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ののさまの弟子


 マティアスは間もなく意識を回復したが、すぐにシェリルが麻酔論理式を打ち込んで眠らせた。腕の傷があまりに深刻で、痛みも激烈なものだった。最善の選択だったと信じたい。

 リアンも意識を回復した。戒めは全て解いた。逃げる体力が残っていないと判断したこと、シェリルがアゼルへの熱意を失ったことなどが理由だった。


 リアンは薄ら笑いを浮かべていた。岩に凭れ、ぐったりと座り込んでいる。それでも意識を保つので精いっぱいのようだった。


「戦闘、ご苦労様。脛の傷ね、早く演繹補強しないと腐っちゃうよ。どういうわけか、浸蝕が遅いみたいだけど」


 一瞬で看破したリアンの観察眼に舌を巻きつつも、


「まあな。オレは特殊体質でね――それより、リアン、聞かせてもらおうか」


「何を? アゼルのこと?」


 メーガンは苛立ちを感じながら、かぶりを振った。


「それもあるが、お前、さっき泣きそうな声で言ってたろ……」


 メーガンは思い出す。あのときの少年の縋る声。


(もしわざと僕を困らせたのではなかったというのなら――)


 リアンの表情が緩む。笑いたいが体力の消耗を惜しみ黙っている、そんな感じだった。


「あの先は何だ? 何が言いたい? まさか『助けて』の一語なわけはあるまい」


「もしそうだったら? ふふ、メーガン、怒る?」


「怒りはしないけど」


 そんなわけがない、という確信があった。この胸騒ぎは何だろうか。自分は何を予感している。


 リアンが崇拝しているアゼル。リアンが必死になって何かを伝えたいと思うのは、アゼルに関することだけなのではないか。ちょっとした勘繰り、しかし揺らぎないと思われる論拠。


「……お姉さんにはお見通しなわけだ。リアン、さっさと話せよ。サプレスが第二陣を送り込んでくるかも」


「大丈夫だよ。あと数分ある。ユーモアを交える時間は十二分にある」


「……? おい、どうしてそんなことが分かるんだ」


「僕には未来が見えるんだよ」


 メーガンは口を噤んだ。リアンの表情があまりに確信的で、説得力を感じてしまう自分の感性を疑った。


「……お粗末なユーモアだな。せめて婉曲な表現を選んだらどうだ。たとえば、占星術が使えるんですとか」


「ここからどうやって星を眺めるの」


「だからユーモアとして成立するんだろうが。解釈で止まれ。説明は野暮だ」


 リアンはクスクスと笑っていた。


「だったら、僕もあんまり説明したくなくなったな。未来が見えるって言葉を信じて欲しいところだけど」


「それは単なる欺瞞だ。未来が見えるなんて、最近のオカルトでも売りにはしないぜ」


「それが真実だとしたら? 論理空間上で捻じ曲げた物理法則は、どれほどカーヴさせようとも、神の論理の範疇に収まる。神でさえも未来を見ることはできないと思うわけ?」


「お前が神と同じものを見ることができるなんて、誰が信じる?」


「信じる、信じないの問題じゃないのさ。本当の信仰というのはね……、懼れの問題さ」


「信仰か。神の存在を最も近くに感じることができるのは、論理学者だと言われている。オレも不具なる神の存在を近くに感じることがある。だが、神は不可能を可能にしてくれるわけじゃない。むしろ、可能と不可能を明確に画定してくれる」


「不具なる神……。それこそ人間の傲慢なのさ」


 リアンの脂汗が酷い。布きれを取り出して拭ってやると、少年は苦しげに息をしていた。


「メーガン……、きみは神の論理について、探究したことはある?」


 メーガンは振り返った。シェリルの視線を感じたからだ。何を話しているのか、という非難の響きが読み取れる。


 メーガンは肩を竦めて、リアンに向き直った。


「あるさ。大学時代にな。絶対不変な公理なんてものは存在し得ないが、少なくとも神の論理は、この星の黎明期から人類の文明を支え続けてきた、最も信頼が置ける公理系だ。だがその構成には不備があり、オレの大学時代の恩師は、神は不具だなんて言ってた」


「神は不具……、初めて聞いたとき、抵抗はなかった?」


「信仰心が篤いほうではないんでね。人間は神とは対話できない。神は自分の証明を訂正なんてしないから、神と繋がりたいと思うのなら、神の論理の上に自らの論理を重ねるしかないだろう。神の論理には欠陥があるが、欠陥があると知りつつそれを公理に定めなければ論理学を発展できないなんて、嫌なことを知っちまったなと思った」


