論理偶人
釈放を告げられたときは、とうとう殺されるのだなと確信した。警察病院から独居房に移された数時間後のことだった。
レンタカー会社に電話を入れた数分後には、サプレス本部の駐車場にみるみるビークルが論理構築されていき、マティアスはそれに乗り込み、界層飛躍して、務めていた興信所に向かった。
そこで辞表を提出した。失踪していた数日間のことを詳しく問い質されたが、もちろん答えることはなかった。ただサプレスの厄介になったことを先方が知っていたので、その事実は認めた。
興信所を出て、自宅に向かった。運転の途中、警察病院の知り合いに電話を入れて、シェリルの病状を尋ねた。論理銃弾が心臓付近で炸裂した為に、なかなか難しい状態だが、何とか救い出してみせるとの返事だった。
安堵すると共に、腹が立ってくる。シェリルがマティアスを庇って銃弾を受けたとき、あろうことか自分は意識を失っていたのだ。腕が一本千切れ飛んだだけで昏睡してしまうとは、情けないにも程がある。
論理包帯を巻いた片腕は、今でも痛みが酷い。知らず腕を庇いながら身動きしていると、自分のちっぽけなエゴの所為で後輩を傷つけてしまった事実に死にたくなる。
死んでも解決しない。それは分かっている。せめて殺されなければ。自殺なんかしたら、シェリルが自身を責めるだろう。あれはああいう女だ。
メーガンと連絡を取ろうかと考えたが、やめた。彼女もマティアスと同時期に釈放されたらしいが、これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。アゼルへの義憤、それだけが彼の活力だった。立派に聞こえなくもないが、薄っぺらな理由だった。
サプレスに務めていた頃は誇りを持って職務に当たっていた。しかし重論理犯罪対策室に異動となり、アゼルが引き起こした事件の担当となると、誇りなど何の役にも立たないことを知った。
アゼルがしたことはあまりに惨烈で、許し難く、全人類が彼を憎むべきではないかと思ったくらいだった。
戦争を生み、凶悪な論理兵器を生み、難民を生み、孤児を生み、障害者を生み……。彼が生み出すもの全てが、人類を不幸にした。
それでもアゼルを崇拝する者は後を絶たない。彼が何をしているのかを全く問題にせず、何ができるかに魅力を感じてしまった者たちだ。
サプレス内部にも崇拝者はいる。もちろん一般市民にも大勢いるだろう。アゼルは世界で最も有名な人物であったし、恐らく最強の論理学者でもあった。最強の軍団と名高いサプレスでさえも、彼にとっては赤子同然、手玉に取られていた。
マティアスは絶望したのだ、組織でアゼルを追う限り、アゼルに協力する者が自分の背中を狙っている。単独で事に当たるしかない。そして一対一ならば自分に勝ち目などないことも知っていた。彼の元に辿り着くことさえできないだろうと諦めていた。
今でもそうだ。アゼルを畏怖している。憎み、恨みながらも、同じ論理学者として憧れも少なからずある。自分の感情に気付いたのは、メーガンと出会った頃だ。アゼルに圧倒的な憎悪を向ける彼女の姿を見ている内に、自分には決意が足りないと感じたのだ。
アゼルだけはどうしても許せない。追い続ける必要がある。しかしアゼルを仕留めるのは他の人物に任せたい。自分などでは駄目だ。アゼルを追う手掛かりを蒐集し、広く公開するのが一番良い方法だ。
それがマティアスの、サプレスを辞めてからの年月だった。一言で言えば他力本願、情けないと言えば情けない。だがマティアスは、死が恐ろしかったのではない。アゼルを前に殺意の刃を鈍らせてしまうかもしれない自分の心を疑ってしまったのだ。
自宅に着いた。暗殺者がマティアスを監視しているはずだが、その気配はない。
車から降り、レンタカー会社に返却の旨をメールで送りつけた。間もなく車は存在矛盾して消滅した。
マティアスの自宅は傍に緑地公園を望む一軒家だった。二階の窓から森に囲まれた原っぱを延々と見渡すことができる。
死ぬ前に一度拝んでおくのも悪くないな。マティアスは唐突に思い、諳んじている論理式を用いて、自宅の論理錠を開けようとした。
