①
祐介は、自分の担当の道具を自分の前に並べて、忘れ物が無いか、指差し確認をしていた。始めは、ガスボンベ、簡易コンロ、紙皿、割りばし、紙コップ、缶切り、これらを順番にビシビシと一つ一回、名前を呼んで点呼していた。普通は一巡で、確認を終えるところ・・・なぜだか、祐介の指差し確認は、5巡目に差し掛かっていた。5巡目程のベテランとなると、すでに、指差し動作に追いつけなくなっていた名前呼びは、淘汰され、「シィっ!!シィっ!!シィっ!!シィっ!!シィっ!!」と厳しい剣幕で声を上げた。祐介の点呼は、それを極めるが如く続いていく・・・。祐介のいる、あばら屋は、一階が車さんが二台程泊まれるガレージがあり、シャッターの反対側に向かって左に、正四角形で、六畳の畳の小上り、その奥に台所だと認めるわけにはいかない!壁にくっ付いた只のカウンター(水道設備なし!!コンロなし!!重火器あーりっ!!消火器なーし!!)があり、そこには、まな板と包丁や、鍋の類が適当に吊るされたり、していた。右側は厠と浴室と成っていて、厠の水はちゃんと流れる物だった。近くを流れる小川の水を給湯器に繋いであり、風呂やシャワーは、問題なく使えた。・・・しかし、台所には、水はない。この建物の中で水が汲めるのは・・そりゃ・・・もう・・・あそこしか無い・・・。厠で用を足した後、簡易的に手を洗う為のちょろちょろと出る・・・あの水!!。
床はコンクリートで、このあばら屋、全体に、祐介の、指差し確認は響きわたっていた。すでに、20巡目となった、祐介の点呼は、さらに、極限の領域へと入っていた。「シィっ!!」?、そんな発音は、忘却の彼方に置き去りにされている。10巡目には「シェー!!シェー!!シェー!!」となり、現在では、「イーっ!!イーっ!!イーっ!!」となっていた。声だけではない、指差しに、手首のスナップを利かせ、振り下ろした処で、ピタリと止めることを意識し練習していた。『飛び込みのノースプラッシュさながらの躍動と静止とのくっきりとした切り替えこそ美しいのだ』
「はい!!監督!!」
油肌で、顔の皺は深く。眉毛、鼻毛はそらんが、髭は剃れ!!そんな訓戒を自らに課し、腕を組んで、まだ見ぬどこか遠くに焦点をやる架空の監督に、祐介は、従順に元気よく返事をし、一度、額の汗を拭う。拭ったその手は勿論、指差しの形のままだった。長くロッククライミングを続けているクライマーの手が、鉤爪状に固まって伸ばしきれない様に、指差し確認は祐介のライフワークに成りつつあった・・・。監督の教えに従うばかりでは、頂点は極めることは出来はしない、大いなる自然と己の中にある、本能に従って表現しなければと祐介は悟りつつあった。そして、祐介は、純粋で、穢れのない、発音を自らのモノにせしめた。
「欲しっー!!欲しっー!!欲しっー!!欲しっー!!欲しっー!!」
何が欲しいのか分かりたくも無い・・・。甲高く、哀れだった。点呼は大台の三桁を迎えたところで、祐介には疑念が生じ始めていた・・・。
「欲しっー!!欲しっー!!欲しっー!!箸?欲しっー!!箸?欲しっー!!欲しっー!!欲しっー!!箸?」
割りばしを指さして、一瞬体を止める。割りばしを見つめた時の恐怖、割りばしを指す度に、心の中の疑念は膨らんでいった。祐介は、人生で初めて割りばしを怖いと思った。心の中は、割りばしへの恐怖に支配されていた。「お前のことなんか怖くないんだぞ!!」割りばしを威嚇するように、徐々に大きくなった声、割て、怒鳴った。
「箸ー!!箸ー!!箸ー!!箸ー!!」
祐介の人差し指は、もう、他の物を指すことを辞め、何度も割りばしを手首のスナップを利かせ指していた。先ほどまでは、殆ど己との闘い、自分とは何か?なぜ私は、指差し確認をしようと思ったのか?その疑問をあらゆる方面でたった一言で、納得させてくれる、言葉を探していた。が、自分が戦うべき好敵手に出会い、自分の為だとか、他人の為だとか、そんな物置き去りにされ、只、己の指差しで、割りばしを倒す事のみ、そこにはあり、それだけに、全身全霊をぶつけた。食い縛ばられた祐介の歯が、威嚇するように歪ませ開いた唇の隙間から見える・・・本気だ!・・・祐介は本気だ!。祐介の人差し指は、きっと割りばしを指すために授かった物だろう・・ゆえに・・・“割りばし指し指”と、この格闘のあとそれは後世に言い伝った。勿論、割りばしの方は、嘲笑。「こいつ?・・・俺に攻撃を加える訳ではなく、触れもせずに指を指すだけで、倒そうと思っていやがる・・・大したもんだ・・・」割りばしに脳裏があれば、そんな事が浮かんだろう。