「神なんていないとは思わなかったの?」


 いったい何の会話だろうかとメーガンは思った。濫立する宗教団体、モラルに欠けた政治と戦争、秩序を欠いた社会、人類は絶えず神を求めている。論理学はその求めに対する一つの答えである。


「神はいない、なんて言えるほど人類は成熟しているのかね。オレにはよく分からないが、全知全能の神は幻想だった、とだけは言えるだろうね」


 神の存在証明は未だないが、不存在証明だってない。信じる、信じないの問題だ。

 いや、リアンに言わせれば、信仰とは懼れの問題だという。それが何を意味しているのかなんて、メーガンには分からない。

 リアンは笑みを消した。苦しみを感じ、手足を硬直させて、小さく呻く。


「大丈夫か?」


「……うん。平気だよ。メーガン、きみのほうが重傷じゃないか」


 脛を反射的にさすった、メーガンは、痛みを堪えて首を横に振った。


「こんなの、傷の内に入らない。でもお前は、酷く衰弱している。断食でもしてるのか」


「ふふ。それに近いかもね。……ねえ、メーガン、僕の考えを話してあげようか?」


「考え?」


 メーガンは悲愴にまみれた少年の瞳を直視した。そこにあるのは、依然、同情。

 オレに同情しているのか。この傷に? 

 あるいは境遇?

 こいつは本当に、今、現在、オレを見ているのか?


「神は不具なんかじゃない。完璧さ」


 リアンはあまりにゆっくりとした瞬きをする。時の流れさえゆっくりと感じられる。


「不具なのは、不完全なのは、人間のほうなんだよ。だって、僕は未来を見たんだから」


「未来……」


「未来は変えられないんだ。だってね、いつだって、自分の手が届かないところの運命しか見られないんだからね……、時間的にも、空間的にもさ……」


「本当に未来を見たのか? 冗談ではなく?」


「もし、冗談だとしたら、あんまり面白くないよね……」


 リアンは咳き込んだ。話すことが苦痛のようだった。声がざらつく。声帯が錆びついたかのような、ぎこちない口調で、


「ここは、この論理空間と、地下空間はさ、別に避難場所ってわけじゃないんだよ。僕は不安になると、いつもここに来ることにしていたのさ……。何と言っても、この空間では光の挙動を自由に変えられるから、未来を覗き見ることだって、できるんだもの。でもさ、別に面白くはないんだよ。普段は僕以外に誰もいないし、地上は風ばっか吹いて、動物なんて一匹もいないし、でもね」


 リアンは首を何度も横に振った。その瞳の光が鈍く感じる。目の前の光景を信じられないような、否定的な表情をする。


「見栄えのしない、荒野でもね、やっぱり、過去と未来は厳然と存在するんだよ。僕はこの荒野の未来を覗き見る。たとえば、小石の転がる方向とか、どの花弁が先に散るかとか、そういう未来だよ。本当に未来は変えられないのかと思って、僕は、その小石を探すんだ。そして、必ず見る。小石が定められた方向に進み、転がる様を。未来を変えたい、と思った瞬間には、小石の未来は、一つに定まっているんだ」


 それは絶望であると同時に希望でもある。リアンは続ける。


「絶対に、未来は変えられないってことを、僕は、それを見て、感じ続ける。人間が我が物顔で論理世界を構築し、今にも神を超越し、新たな神の論理を構築しようとしていることも、全て、神の論理から導き出される、『当然の帰結』なんだ。僕は、知ってしまったんだよ」


 典型的な運命論――メーガンはそう感じた。神の論理が既に、人間が生み出す論理体系の全てを内包している。論理学なんてものは実は『聖書の解釈』でしかない、そういう教派が存在していると聞く。