論理錠がかかっていなかった。開錠の感触がなかったのだ。マティアスは緊張し、暗殺者が中に潜んでいるのかと覚悟した。
醒めた思いでドアを開けると、玄関では、男が壁に凭れて、こちらを見下ろしていた。
「もちろん、むざむざと殺されるつもりもないが」
マティアスは怪物めいた大口径の拳銃を取り出し、構えた。壁に凭れていた男は慌てて手を持ち上げた。撃つな、と叫ぶ。
鼻につく、香水の匂い。悪趣味なこの激臭に、嗅ぎ覚えがあった。
マティアスは両手を上げて冷や汗をかいている目の前の男を凝視する。
「お前――バートラム?」
「まったくよお、いきなりそれはないんじゃないかい、旦那? わざわざ鍵を開けっ放しにして、ちゃんと中に誰かいますよって報せておいたのに」
「勝手に他人の家に入られたら、警戒するに決まってるだろう」
バートラムか。仮に彼が敵でも、簡単に撃退することができるだろう……。
マティアスは安堵している自分に気付いていた。まだ生きたいのか、私は。もう他人を巻き込んでまでやることじゃないだろう。
バートラムはマティアスが拳銃を下ろしたことに、ほっとしたようだった。
「だってよお、旦那、家の外で待ってたら物騒だろ。数日前から家の周りをうろつく奴が多くてさ、まあ、俺もその中の一人なんだけど」
うろついている連中……。暗殺者だろうか。それもサプレスの内部事情に詳しくない一派。それとも下見のつもりか。
「この家、セキュリティは万全じゃないみたいだなあ。俺みたいなコソ泥でも鍵を数分で開けられたぜ」
「家の中に盗られて困るようなものは置いていないからな。大事なものはサプレス支部のロッカーに預けてある」
「ああ、道理で家の中が殺風景なわけだ。でも、それだったら鍵なんてつけなくてもいいんじゃないかい」
「長い間家を空けることが多くてな。浮浪者に居座られると誰が家主か分からなくなる」
「ははあ、なるほど」
バートラムは整髪料で固めた金髪を撫でつけながら笑った。
マティアスは家の中に入り、後ろ手でドアを閉めた。
「で、何の用だ、バートラム。危険を冒してまで私に会いに来た理由は」
「ああ、それなんだけど、旦那ってば、アゼルに興味を持ってただろ。耳寄りな情報を持ってきたぜ」
「さっさと話せ」
「もちろん、話すさ。その為に来たんだからね。……ただ、内密にな。俺が消されちまう」
「だったら話さないほうがいいんじゃないか。私は守秘義務などという重荷を背負うつもりはない」
「そんなこと言っていいのかね。俺も驚いたんだけどよお、この前、俺とメーガンちゃんで密猟に行ってきただろう」
「……ああ」
犯罪行為を自慢げに話す輩は嫌いだった。正義漢ぶる自分の心の動きはもっと嫌いだった。
「あんまり儲かったんで、その密猟ポイントを教えてくれた人に礼を言おうと思ってさ。情報屋にしつこく尋ねたんだよ、情報提供者の素性とか、居場所を」
どうせ味をしめて、次の密猟ポイントを教えてもらいに行っただけだろう。浅ましい男だ、とバートラムは内心で吐き捨てた。
「……そしたらさ、情報提供者が、どうも、アゼルらしいんだよなあ。アゼルだよ、あのアゼル」
その唐突な展開に、マティアスは耳を疑った。
「アゼルが、どうして、お前に密猟ポイントを教えてくれる?」
「さあ。でも確かなことがあんだよ、旦那。それはな、アゼルはこの俺にだけ情報を渡すように、情報屋に念を押したらしいんだ」
バートラムは興奮気味だったが、嘘をついているようには見えなかった。ただ、全面的に信用するわけにはいかなかった。
「いったい、どういうことだ」
「情報屋もびっくりしたらしい。もちろん、アゼル自身が直接情報屋の前に姿を見せたわけじゃない。ただ、アゼルという署名入りの手紙が届いたらしいぜ。手紙と言っても、アレだぜ、一度読んだら解読不能の暗号文に変貌する不可逆信書だぜ」
「分かってる」
「アゼルは、どういうわけか、俺にこんな美味しい儲け話を持ってきてくれたのさ。もしかすると俺までサプレスに追われるかもだなあ」
