4 愛する人のため
この小屋の裏にも温泉があった。
一昨日とは違い、今日は一人ではないから、楓はゆっくりと湯に入り、疲れを癒すことができた。
楓はそれとなく水蓮を見ていたが、水蓮はまるで目が見えているように動いていた。危なっかしいところはまるでなく、言われなければ、目が見えないとは気づかないだろう。
「なあに? さっきから私を見てるみたいだけど」
「え……あの……」
どうして気づいたのだろう、と楓が首を傾げると、水蓮は艶やかな笑みを浮かべた。
「感じるのよ」
「え?」
「人の視線とか、気配とか、周囲の様子。目が見えた頃よりもずっとよくわかるの。不思議よね」
水蓮は濡れた髪を絞った。その仕草は、女の楓から見ても色っぽかった。楚々とした美しさでは姉の方が上だと思う。だが、女としての色っぽさでは、水蓮に軍配があがるだろう。
髪を絞り終えると、水蓮は湯に入り、楓の隣に腰を下ろした。
「いいお湯ね。身も心もほぐれるわ」
「水蓮さん、一つ聞いてもいい?」
「なあに?」
「鬼のこと、怖いと思ったことはないの?」
「あるわよ。鬼に関わらずに済めば、それに越したことはないと思うわ」
「それなのに、鬼を追いかけてるの?」
「そうよ」
「どうして?」
「さあ、どうしてかしら」
水蓮の目が楓をとらえた。見えていないはずの目に、楓は心の奥まで見られてしまうような錯覚を覚えた。
「怖いの、鬼が?」
「うん……」
楓はお湯に顔をつけた。
「六日前に、いきなり鬼が来て町をめちゃくちゃにして……たくさんの人が死んだの。あんなの、初めて見た……」
楓の体が震えた。わけのわからぬまま、血を浴びながら突破した邪鬼の包囲。好々爺に化け襲ってきた邪鬼、道のあちこちで見かけた邪鬼、そして昨日は、鬼に操られ楓を殺そうとした葵。千早が身を挺して守ってくれたから生きているが、一人だったらとっくに死んでいる。そう思うと楓は怖くて仕方なかった。
「そうね、普通は怖いよね」
「水蓮さんは別の世界から来て、何が何だかわからないんでしょ? それなのに、目が見えなくなってもまだ鬼を追うなんて、どうして?」
「知りたい?」
「……うん」
「うふふ、おマセさんねえ」
「はい?」
思わぬ言葉にまばたきした楓に、水蓮は楽しそうに笑いかけた。
「じゃ、楓には教えてあげる。でも女同士の秘密。ポポには内緒よ」
水蓮は楓の手をつかむと、それを自分の胸に押し当てた。大きくて柔らかい感触に、楓は思わず赤面した。
「ここにね、男の人がいるの」
「男の……人?」
「そう。ぼんやりとしか覚えてないけど、男の人がいるの。そして私に言うの。頼むぞ、水蓮、てね」
それが誰なのか、どんな約束をしたのか、水蓮は覚えていなかった。だが水蓮が鬼を恐れ追跡をやめようとすると、必ず夢に現れた。
そして言うのである。「頼むぞ、水蓮」と。
「私、その人のことを思うと体が熱くなるの。顔は忘れても、体はあの人のぬくもりを覚えてる。きっと、何度も何度も愛し合ったんだと思うわ。そのまま死んでもいいと思うぐらいね」
「は、はあ……」
楓はますます顔を赤らめ、うつむいた。水蓮の言葉は、初恋もまだの楓には少々刺激が強かった。
「その人と、鬼を倒すと約束したんだと思うの。だから、私は鬼を追うのよ。それがその人を思い出す、たった一つの手がかりだもの」
「そうなんだ」
「うふふ。楓は好きな人はいるの?」
「い、いないよ、そんな人」
「じゃ、大切な人は?」
「大切な人?」
水蓮に問われて、楓が真っ先に思い浮かべたのは姉だった。
「お姉様……かな?」
「どんな人?」
「とってもきれいで優しいの。お茶を入れるのが上手なんだよ。でもお姉様、いつも病気がちだから、心配なのよね」
「次期領主でしょ? 体が弱いのは心配ね」
「うん。だから私が助けてあげなくちゃ、て思うんだ。でも私、霊力も目覚めないし、性格的に巫女とか向いてなさそうだし……お姉様の護衛でもしようかな、て思ってるの」
「あなた元気そうだものね」
「あはは、それだけが取り柄だから」
「それでいいんじゃない」
「え?」
「大好きなお姉さんに代わって橘の務めを果たす。鬼と戦いながら神の卵のもとへ行くなんて、病弱なお姉さんにはできないから、あなたが代わりにしているのよ。そう考えれば、少しは怖くなくなるでしょ?」
楓は、すぅっと心が軽くなるような気がした。
橘の使命だの人の存亡だの、正直そんなことを言われても、楓はピンとこなかった。だが大好きな姉のためと言うのであれば、楓はがんばれそうな気がした。
鬼と戦いながら北の山へ行き、神の卵を天に返す。病弱な姉にそんなことができるとは、楓には思えなかった。だからこそ自分が選ばれたのだと思うと、楓はなんだか元気が湧いてきた。
「そっか……そうだよね。お姉様には無理だものね」
「少しは気が楽になったかしら?」
「うん」
「それじゃ明日から、一緒に頑張りましょう。私は愛する人のため。あなたは大好きなお姉さんのため」
「うん、頑張ろうね!」




