携帯電話と傷跡の話
教室掃除のゴミ当番から戻り、教室の扉を開けると、窓際の床でスマートフォンが光を反射している。眩しさのあまり、ゴミ箱を落とした。ガタンと寂しい音が教室に響くだけ。
オレ、逢坂進は携帯電話をつまみあげる。キラキラ輝いていたのは、桜色のボディに施されたラメとハートのシール。大・小・大・大の順序は、高鳴る鼓動のよう。冷房が止まっているせいで手に汗が滲み、スマホが滑り落ちて自分のポケットにスッポリ入る。
そのとき、背後から足音が近づいてきた。
振り向くと廊下から朝倉ミオが顔を出した。彼女は短いスカートから伸びる細い脚をクロスさせ、化粧で飾った顔をげんなりさせる。
「逢坂、何一人でいるの? 寂しい人なの?」
「……ゴミ当番していただけだ」
オレが吠えると、朝倉は小さな子どもを相手にするように微笑む。
「誰も待ってくれなかったんだ? ウケんだけど」
「ウケんのはてめぇの顔だ。メイクが汗でドロドロだぞ?」
朝倉が慌てて手鏡を取り出して、自分の顔を確認する。その取り乱す姿に、お腹を抱えて笑ってしまった。
瞬間、朝倉の目が刃のように鋭くなる。
オレ達は机を挟み睨み合った。壁にかかる時計の秒針がよく聞こえる。秒針に併せて朝倉の顔がリンゴが熟すように染まり、瞳がジワリと潤んだ。朝倉はため息を漏らし、廊下に向かって歩き出す。そんな彼女の後ろ姿を睨みつけていると彼女が足を止めて振り返る。
「それより、私のスマホ落ちてなかった?」
「知るか、帰れ!」
オレが毒づくと、朝倉は露骨な舌打ちを打って教室から出て行った。静かな廊下から聞こえる彼女の足音は徐々に小さくなった。拾ったスマホをポケットから取り出す。
鏡のようなディスプレイ。
そこに写るオレは頬に汗を伝わせていた。
☆
蒸した廊下を漂い、最上階へ向かう。パソコン室と書かれている教室がオレの部室だ。
扉を開けると潤うような冷気。パソコンが三〇台ほど設置された室内では、はちきれそうな胸元にだらしなくリボンを垂らす女子が寂しげにキーボードを叩いている。
クラスメイトであり、部長のマナカだ。彼女はオレに気付き、小さな頬を膨らませる。
「逢坂くん、遅い。何をしていたの? 私が独りぼっちでいるのを楽しんでた?」
「お前なんか観察しても面白くねぇよ」
マナカの隣席に腰掛け、荷物を置いてパソコンの電源を入れる。スリープモードになっており、すぐにデスクトップ画面が表示された。すでにマナカがパソコンを立ち上げていたらしい。彼女の方を向くと、ムスっとしたままオレを上目遣いで見つめている。
「掃除当番で送れただけだ」
彼女の頭を撫でる。彼女の髪はサラサラしていて多少乱暴に撫でても乱れない。しばらくすると彼女はムスっとした表情をやめて、しおれた花のように顔を俯かせる。
「逢坂くん、部員が二人減ったの。もう耐えられないからやめるんだって」
「パソコン部のつもりで入部したんだろ。長続きした方だ」
宥めようとしたが、マナカは不満げに唇を尖らせる。
「勘違いしないように『情報処理部』って命名したんだよ?」
「普通の高校生はITを学ぶ部活だとは思わねぇよ」
マナカは深いため息を漏らす。
「部員、二人だけになっちゃった」
「いいじゃねぇか、やる気のない奴が消えて」
「部員が三人いないと部は成立しないの!」
回転イスが悲鳴をあげるほど、マナカに体を揺さぶられる。
「動画サイトの有料会員や、レンタルサーバーの料金は部費で賄ってるんだからね!」
オレは顔をひきつらせた。オレも動画サイトのプレミアム会員料を部費で賄っている。プレミアムが解約になったら、秘蔵の動画の大半を失う。
……部員を一人用意する必要がある。
そこで閃いた。オレはうなだれるマナカに桜色のスマホを差し出す。
彼女は眉間を寄せると声をあげる。
「この派手なのは、朝倉さんのスマホ!?」
「暗証番号を突破できないか? 朝倉の弱みを握って、うちの部に引き込む」
「だ、だ、だめだよ。個人情報なんだからぁ」
困惑の表情を浮かべるマナカの顔を指でつまみ、無理矢理口角を引っ張りあげる。
「じゃぁ部費の分をバイトで補うか?」