バートラムは笑っていたが、内心怯えていることが見え透いていた。顔面は引き攣っているし、助けてくれと懇願するような臭いを漂わせている。
助ける義理はない、とマティアスは冷淡な思考で結論を導き出した。
「サプレスに追われているのなら、ここに来たのは間違いだったな。私は元サプレスの人間で向こうに知り合いが大勢いる。昔のよしみで、お前がここにいることを通報しなくちゃならない」
もちろん、そんなつもりはなかったが、手っ取り早く追い出すにはこう言ったほうが良いと思ったのだ。
バートラムはまたもや引き攣った笑みを見せた。
「嫌だなあ。旦那がそんなことするわけないでしょおー。脅かさないでよおー」
「お前の話には信憑性がない。情報屋ともあろうものが、多少せがんだところでネタ元をあっさり明かすか。クソにも劣る作り話だ」
「いや、いやいや、情報屋って、伝言も承るでしょ。セキュリティがしっかりしてるからさ。アゼルはメーガンちゃんにだけは、この情報を流したのが自分だってことを教えても良いって言ったみたいなんだよ」
それは奇妙な話だった。バートラム向けの伝言なのに、ネタ元の正体を明かしていいのはメーガンだけ、とは。
この話が本当なら、アゼルは、メーガンとバートラムが繋がっていることを知っている。メーガンがアクションを起こすことを期待している、とも言える。
「ということは、今までの話は、メーガンがお前に話したのか」
「いや。俺がメーガンちゃんに伝えとくからってことで、情報屋から話を聞き出したのさ」
「おかしな話だ。そんなこと、ありえないだろ」
「ところがありえたんだ……、そこの情報屋は、夫婦間の秘密事ってのを憎んでる、齢三〇にして生娘のレディでね……」
バートラムの隠微な表現にマティアスは呆れた。
「夫だと偽証して、情報を引き出したのか。そこまでして金を稼ぎたかったのか」
「偽証なんかじゃないさ。俺とメーガンちゃんは本当に結婚してるんだ」
マティアスは眉を持ち上げた。冗談だと思った。しかしバートラムは澄ました顔だ。
「言っとくが、メーガンちゃんのほうから持ちかけてきたんだぜ。潜入捜査は既婚者のほうがやり易いからって、二年前にな。あの娘、意外とあれで大胆なんだぜ」
「大胆……」
普段から大胆そうに見えるが。肉体関係はあるのかという疑問が浮かんだが、同居していないところを見ると、形式的な結婚なのだろう。だが、多少なりとも相手を信用していないと、形だけの結婚であっても堪えられないだろう。
マティアスはメーガンとバートラムが並んで婚姻届を出している情景を思い浮かべ、噴き出しそうになった。
「それで、メーガンには話したのか。密猟ポイントを教えてくれたのがアゼルだってことは」
「それがね、旦那。俺の奥さんったら家にいないのよ。しばらく張ってたんだけど」
「中には入らなかったのか」
「無断で入ると火炙りの刑なのよ」
マティアスの家には無断で入るくせに、婚姻相手の家には入れない。奇妙な行動に走っていることを、この無精髭の男は気付いているだろうか。気付いていてなお飄然としているのなら大したタマだ。惨めな男とも言える。
「メーガンに話さずに、私に話すのか。何を期待しているのか、知らないが……」
「期待だなんて、そんな。旦那にはお世話になったから」
「それは皮肉か?」
アゼルがメーガンに接触しようとしている。追っているのか、追わせたいのか、判然としないが、二人はやがて互いに引き寄せられるだろう。
これはメーガンに伝えたほうがいい。何が起ころうとしているのか。彼女に判断してもらいたい。自分は傍観者でいいが、この重要な事実を、彼女に届けたい。
「メーガンには私から伝えるが、異論はないな」
「メーガンちゃん、最近電話に出ないんだよね。俺のこと避けてるのかな」
「私より先に釈放されているだろうから、今頃事務所に着いているはずだが……」
「シャシャシャ釈放ぉ!? ってことは今までお縄だったわけ? メーガンちゃん、ついにやっちゃったの! あの子はいつかやるいつかやると思ってんだけどね、いったい誰をグサッてやっちゃったの」
「グサッじゃない。バッサリだ」
「両断かよっ痺れるぜ畜生!」