 リアンは神に魅入られたのか。

 本当にそれだけか。

 何かを見たのではないのか。


「リアン、お前、何を見たんだ?」


 メーガンが少年の肩に手を置いたとき、けたたましい爆発音と雷鳴が響き渡り、シェリルがマティアスの躰の上に覆い被さった。

 遅れて、天井が崩れる。

 土煙で何も見えない中、首に腕が巻かれて引き摺り倒された。

 真っ先に真如剣を取り上げられた。起き上がろうとしたら顔面を殴られ、鼻の骨が砕ける音を聞いた。


「ひでえな、畜生」


 メーガンは吐き捨てた。土煙が晴れかかり、リアンが運び出されるのを意外なほど近くに見る。いつの間にか地下空間は十人以上のサプレスの捜査官で埋め尽くされていた。


「メーガン、助けて」


 リアンが言った。

 空耳だったかもしれない。既に少年は瞼を固く閉じていた。

 きっと空耳だった。しかしリアンは何かを伝えたいと思ってメーガンに語り続けたのだ。

 未来を見る――少年は神を感じた。

 そこにあるのは神の論理から演繹される世界の運命?

 だが神の論理は不全であり、実世界を構築する美しく簡素な記号の羅列でしかない。

 仮に神がいたとしても、その姿かたちは人間と似通っているだろう。メーガンにはそういう直感があった。


「メーガン!」


 シェリルが数人に押さえ込まれながら叫んでいる。メーガンははっとした。


「お前には感謝している……、たぶんもう二度と会わないから言う! 妙なことに巻き込んで申し訳なかった!」


 メーガンは苦笑した。


「似合わねえこと言うな! それにオレは、十年も前に巻き込まれて――」


 メーガンの目の前に立つ捜査官の一人が、おもむろに、拳銃を取り出した。その銃口が、あろうことか、地面に伏すマティアスに向けられている。

 事情が全く分からない。なぜサプレスがマティアスを狙う?

 男の無感情な瞳は殺意を含んでいる。憎しみや怒りは皆無。そこにあるのは決意のみ。

 メーガンは叫んでいた。


「そいつを止めろ! マティアスを殺す気だ!」

 誰も咄嗟に動けなかった。メーガンが叫んだときにはもう、銃声が一同の鼓膜を打ち鳴らし躰の自由を奪っていた。


 シェリルが捜査官の腕を振りほどき、身を投げ出す。

 マティアスの躰に覆い被さる。

 あまりにも静かな、一瞬の戦慄。

 銃を撃ち放った捜査官が一歩、前進する。マティアスに命中しなかったと判断し、更に一発撃った。

 メーガンの蹴りが拳銃に接触し、弾道が上に逸れる。

 精確に言えば、外れかかっていた膝のベルトを鞭のように使って男の手元を襲った。

 憮然とした表情の男に、他の捜査官が掴みかかる。特務部隊であることを示す肩の徽章が躍動する。


「何を考えている! 誰だお前は!」


 メーガン、リアン、そして背中に弾丸を受けたシェリル、意識を失ったマティアスの四人は速やかに地上に運ばれた。マティアスを殺そうとした捜査官は、地の底で拘束され、場は騒然となっている。

 地上では混乱するサプレスの男どもが右往左往しているのが見えた。岩場に腰掛けた小柄な女が、メーガンの視線に気付いて立ち上がった。

 そのままメーガンに近付いてくると思いきや、場を指揮している長身の男に近付き、ぼそぼそと何かを話した。


 断片的に会話が聞こえる――どうして突然通信が回復したと思う――死相くっきり三人組はどこ――突入した――今すぐ呼び戻したほうがいい――それはどういう意味だ?


 メーガンは車両に連れ込まれ、後部座席に座らされた。両側を屈強な捜査官に挟まれた。他の者も別々の車両に押し込められたようだ。すぐに界層飛躍し、治療が終わり次第、本部で事情を聞かれるのだろう。


「シェリルは無事なのか? おい、シェリルの怪我は」


 半ば叫ぶようにして尋ねても、誰も答えてくれなかった。ただ、運転席の男が横顔を見せ、ウインクしたので、命は助かったらしいと察した。

 そのとき、巨大な地震があった。メーガンは脚を庇い、横に倒れてしまった。右隣に座っていた捜査官が支えてくれる。


「失礼。……今の地震は?」


「お前が知る必要はない」


 捜査官は素っ気なかったが、彼も気になっているようだった。運転席の男が無線機を取る。会話が漏れ聞こえてくる。


「カシリ? 特務部隊の? どうしてアイツが……、今日は分からないことだらけだな」


「何があったんだ?」


 メーガンが訊ねると、無線機片手の捜査官は、ゆっくりと振り返る。


「自爆だよ。二人も巻き込んで、派手に爆発しやがった。マティアスさんを殺そうとしたり、何が目的だったのか……」


「おい!」


 メーガンを相変わらず支えてくれている捜査官が、怒気を露にする。


「余計なことを話すな! お前、阿呆か?」


「すみません」


 メーガンは運転席の男の、低く渋い声に聞き覚えがあった。暫く考えていたのだが、もしやこの空間へ手引きした、マティアスの後輩とやらではないか?

