G・ガール! 8
八
自分でも気づいていないが、爽汰の顔は真っ青だった。
「大丈夫かな……あああ、心配だああ」
地元の駅を降りて、自宅まで帰る道のりで、まず何をどうしていいかを考えようとするのだが、てんで考えがまとまらなかった。
ただ、どうしようという言葉だけが口から出てくるだけで、気持ちは焦るだけだった。
あの後、何度も理沙子の体から抜け出せるように、頭を振ってみたり、もう一度眠り込めるように目を瞑ってはみたりしたものの、何度聞いてみても、中身は徳二郎のままだった。
はじめは、理沙子が騙しているのではないかと、爽汰は半信半疑だったが、そんな事を一時間も続けているうちに、そんなはずがないと思い始めていた。
やむなくそのままの状態で、隣の部屋にいた医師を呼んで、目が覚めたことを伝えた。
聴診器を当てたり、目にライトを当てて動きをみたりして、一通りの検査をしてから、医師は理沙子に向かって聞いた。
「うん、特に異常はみつかりませんね。問題ないと思います。ただ、打った所が頭ですから、もしも数日して痛みを感じたり、気分が悪くなるような事があったりしたら、すぐに近くの病院に行ってください。いいですね?」
理沙子は、小さく頷く。それを見て、使った道具をしまいなあがら、医師は言った。
「その他に、何か気になる事はありますか?」
もちろん、理沙子も、カーテンの外で話を聞いていた爽汰も、中身が違う人間になったまま元に戻れなくなった、とは言えなかった。
時間も遅くなってしまったので、何も手を講じることなく、支度をして渋々球場を後にした。
駅に向かいながら、きっと理沙子の家でもそろそろ心配しているのではないかと、爽汰は言った。
「一度家に電話しといたほうがいいんじゃない? もう結構遅い時間になっちゃったから」
すると、理沙子は立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回した。
「どうかした?」
爽汰も足を止めて聞いた。
「電話はどこさにあるんだべなと思ってな」
爽汰は、額に手を当てて唸った。
「そうか……。じいちゃんなんだよな。ごめん」
そう言って、理沙子の元に近寄り、理沙子が持っていた鞄の中をまさぐり始めた。
「ごめんね、石崎さん」
小さく謝ってから、理沙子の携帯電話を取り出し、「自宅」と登録してある電話番号を探し出し、手渡した。
「はい、これ使って。ここを押すと電話かかるから」
受け取ったものを、ひっくり返したりしながら感嘆の声を上げる。
「いやっともは。これがケイタイ、か? はああ! こんな薄っぺらいので、電話がかかるのかい? 長生きはするもんだなやー」
爽汰は、苦笑いを浮かべながら理沙子兼祖父に言った。
「じいちゃん……嬉しそうなところ悪いんだけど、いいから電話して。っていうか、何言うかわかる? 今から帰るから心配しないでって言うんだ……」
「もすもす? もすもす、聞こえてますか? こちら理沙子ですけど、メーデー、メーデー……」
「メーデーって……じいちゃん!」
爽汰の話を聞かないうちに、祖父は通話のボタンを押していたのだ。しかも、無線と勘違いしているのか、とんでもない事を言っている。
「……なんだべ?」
びっくりした顔で電話を顔から離した隙に、爽汰がそれをもぎ取った。
「ちょっ、ちょっと代わって! あ、もしもし。石崎さんのお宅ですか? すいません、僕、理沙子さんと同じ学校の……」
爽汰は、母親らしき電話口の人物に、出来る限り家族に不審がられないように、そして驚かさないように気をつけながら、球場での出来事を説明し、遅くなった事を詫びた。
そして、さっきは理沙子が、倒れた事で混乱して、変な事を言ったようだ、と作り笑いをして伝えた。
なんとか、納得してもらい電話を切った爽汰は、立ち止まったままだったのにも関わらず息が上がっていた。それほど、取り繕うのに必死に捲し立てたのだ。
「はああ。もう、じいちゃん。じいちゃんは今、石崎さんなんだよ? だめだよ、もすもすなんて言ったら。石崎さんは東京の普通の女の子なんだから」
ぽかんと口を開けて、懸命に説明する孫の顔を見ていた徳二郎は、改めて自分の姿を顧みた。
「……そうか、ワシは今、若いお嬢ちゃんなんだな。道理で体も軽い訳だ」
暢気な様子の祖父の話し方に、一つため息を吐いてから、爽汰は言った。
