忌むべき記憶
夢を見ていた。
サザンラントで産まれた、一人の少女の夢。
「ねぇママ、街まで遊びに行ってもいい?」
「そうねぇ......暗くなる前には帰ってくるのよ」
彼女は優しい父と美しい母に、いや二人だけではなく彼女が暮らす村中の人々に愛されて育った。
父は猟師で、朝早く家を飛び出していっては夕方になると新鮮な肉を持って帰ってきてくれた。おかげで彼女は村の誰よりも逞しい身体をしていた。
母は五歳になる妹の世話で忙しかったが、きちんと平等に愛情を注いでくれた。おかげで彼女は村の誰よりも幸せだった。
変わった点といえば、逢魔と戦うための力「異能」の素質があることだが、彼女のそれは言われなければわからないほど小さく、騎士になる必要もなかったし誰もべつだん気にしなかった。
その日は学校が休みで、母の作ってくれたお弁当を持って友達と街に繰り出したのだ。楽しくてつい時間を忘れ、慌てて帰路につく。
そんな彼女を待っていたのは、様変わりした村だった。
ニンジン農家のチャロさんの家も、洋服屋のフレンさんの家も、瓦礫となって焦げ臭い煙の中に倒れている。鼻につく臭いは煙のものだけではなくて、彼女は言いようのない不安にとらわれながらも、それでも自分の家に向かって走った。
「ママ!パパ!」
いつもより遠く感じられた数百メートルの先に、彼女はついに目的のそれを見つける。
家はところどころ焼けてはいたが、崩れてはいなかった。彼女は少しだけ安堵して、ドアを思い切り開けた。
「おかえり」
家の中で待っていたのは、血まみれで倒れたまま動かない両親と、真っ黒な鬼だった。
「.......君のママね、失敗して殺しちゃった。パパだけ殺すつもりだったのに、銃なんて持って暴れるから」
一生脳裏に焼き付くことになる二つの角を弄りながら、鬼はそう言った。少女は恐怖と絶望のあまり、床に尻餅をついた。腿を生暖かい液体が伝う。
鬼はそれを見てニタニタ笑い、頭をゆっくり揺らした。呆けたままそれを見ているうちに、鬼の輪郭がぼやけてくる。
「大人しくしてたら、すぐ済むからね.......」
最後に聞こえたのは、そんなざらついた声だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「.........ん」
ダニエラはゆっくりと身体を起こした。ぼんやりする意識の中で、辺りを見回す。
「っ.......!?」
途端に彼女の身体が跳ねて、ガタガタと震え出した。
そこはあの日の煙に包まれた村、そのものだった。違うのは、今の自分は四十を過ぎた大人だというだけだ。
そう、彼女はあの日からただ無駄に歳を取った訳ではない。もう二度とあんな目に遭わないため、自分の大切な人を奪われないため、騎士として必死になって心身を鍛えてきた。
そのはずなのに、いざここに戻ってくると、彼女はかつてのの無力な少女のままだった。
そこに何があるかなんて分かっているのに、震える足で一歩ずつ、記憶に鮮明に残る彼女の家を目指す。ふらふら、ふらふらと揺れる彼女のその眼は虚ろで、脚に力は入っていない。
これは幻影だ。そう叫んでくれる理性なんてものは、あの鬼に再び遭った瞬間消し飛んだ。
彼女にはもはや、温かい笑顔で迎え入れてくれる両親の蜃気楼以外には、何も見えてはいなかった。
「.......ママ.......パパ.......」
懐かしい家が見えた。
震える手で、あちこちに焼け跡の残るドアを開ける。
一瞬、彼女を笑顔で迎える両親の姿が、確かに見えた。
「.......はい、おかえり」
けれど、瞬きの間にそれはおぞましい異形の姿に変わった。
「.......っ!」
いつの間にか幻は消え去り、視界には薄暗い木造の建物の風景が戻って来る。
それでも、再び踏みにじられたダニエラの精神は、もう戻って来ない。
双角の逢魔は意識が朦朧としている彼女に近づくと、ニタっと笑って言う。
「あの時と違って、もう君に興味はないんだけど.......昔のよしみで、懐かしい光景を見せてから殺してあげようと思って。.......せっかくあの時生かしてあげたのに、馬鹿な女だ」
ケラケラと声に出して、彼はダニエラを嘲笑する。
「じゃあね」
彼はダニエラの首に、その歪な指を伸ばした。
「.......っ!!」
次の瞬間、逢魔の角に強烈な衝撃が走る。
ダニエラの刃のような蹴りが、彼の笑顔を蹴り飛ばしていた。
「何!?」
動揺する逢魔の視界には、先ほどまでの怯えていたダニエラの姿はもうない。
いや、彼には立ち上がったその生き物が、人間だとはとても思えなかった。
ひゅっと風を切る音とともに、逢魔は壁に叩きつけられる。
恐怖の表情を浮かべるのは、今度は逢魔の方だった。
「.......お、おい待てよ。待って.......」
彼が命乞いの言葉を最後まで言い終わる前に、彼の脳天は自慢の角ごと粉々に砕かれた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「パトリス、どこだ!」
レイモンドは乱雑に叫ぶ。弱い奴のお守りだけでもうんざりなのに、そのうえ尻拭いかよ。
そもそも、彼は一人で巣をぶち壊したかったのだ。その方が余計な仕事も喧嘩も増えなくて済む。
ありきたりな話だが、彼は両親を早くに亡くし、スラム街で育った。
そこでは、誰もが一人だった。生きていくためには誰かを騙さなければならず、また時には誰かに騙された。
異能だって、特別な訓練を受けずとも成長していった。
自分は誰よりも強くなるという自信があり、将来伝説の勇者たちに肩を並べる野心もあった。
だが、あの日彼の前に現れたのは、自分を差し置いて「勇者」の名を冠する男だった。しかも、幸せな環境でぬくぬくと育ってきた、運がいいだけの偽善者。
「......イラつくぜ」
歯軋りの音が静かな巣の中に響く。
すると、それに呼応して呻き声が聞こえてきた。
「パトリスか!?」
レイモンドが声がする方に走ると、そこには倒れ伏して動かないパトリスと巨体の逢魔の姿があった。
辺りに他に敵がいないのを確認してから、レイモンドはパトリスに肩を貸す。
「おい、戻るぞ」
パトリスは眼を閉じたまま、何も話さない。レイモンドにも、過酷な戦いを制したことがわかる。
そうやって暫く歩いて、入り口近くまで戻ってきた時、パトリスが急に呟いた。
「......いな」
「あ?」
次の瞬間、パトリスは口から針を吹く。レイモンドの首筋にわずかな痛みが走った、その直後。
「がっ......な......っ」
レイモンドの身体が真っ青に染まる。急速に体温が下がっていくのが、わかった。
「え......エル、サ......っ!」
彼は信じられない、という顔でパトリスを見て、それきり息をしなくなった。
「......悪いな。って、言ったんだよ」
投げ出されたパトリスはもう一度、今度は誰にともなく呟き、再び動かなくなった。