もう、二時間近く、一階に雄介の連打の叫びは響いていた。頑固なスパイラルパーマンを掛けた祐介の髪は汗でぐちゃぐちゃ、汗を飛び散らせて、絶頂の瞬間のドラマーがスティックごと身悶えし、汗ドロドロで振り乱す様に、祐介もそうであった。
いよいよ、祐介にも絶頂の時が訪れようとしていた。何千、何万、何億、の指差しの中のある一回、それを指して祐介は、両手を真上の空間に仰いで、頭上を仰ぎ見るように反り返った!・・・清々しい・・・・アスリートがゾーンと呼ばれる、ある感覚に落ちるそんな、所にまで達し、一秒を何千分割した、その、一つの時間。時間を必要として、作られるあらゆる物事から解き放たれる。静止的領域。・・・・その感覚の中で、祐介は、悟ってはいけない、決して人間には、理解することのできない言葉を口に出してしまった。
「暇だ・・・」
そう、つまり・・・祐介は暇なのだ。仲間5人と、この掘っ建て小屋で、今日の、午後4時から、宴会を予定しているが、祐介が着いたのは、午後0時だった。仲間の集合時間には、まだまだ時間があると言うのに、残念ながら、ゾーンに入ってしまった祐介の、その時間は、永遠に近いだろう。
その頃、辰巳は、親父の経営する缶詰工場のラインを、しげしげと、眺めていた。
辰巳には、物心ついた時から、不可解な衝動が自分の中にある事を分かっていた。なんだか少し引っかかる程度で、それは容易に、留めて置く事が出来た。その衝動の解決のしかたがわからない以上、それは、長い間“留めて置く”に留まった。辰巳には、他にも奇妙な所があった。こちらの方は、両親や兄、周りの人々が、奇妙がっている辰巳の性質で、本人には、自覚はなかった。
「どうして、こんな時に、あんたは、悲しい顔もしないで、無表情に、黙りこくっているの・・・えーんえんえん」
「自分の事じゃろう!怒りもせんで、お前は!」
「たっちゃん、アッハハッハアハハ、これ、面白いな・・・・・・・あんたの笑顔一度も見た事ないよ・・・あんたのお母さんなのにね・・・」
こういう、“普通の人”が強い感情を抱く場面で辰巳は、感情を示さなかった。それは、辰巳にとって自然な事だった。見当たらないのだ・・・感情が・・・。しかし、そういう場面で、留めている物が少しだけ、留められている事に対して怒っていて、『出してくれー!! 出してくれー!!』そんな風に叫んでいるような気がした。出してあげたい。でも、出し方が分からない。
ある時に、両親がひどい喧嘩をした。内容について辰巳は覚えていない。その時に気づいた素晴らしい事、それしか覚えていなかった。母の泣き崩れる姿を辰巳は、見ていた。その時も、留めている物は、疼いていた。それと同じように、思い出せそうで思い出せないものが、もう一つ辰巳の記憶の中にあった。『あれ?これ?どこかで、見たぞ・・・そうか!!』デジャビューの様な感覚で、母の姿と映画『博徒の女房』のワンシーンがリンクしたのだ。夫は、ばくち打ちで、浮気性、幼子を残し放浪、たまに帰ってくる。健気に、夫に添い遂げる女房を描いた股旅物の映画だった。主人公の山田マンゴスチンが女房の山田マリンバから、金を毟り取り、浮気相手と肩を組んで、また、股旅に出かけるシーンで、マリンバの泣き崩れる姿を後ろから見ている子供のマル‐チョイがマリンバの肩に手を置いて「お母さん・・・風呂・・・沸かしといたよ・・・」そう言うシーンだった。何もマル‐チョイは、場違いに、日常の手伝いを報告したわけではない。『あんな奴忘れて、日常に戻ろうよ』そんな母への気遣いが示唆されているシーンであった。そのワンカットが、辰巳の頭の中で鮮明に流れた。そうして・・・辰巳は、母のもとへ歩み寄り、肩に手を乗せた。