バートラムが身悶えしている間に、マティアスはタブレット型の端末を取り出して回線を繋げようとした。
しかし、論理通信網が全くの不全に陥っており、仕方なく電波通信に切り替えたが、こちらも無効だった。
端末がいかれたのだろうか。しかし機器に異常は見られない。画面では両通信方式ともステータス・アクティブ、何の問題もない。
しばらく操作していて、メーガンへ通信を開こうとしているのに、自分自身に向かって電波を送っていることに気付いた。
マティアスは息を呑む。
「通信妨害――タイプ・ミラーか。とうとう来たようだな」
「えっ、何が、旦那?」
「暗殺者だ。死にたくなかったら隠れていろ」
サプレスの連中が直接来るのか。それとも請負人が来るのか。どちらも大差ない。
「もし、生き残ったら、バートラム、お前がメーガンに伝えるんだ」
「な、何を」
「アゼルのことだよ。お前が思っている以上にその事実は重要だと、私は思う。メーガンは、目的を見失っている。アゼルと距離を置こうとしているようだった。アゼルへの接近を促すことが、結局は、世界の為になる」
「世界って……。大袈裟な」
「だったらいいんだがな。私には、アゼルほどの男が何の目的もなく戦争を引き起こしているとは思えない」
「心酔しているのか、あのゲスに?」
「あの男を追えば追うほど、理性と合理の洗礼を受けることになる。あの男はそれを企図し、実行する。善悪を超越した、人間として、理性を持つ者として、必要な行為をアゼルは行っている、そんな印象だ」
人間は他の命を奪わなければ生き続けることができない。その行為、そうやって延びる己の命を醜悪と見るかどうかは各々の感性に託される。
それと全く同じことだ。アゼルの行為がどんな結果を招くのか、凡人たる者どもには自分の目で見るまでは分からないが、きっとそれは必要な行為なのだ。何に対して必要かと言えば、彼にとって、あるいは世界にとってだ。しかし必要であるからといって、それを賞賛するべきだとは限らない。
バートラムは首を横に振った。
「てっきり、旦那はアゼルを憎んでいるものかと……」
「憎んでいるさ。憎んでいるとも。殺してやりたいと思う。しかしその一方で、何を為そうとしているのか、その行く末を、見てみたい」
「矛盾しているよ」
「矛盾した命題を揚棄させるのも論理学者の仕事だ」
窓ガラスが割れる音がした。一階、居間の方向。人の家を何の躊躇いもなく破壊するその神経、傍若無人と言わざるを得ない。仮に暗殺者じゃなくとも、容赦はしない。
「そら、そこの衣装棚の中にでも隠れていろ」
「ちょっと待って、こんなの、銃撃戦になったら第一に盾に使われるモンじゃないの?」
「ほう、ちょっとは脳味噌を有効に使えるみたいだな」
マティアスは廊下の隅に寄せてあった衣装棚の脚を銃で撃った。ぐらついたところで蹴飛ばし、居間への道を塞ぐ。中から衣類が溢れ出してきた。
二階からも物音がした。敵は複数いるらしい。
「私は二階に行って片付けてくる。お前はここで弾幕を張って、持ちこたえろ」
「えっ俺も戦力の内に入ってるの? 冗談だろ!」
「死にたくなければ戦え。武器は持ってるな」
「死にたくないけど戦いたくもない!」
「生きたいけど呼吸はしたくない、って言ってるようなもんだぞ」
「屁理屈だ!」
マティアスは構わずに上階へ向かった。バートラムのような密猟者が死んでも構わないとは常々思っていることだし、自分から巻き込まれに来たのだから、自業自得だ。もちろん余力があれば助けてやってもいいとは思うが、他に方法がない。
最善を尽くして駄目なら諦める、そんな思考は何の役にも立たない。何としてでもやり遂げる方法を見つけ、実行する。過程を重視したがる奴は、次もチャンスがあると何の根拠もなく信じている。そんな保証は神でさえしてくれないだろう。
そして言うまでもなく、命というのは一度限りのチャンスだ。一度でもしくじれば損なわれる性質。生きたければ泣き言ばかり言ってないで行動だ。分かっているな、バートラム。
階段を上がり切った直後、階下から銃声が聞こえた。軽機関銃とおぼしき大音響。