「そうしたら……部活する時間がなくなっちゃう」
戸惑うマナカにすかさず耳元でささやいた。
「大乗だって、幽霊部員になってもらうだけだ。それ以上のことは朝倉にはしない」
「まぁ、幽霊部員になってもらうだけなら。しょうがないかな。部費入るし」
ついにマナカはブツブツ呟き、朝倉のスマホをいじり始めたのだった。
☆
マナカが作業をしている間、パソコン室の窓から校庭を眺めていた。
いつの間にか大きな雲が空一面を覆っている。薄暗い校庭にはせわしなく動くサッカー部。その脇では朝倉ミオが、友人の大宮チサトと正門へ歩いていた。朝倉が一方的に話しかけて、大人しい大宮が相槌を打っている。大宮は絹のような黒髪が似合う女子だ。ナチュラルに整った容姿、制服越しからも感じる身体のほどよい肉付き。クラスでも、彼女を求める男は多い。もし教室に落ちていたスマホが大宮の物なら、と想像してしまう。
だけど実際の持ち主は朝倉だ。攻撃的で人を見下すくせに妙になれなれしい。何よりも自分をごまかすような厚化粧が嫌いだ。マナカの手前では幽霊部員にするために脅すと言ったが、朝倉の弱みを握ったら厚化粧をはがしてコンプレックスだらけの顔を拝んでやる。
そんなことを考え、口角を緩ませたとき、
「解けた!」
視界の隅で、マナカが大きな伸びをした。
オレは彼女の手に握られるスマホをぶんどり、画面を確認する。朝倉の厚化粧に劣らず、たくさんのアプリで埋め尽くされている。
さて、どこから見てやろう。
適当にディスプレイをイジっていると、オレの傍らからマナカひょっこり顔を出した。
「逢坂くん、メールがいいと思うよ。もしかしたら彼氏とのやりとりがあるかも!」
「お前、さっきまで『個人情報』とか言ってただろう。メール見るなよ!」
「暗証番号解いちゃったし、見た方が得かなぁって。ほら、メール!」
オレの一喝にかまわず、マナカが喜々とした表情でメールの画面を立ち上げる。瞬間、彼女が笑顔のまま固まった。
「お、逢坂くん。これはどういうこと?」
マナカがオレの顔にディスプレイを押しつける。それを受け取り、メールを確認する。
『逢坂進さんから、メッセージが届いています』
送信先アドレスには有名なSNSサイトの名前が明記されている。
オレとマナカは顔を一度見合わせ、本文にリンクされたURLを選択。朝倉はとんでもなくバカだ。自分のSNSに自動ログインできる設定にしている。だから簡単に、彼女のアカウントにログインすることができた。
メッセージ画面。そこには、オレの本名と同じアカウントとのやりとりが記されている。そして昨日の日付で記された最新のメッセージ。
『話したいことがあるの。明日の放課後、中央広場駅で待ってて 』
朝倉とやりとりしている、この逢坂進は一体だれなんだ?
熱を帯びたスマホを眺める。窓の向こうからサッカー部のホイッスルが鳴り響いた。
☆
お天気お姉さんはお色気たっぷりに晴れと言っていたが、中央広場駅では小雨が降っている。電車を降りて急ぎ足で改札口を抜ける。目の前には中央広場が見える。広場いっぱいに漂うアジサイの香り。この地域一番の待ち合わせ場所と言われるだけあって、男女のペアを多く見かける。
そんな広場の中心にある噴水のそばで朝倉は傘を差して立っていた。手櫛を入れて髪を直し、あたりを見回している。
オレは紺色の折りたたみ傘を差し、顔を隠す。そして朝倉のスマホを画面を確認する。
……オレの誕生日を入力すれば暗証番号は突破できる。
架空の逢坂進とのやりとりは見るだけで胸焼けがする。
『中学のとき顔のことで悪口を言われたの。それから素顔を見られるのが怖くなったんだ』
架空の逢坂進は『オレも人と顔合わせるのが苦手なんだ』などと同情を誘う言葉を重ねている。言葉の甘ったるさはハチミツを飲んでいるようだ。
そのとき、オレのスマホに着信がきた。マナカからだったので、応答する。
『逢坂くん、ニセ逢坂くんが誰かわかったよ』
オレはスマホを耳にあて、周囲を観察する。マナカには、ニセアカウントの持ち主を特定するように頼んである。