「お母さん・・・風呂・・・沸かしといたよ・・・」
辰巳は、『博徒の女房』のワンシーンを完全に再現したのだ。マリンバとなった、母は、「ありがとう・・・」そう言って、辰巳の顔を愛おしそうに眺め、抱きしめた。その瞬間に辰巳は驚愕した。『これだったのか!!』辰巳の中にある満足感と言う器がいっぱいに成って、引っ切り無しに溢れて、零れ落ちた。それは、歓喜だった。この上ない歓喜。映画『博徒の女房』のそのシーンで、マル‐チョイの台詞の後、マリンバは、今辰巳の母がして言った事と全く同じ事を、して言った。完成されたのだ。一連の構図。作品を完成させた、達成感が、辰巳を歓喜させた。同時に、そのシーンで、示されている、“気遣い”は、その時の辰巳とリンクし、『母に気遣いをできた!』と、言うより、父や母も役として含め、全体で『表現できた!』その事に対する歓喜で、それは、長年留めていた物を出す方法でもあった。辰巳が、長年留めてきた物とは・・・自分の中に沸き起こった感情をそれを題する作品として、作り上げる・・・そんな、馬鹿げた衝動だった。瞬間的に自分の、自覚できない感情とリンクした映画やアニメや漫画のワンシーンが辰巳には浮かんで、それを再現したい――――再現できれば、満ち足りる。辰巳の感情は、それだけだった。
幼い頃から、天才肌で、学生時代には、優等生だった兄は、期待の星で、意味の解らん衝動と感情しか持たない辰巳は、顔を見るたび両親から、ため息を向けられた。「兄を見習ったらどうだ?」父は、辰巳の無感情と、学校の成績を見るたび、そう言った。優秀な兄と比べられ、辰巳は、育った。しかし、辰巳が、今日に至るまで、劣等感や焦燥感を抱くことは、一度たりともなかった。只々、その衝動があり、すでに30歳を迎えようとしていた。成長するに従って、“作品”が示す感情は、複雑均衡奇っ怪を極めた。いくつもの“ワンシーン”を織り交ぜながら、再現が成されるようになっていた。あくまで、辰巳が表現するのは、自分の感情であって、それが、必ずしも、その場の状況に対応したものではない――――その事が、両親に辰巳の扱いを困らせていった。何となく家族の輪から、外され、理解者もなく、衝動は野放しだった。ヘレンケラーを教えた、アン・サリバンの様な人間と出会う事が出来たのなら、それは、才能と成し得たかもしれない・・・しかし、現代の社会は、個別の他人を理解しようと言う物では無い、“これが、優しい事、正しい事”それは、“当たり前”のレッテルの上で承認され、理解できない者は、良い、悪いの本質を見る前に、白い目で見られ、関係をシャットダウン。
辰巳は、缶詰工場のラインに沿って、歩いていた。
そこの社員ではなかった。しかし部外者とも言えず。働く従業員達は、完全しかとを決め込んで、それぞれの作業に勤しんでいた。社長の息子であるが、完全に問題児の辰巳は、何度か親父の工場に、遊びに来ていた。始めは、従業員も「坊ちゃん、坊ちゃん」と辰巳に気さくに話しかけていたが・・・以前に辰巳の成績が振るわない事をちゃかした社員に、「劣等感・・・劣等感・・・劣等感・・・」そう、呟きながら、連呼し、ラインを流れるサバ缶を、投げ付けた。一個二個なら、まだしも、投げ続けたのだ・・・小一時間。「坊ちゃん・・・そんな・・怒らなくても・・・ごめん、ごめん」始め二、三個は、社員も、片手で防御するだけで、笑って謝っていた。その時の辰巳は、中学1年生であったが、野球部に所属しており、(3年間補欠)投球には、それなりのパワーとコントロールを持っていた。その球・・・いや鯖が、社員の顎にヒットして、顎を外した拍子に、失神してしまい、小一時間サバ缶を投げつけられる羽目になったのだった。
ちょうど通り掛かった親父は・・・。
「サバ缶はー!!うちの主力商品だー!!」そう言って、顔を真っ赤にして辰巳を止めた。
すぐ後に親父が辰巳に「なんであんな事したんだ?」そう聞いた時辰巳はこう答えた。
「なんか、どっかで見たんだよ・・・なんかの?映画だったかな? 額のど真ん中に、球みたいなのがクリーンヒットして、倒れるって・・・そんなシーンをやりたくて・・・さ」
