G・ガール! 19
五
爽汰は、瞼に落ちて来た雨の刺激で目を覚ました。
「い……ってえ」
腰のあたりにじんじんと痛みを感じている。
爽汰はフラッシュのように、自分がここにいるいきさつを思い出した。
「いたたたた」
あれだけの高さから落ちたわりには、思いのほか上半身を起こす事は、それ程には辛くなかった。芝生がクッション代わりになってくれたのだろう。
見ると、肘や腕にかすり傷や切り傷のようなものもあるが、今まで体験した事の無い痛みではない。
爽汰は、自分の居場所を確認した。
すぐ上に見えると思ったリフトは予想外にも少し離れた所に見える。
スキー場だけあって、傾斜で転がってきてしまったのだろうか。
綺麗に整えられた芝生の上ではなく、コース外の林の中にいた。
大きな木がその青々とした葉を傘代わりにしてくれていたので、意外に体が雨ざらしには無っていなかったのは幸いだ。
その時、爽汰ははっとした。
「じいちゃん?」
そう言えば、近くに理沙子の体が見当たらない。
爽汰は痛む腰を抑えながら、真横の大木を支えになんとか立ち上がる。
「じいちゃん? じいちゃん、いる?」
あまりよくは覚えていないが、手すりを持つ手を離した時、自分の腕を掴んでいてくれた祖父の、理沙子の手は、ずっと離れなかったような気がする。一緒に落ちてしまったなら、怪我をしてしまった可能性もある。
それとも、それは自分の思い違いであればいいけど、と思いながらその場の辺りを少しずつ動いてみた。
「じいちゃん?」
ガサガサと草をかき分けて進む。
雨は強くなる一方で、少し木の陰から外れると一瞬でびしょぬれだった。
「じいちゃんいるの?」
そう言ってもう一歩出そうとした足先に、何かが当たった。
「じいちゃん!」
もう少しで踏みそうになったのは、泥だらけで寝転がる理沙子の体だった。
「じいちゃん、じいちゃん!」
声をかけても全く動く気配がない。だらりと垂らした腕には、傷で血がにじんでいる。
爽汰は最悪の事態を瞬間に想定した。
まさか。
ゆっくり理沙子の鼻の下に指を近づける。
スー、と息を吐いているのを感じて、爽汰はまずほっとする。
「良かった」
しかし、安心している場合ではない。
爽汰の居た場所とは違い、ここには大きな木がなく、雨を遮ってくれてはいない。見るからにずぶ濡れになった理沙子の体は、腕を触るだけでも冷たさが伝わってくる。
「よし」
このままでは良くないと思い、爽汰は理沙子の体を自分が居た所まで連れて行こうと思った。
理沙子の体を抱きかかえると、思ったよりも力を入れずに浮いた。
「軽い……」
一人呟きながら、雨を凌げる木の下へ運んで行った。
ゆっくりと理沙子を寝かせ、枕になるものを探した。
しかし、夏の軽装では服を代用する事もできない。かといって、揺れた草の上にそのまま髪の毛を乗せるのも、どうかと思う。
結局、爽汰は自分が足を伸ばした上に、理沙子の頭を乗せることにした。早く言えば、膝枕だ。
まずは落ち着いたところで、誰かに助けを呼ばないといけないと考えた。
ズボンの後ろポケットに入れていた携帯電話を取り出す。
二つ折りタイプの電話を、ぱかっと開くが、電源が落ちている。
特に気にもせず、電源ボタンを押して画面を見て待つ。
しかし、数回やっても画面が光らない。
落ちた時の衝撃で電池がズレたのかと思い、電池パックを一旦外した爽汰は、あるものを見つけた。
どの携帯電話もそうだが、こういう通信機器の最大の敵は水だ。水が内部に入れば、たとえ少量であっても、電流ととともに全ての機能を腐敗で麻痺させていってしまう。
そうなった時、わざわざドライバーで筐体を開けて調べなくてもわかるように、水濡れシールというものが電池パックの下にあるものだ。
水玉のシールの柄が、濡れると溶け出してピンク色に染まるのだが、爽汰のそれは、真ピンクだった。
「まじかよ……」
こうなったらどうしようとも、もう直らない。
母が一度、食事の支度中に、電話をしていてそれを鍋の中に入れてしまったことがあった。その時、一緒に携帯電話ショップに行って説明を聞いたから確かだ。
すぐに違う事を思いつく。
理沙子の携帯があるはずだ。
しかし見る限り、理沙子の洋服には、胸にある飾りのような小さなポケット以外は見当たらない。
「どこだろ……あ、鞄か……ああああ!」
爽汰は頭を抱えた。 鞄は撮影の邪魔になるため、丸刈りに持っていてもらったのだ。
「と、言う事は……」
連絡を取る手段がない、と言う事だ。
越智達が何かしら、助けを呼んでくれるのではないかと思うが、この雨と視界の狭さから考えて、すぐに来るというのは難しいかもしれない。
動ける自分が助けを呼びに行く、ということも爽汰は考えたが、ここに理沙子を置いていくことだけは、どうしてもできない。かといって、理沙子を雨に濡らしながら移動するのは避けたい。
雨が少しでも弱まるのを待つしかないのか。
爽他は唇を噛んだ。
「ん」
ふと爽汰の目に何かが止まる。
理沙子の来ているワンピースの胸ポケット、とても小さくてマッチ箱の大きさのものしか入らないような、飾りの類いのものだが、そこから何かメモ紙のような物が滑りでているのが見えた。
