G・ガール! 24
十
「遅いぞ、爽汰」
言われた爽汰は、急いで徳二郎に走り寄り、耳元でささやいた。
「だめだってば、爽汰とか言ったら! それに今のたった二言でも、思い切り訛りでてたよ」
「そんな訳ねーべ……あ」
「もう。しっ!」
爽汰は目を細めて、人差し指で口を抑えてみせた。
徳二郎の方は一瞬、ぶすっとしたものの、またすぐにご機嫌にもどる。
「わかったわよー、青山くーん」
「気持ち悪いなあ、もう!」
「わっはっは」
家を出た時から、徳二郎はこんな調子だった。
二人は、神社に来ていた。
赤い提灯が隙間なく飾られた境内には、おいしそうな食べ物やおもちゃを売る屋台が連なり、誰も彼もが次に何をするかを楽しげに考えている。お祭りならではの賑わいだ。
しかし、爽汰は徐々に、ここに祖父を連れて来た事を後悔し始めていた。
なぜあの時、突然お祭りに行こうなどと言い出したのか、自分でもよくわからなかった。
でも、なんとなく徳二郎が喜ぶんじゃないかな、と思ったのだ。
案の定、徳二郎は終始ご機嫌なのだが、爽汰はその様子に手を焼いていた。
「それで、何に使うのかちゃんと考えてるんでしょうねえ?」
手持ちのない二人は、合わせてもたったの三百円しかないお小遣いを何に使おうかと、屋台を一通り見ている最中だった。
徳二郎は、また爽汰に怒られないように、気をつけて小さい声で答えた。
「今、検討中だで。そんなに急かすんでねえ」
徳二郎は腕を組み、真面目な顔で考える。
「しっかし、焼きそばもたこ焼きも一個で四百円だべ。イカの丸焼きなんて、五百円も取んだ。昔はよ、爽汰、百円さ持ってたら、腹一杯になるまで食べれたもんだで。世知辛い世の中だべなあ」
所持金が三百円しかなくなったのは、世の中のせいではなく、誰かさんが無駄にタクシーをお使いになったからです、と爽汰は喉まででかかったが、ぐっと抑えた。
「……それで? どうするの?」
一際大げさに困った顔をしてから、徳二郎はもう一度辺りを見渡す。
「ワシ、もう一度向こう側の屋台見に行って来てもいいが? お前も一緒に行くか?」
「いや、いいよ。俺はここで待ってるから、行って来て」
そう言って爽汰は、明るく電気の届く場所から少し離れた、水手舎の脇にを段差見つけ、そこに腰をおろした。
飛び跳ねるようにして人ごみに消えていった理沙子の背中を見ながら、爽汰は一つため息を吐く。
その姿は、理沙子であって、理沙子ではない。ずっと理沙子を見ているのに、とても理沙子が懐かしく感じる。
なんでこんな事になったのだろう。爽汰はこの三日間の事を思い返していた。
ああすればよかった、こうしなければよかった。
そんな思いはつぎからつぎに思いつくのに、これからどうしたらいいのかと考えると、何も浮かんでは来ない。
人格だけが入れ替わる、そんな非科学的な事は、爽汰自身でさえ目の前で実際に起こるまで信じる事はなかったと思う。それ故に、誰かに聞いて答えをもらえるわけのないこともわかる。
自分でどうにかするしかない。
その結論に達するまで、そんなに時間はかからなかった。
爽汰は自分のポケットに仕舞っておいた、理沙子が書いたメモを引っ張り出した。今、爽汰が持つ唯一の糸口。
理沙子がもしも近くで見ていてくれているのなら、このメモは元に戻る為のヒントに違いないだろう。
四つ折りにしてあった紙を丁寧に開いていく。
『私は大丈夫だから、仲良くし』
どうしろと言うのだろう。
これを見て、まず思ったのは、『仲良くして』だった。
理沙子が発しているという事を踏まえても、続きはそう書きたかったのではないかと考えた。
しかし、その相手が、徳二郎の事を意味しているのであれば、その言葉に違和感を覚える。
理沙子が、爽汰と徳二郎とのやり取りを見ているのなら、あえてそれを伝えなければならないように本当に見えたのだろうか。
そうは思えなかった。自分でも、祖父とはそこそこうまくやっていたと思うのだ。
爽汰はもう一度考え直してみた。
理沙子は大きな身体的ショックを受けて、意識を失い祖父と入れ替わった。
しかも、入浴を見られたくないといった、精神的なプレッシャーが強く出たときも、徳二郎を体から追い出せた。
共通するのは……強い刺激。
痛みや嫌悪といった、肉体的、精神的に大きな刺激が加わることで、なんらかのスイッチが入っている。
爽汰の心臓が一度大きく鼓動する。一瞬にして、体中に熱い血が巡る。