注意が一瞬逸れ、二階の物置からむっくりと頭を突き出した敵に気付くのが遅れた。
それは少年だった。両腕からコードや機構部が剥き出しの、純白の機関銃が突き出ている。
マティアスは横っ飛びし、銃火から逃れた。部屋に退避しようかと思ったが、この威力の火器が相手だと、部屋の壁などいかほどの遮蔽力も持たない。
床を転がりながら拳銃の撃鉄を下ろした。少年の機械化された腕を狙うが、論理銃弾はあっさり弾かれて床を穿った。見えないバリアがある。
通信妨害がある以上、暗殺者の側もバックアップは得られないはずだ。純粋な一対一の戦いなら、マティアスは勝算があると考えていた。
しかし目の前の少年はあっさりと銃弾を跳ね返し、制御の難しい機関銃を二基、同時に御している。演算の速度が尋常ではない。
床板を蜂の巣にし、木の葉が風に転がるようにあっさりと剥がれ飛び、閃光がマティアスを惑わせ、少年の姿を見失う。
機関銃の方向から相手の位置を図る。相手の死角となるように回り込みながら、壁を盾にする。拳銃の論理式を組み換えて、貫通力を高める。
一瞬でも射線に入れば殺されるだろう。自分から出て行くのは自殺行為だった。相手の出方を見守るしかないか?
機関銃は絶え間なく論理銃弾を撃ち込んでくる。向こうから動く気配はない。
マティアスはそろりそろりと後退し、階段脇の書斎に入った。
窓から回り込めば、相手の後背を突けるかもしれない。家の見取図を頭の中に浮かべながら考える。
確か書斎の窓から物置の窓までは、雨樋の管に掴まりながら移動することができるはずだ。速やかに移動すれば、奇襲が成功する可能性は……。
だが、外にも敵が控えていると考えるのが自然だ。それに、少年がその場に留まらずに接近すれば奇襲は失敗する。せめてバートラムと二人で戦っていれば、成功する公算も少しは高くなっていたのだが……。
マティアスは未練がましく書斎の窓を見やった。すると、卒然と、黒い影が窓ガラスを叩き割って入ってきた。
あの少年だった。ただし右腕の機関銃がもげている。代わりに黒いコードが外へと延び、絶えずランプを明滅させている。
マティアスの後方、廊下では、依然として機関銃が唸りを上げている。しかもそれは少しずつ近づいている。この少年は機関銃を廊下に残した状態で外を回り込み、挟み撃ちを図ったのだ。
この少年、人間ではない。人型の戦闘機械――論理偶人〈プラパティ〉。
「単独で挟み撃ちを可能にするとは、羨ましい躰だな」
マティアスは笑った。もちろん笑っている場合ではなかった。拳銃で二発撃ち込むのがやっとで、あとは階段下へと転がり落ちるしかなかった。
下ではバートラムが頭を抱えて銃撃に晒されていた。クロゼットはとうに粉砕され、もう一体、老人型の論理偶人がやはり両腕を機関銃にして攻勢を強めていた。
階段の手すりに凭れたマティアスは叫ぶ。
「反撃しろ! 死にたいのか!」
「無理だ! 無理だって!」
バートラムは泣きそうな顔だった。クロゼットの残骸を演繹強化して盾にするくらいの知恵は回ったようだが、破られるのは時間の問題だった。そしてそれが破られたとき、バートラムは無抵抗なまま死ぬことになる。
階上の少年型の論理偶人が階段に乗り出して撃ち込んできた。マティアスはバートラムの横に滑り込み、もはや猶予は数十秒しか残されていないと判断した。
「私もあの論理偶人には太刀打ちできなかった。正面からぶつかっても火力が違うし、向こうは銃弾を何発か喰らってもピンピンしているだろう」
「どうするんだよ、旦那ぁ」
「逃げるしかない。玄関から」
「逃げるって……。でも、明らかに」
「そうだ。待ち伏せしている。ドアを開いて姿を見せた途端、銃撃を受けるだろう。私が囮になるからお前はその隙に逃げろ」
「だ、旦那」
「言っとくが、私が作れる隙は一瞬だけだからな。足を竦ませている暇はないぞ」
「旦那!」
マティアスはけして、自分を投げ出すわけではなかった。圧倒的な戦力差を見て絶望するわけでもなかった。可能性が少しでもあるほうへと歩み出す、その勇気を持ちたい、常日頃から彼はそう考えていた。