 確証はないが、運転席の男の「マティアスさん」と言う声には、あまりに感情が入り込み過ぎていた。


 メーガンの頭は混乱していた。なぜ男はマティアスを殺そうとしたのか。リアンを殺そうとするなら分かる、アゼルの崇拝者であるとするなら、それは自然な流れだ。

 マティアスが死んで得する人間は誰だ? 私怨で殺そうとするなら分かるが、あの眼差しは違った。

 自分の勘を信じるなら、あの男は誰かの命令で動き、マティアスを殺そうとした。あの男の瞳には義務に突き動かされ、他人の言葉を信じ迷いなく突き進む者の、強さと脆さを感じた。


「責任者……」


 メーガンは呟いた。両隣の捜査官が、ちらりとメーガンを見やる。車両は既に動き始めていた。界層飛躍の準備をしているらしい。本部への飛躍は障壁が多く、手間取っている。


「黙れ」


「一つだけ教えてくれよ。現場の責任者は誰だ?」


「黙れ」


「それだけ聞いたら借りてきた子猫みたいに黙るからさ……、名前だけ」


「黙れ」


「この堅物ぅ」


「黙れ」


「リスターさん。特務部隊の隊長はマーチャントさん」


 運転席の男が答えた。メーガンの両隣の男は信じられない、という目つきで前方を睨みつけた。

 メーガンは笑ってしまった。


「ありがと。あんたの名前は?」


「デンホルムです」


「恩に着るよ、デンホルム」

 運転席の真後ろの男が蹴りを繰り出した。デンホルムは跳び上がり、苦笑した。


「恩に思うんだったら、もう黙ってくださいね……、お願いしますよ」


 メーガンは両隣の男に腕を掴まれ、もはや身動きが取れなかった。静かに頷き、あとは無音の論理駆動車の重苦しいドライブに堪える時間が続いた。






        *     *






 取り調べが終わったとき、思わずリスターは大きな溜め息をついていた。担当の女性捜査官が怪訝そうに見つめてくる。

 採光窓から際立って見える埃の塊を目で追いながら、リスターは立ち上がった。


「ご苦労様。きみが有能だったおかげで、拘束時間がかなり短くなったと思う」


 取調官は首を傾げ、礼を言うべきかどうか迷っているようだった。リスターは内心苛立っていたが、普段の温和な笑みを意識して浮かべた。


「最近、奇天烈な女と仕事をする機会が多くてね。その所為で余計きみが魅力的に思える」


「口説いているんですか? きみだなんて」


「そう聞こえたのなら、そうなんだろう」


 もちろんリスターは全くそんな気はなかった。ただ彼は、怒りや閉塞感に苦しめられているときほど開放的に振る舞う性癖があった。感情とはかけ離れた演技を続ける自分を見つめる内に、理性の復元力によって、自らのニュートラルな精神状態を取り戻す。

 女を口説き落とそうとするなんて、自分は相当に参っている。リスターは焦っていた。早く普段の自分を取り戻さなければ。でなければ、手遅れになる。


 昨日、メーガンとマティアスが釈放されたと聞いた。

 サプレス付属の病棟に担ぎ込まれた二人は、治療を受け、数日間の取り調べの後、あっさりと無罪放免、捻り出せば十数個も挙げられる罪の全てを不起訴とした。

 特に、作戦行動中に無断で空間に侵入し、サプレスより先にターゲットに接触した行為は、許されるべきことではなかった。


 メーガンたちの釈放が何を意味するのか――答えはあまりに明らかだった。

 彼女たちの暗殺。マティアスは一度暗殺されかかった。何らかの見えない力が働いていることは明らかだった。その力は、サプレスの組織内部に浸蝕するまでに強力なものだ。


「どうかしていますよ」


 取調官は非難する口調だったが、表情はそれほど不愉快そうでもなかった。リスターはぎこちない笑みを零す。


「確かにそうだな――私も予定が詰まってるのに」


「そうではなく。取調官を物色するなんて、非常識というか」


「常識に囚われる男が好みとは、珍しい女もいたものだ」


 取調官は不思議そうな顔だった。リスターは笑みを消し、取調室を出た。

 通路は狭苦しく、石造りの壁と天井に圧迫感がある。複数の論理空間に跨って存在するサプレス本部の建築物は、数理的に説明すると、虚数だの確率振幅だのが絡み、視覚的に表現することは不可能であった。

