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8 鬼封じの玉

 北門を抜けた千早は、狭い山道を全速力で走った。右ははるか高くまでそびえる山壁、左は目もくらむような高さの崖。上から岩が落ちてくればひとたまりもないし、崖に落ちればまず助からない。


 『一人になったな、小娘』


 鬼の声が、楓の背中を追いかけてきた。


 『どこまで平常心を保てるかな?』

 「だ、だめよ、楓! 気をしっかり持ちなさい!」


 こみ上げてくる恐怖を払いのけようと、楓は自分自身に対し、大声でそう叫んだ。

 崖から突風が吹き上げてきた。千早がよろめき、楓は思わず悲鳴を上げた。すると気味の悪い力が楓の周りを取り囲んだ。


 「な、なにこれ……」


 楓の全身に鳥肌が立った。砦に入ったときに感じた、吐き気がするような気色悪さ。それが楓の様子をうかがうようにまとわりついていた。

 楓は無造作に手で払った。すると手に、ねちゃりとした感触があった。楓はかろうじて悲鳴を飲み込み、手を見た。手には何もついていない。あの気色の悪い感覚だけが残っていた。


 「な、なんなのよ、これぇ!」


 楓は思わず服で手を拭いた。そうでもしなければ気色悪くて仕方なかった。


 『ほう、私の力に触れられるか。さすがは橘の姫よの』


 ビシィッ、と楓のはるか頭上で、ひび割れの音がした。楓はそちらを見上げ、息を飲んだ。岩に亀裂が走っており、まるで楓を追いかけるように伸びているのだ。

 千早が速度を上げた。ひび割れは逃がさじと追いかけてきた。ひび割れはいくつにも分裂し、細かい石が楓の上に振ってきた。


 (もし大きな岩が落ちてきたら……)


 楓がふとそう考えたとき、ひときわ大きなひび割れの音がした。

 轟音とともに、楓の体の数倍はある岩が落ちてきた。楓はそれを見て全身の血が凍った。


  - しっかりせぬかぁ!


 千早が、そんなふうに叱りとばすように吼えた。

 楓ははっとして手綱を握り締め、千早の首にしがみついた。

 ドォーン、と大きな音とともに岩が落ちてきた。千早はぐんっ、と加速し、間一髪で岩をかわした。あと数歩遅かったら、楓も千早も岩の下敷きだった。


 「千早ぁ……」


 楓は思わず涙を浮かべた。すると鬼の力がまた楓にまとわりついてきた。


  - 動揺を見せるな! 手綱を離さぬことだけ考えていろ!


 千早の耳が何度も動いた。そして楓にまとわりつく鬼の力に対し、威嚇の声を上げた。

 楓は気色が悪いのを我慢して鬼の力を払い落とすと、落馬しないよう手綱を体に巻き付け、千早の首にしがみついた。

 次々と落ちてくる岩をかわし続け、ついに千早は山道を駆け抜け、吊り橋に乗った。

 吊り橋の幅は広く、千早でも十分通れる幅だった。しかし谷底から吹き上げてくる風で、吊り橋は常に揺れていた。

 千早は速度を緩め、慎重に吊り橋を渡り始めた。楓は後ろを振り返ったが、邪鬼が追ってくる様子はない。


 「水蓮さんとポポ……大丈夫かな……」


 揺れる橋を進み続け、ようやく橋の中央まで来たときだった。突風が吹いて橋が大きく揺れた。思った以上に橋は揺れ、さすがの千早も立っているのが精一杯だった。

 突風はやむことなく、何度も吹き上げてきた。千早は重心を低く取り、橋の揺れで姿勢を崩さないようふんばった。


 「あと、ちょっとなのに……」


 千早が全速力で駆ければ、まばたきの間に駆け抜ける距離だった。千早は突風に耐えつつ、橋の揺れがおさまるのを待った。

 その一瞬が来た。

 揺れが止まった瞬間、千早は猛然と走り始めた。一駆けで残りの距離を半分にし、さらにもう一駆けすればそこは地面のはずだった。


 「千早、だめぇ!」


 千早が最後の一歩を踏み出そうとしたとき、楓はとてつもない悪寒を感じて叫んだ。


 『いい勘だ。だが、遅かったな』


 鬼の嘲笑が響いた。楓は巨大なアメーバのようなものを見たような気がした。それは弾けるように広がると、突進してきた千早と楓を包み込んだ。


 「き……ぃやあーっ!」


 楓は絶叫した。

 体中にねっとりとまとわりついた鬼の力は、他に例えようのない気色悪さだった。楓は逃れようと必死でもがいたが、さきほど体に巻きつけた手綱が裏目に出た。

 楓はもがきにもがいた。しかし、もがけばもがくほど気色悪さはました。熱い風呂に入って身動きすると余計に熱く感じる、あの感じに似ていた。

 楓は少しでも気色悪さを減らそうと動くのをやめた。すると鬼の力は、動かなくなった楓をじわじわと締めつけ、鼻や耳の穴から楓の体内に侵入し始めた。楓が追い出そうと体を動かすと、全身を包む気色悪さが増した。