サプレス時代の教えの影響が強い。当時の重論理犯罪対策室の副室長は、現場主義の武闘派で、感情に振り回される当時の新人を注意深く諭してくれた。
「理性は単なる本能の制御装置に留まらない。本能では届き得ぬ高みへ、我々を導く」
本能で感じるなら、ただ怯えるだけであったろう今の状況を、理性によって屈服させる。己の足を踏み立たせるのは全き理性の力だ。
マティアスはそれをまざまざと感じつつ、バートラムの叫びを聞いては決意を固くさせ、玄関のドアを開いた。
正面、並木に紛れて、機関銃を構えた女性型の論理偶人が佇立していた。
「一体だけか……。なら最初に、正面から堂々と逃げれば良かったわけか」
機関銃が火を噴く。マティアスは避けなかった。後ろをバートラムが駆け出しているのが分かっていたから。避ければバートラムに直撃すると分かっていたから。それに、この距離からでは横に跳んだところで何発か貰うだろう。
覚悟していた。しかし衝撃はいつまで経っても自分を脅かさない。
奇妙な静寂。風が木の葉を揺らす音がくっきりと聞こえる。
論理偶人の女の顔が横に傾く。首を傾げたのだと、遅れて気付いた。
「最善を尽くしたと嘯くつもりはない――そうしたところで道が開けると無邪気に信じるわけでもない――だが」
マティアスは茫然と立ち尽くしていた。論理偶人の機関銃の弾道は全て『埋没』し、多次元空間に『巻き取ら』れ、三次元的に表現すると粉々に砕け散っていた。
「この手技――これはサプレスの」
マティアスは周囲を見回した。すると近くに見覚えのあるビークルを見つけ、リクライニングシートに凭れている中肉中背の男に驚愕する。
「リスター副室長……!」
「去年、室長に格上げされたよ。迷惑なことに」
リスターが溜め息をつく。女型の論理偶人が機関銃の一つをリスターに向けたが、間もなく八つある銃口の金属が剥がれ、使い物にならなくなった。
リスターは余裕の笑みを湛えている。
「この論理空間はサプレスの管轄下だ。空間レベルの書き換えを瞬時に行える。残念だが、ここでは我々は無敵だ」
リスターの笑みに、戦闘人形は無慈悲な応答をした。もう一方の機関銃をリスターに撃ち放つ。全ての銃弾は砕け散り、着弾は一つもなかった。
「言語認知プログラムの更新を怠っているのか。難解なスラングを使った覚えはないんだが」
リスターの軽口に、人形は無反応だった。姿形は人間と区別がつかないほどだったので、ついその徹底的な無表情に不気味さを感じてしまう。
後ろから少年型と老人型の論理偶人が迫ってきたが、リスターを目視すると、後退した。勝ち目がないことを悟ったのかもしれない。女型の論理偶人も後退する。リスターは追わなかった。
隣でバートラムの膝が地面に着いた。息を切らした彼は、しばらく喋る力を持てそうになかった。
マティアスはかつての上司を信じられない思いで見つめていた。リスターは変わらぬ若々しい相貌で、涼しい眼が虚無的に感じられる。
「室長――なぜ、ここに」
「無理に室長だなんて呼ばなくていい。お前が殺されかかっていると知って、急行した。今の連中はサプレスの者ではなかったようだが、外注したのかな」
「外注、ですか……」
「お前がこんなにも早く釈放されたのも、保護も監視もされないまま放り出されたのも、何らかの謀略の成果だろう。サプレス内部では相当に腐敗が進んでいるらしい。しばらく身を隠していろ」
「……それが得策であることは分かっています。しかし、リアンもシェリルもメーガンも、放ってはおけません」
「メーガンに関しては、お前が気に病むことはないだろう。お前が彼女に関わろうとするほど彼女に危険が及ぶ」
「……私もそう考えていましたが、アゼルが彼女に積極的に関わろうとしているようなので、どうも気になります」
リスターは感情を表に出さない。そういう訓練を受けているのか、そもそも感情に肉体を委ねる気質の人ではないのか、分からないが、言葉の抑揚から彼の機嫌を推し量るしかない。
リスターは淡々と、
「お前がそう考えるのなら、やりたいようにやれ。シェリルは病棟の警護を強化するから心配は要らない。だが、リアンだと? あの子供がどうした」