 内装は普通だが、随所に界層飛躍しなければならないポイントがあり、落ち着かない。取調室は本部の中層にあり、地上に出るには数度のステップを踏まなければならない。


 億劫に思いながら隣の取調室の前を横切った。扉の前では暇そうにした男が立っていた。

 リスターはちょっとした予感が働き、


「中で誰の取り調べをしている」


 と訊ねた。

 男は胡散臭そうにリスターを見たが、肩の徽章を見ると、地位が分かったらしい。佇まいを正した。


「ファネル=コーム二等解析官です――寝るときもサングラスを欠かさないとかいう変な女ですよ」


「それは初耳だが、どうしてアイツが取り調べなんて受けているんだ」


 リスターが取り調べを受けたのは、地下空間に突入する特務部隊員の選定に際して口出しをし、人員を総取り換え、結果的に三人全員が『裏切り者』であったからだ。リスターが今回の混乱に一枚噛んでいるのではないかと考えるのがむしろ普通であった。もちろん彼は裏切り者が特務部隊に紛れていることなど、知らなかった。

 しかしファネルはただ外野でブツクサ言っていただけだ。怪しまれるようなことがあったとは思えない。


 男は扉に凭れながら薄く笑みを浮かべた。


「どうしてって、理由は二つありますよ。一つは、彼女は眼だけは良いってことです。何か気付いたことがあるんじゃないかと、上が藁にも縋る思いだってことですよ」


「頭のギアも常人とは違うな」


「そうです、そうです。で、二つ目ですが、彼女ってば何か事件が起こる度に事情を聞かれるんです。何せ前科無数ですからね、とりあえず怪しまれるんです」


「納得だな」


 リスターは頷いた。笑みはなかった。それはつまり彼が面白がっているということを意味していた。

 男に別れを告げ、両腕を広げれば指先が壁に触れるほど狭い通路を歩み出す。

 実際に両腕を広げて確かめたことはない。

 分かり切っていることを検証するのは、自信のない証拠だ。曖昧な基準しか持たない学問に身を投じている人間は、自分の目で見なければ現象を納得できない者が多いが、それこそが曖昧の根源であることに気付いているだろうか。

 分かり切っていることを確かめるのは無駄だ。悦に入りたいというのなら、止めはしない。しかしリスターはそれを敢えて「悪趣味」と表現する。

 そして「悪趣味」を実践しないリスターは、自分が理性的であると確信するにつけて、人生そのものが「悪趣味」であると感じずにはいられなかった。


「確信しろ……、そうすれば行動せずとも解決できる」


 リスターは呟いた。誰に向けた言葉か――自分に決まっている。言語はコミュニケーションの道具だと言い切る者がいるが、そんなことはない。人間は感情的な生き物であり、感情は五感の刺激によってぶれる。行動を変えたければ自分の五感を刺激することだ。

 行動を変えたいのか、私は。リスターは問う。違う、こんなことには関わりたくないのだ。だから声に出してまで考えを変えようとしている。理性を試そうとしている。

 理性を試すには格好の事件だからな……。リスターは独り思う。思うのはいつも独りだ。






        *     *






 事務所に戻ったとき、鼻をついたのはバートラムの香水だった。論理鍵で玄関の扉を開けようとしたときに、思わず息が詰まった。

 まさか先日家に上げたときの臭いが、まだ残っているのか。そんなわけはあるまい。あれから一〇日は経った。

 メーガン不在の事務所に、バートラムが立ち寄ったと断じて良いだろう。あの男、自分の香水の激臭に気付いていないのか。あるいは犬が小便でマーキングをするみたいに、あの臭いを振り撒かずにはいられないのか。


 どちらにしても異常だな。メーガンは論理鍵を翳す。

 開錠の気配が皆無だった。もう一度翳しても無反応。

 鍵を逆さに設定して翳すと、施錠の感触があった。

 改めて開錠しながら、メーガンは警戒心を強めていた。事務所の鍵が開いていた――これは何を意味する?