雨に濡れていてよれてしまっているが、落とさないように、とそっと取り出してみた。
トランプ大に切り取らている白い紙は二つ折りにされていて、黒いペンで何かメモ書きがされているのが、裏からも見えた。
「なんだろ」
爽汰は、深い考えもせずにその紙を見つめていた。
「あ、これ、もしかして……」
爽汰は思い出す。昨日の夜、別れ際に徳二郎に渡した紙とペン。
もしかしたら、理沙子が元に戻れる方法を書いてくれるのではないか、と爽汰が徳二郎に託したもの。
慌てて爽汰は、紙を開いて中を見る。
そこには、やはり祖父の字ではなく、滲んではいるが、よく授業のノートを借りた時に見慣れていた理沙子の字が書かれていた。
『私は大丈夫だから、仲良くし』
文の途中で切り取ってしまったのだろうか。それともこれ以上書く余裕が無かったのか。文章は途中のように見える。
「どういう、意味だ?」
これだけでは、理沙子を元に戻す為に何をしてあげられるのかはわからない。それどころか、言いたい事も伝わりづらい。
きっと、文字を書く事も簡単ではなかったのだろうから、やむを得ないとも思う。
とはいえ、大丈夫だからと言われて、そうですかと何もしないで居る訳にもいかない。
それに気になるのは、後半の『仲良くし』の後はなんと続くのか。
爽汰は続く言葉を考えてみたが、理沙子の性格をふまえてたどり着くのは、一つだ。
「仲良くしてね? って、誰と」
爽汰は、思わず声を出して聞いてしまう。
だが、もちろん返事をしてくれる相手はなく、とりあえずメモを自分のポケットにしまい込み、爽汰は一人こぼす。
「とにかく雨がやまない事にはな……」
まずは、雨が遠のいていってくれるのをここで待とう、と思った。
膝の上に乗った理沙子は、あまり顔色が良くないようで心配だ。
静かに頬の上に手のひらを乗せると、ひんやりとした感触が伝わって来る。
「冷たい……」
急に心配になり、理沙子の体に異変はないか、注意深く見てみる。いくつかの擦り傷が腕と足に見つかった。血は滲む程度で、転がったときに芝生で擦れたのだろう。
見る限りは、命に関わるようなものはなさそうで、とりあえず安堵する。
他には何もできない爽汰は、なんとか暖めてあげたいと思って、理沙子の顔を両腕で包み込んだ。
理沙子がこの体に戻って来られたら、体がこんなに傷だらけな事に、怒るだろうか。それとも、悲しむだろうか。
爽汰を責めるだろうか。
嫌いになるだろうか。
聞いてなどもらえない事を承知でも、謝らずに居られなかった。
「ごめん、石崎さん。石崎さんの体、こんなに傷つけちゃって……、俺のせいだ。俺が、ちゃんと守ってあげられなかったから、こんな事に……俺が、もっと早く元に戻してあげられれば……」
爽汰は、今までの色んな事を思い出し、自然に涙が出て来た。
大好きな理沙子の為に自分がした事は、全て裏目にでている気がして、胸が痛くて仕方なかった。
早く謝りたいと思うのに、その理沙子は目に見えるのに、居ないのと同じで伝える事ができない。
「ごめん……」
爽汰は謝罪の言葉を繰り返しながら、涙を止められずに居た。
その涙は、理沙子の顔の上に静かに、ポタポタと流れていく。
「ごめん、本当にごめんね……」
その時、かすかに爽汰の顔に息がかかったような気がした。
「泣かな……いで……」
耳元で、とても小さな声だが、理沙子の口から言葉が聞こえた。
「じいちゃん……?」
爽汰は顔を上げて、理沙子の顔を覗き込む。
「大丈夫!?」
しかし、理沙子の目は開いていない。
「じいちゃん!」
もう一度叫んだ時、また理沙子の口だけが、ゆっくり動いた。
「泣か……ない……で、青や……ま君」
爽汰は一瞬固まった。
今のは……。
「石崎さん……? ねええ、石崎さん!? 石崎さん!」
爽汰は必死に叫んだ。
しかし、それきり理沙子は先ほどと同じように、弱々しい呼吸を繰り返すだけ。
爽汰は何か見逃してはいないか、と理沙子の顔を必死に見たが、表情を見る限り、目が覚めた様子はない。
でも、確かに今のは。
うわ言だったのだろうか。
爽汰は、混乱していた。
うわ言だとしても、今の話し方。それに、爽汰を「青山君」と呼んだ。
「石崎さん……」
間違いないと思った。今一瞬とはいえ、石崎さんの言葉だった。
息が荒くなった爽汰は、気持ちを抑えようと深呼吸を繰り返した。
戻ってくれた。
先ほどの衝撃で理沙子は体を取り戻したのだ、爽汰は喜んだ。
「良かった……!」
偶然のアクシデントではあったが、それがきっかけになったのだ。結果としては好転したと言える。
理沙子の負った傷が心配ではあるが、見た所それほど深刻そうなものは見当たらない。手当さえすれば、問題はなさそうだ。
そうなれば、出来るだけ早く人のいる所に連れて行ってあげたい。
ここから無事に、助け出して上げなきゃ。
その為には、自分がしっかりしていないといけない、そう思う。
はやる気持ちを胸に、爽汰は林の中でじっと空を見上げる。
やっと落ち着いて来た雨音が、テレビのノイズのように爽汰を囲んで鳴り続けていた。