「アゼルの手掛かりを話す前に殺されるかもしれません。室長は、心配のし過ぎだと笑われるでしょうが……」
「サプレスの裏切り者が、リアンを殺すか。何とも言えないが、念の為、気を付けておこう」
「室長、私を助けて、立場が危うくはなりませんか」
リスターは頷くわけでもなく、肩を竦めることもなく、ただただ冷静に、
「サプレスがお前の暗殺計画を表に出すはずがない。表に出ていないものに背いたところで立場は変わらん。危うくなるのは命かな」
「室長……」
「マティアス、一つ言っておく。お前は今、命を投げたな? なぜそこにいる香水芬々男を囮にして切り抜けようとしなかった。いや、そこまでせずとも、わざわざ自分だけ危険に晒されるようなことはするべきじゃなかった。二人同時に脱出を試み、運に任せるということも、当然考えるべきだった」
さすがの私も焦った、とリスターは言った。マティアスは微笑み、
「考えました。もちろん。すぐに捨てた考えですが」
「なぜ?」
「捨てた考えについて考えるのは能力の無駄です」
リスターは顰め面になった。こういうとき、彼の機嫌はけして悪くはない。マティアスは経験から分かっていた。
「……効率性と公平性は両立しない。自己犠牲の精神は、傍目から見れば美しき尊ぶべきものだが、効率性の追求という観点から見れば、往々にして理不尽な行為として見做される。多くの場合、庇う側のほうが庇われる側より優秀だからな」
「命を優秀か優秀でないかで差別するのは、乱暴な気がしますが」
「全く正論だ。公平性を尊重する発言だな。だからこそ、お前の今の行為は非難されるべき。違うか?」
マティアスは頷くほかなかった。
「そうかもしれません。……私からもよろしいですか」
「言え」
「シェリルを撃った犯人……、自爆したと聞きましたが、その者はアゼルの信奉者ということで、よろしいですか」
「確定はできないが、そう考えるのが自然だろうな。お前を狙った理由は、恐らく、アゼルをこそこそ付け回していたからだろう。サプレスでも評判だったからな、お前の調査活動は。独りでよくやると、皆呆れていた」
単独などではなかった。シェリルと二人組を組むことが多かった。足手纏いだと思うこともままあったが、結局、彼女が自分を庇い、倒れた。
リスターは言った。庇う側のほうが庇われる側より優秀だと。マティアスもそれを痛感していた。バートラムの囮になったとき、彼の脳裏にあったのは、シェリルへの思いだったかもしれない。
かぶりを振る。彼女のことは、今はいい。なぜなら、自分が彼女を気にかければかけるほど、危険が及ぶかもしれないからだ。どういう理由か知らないが、自分は狙われている。狙われているのは自分だけなのだ。
意識を切り替える。もっと別のことを話したい。でないとシェリルへの申し訳なさで頭がおかしくなりそうだ。せっかく登場した味方を有効に活かさないとは何事か。
「……室長、もう一つだけ」
「何だ」
「ドミノ計画への参与、という野暮用があるのですが、代役を立てては下さいませんでしょうか。数理的証明において、信頼できるレフェリーが必要らしいのです」
「ドミノ計画? ああ、学会が強力な指揮権を握って推し進めている、あの事業か。サプレスも一枚噛んでいるらしいが」
マティアスは自分が取り組んでいた数理的説明を始めた。いずれも演繹強化を必要とされる分野だったが、機械的な作業で代替可能だった。ゆえに機械語における演算手順の効率化がトピックの中心だった。リスターは意外と興味を持ったようで――あるいはマティアスの心中を察してくれただけかもしれないが――話に応じた。
「格差是正や貧困の撲滅などを謳って始まったが、結局、その拡張領域のほとんどが一部の政治家や実業家、企業に分配されるという。各国政府の取り分は全体の数パーセントに過ぎないとか」
「そこから更に政治家や経済界のコソ泥に搾取されるでしょう。平民の取り分は僅かです」
「全体から見ると、だな。大半の庶民は気付かないだろう。確かに、既存の生活水準を一気に引き上げるほどの富を齎してくれる」