「もしかして……」
爽汰の頭の中で、一つの考えがまとまった。
『仲良くし』ないで。
徳二郎は、爽汰に会いたがっていた。
自分の命が危険にさらされた時、最後に顔を見たいと思う程に。実際、徳二郎は爽汰と一緒にいることができて、とても喜んでいる。
もしも理沙子のメモの続きが『仲良くしないで』だとしたら、それはもちろん祖父、徳二郎とのことだろう。
そして、もし爽汰が徳二郎に突然辛く接したら、大ダメージを与える事になるのは、間違いない。きっと徳二郎はショックを受け意気消沈するだろう。
ここまで考えればもう十分だ。
爽汰と一緒にいたくなくなった徳二郎は、理沙子の体を自ら去るだろう。
「……でも」
自分で行き着いた思考なのに、爽汰はとても気分が悪かった。
理沙子がこんな事を伝えようとするだろうか。
理沙子の人としてをどれだけ知っているという訳ではない。しかし、少なくとも自分の好きになった人が、誰かを不幸にすることを促すような人ではないと思いたい。
しかし、これしか方法がないのだとしたら、仕方がなかったのかも知れない。
そして、これしかないのなら、やってみるしか無い。
爽汰しか出来ない事なのだから。
徳二郎の事を考えれば、気持ちが揺らぐ。理沙子を元に戻す事だけを、それだけを目的として、心を鬼にするのだ。
「嫌だな……」
爽汰は、こんなことはしたくない、と自分はちゃんと思っているんだと確認するかのように、口にだして言ってみる。
「何が嫌なんだ?」
知らぬ間にすぐ目の前に徳二郎が戻って来ていた。
「ああ、じいちゃん。いつ戻って来たの……?」
爽汰は動揺した。ただ頭で考えていただけの事だが、徳二郎には聞こえていたのではないか、と心配だったのだ。
「いつって、今だべ。どうした、なんだか様子がおかしいな……ああ、わかったで」
爽汰は飛び上がりそうな勢いで立ち上がる。
「な、なに、なに? 何が、わ……かったの?」
徳二郎は、不思議そうに首を傾けてから、笑って言う。
「腹さ減ったんだべ?」
爽汰はすぐには何も言えなかった。
わからないように、一人肩をなで下ろし、いつものように祖父の冗談を諌めようとする。
「そんな訳ないだろ……」
ちがう。
爽汰は今さっき心に決めた事を既に忘れていた。それだけ、意識をしないと自然とできる事じゃない。
胸を張る仕草をし、改めて爽汰は言い直す。これしか、道はないのだ。
「……う、うるせーよ。じじい」
「へ?」
徳二郎は、目をパチパチとさせている。
「うるせーって言ってんだよ! うぜーから、どっかいけよ」
爽汰は言うだけは言ったが、その目を見る事が出来ない。見たら、全て打ち明けてしまいそうだ。
「……爽汰?」
どう見ても様子のおかしい孫を、単純に心配をする徳二郎は、右手を伸ばし、横を向いて強張る爽汰の左腕を優しく掴んだ。
「どうしたんだ、爽汰? 何かあったんだべ?」
心配なんかしないで! もっと腹を立ててよ! あんなに生意気な事、じいちゃんに言ったのに!
爽汰は胸の内が張り裂けそうになる。
拳をぐっと握り、ありったけの罵声を吐き出すように口から連ねる。
「い……一体いつまで、その体で居るつもりだよ! 若い体で満足か? 自分の老いぼれた抜け殻はもういらないって事かよ、一生そのままでいるつもりかよ! なんだよ、こんな事になってるのに、平気な顔して祭りで騒いでてさ。恥ずかしくないのかよ! 石崎さんに悪いと思わないのかよ、かわいそうだと思わないのかよ! 出てけ! その体から出てけよ!」
その苦しげな顔は、徳二郎が掴む腕に更に力を入れさせた。
「おい、爽汰?」
パンッ!
明かせない気持ちが、その腕を思い切り振り払う。
「はなせ!」
爽汰はそこで初めて徳二郎の顔を見返した。
体ごと飛ばされた理沙子の軽い体は、バランスを失ってその場に手をついていた。
「爽汰……どうしたん……」
「うるさいよ!」
爽汰は叫んだ勢いで、その場を立ち去ろうと足を上げる。
しかし踏み込んだ足下に転がる何かが、一瞬その勢いを妨げた。
爽汰はそれを見て、心がぐらりと傾く。
その視線の先を同じく見つめる徳二郎は、静かに呟く。
「一個しか……買えねがったんだ……」
それは大きくて、まるで飾り物のようにピカピカの、りんご飴だった。
土にまみれて、もう食べられない、りんご飴。
祖父が買って来てくれた、りんご飴。