2話 あの時
「ジーク!ジーク!」
孤児院から少し離れた森にたどり着いた時にはもう日は完全に沈み、辺りは夜の闇に包まれていた。
ー最近は吸血鬼も出るって聞くし、ちょっと心配ね
シスターの言葉が何度も脳裏をよぎる。
不安を取り払頭うために大丈夫だと自分に言い聞かせてみるが、一度取り憑いた不安はそう簡単には離れてくれない。
そして、ルシウス自身もこれほど探しても見つからない事がどういう事なのか認めたく無いだけで本当は分かっていた。
不意に茂みの奥から漂う強烈な臭いがルシウスの鼻をついた。
ー血の匂い…
全身から冷や汗が吹き出す。茂みの奥には何があるのだろうか。
ー見たくない見たくない見たくない
でも、見なければならない。
意を決して奥を覗き見る。そして、その先にあった光景を目の当たりにしてルシウスの不安は最悪の形で取り払われた。
ルシウスが見てしまったのは吸血鬼の食事だった。
1人の男が異様なほどに発達した犬歯で少年の首元に噛み付く。その少年はルシウスの最後の家族だった。
ージーク!
早く助けなければならないと分かっているのにも関わらず、ルシウスの身体はその場で固まって動かない。
ー行かないと、僕が助けないで誰がやるんだ!
分かってる、分かっているのに
ーなんで震えが止まらないんだよ…
ルシウスにはどうする事も出来なかった。恐怖に勝つ事ができなかったのだ。すぐそこにある死への恐怖に。
ルシウスはその場でどうする事もなく弟が吸血されるその様をただ見ていた。
吸血鬼は食事を済ませ、夜の闇に消え去った。幸いにも吸血鬼がルシウスに気付くことはなかった。しかし、そこには無数の血痕と青ざめたジークが横たわっていた。
「ジーク!」
慌ててジークの元へ駆け寄る。
「うぅ、に、兄ちゃん…」
ゆっくりと目を開けたジークを見て、安堵するのも束の間、ふと昔教えられたことを思い出した。
吸血鬼に生きたまま吸血された人間は吸血鬼となり、自分の名前以外の全てを忘れ新たな吸血鬼に生まれ変わる。
「兄ちゃん、早く逃げて。僕、生きたまま吸血鬼に噛まれたんだ」
どうやらジークもその事を覚えていたらしい。
とたん、猛烈な後悔がこみ上げる。なぜ助けなかったのか。
悔しい、何も出来なかった無力な自分が。
ージーク、ごめん
そう謝ろうとした時、ジークの口が開いた。
「兄ちゃんは覚えてる?前に僕たちが孤児だからっていじめられてた時、僕何も出来なかったけど、兄ちゃんそいつらに殴りかかって助けてくれたよね。僕兄ちゃんみたいに強くないから吸血鬼に勝てなかったよ…」
ルシウスが見ていたにも関わらず助けなかった事をジークは気付いていなかったのだ。
ー違がう、僕は強くない。兄ちゃんは弱いんだよ…
「だから、襲われたのが弱い僕の方で良かったよ」
「そんな事無いよ、そんなこと言うなよジーク」
ジークは首を振って、ルシウスの言葉を否定した。そして静かに目を閉じた。
「兄ちゃんもう行って。シスターも心配してるよ。」
「何行ってんだよ、置いて行けるわけ無いだろ!」
ジークはまた目を開けた。
「でも、自分が兄ちゃんを襲うなんて事があったら…僕耐えられないよ」
そう言った時のジークの寂しそうな瞳を見てルシウスは悟った。ジークのためにできることはジークが吸血鬼に変わる前に立ち去ることだけだと。
ルシウスは涙を拭うとジークに背を向けた。するとまたジークの声が背中越しに聞こえた。
「怖いなぁ、僕もこうやって人を殺すのかな」
その言葉を聞いてルシウスは握りしめた拳に固く力を込めた。
「大丈夫だジーク。兄ちゃんが必ず、吸血鬼になったお前を殺してやるからな」
ルシウスは振り向かなかった。涙を拭ったばかりなのに、また泣いているのを見られたくなかった からだ。
ルシウスはそのまま孤児院への道を歩き始めた。
「ありがとう、兄ちゃん」
安心しきった声だった。それがルシウスが聞いたジークの最後の言葉だった。
帰り道の途中でふと見上げた夜空は曇り空だった。
灰色の空は滲んで見えた。月は雲の影に隠れ、
頬を伝う雫を照らす光はどこにも無かった。