 中を物色されたか、あるいは、事務所内に誰かが潜んでいるか、だ。


 緊張感を高めながら扉を開けようとすると、独りでにドアが内側に開いた。

 扉の奥には凄絶な美貌の少女が立っていた。リアンも凄まじい美男子であったが、目の前の少女はそれを遥かに凌駕していた。

 輪郭線が細く、触れてしまえば呆気なく砕け散ってしまうかのような繊細な顔立ち。傍にいるだけで胸が苦しくなるような緊迫感。不自然なほど大きいのに均整が取れた紅色の双眸。風がなくとも躍動感に満ちた黒い長髪。白のワンピースに与えられたのは彼女に傅く栄誉。白くほっそりとした指が紅色の爪を突き立てている。

 その指先はメーガンの首元に向けられる。論理の香り。


 危険だと察した。しかし動けなかった。目を見開き、少女の美貌に魅入られていた。一度直視してしまったら二度と抜け出せない。まるで魔物だった。


「ばーん。惚れちゃったか、あたしに」


 少女は笑みを含んだ。それがまたとんでもなく魅力的だったが、不思議と、メーガンは躰の自由を取り戻した。見た目の印象と声の感じがそぐわない。その不調和が、ベルト女を魔物の手から救い出してくれた。

 躰が動く、その事実を確かめたメーガンは、あれこれ考える前に動き出していた。

 つかつかと歩み寄り、少女の喉元を掴み引き摺り倒す。そのまま家の奥へと運んだ。

 少女はもがき、声にならない悲鳴を上げていたが、メーガンは力を緩めなかった。

 居間のソファに少女を投げ飛ばし、自身も隣に座った。そして肩を組み、彼女の顔を見ないようにする。両手を握り込み、ほとんど身動きできない状況を作り出す。

 少女はケホケホと咳き込んでいた。それが治まるまでメーガンは待った。


「酷いよ……、いきなり殴り倒すなんて」


 泣き言めいた声だったが、涙ぐんでなどいなかった。むしろ面白がる風でさえある。


「殴ってなんかいない。お前の首にオレの腕を引っ掻けただけだ」


「あっ、本当に男言葉だ。じゃあ、メーガンなんだね。一番弟子メーガンなんだね」


 一番弟子だと? メーガンは慌てて反論しようとしたが、咄嗟に言葉が出なかった。不意を突かれたというのもあるが、きっと、少し嬉しかったからだろう。


「――弟子なんかじゃない。何を勘違いしているのか知らないが。てか、お前、誰だ?」


 少女は長い睫毛を妖艶に蠢かせ、ウインクしてみせた。


「のの――じゃなくて、アゼルの二番弟子、マノンだよ。ちょっぴりお茶目で、ちょっぴり小狡い、天使みたいな女の子です」


 自分で言うか、という指摘は全く野暮なものだった。ここで少しでも謙遜しようものなら、嫌味に聞こえただろう。この子供は他人を魅了する術を心得ている、と思った。

 メーガンは咳払いし、アゼルの弟子なら敵ではないなだろうかと考えた。

 しかし嘘をついている可能性があるし、面と向かってまともに話しをできるとはとても思えなかったので、そのままの姿勢で、


「仮に、お前の言葉を全面的に信用するとして、だ。オレの事務所に何の用だ?」


「嫌だなあ、しらばっくれないで欲しいよ。そういうの、流行らないと思うんだ」


 マノンはクスクス笑っている。白い歯が零れ、頬にくっついた幾筋かの黒髪が、その無垢なる輝きを際立たせる。

 横顔も見られそうにない。メーガンは視線を正面に向けた。隣に座ったマノンの腕を相変わらず拘束しながら、質問する。


「何のことだ、しらばっくれるってのは? オレはしらばっくれるのは好きだけど、話がややこしくなるのは嫌なんだ。ただでさえ混乱してるのに、冗談じゃない」


 横目で、マノンの笑みが薄まったのが分かった。一瞬の沈黙。少女はメーガンを睨む。迫力は皆無だったが息が詰まった。


「どうしてそんなことを言うの? リアンくんがあなたに伝えたでしょ。ののさまが危ないって」


「ののさま――?」


「あたしはあなたに助けを求めに来たのに。本当は知ってるんでしょ? じゃなかったら、見ず知らずの子供を家に上げて、親しげに肩を撫でながら話をするなんて、そんなことできるわけがないもん」