 「い、いやあ……」


 楓は目を閉じた。指先ひとつ動かすのもやめた。ついには呼吸もやめた。この気色悪さから逃れられるのであれば死んでもかまわないとさえ考えた。

 そこへ、衝撃がきた。

 千早だった。千早が渾身の力で後ろ足を跳ね上げたのだ。その衝撃で楓は呼吸をし、遠のいていた意識は引き戻された。しかし同時に、薄れていたあの気色悪さも戻ってきた。


 「やめて、やめてよ千早……私もういやぁ……」


 再び楓が目を閉じようとしたときだった。


 『楓、しっかりしなさい!』


 聞き覚えのある、琴の音のような声が楓を叱咤した。楓が驚いて目を開けると、千早の鞍に埋め込まれていた小さな水晶玉が、チカチカと点滅していた。


 「お……姉……様?」

 『水晶玉を取り出しなさい。急いで!』


 千早が大きく首を振った。まとわりつく鬼の力がなぎ払われ、いくらか気色悪さが薄れた。楓は歯を食いしばって水晶玉に手を伸ばした。

 水晶玉は簡単に取り外せた。しかし楓が水晶玉を手にしたとき、鬼の力が再び楓を包み込んだ。気色悪さが一気に増し、楓は悲鳴を上げた。


 『目を開けて! 水晶玉をかざして!』

 「いや……できない……もういやぁ……」

 『しっかりしなさい! いつもの元気はどうしたの!』


 姉の声に何度も叱られながら、楓はようやく水晶玉をかざした。


 『楓……あなたは必ず、無事に逃げるのよ』


 姉が呪文を唱え始めた。呪文に反応して水晶玉が光り始めた。水晶玉が光を増すにつれ、楓を包む鬼の力が弱まっていった。

 そして、水晶玉が爆発した。

 その爆発で、楓を包んでいた鬼の力が吹き飛んだ。体を包む気色悪さが消え、楓はようやく呼吸をすると何度も咳込んだ。


 『くっ……鬼封じの玉か!』

 『千早、走って!』


 姉の声に、千早はすぐに駆け出し、ついに橋を渡りきった。

 鬼の力はなおも楓を追おうとしたが、何かに阻まれ、橋のこちら側には入ってこれないようだった。


 『楓……逃げなさい。あなたは何があっても逃げなさい。いいわね』


 姉の声はそれっきり消えてしまった。

 楓は全身を包む鬼の力の余韻に、吐き気がこみ上げてきた。吐き気をこらえきれず、楓は千早から飛び降りると、目の前の茂みに駆け込だ。


 「うぇっ……」


 楓は胃の中のものをぶちまけた。何度も吐き、ついには胃液しか残らなかったが、それでも吐き気はおさまらず、楓は苦しみ続けた。

 胸のあたりに、何か冷たい塊があった。

 それを吐き出したいのだが、どうやっても吐き出せない。楓は喉に指を突っ込んで吐き出そうとしたが、その塊は楓の喉に張りついて、どうやっても吐き出せなかった。


 「楓!」


 ようやく追いついたポポと水蓮が、楓の異変に気づいて駆け寄ってきた。


 「楓、どうしたの!」

 「やべえ水蓮。鬼の力が楓の中に入り込んだんだ!」


 ポポはすぐさま楓に飛び乗った。


 「楓、口開けろ!」


 楓が口を開けると、ポポは楓の喉の奥に向かって力を放った。すると喉のあたりで止まっていた冷たい塊が、喉を上り始めた。

 楓は、ようやくのことでそれを吐き出した。


 「ぐ……ごほっ……ごほっ……」


 千早が素早く動いた。楓が吐き出した、目には見えない何かを、千早何度も踏みつけた。


 「楓、大丈夫?」

 「はい……」

 「よくがんばったわね。もう大丈夫、鬼の気配は消えたわ」


 水蓮は手拭いを水筒の水でしめらせると、それで楓の顔を拭った。


 「しかしすげえ力だったぜ。一撃で鬼の力を打ち払っていたな。あれ、楓がやったのか?」

 「私、何もしてない……」


 水蓮が顔を拭うと、楓は水を一口飲み、大きく息をついた。全身が、ひどくだるかった。


 「お姉様が……助けてくれたの……」


 急激に襲ってきた眠気に耐えきれず、楓はそのまま眠ってしまった。


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