数学的帰納法により積み上げられる論理空間、無限に等しい数の世界と資源が、人類に与えられる。
論理世界が初めて構築されたときも、これで資源の枯渇や人口増大の問題は解決されると期待されていた。しかし実際には、論理空間の建設には時間がかかり、しかもその領域は一部の富める者が独占した。
ドミノ計画が成功し、無限の論理世界と資源が手に入っても、状況は変わらないのではないか。それとも人間の欲望は有限であり、したがって無限の富が得られるのなら、人類は平等な社会をとうとう構築し得るのか。
だが、富とは格差そのものだと、マティアスは感じることがままあった。全ての人類が等分の金を得られたとして、これまで威張り腐っていた人物や組織が、素直に公平の実現を祝福するだろうか。
マティアスはそういう疑念を抱きながらも、計画に協力していた。無用な迷惑はかけたくない。自分と同じだけの実力者は大勢いる、ただ有能な人ほど、この計画に渦巻いている胡散臭さに距離を置きたがるものなのだ。彼はそう考えている。
「計画それ自体は素晴らしいので、固辞できず、つい引き受けてしまったのですが」
「代役か……。ライセンス所持者となると、限られるな。だが、分かった。任せておけ」
「ありがとうございます」
「それにしてもお前、変わらないな。本当はドミノ計画など、どうでもいいくせに、そうやって周囲に配慮する。それでいて身軽で、注意深く、本当に有能な捜査官だった」
「……ありがとうございます」
「最近ファネルという特務部隊の解析官と知り合ったんだが、これが性格に難のある女でね。天才肌だが渡世術を全く無視する」
「それは羨ましい生き方ですね」
「ある意味ではな。普通ならあんまり関わり合いになりたくない人種なんだが、今、サプレス内で無条件に信用できる人間は、ファネルだけだ。誰が裏切り者なのか、分からない」
マティアスはリスターを見据えた。
「……他に誰もいないのですか。上司にも?」
「お前が今でも部下でいてくれたら、信用できたのにな。……ああ、そうだ、上司は全員信用ならない。お前を釈放したり、特務部隊に裏切り者を紛れ込ませたり、そんなことができるのは私より遥か上の人間だからな」
「グチですか」
「それに近い。思いを吐露できる相手がいなくて」
「ファネルとかいう女性はどうなんです」
「お前も話してみれば分かる。あいつは相談相手としては最悪だ」
二人が訥々とした口調で話していると、恐怖からすっかり生還したバートラムが間に立ち、呆れた顔を見せた。
「お二人さんよお、いつまで四方山話に大輪を咲かせているんだ。普通、逃げるとかしないかい? 無敵だか何だか知らないけどよお」
「正論」
「だが野暮だな。分からないのか、余裕を愉しむということの意義が」
「……お二人さん、似てるよなあ。師弟って感じ?」
そう言われて、マティアスは心底嬉しかった。リスターに憧れていたのだ、昔の自分は。
今も憧れているのか。より自分らしく、アゼルを憎む自分を素直に突き動かす為に組織を離れたというのに、組織の一要素にとどまるリスターに依然憧れているというのか。
確かに、変わらない。私は、何も変わらない。
「メーガン、お前も、変わってなんかいないだろう。私は会いに行くぞ。迷惑に思おうが、会いに行ってやるぞ」
マティアスは呟いた。そんな彼をリスターは冷たい双眸で見据えていた。そこにある感情を推し量ることは難しかったが、きっとかつての上司は、かつての部下を救い出したことを後悔などしていないだろう。
マティアスは無邪気に、縋るものが他になかった新人時代のように、その憶測を確信することができた。
安心など望むべくもない状況において、彼のような存在がどれほどの力を与えてくれるか。
「せっかく拾った命を捨てるなよ」
リスターの眼差しは鋭い。マティアスは頷いたが、
――シェリルは私の為に命を投げ出したわけではない。
――そして私も、理性が導くままに、この命を輝かせてみせる。
無論この決意を口にすることはなかった。声のない決意ほど彼を突き動かす力はない。