 まるで論理というものを分かっていない言葉だった。マノンは自分の美貌の威力を計り違えている。

 メーガンはまさか、いかにマノンが魅力的で、性別問わず他人を虜にしてしまう容姿を持っているかを、丁寧に説明するわけにもいかなかった。


「……とにかく、オレは何も知らん。リアンはどうでもいいことをグダグダと言い続けていたが、マノンのマの字も出てこなかったぜ。お前なんか知らん」


「そんなはずないもん! だってリアンくんは、未来が分かってたんだよ? どうでもいいことをグダグダと言い続けるなんて!」


 マノンは泣き出しそうだった。メーガンに躰を押し付けてくる。爪がメーガンの手の甲に食い込み、血が滲む。


「未来がどうのこうのと、確かに言っていたがな。……しかし、もし本当に未来が見えたとしたら、リアンが話さなかったことに意味があるんじゃないか?」


「え?」


 マノンは呆気に取られ、メーガンの話の続きを待っている。

 メーガンとしては、リアンと対峙したときに感じた不定形な思いを口にするのは憚れた。何と言っても感覚的な話であり、論理的でも何でもない。

 しかし論理という普遍的で絶対的なものを御することができるのは、感覚という名の不鮮明化装置を介した人間の不完全な理性だけだ。感情というもの、本能というものを突きつめて考えなければ、本当の理性というものを捉えることはできないのではないか……。

 そういう言い訳を用意した上で、メーガンは話した。


「リアンは神は全能だの、未来は定まっているなどと話していた。きっと何かを見たんだな。だが、曖昧な話だし、あいつが何を見たってオレたちには関係ないだろう。だが、一つだけ言うなら、アイツはオレに同情していたみたいだった」


「同情……?」


「うん。まあ、どういう理由か知らないが……。それより、お前の話だよ、マノン」


 メーガンは仕切り直す為に大きな声を出した。この美少女はいったいどういう理由でここに来たのだろうか。その点をまだ聞き出せていない。

 マノンは少し不服そうに頷いた。しかし今度は自分の番だとばかりに、玲瓏とした声音で、


「最初から話したほうが良いと思うから、あなたとののさまが再会したあの日のことから話すよ。ののさまが怪我しちゃったリアンくんと一緒に、あの死んだオペランドで渦巻く荒野の論理世界に降り立ったとき――」


「ちょっと待て。その『ののさま』ってのは、アゼルのことか?」


「そうだよ。それ以外に誰がいるの。もう、一から一〇まで聞かないと理解できないの?」


「……色々と言いたいことはあるが、先を話せ」


 マノンの頬をつねる。少女はたちまち涙目になった。


「もうっ、やめてよ、傷がついたらどうするの。いいから、話を聞いてよね。ののさまは、リアンくんと一緒に逃げようとしていたんだけど、公理罨法っていうマーカーを植え付けられていたリアンくんは、足手纏いになるからって言って、その場にとどまったの。それで間もなくサプレスに空間を封鎖されて生け捕りにされちゃった」


 公理罨法がマーカー。きっとマノンはメーガンが公理罨法を作成したことを知らないのだろう。これからも彼女はそれを知らなくて良い。


「それでね、ののさまはあたしと一緒にリアンくんと助け出したかったんだけど、時間もなかったし、ののさまはリアンくんをあたしに任せて先に行っちゃったの。あたし一人じゃサプレスなんかに太刀打ちできないけれど、そこは、さすがののさま、ちゃんと手を打っておいてくれたんだって」


「手?」


 アゼルの目的というものが不明瞭だった。時間がなかった? 先に行く? その言葉の裏に潜んだ何かを知りたいと思ったが、話を遮るとマノンが泣いてしまいそうで(実際、彼女は張りつめた表情をしていたのだ)、黙って話を聞いていた。


「メーガンっていう、一番弟子がいるから、そいつと一緒にリアンを助けてくれって。ののさまは言ってたんだよ。しばらく見ない内に逞しくなって、もしかすると俺より強くなってるかもなあ、なんて笑ってた」