『学校のサーバーのアクセス記録を調べていたらね、WIFI使って、ニセ逢坂くんのページに二つのスマホがアクセスしてたの。一つは朝倉さんの。そしてもう一つは――』
マナカが口にした名前の人物はオレのすぐ近くにいた。
彼女――大宮チサトは赤い傘を差し、物陰でほくそ笑んでいる。彼女の視線の先には茶髪の男。傘も差さず、人混みをかき分け、朝倉の方へ向かっている。男が十メートル近づいたところで、朝倉も男に気づき視線を向ける。男と朝倉が一体何を話しているのかはわからない。
だけど二人を見つめる大宮は長い黒髪を風に靡かせ、クスクス笑っている。
数分後、噴水の方から茶髪が大宮の元へ戻ってきた。大宮と茶髪は心地よさうなハイタッチを決めると赤い傘の中で抱き合い、語り合う。
「ドッキリは楽しかったかチサト?」
「スッキリしたよ。ミオのポカンとした顔、傑作だった!」
大宮と茶髪は互いの顔を見合わせて笑みを浮かべると、相合い傘をして大通りへ続く階段へ歩き出す。そんな二人の後ろ姿を見つめているとオレの胸が高鳴った。気がつくと軽やかに足を動かして、二人との距離を詰める。
周囲を一度確認する。
雨が強くなり傘を差しているせいか、こちらを見る人は少ない。
オレの胸の高鳴りは最高潮に達したのはこの時だった。
気が付くと、オレは大宮と茶髪が下り階段へ足を踏み込む瞬間を見計らって二人を突き飛ばしていた。大宮と茶髪は悲鳴をあげる間もなく十三階段を転がり落ちる。
階段の下にいた人達の悲鳴。
宙を舞う大宮の鞄から荷物が散乱し、アスファルトで悶える大宮に振り注いだ。少女マンガのヒロインのように整った顔や、制服のボタンが弾けて露出した体には大きな傷。
そんな大宮を階段の上から見下し、ほくそ笑む。もし落ちていたスマホが大宮のものだったら、オレはナチュラルな顔と身体を大宮のむき出しの心のように汚していただろう。
その願望が思いもよらぬ形で叶った。
階段の下の人達が大宮と茶髪に駆け寄る間に、オレは噴水へ向かう。
噴水の前では、朝倉ミオが傘も差さずにタイルの上にペタリと座りこんでいる。
オレは浮き足だった足取りで朝倉の横に座る。それに気づいた彼女はオレを見上げた。強くなった雨は彼女の顔に降り注ぎ厚化粧を溶かし、額に傷跡を浮かび上がらせた。
そこで彼女がどうして厚化粧をするのかを理解した。
「ここで人と待ち合わせをしたら、違う人が来たの。しかもチサトの彼氏。一発でわかった。私、チサトにからかわれてたんだって」
だからと言って優しい言葉をかけるつもりはこれっぽっちもない。
「酷い顔だな。化粧が落ちてベトベトじゃねぇか」
彼女はオレを見つめたまま下唇を噛みしめる。この辱めている感じが興奮する。
オレはお前のそういう顔が見たかった。満足だ。
それなのにこいつの瞳を見るとモヤモヤする。ガラスのように繊細で純真だからだろうか。繊細な心を厚化粧のように隠しているからか。
気がつくとオレはハンカチをポケットから取り出して、朝倉の濡れた顔を拭っていた。彼女は拒むように顔を逸らしたが。強引にハンカチで拭ううちに、無抵抗になった。
「……逢坂には、私の気持ちなんて、きっとわからないよ」
朝倉は傷跡の残る顔を俯かせる。雨に濡れた彼女のブラウスが透けて、桜色の下着のラインが見える。砕けた心のまま自分をさらけだす彼女を見ると、胸に針が刺さったような気持ちになる。あまりにも純真過ぎる。人を信じて、裏切られて、心を砕いて、傷だらけの自分を守るために、ウソで自分を窮屈な心の片隅に閉じ込めている。
朝倉がいたたまれなくなって、オレは自分の折りたたみ傘の中に入れてやった。
彼女は驚いたようにオレを見上げる。
そんな彼女に、オレは桜色のスマホを差し出す。
「お前の机の下に置きっぱなしになってた」
「返してくれないんでしょ?」
「返すよ、ここじゃないけど」
「どこで返してくれるの?」
オレは、朝倉を立ち上がらせ、誘拐するように彼女の冷たい手を引いた。最初は彼女も抵抗していたけど、最終的にはされるがままに引っ張られる。
朝倉を支配した優越感に浸り、オレは改札口を抜けた。
その途中に設置された鏡に映る朝倉の顔は傷跡なんて気にならないほど可愛い笑みを浮かべていた。