「質問の答えになっとらん・・・はぁ・・・いいか・・・辰巳、お前は、兄を真似ろ!合ってる合ってないは関係なく、兄を真似して生きていけ・・・いいな」
辰巳は、非行に走ったティーンネージャーと言うわけではない・・・“サバ缶投球事件”の時も、『あ こいつ、俺の敵だ。映画のあのシーン見たいに、命中させて、画面からカットアウトさせよう』瞬間的にそう思った事をやっただけで、いつものように、そこに怒りや憎しみは、存在していなかった。「劣等感」の連呼も以前見た。映画『情けなくて―――春』のワンシーンだった。その事件以降、家族の中でも、この工場の中でも、透明人間の様な見放され方をしていた・・・。家族の中では、無視より、どちらかと言えば、文句が多かった。しかし、工場では、完全に透明人間で、辰巳はその事を気に入っていた。なので、23歳で実家を出ても、たまに、この透明人間に成りに、工場を黙って散策していた。“サバ缶投球事件”以降工場に来た辰巳が何かするわけでも無かったので、親父は、辰巳の闊歩を黙認した。
「なー!!」
透明人間物の話では、透明人間を確かめる時、ポルターガイストの様な悪戯をしたりする。
「なー!!」
実際透明人間ではない事を辰巳は理解している。本物の透明人間なら、全透明で間違いないが、辰巳の透明人間には、どこまで?がある。生理的な感情で、それを推し量る事ができ、(笑う、怒る)映画の中の透明人間が、まず初め悪戯で、自分の透明度を確認するように・・・辰巳もそうした。
この世の者とは思えないほどの、抜群な声で、ミュージカル風に手まで添え、辰巳は声量を張った。
「ななんー!!んなーなななん!!んっーんっーんっー!」
社員達は微動だにしない。
「完全にアウェイだな・・・」
弱小チームが、破天荒で優秀な監督を迎え、(サクセスストーリー)最終的に大舞台に挑む。選手の入場口から覗き見て、吐き捨てるように、辰巳は、パートの松本さんの耳元で、そう告げる。松本さんは「ひぃー」と小さく怯えながら、しかとを続ける。
「トゥっトゥっルっトゥル トゥっトゥっルっトゥル トゥっトゥっルっトゥル」
口ずさみながら自分と同年代であろう、社員の田中君に近づき、ファイティングポーズをとって体を揺らす。
「誰だかわかる?」
田中君は“サバ缶事件”を噂でしか聞いたことはなく、辰巳の事を馬鹿にしている半面があり、そして、辰巳の口ずさんでいる音楽が、格闘ゲームのBGMだと分かっていたので、なんとなく、辰巳に乗った。
「タルシムですか?」
クイズの司会者が、回答者の答えが確定し、正解か不正解か意味深に満面の笑みを浮かべ体を引いて回答者を眺める様に、辰巳も満面の笑みで、田中君に笑いかけ指を指しながら、後ずさって、背中を向け、呂律に支障をきたす程、顎をしゃくれきらせて、田中君に振り返った。
「う~× さんねん、さんげーふでした」
「ちくしょー」と田中君は、辰巳のノリに乗った。
「ミー ウィン!! やたー!やたー!」
「それを言うなら、『ユ― ウィン』 か 『ユー ロストゥ』でしょ?」田中君が辰巳に冷静に抑揚なく突っ込みを入れるのと殆ど同時に、チーフの松原さんが焦った顔で辰巳を窺いながら、田中君に矢継ぎ早に咳払いをして、首を横に振りながら、警告する。田中君は『別にこんなやつなんでもないじゃん』そう言いたげに、仕事に視線を戻し、しかとに準ずる。
松原さんは、内心容易では無かった。いつ辰巳のトリガーを引いてしまうか・・・あの日のトラウマが脳裏を鮮明に走った。“サバ缶事件”の被害者は、まぎれもない、松原さんだった。事件の翌日から、サバ缶に埋もれる自分を客観的に見た夢に悩まされていた・・・日々が過ぎるにつれて、サバ缶の中に腐敗した自分がうずもれ、自分を叱るように方手は腰に、もう一方は自分に指を指し、「サバ缶は!うちの主力商品だ!」社長が、そう怒鳴って、そこで、自分は仕事の重責にも押しつぶされていると唐突に自覚する夢へと変わった。後日聞いた不可解な社長の制止に違和感を感じたのと、自分は、このままサバ缶工場に骨をうずめて良いのだろうか?もしも、その気なら、本腰を入れて、行かなければ・・・そう言うサバ缶ブルーに打ちのめされていた最中の精神的疲労を暗示する物だった。