 勝手な話だ。そもそもあの男とは一二年ぶりに会ったのだ。弟子などではない。したがってメーガンはリアンを助ける義理を持たなかった。


「不服、メーガン?」


 マノンが首を傾げて尋ねてくる。

 メーガンは横目で少女の表情の動きを確かめながら、頷いた。


「あのガキには恩を売ってばかりだ。言っとくが複利法でいくからな、半年複利だぞ」


「貸金業者はやたらと金を貸したがるよね」


「返済能力のある奴にはな」


「リアンくんはどう? 査定のほうは?」


「法律で、子供には貸せないことになってる」


「保護者が代理で借りるとしたら?」


 メーガンは嘆息した。リアンの保護者ということは、つまり……。


「……マノン、オレはな、アゼルを殺そうとしているんだよ」


「えっそんなの駄目だよ」


「そう、駄目なんだ。オレは駄目な女なんだよ。オレはあのとき、本当は、アゼルを殺すはずだったのに。今頃お前はオレを憎んでなきゃいけないのに」


「メーガン……?」


 メーガンはマノンの拘束を解いていた。このままでは駄目だ。マノンの要求に応えてやりたい自分がいる。それもけして小さくない自分――


 知るべきことがたくさんある。アゼルは今、何を見据えて行動しているのか。愛弟子リアンの身の安全より優先して進めるべき計画があるのか。それは戦争を引き起こしては世界に混乱を招いている、極悪非道な振る舞いと関係しているのか。

 どうしてオレを弟子だなんて言った。そもそも、弟子を取っているのはどういうつもりだ。リアンを助けるのにどうしてオレを使う。サプレス内部にいるとかいうアゼルの信奉者に直接命令すれば、奴らは嬉々としてリアンの為に命を投げ出すだろう。それでは駄目なのか?

 その全てを知りたいと思った。同時に、マノンでは力不足だろうという気がしていた。とりあえず質問を重ねながら、この嘆願を断る言い訳を見つけてみよう、メーガンはそのように判断した。


「いいか、マノン」


 ソファに座り直したメーガンは、手をさすっているマノンを一瞥してから言った。


「うん? 一緒に来てくれる?」

「教えて欲しいことがある。アゼルは、いったいどうして、戦争なんか引き起こしてる? 各国に論理兵器を提供して、戦争の規模を拡大させ、多くの人間を直接的に、間接的に殺している。その目的は何だ?」


 マノンは衝撃を受けた顔になった。何に衝撃を受けたかと言えば、それはもちろん、メーガンの無知に喫驚したのだろう。


「ねえ……、メーガン、あなたは本当にののさまの弟子?」


「弟子じゃねえっつってんだろ、さっきからよお」


「……じゃあ、恋人?」


 メーガンは胸の奥から湧き上がる感情を抑え切れず、それをまざまざと感じてしまった。しかもそのシェイプは一二年前に覚えたガキ臭い妄執と感情。赤面するのが自分でも分かる。


「んなわけねーだろっ!」


 それだけを言うのに肺の空気全てを使い切った。眩暈がする。

 マノンは何度も頷いている。


「そーだよね。ののさまの恋人はあたしだもん。じゃ、メーガンはののさまの何なの?」


 アゼルに平穏な生活と家族を奪われた――とは言えなかった。そもそも、アゼルはメーガン家族を巻き込んでしまっただけで、直接手を下したわけではなかったのだ。

 恨むなら、アゼルの追手たちだろう。あの連中が論理兵器でメーガンの家ごと吹き飛ばし、無辜なる命を奪い去ったのだ。

 しかしあくまでアゼルを恨み続けたのは、メーガンの意志だった。それが本当に恨みという感情だったのか、今となっては判定が難しい。


「……アゼルとオレは、単なる知り合いだよ。それ以上でもそれ以下でもない」


「ふうん。友達ってことだね。じゃあ、話してもいいのかなあ」


「何を?」


「ののさまが何をしているのかってことだよ。自分で聞いたんじゃない、メーガン。その歳から惚け始めちゃうと、介護する人大変だなあ」


「教えてくれるのか」


「そんな、大したことじゃないんだよ。ののさまを見ていたら、誰だって分かりそうな目的だもの」


「奴は何を目的に動いているんだ? 何の為に戦争を引き起こし、戦争の規模を拡大させ、そして逃げ続けている? 奴を突き動かしているのは何なんだ?」


「ののさまを突き動かしているのは義憤」


 マノンは確信的な口調で言った。脚を組んだ彼女は異様に大人びて見えた。ちらりと零した笑みには誇りと哀愁が混じる。


「ののさまの目的は世界の救済。どう? あの人にピッタリでしょ?」



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