ないことだ。警備隊長からは再三注意を受けているが、だからといってやめるような楓ではない。
「私一人に出し抜かれる方が悪いのよ」
楓は周囲に人気がないことを確認すると、茂みを抜け出し走り出した。この先はさえぎる物がない、日当たりのよい庭だ。ここを突破できるかどうかが成功の鍵なのだが、これまでのところ楓は失敗したことがない。
楓は春風のように軽やかに、その庭を駆け抜けた。
ここまでくればほぼ成功だ。姉の屋敷はもう目の前。しかし、楓の姉は病弱で、騒がしくされるのを嫌う。ここから先は騒がれないよう、隠密に進むのが肝要だ。
(あ、やばい!)
姉の屋敷の裏へ回ったとき、楓は慌てて立ち止まった。
勝手口に、警備兵が一人いた。予想外の事態に一瞬頭が真っ白になったが、考えるより早く楓の体が動いた。
楓が植え込みに飛び込むと同時に、警備兵が振り向いた。ガサリと揺れた植え込みに警備兵は不審そうにしていたが、風が吹いて植え込みが再び揺れると、警備兵は納得した様子で再び屋敷の方へ顔を向けた。
楓は静かに胸をなでおろすと、警備兵の様子をうかがいつつ、植え込みから植え込みへと素早く移動した。
警備兵は二十歳ほどの男で、楓が初めて見る顔だった。
(新入りかな?)
警備兵は楓がいることに気づきもせず、周りの様子を伺うと、勝手口の扉を叩いた。
「はい、なんでしょう」
応対に出たのは、姉の屋敷で働く女性の中でも、一、二を争う美女だった。名は葵で、歳は十八。そこにいるだけで場が華やかになる、そんな女性だった。
「すいません、賊が入り込んだようですので、一応警戒をお願いします」
「賊、ですか?」
「なに、私がすぐに捕まえてやりますよ。心配はご無用です」
「はい、よろしくお願いしますね」
「お任せください。それで、あの、ついでと言ってはなんですが…」
葵を口説きたいと考える男は多い。新入り警備兵の彼もまた、その一人なのだろう。葵が応対に出たのをこれ幸いと、彼は、仕事そっちのけで葵を口説き始めた。
「もう、仕事中でしょ?」
「返事を聞かせてくれたらすぐ行くって。な、いいだろ、今日の夜にさ」
「どうしようかなー」
葵は困ったような顔をして首を傾げたが、目は笑っている。まんざらでもなさそうだ。そんな小悪魔的な態度を男に見せるものだから、こうして仕事中に口説く者が後を絶たないのだろう。
(たるんどる)
楓は二人に見つからないよう、茂みから顔を出し勝手口をのぞき見た。そして、姉に報告し、葵とともにお説教してもらおう、と新米警備兵の顔をしっかりと目に焼きつけた。
そんなこととは露知らず、ついに色よい返事をもらえた新米警備兵は、上機嫌で立ち去っていった。
人気がなくなると、楓は植え込みを飛び出し、勝手口に耳を当てて中の様子を探った。
『あ、日野様。今警備の方がいらして、敷地内に怪しい者が入り込んだので注意するようにと言っておりました』
『怪しい者? やれやれ、お姫様が伏せっておられるというのに。葵、すぐ戸締まりをするように。私はお姫様のところに行きますから、何かあったらすぐ知らせにきなさい』
その言葉に続いて慌ただしい足音が行き交い、まもなく何も聞こえなくなった。楓は試しに勝手口に手をかけてみたが、さすがにしっかりと鍵がかかっていた。
「そう甘くはないか。さて、急がなくちゃ」
楓は周囲を見回した。屋敷の窓や戸はすべて閉じられている。見える範囲では、屋敷への侵入路は見当らなかった。
「お?」
楓は一本の木に気付いた。姉の屋敷の四方に植えられた橘の木。魔除けの呪いを兼ねて植えられているのだが、勝手口近くの橘は枝が屋根にかかるほど大きくなったため、近々剪定されることになっている。
「私の体重なら……支えられるよね?」
屋敷の屋根まで伸びる橘の枝を見て、楓は目を輝かせた。おてんば姫らしく、楓は木登りが得意だった。
「よし、行くぞ」
楓は気合を入れて腕をまくると、橘の木に飛びついた。