現在は、さらに歪となり・・・映画『ホットショット』で主人公が、人ひとり程のスペースしかない、簡素な漕ぎ船の上で、大型のマシンガンを片手に、撃ちまくり、撃ち捨てられた薬莢に埋もれて、湖に沈み、サバとなった自分を、屈託のない笑顔で、家族サービスする、男に釣り上げられ、工場でぶつ切りに加工され、他の共々、サバ缶の川を流されている。そんなのに変化していた。あの時のトラウマと、しばらくして、密かに聞こえてしまった。『鯖人間・・・』 噂の中で自分につけられたあだ名。それと、尻に敷かれっぱなし家族関係。そんなんが色々夢に投影されていた。
田中君の反応は、透明人間物の映画の、“透明人間の希望と末路”を辰巳に思い起こさせた。序盤は、透明である事を楽しむが、そのうちに、見える様に成りたい そう切なく願う。結局、透明人間が可視できる人間に成るのは、死ぬ時である。しかし、物に寄っては、特効薬や魔法などの死ぬ以外の可視人間に成る方法も出てくる。辰巳の場合は、無視できなくなった時に透明人間から、脱出できる。映画の中の透明人間の苦悩の様に、自分自身で自覚は出来ないが辰巳にも、『可視されたい』そういう動機が最近は出てきた。きっとこの工場で、可視されれば、それを踏み台にして、家族にも可視されるのではないか?そんな期待が、辰巳に『魔王』を歌わせた。
「マイ ファーザー!!マイ ファーザー!! ソレーソーコニー!! 」
学生時代音楽の教科で『魔王』を習ったであろう。者どもが、松原さんの手前、こらえ様とはしているが、くすくすと失笑しだした。
「おいッ!!やめろ!!」
松原さんは、笑い出した従業員たちを必死に制止する。半泣きの松原さん。
辰巳は、松原さんこそ、自分に魔法を掛けて、透明人間にした、魔王である。そう思ったのか、視線を松原さんにすえ、じりじりと近づく。二人は、影の如く、後退と前進をする。
・・・・
曲もフィナーレを迎えよとして、辰巳の声量に、松原さんは、壁にねじり寄せられた。松原さんは、壁に両手を付いて、自分の今の状態を鳥瞰図的に見た。「あれ~?この壁、前に?サバ缶の時に俺が寄りかかった壁と同じところだ?」
辰巳は、脂汗を滲ませ、最後まで噛まずに歌い終わった事に歓喜していた。そうして、最後に意味不明の言葉を高い声でシャウトして指揮者の様に手を握った。
「座面―!!」
下ネタ好きの者どもは、体を仰け反らせて、大爆笑していた。
辰巳のシャウトを“堅焼きそば”の事だと思った。松本さんは、仕事帰りによく寄る中華屋の自分の前に炸麺が置かれるシュールな絵が頭に浮かんで、時間差で吹きだした。
中には、英語のthe manと聞こえた者もいて、それはそれなりの突然の不一致に笑った。
辰巳が叫んだのは、イスの座る部分だと言う事を誰も知らない・・・。
『もう、トリガーを引いてしまった・・・今回は、どんな災難が俺に降りかかるのか?』泣きじゃくりながら、「やめてくれよも~」情けなくつぶやく松原さんに、辰巳は、手を差し出した。一瞬びくっとした松原さんだったが、それは、握手を求める手だった。「え!?」二人は、固く握手を交わし、微笑み合った。松原さんのトラウマは解消され、辰巳は従業員から、見える様になった。従業員達は、総立ちで、拍手喝さい。まぁ立ち仕事だからなぁ・・・。
そこに、社長が、通り掛かって、辰巳の成長ぶりに、にこやかに、頷く。
「サバ缶は・・・うちの主力商品だ」
リップを使って、そう優しく言って、遠巻きに眺め、そうして、自分の部屋へと戻っていった。
辰巳の透明人間脱出は、工場に訪れてから閃いたもので、他に目的を持っていた。
「缶詰の中にこれを入れてほしんだけど?」
そう言って、辰巳は、黒い芳香剤の粒を松原さんに渡した。辰巳の担当は、キャビアだった。
「これは?」
松原さんは、不思議そうにしたが、そんな事、大した問題ではなく、早速缶詰し、それを辰巳にわたした。