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狂人の死



 どすん、と漫画のような音がして、エーフライムは地面に尻餅をついた。


「痛えな.......くそっ」


 悪態をつくと、辺りを見回す。

 実を言うとかなり焦っていた。彼の能力はあくまでレベルの低い逢魔を処理するためのもので、ある程度以上身体が大きくなると効き目が薄れてくる。

 これまで作戦中に単独行動することなどなかった。自分の不注意が原因とはいえ、想定外の出来事は想定外の結果をもたらす。


「とにかく、ここから出るには.......」


 ウグルルルルオオオァッ!


 闇に覆われた前方から、得体の知れない咆哮が聞こえた。

 どうしようもない恐怖が頭からつま先まで駆け抜ける。


 彼はライターがあることを思い出し、ポケットをまさぐる。《フリー》昇格祝いに親から貰った銀色に輝くそれに火をつける。


「.......こんなの、聞いてねぇぞ」


 彼は次の瞬間尻餅をつき、そう呟いた。


 獣。その表現が一番正しいだろう。

 身体はエーフライムの何倍も大きく、鋭い牙と眼は彼の動悸を速くする。そして、其れはもう一度大きく雄叫びをあげた。



 食われる。

 彼の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。



  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 落ちた先は真っ暗闇だが、ひとつの小さな炎が左右にゆらゆらと揺れている。

 俺はゆっくりと立ち上がると、そこに向かって歩いて行った。数秒後にクラリスの異能が消え、ここからは危険と隣り合わせとなる。慎重に、けれども迅速に、エーフライムを救出しなければならない。


「エーフライム?無事か?」


 ぐるるるる、という獣の声と、ぽたぽたと何かが滴る音がする。

 嫌な胸騒ぎが、最悪の想像が、頭にこびりつく。それでも、足は勝手にその方向へと進んでいく。


「エーフライ......」


 俺は、思わず立ち止まってしまった。

 紅く染まった脇腹を押さえてうずくまるエーフライム。その前で涎を垂らしていたのは、逢魔の基準に照らし合わせても間違いなく規格外の化け物だった。


「おう......来たか、勇者」


 荒い呼吸をしながら、彼はこちらを見てニンマリと笑ってみせた。


「見ての通り、ちょっとコイツはデカ過ぎて料理できそうにないな。代わりに頼むぜ」


 よろよろと後退するエーフライム。獣の逢魔の視線は彼からゆっくりと俺に移動し、こちらに体ごと向き直って威嚇態勢をとる。

 ぐるるるる、と、もう一度地鳴りのような唸り声が聞こえた。今度は、その意味がわかる。


 お前、美味そうだな。



「冗談じゃない!」


 慌てて剣を抜くが、闇雲に振っても獣の逢魔には届かない。

 あくまで勇者の剣が持っている異能は、剣の動きを補正する能力であり、もともとのリーチが伸びるわけではない。ある程度距離を詰めなければ、剣がどれだけ強くても敵に効果はない。


 距離を詰める?こんなモンスター相手に、どうやって?


 グルアアアアアッッッ!!


 足をすくませる雄叫びの直後、獣はこちらに向かって走り出してきた。思わず剣を落としそうになり、慌ててしっかりと握り直す。

 落ち着け。この剣さえ振っていれば、間合いに入れば自動的に相手が切り裂かれる。

 俺はそれを他人事のように見ているだけで良い。自分の役割を果たせ。


 獣は本能で気配を察知したのか、間合いギリギリで突然立ち止まった。

 そして、大きな口をゆっくり開け、数秒時間をかける。

 一歩でも前に踏み出すことができれば、俺の勝ち。分かっているのにも関わらず、俺は微塵も身動きができなかった。それは、エーフライムも同じ。

 勇者の剣だとか、そんな小手先のアイテムで調子づけるほどこの世界は甘くは出来ていない。


 俺は、弱い。


 何かが燃える音がした。次の瞬間、俺の眼前に炎が猛スピードで迫って来る。

 眼をぎゅっと瞑る俺たちの前で、剣がゆらりと曲がり、炎は俺たちの横をすり抜けていった。


「.......火を、吹いたのか?」


 しばらくして、エーフライムがゆっくりと口を開く。

 俺は頷くことしかできない。


「おいおい、マジで怪物じゃねぇか.......」


 エーフライムがその場にすとん、と座り込む。

 士気は今回のメンバーの中で誰よりも高かったはずだ。だが、そんな彼が戦意を失うほど、この獣は雄々しかった。

 俺は彼のように座り込むことすら出来ずに、もはや気絶寸前だった。呼吸がほとんど出来ないほど、心を乱されていた。


 獣が再びゆっくりと動き出す。

 エーフライムの方ににじり寄り、警戒しながら前脚がそっと彼の眼前に突き出された。


 あれが振り下ろされた時、彼の命は終わる。

 頭ではわかっているのに、脳が動くなと指令を出す。かたかたと全身が音を立てるようにして震える。



 それなのに、何故か俺の脚は急に命を吹き返した。

 動く。昨日初めて出会った男の元へ。獣の爪が、彼の腹に到達するより早く。


「もう誰一人、俺の前で死ぬなっ!!」


 叫んだ。叫んで、獣とエーフライムの間に滑り込む。

 生臭い臭いに顔をしかめながら、あれほど手放したいと思い、それでも握りしめていた剣を前に突き出す。




 真っ赤な視界の中に、獣がまだ俺を睨んでいるのが見えた。

 その首と身体は分離し、宙を舞っているのに。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 本当に、あの猛獣を斬りやがった。

 エーフライムは笑っていた。獣の逢魔は倒したが、まだ手負いで敵の本拠にいることは変わらないのに。


「エーフライム、怪我は!?」


 我に返ったタイガがこちらに走り寄ってくる。

 《フリー》と言えば、誰もが慄いた。憎き逢魔さえも、彼の力には慌てふためいた。

 それでも、彼は知っていた。自分もまた、ただの人間であることを。


 それが分かっていたから、精一杯強がって自分を保っていた。

 その様子を見て、人は血の気が早い、命知らずだと勝手にイメージを作り上げていった。《フリー》になって三度目の任務で少人数で逢魔の巣に突入するなど、無茶な采配も甚だしい。

 それでも、「彼なら大丈夫」と勝手に誤解されて、ここまで来てしまった。


「.......あぁ、大丈夫だ。すぐに追いつくから先行ってろ」


 エーフライムは人生最大の笑顔で、そう言った。

 そしてタイガがほっとした顔で去っていくのを見届けてから、地面に倒れ込んだ。骨も砕け、大きな傷を抱えたままで無理をし過ぎたようだ。

 タイガにその事を告げれば、入り口まで戻って手当てをしてくれたはずだ。だが、エーフライムは確信していた。


 今回の任務には、タイガが必要だ。

 そのためには、弱い自分の命など、要らない。



 ......いや、要らなくはないか。

 エーフライムは死の際で、少しだけ後悔しながら、ゆっくりと眼を閉じた。


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