「ねえ、じいちゃん。さっき、石崎さんと話したって言ってたよね? 石崎さんが、体を使わせてくれたって」
「んだ」
「今は? 今は石崎さんと話せないの? だって、どうやったら戻れるか、石崎さんならわかるかもしれないだろう?」
徳二郎は、首を横にゆっくり振った。
「それが、話をするどころか、全くもって見えねんだわ。ワシがお嬢ちゃんの体に入った途端に、気配も感じなくなってしまった」
「そんな……じゃあ、一体どうしたら……」
自分はどうしたらいいのか、わからないのに、何かをしなければいけない気がして爽汰は落ち着かなかない。
こんな事になるなんて分かっていたら、野球なんて誘わなかったのに。
後悔をしている場合じゃないのに、思い浮かぶのはそんなことばかり。焦る気持ちを抑えながら、きっと答えがあるはずだと、爽汰は考えを巡らせていた。
駅まではもうほど近い、大通り沿いを歩く二人の目の前で、小さな喫茶店の看板の電気が消えた。閉店らしい。
それを見て爽汰ははっとする。
「やばい。もうこんな時間だ。電車がなくなっちゃう!」
今日のところは、とにかく理沙子の体だけでも家に戻さないと、家族に迷惑をかけてしまう。それに、自分の家でゆっくり寝かせれば、朝起きた時、理沙子に戻っているかもしれないという、僅かながらの期待もある。
東京に不慣れな徳二郎にわかるように、何度も何度も降りる駅を覚えさせ、駅に降りたら、迎えに来てもらうように理沙子の携帯で電話をするように教えた。
爽汰が送り届けたいのは山々だが、爽汰自身も帰る手段がなくなってしまうので、そうせざるを得なかったのだ。
「あああ、じいちゃん、ちゃんと石崎さんの振りできてるかな……」
心配することは後から後から湧き出てくるが、今夜は爽汰にできることはもうない。
そう言い聞かせては、また悶々とするのを繰り返し、とぼとぼとした足取りで、夜道を自宅に向かって歩いていた。
ピッピピ、ピッピピ。
ジーパンの後ろポケットに入れてあった爽汰の携帯電話が鳴った。
爽汰は、もしや理沙子に何か問題でもあったのかと、生きた魚を掴むように慌てふためいて、携帯電話を開いた。
電話をしてきたのは、母だった。
『もしもし、爽汰?』
爽汰は、ほっとするのと同時に、両親が祖父に会いに行っていた事を思い出した。
「母さん? じいちゃん、どう? やっぱり意識ないまま?」
『やっぱり? やっぱりって、変な言い方ね。ええ、まだ目は覚めないの。ただ、今は安静にしてるわ。大丈夫よ』
爽汰は、まさか理沙子の意識が徳二郎の体に行ってやしないかと、恐ろしい想像をしたが、さすがにそこまで状況はひどくないようだ。
『それより、あんた、まだ外にいるの? 家に電話したけど出ないから。一日家にいろとは言わないけど、留守番なんだから、夜は早めに帰ってくれないと困るのよ?』
「ああ、ごめん。でも、もう今、家のすぐそばだから。……うん、わかった、鍵はちゃんと確認する。……うん。わかったって。じゃね」
大きなため息をついて、電話を切った。
祖父はまだ意識が戻っていない。祖父だと語る理沙子の口からでた話と一致する。
「本当……なのか」
何かの間違いであってくれと、僅かにすがる希望も薄れる一方だ。どうやら、あれは現実の出来事らしい。
「ああ、疲れた……」
家に着き、誰もいない静かなリビングで一人ソファーに倒れ込む。
こんなことなら、初めから祖父の見舞いに行っていればよかったのかも知れないと、自分の行いを悔いてもみたが、すぐにその考えは押しのけられた。同時に爽汰の血が一斉に引いていく。それは別れ際の理沙子を思い出したせいだ。
「標準語? ああ、まかせろ。近所の若いもんにも、じいちゃん、標準語うまいなーって、よく言われんだから」
どんなに理沙子を装っても、その東北弁だけは隠しきれないから、出来るだけ話さないようにしろ、と注意した時の返事がこれだった。
無理だ。生粋すぎる。
自分が東北弁を話しているという意識がない人に、標準語が話せる訳がない。話し分ける事なんか出来る訳がない。
きっと今頃、石崎家では理沙子の奇言・奇行に、家族が戸惑っている頃だろう。
今晩、どうにか大事にならずに終わってくれ。
「お願いします!」
神頼みなんて、今までした事のなかった爽汰が、初めて手を組んで空に拝んだ。