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密猟


 双曲空間上にのみその軌条を完璧に表現できる幾筋ものハイウェイ、その内の一本であるハルトマンウェイは、その高い対称性ゆえに緊急避難先として実績があり、当該モジュラー形式の要素は例外的に広く一般に公布されていた。

 対称性が破れる約三〇〇兆番目の周辺、それこそが論理界層上の住所として用いられる暗号に当たる。


 人類は有史以来、神の論理によって構築された実世界で大半を過ごしてきたが、もはや今は論理歴である。神が精緻な論理によって世界を構築したのと同じように、人類も神の論理を模倣し、小さな世界を構築することに成功した。これを論理世界という。

 信用できる公理の上に証明を重ね、少しずつ高次の数論を積み立てていくように、論理世界にも上位下位があった。最も信頼できる公理とは、神の論理であり、それを基点に無限個にも等しい論理世界が出現していた。それぞれの『塔』の各フロアを論理界層と呼ぶ。


 ハルトマンウェイは相対的に安全性が高いとされている塔である。富裕層が資産として所有する例が多く、低層は人気が高かった。

 低層公園に狩場を見つけるとは、バートラムもなかなか情報を拾ってくるようになった。低層の論理界層には市場価値の高い財産を隠していることが極めて多いのだ。メーガンは素直に感心した。


「しかし、想像力豊かな論理学者が構築したらしい。見ろよ、空が紫だ」


 メーガンとバートラムは、リーパーと呼ばれるビークルから出るところだった。周囲は木々に囲まれている。生命の気配が濃厚で、湿った微風には様々な臭いが混淆していた。彼女らの頭上には雲一つない淡い紫の空が広がっている。密猟地に選んだ低層公園の、長閑な風景だった。


 バートラムが枝葉を払いのけながら、空を見上げる。サングラスをかけた彼はいやに陽気だった。


「ほんとだ、メーガンちゃん、空が紫だ。どういうこと、これ」


 子供みたいにはしゃぐ彼を、メーガンは白い目で迎えた。


「元々、そうなるように論理式を構築したんだろう。あるいは、実世界の空が真っ黒になっちまったから、その影響かもしれないな」


 アゼルが引き起こした先日の「アイレン島の争乱」は、局地的な戦闘に終始したにも関わらず、世界中に影響を及ぼした。空を漆黒に染め上げてしまったのも影響の一つ。多くの論理学者が一致団結し、何とか空を正常に戻したものの、実世界、すなわち神の論理に全てを依拠する論理世界には、傷跡が未だに残っていた。


 バートラムは頻りに感心する声を発し、奇怪な空を腕時計型の万能端末のカメラに収めていた。それに満足すると周囲をうろつき始めた。

 メーガンも個人端末を取り出し、周辺の索敵を開始していた。弁駁獣も警備もいないのであれば、近辺に生命反応はないはずだった。彼女の端末に内蔵されたソフトウェアは、論理世界に干渉し熱量の分布を可視化、地上の生命反応を探知する。


 有料ソフトウェアなら、熱量のみならず、その移動パターンや生体論理式の解析を介して、精度の高い探知が可能となっている。メーガンは無断でプログラムを色々と弄るタイプだったので、ネットの海で無料公布されているソフトウェアで用を為していた。


「……変な反応はないな」


 液晶画面上では、探知できる生命反応は二つだけだった。メーガンとバートラムである。リーパーは純然な論理駆動であり、ほとんど熱を発しないので、探知されない。

 バートラムが手套を嵌め直しながら歩き出した。


「よし、行こうぜ、メーガンちゃん。最近、安眠できなくてよお。たくさん稼がないと」


 メーガンはレザージャケットにカーゴパンツという男性的な服装に加え、いつも通り首や手首にベルトを巻きつけていた。ベルトを締め直しながら彼に続く。


「安眠ねえ……。まさかセキュリティも維持できないほど困窮しているのか」


「まあ、ギリギリだね。いつ期限が切れるかって、ビクビクしてる」


 バートラムが枝葉を押し除けながらのんびりと言う。今のご時世、全ての論理界層を徘徊する自動強盗装置への警戒は怠れず、数百以上あるセキュリティ会社の内の幾つかと契約することが、財産を守る為には必須であった。セキュリティ料金は家賃に含まれている場合が一般的である。


 緑葉が無数に落ちている。天然のカーペットを踏みつけると、シャリシャリと細かい氷を噛み砕いているかのような軽快な音が鳴る。緑の天蓋の木漏れ日は仄かに温かく、暢気に散策でもしている気分だった。


 曲がりくねった樹木はほとんどなく、いずれも無理に背筋を伸ばした新兵みたいに真っ直ぐ生えている。幹に触れると湿っており、腐りかけているものもあった。

 ふと、疑問が閃いた。内部で処理し切れずに口に出す。


「……なあ、毒茸ってのは、美味いのか」


「うん? 味なんて関係ないだろう。食べられないんだから」


 バートラムは地面を凝視しながら進んでいた。メーガンも液晶画面から視線を外さない。


「そうじゃなくて……。茸が毒を持ったのは、獣とかに食べられない為だろ。それなのに美味だったら矛盾してないか。毒を持つ前に味を不味くさせるべきだろう」


 バートラムは首を傾げ、振り返って怪訝そうにした。


「そんなことを気にして、どうしたんだい、メーガンちゃん。どうでもいいじゃないか」


「ふん。ただ、気になったんだよ」


 メーガンは言った。そもそも味覚というのは、生命維持に必要な栄養源を好んで摂取できるように、あるいは毒を摂取しないように発達したものだろう。じゃあ、人間の味覚がもっと進化したら、無味無臭とされている今回の毒茸も、いずれは不味く感じるのではないか。


「真面目に答えるとだね、メーガンちゃん」


 バートラムが腰に手を当てて何度も頷いている。


「茸の生存戦略が分岐した、それだけのことだと思うよ。自らを不味くした茸のグループ、自らを美味しくしたグループ、自らを有毒化したグループ、進化上の生存戦略が色々あったと思う。おれたちが今回探している毒茸はたまたま毒を獲得する戦略を選んで、生き残った。それだけのことだと思う」


「生き残った、ね」


 メーガンは一応頷いておいた。バートラムは彼女の質問の真意に気付いてはくれなかった。しかしそれが残念だとは思わなかった。汲み取ってくれと要求するほうがおかしい。

 論理世界では自由にモノを創り出せる。生物の進化というのは淘汰や盛衰が幾度も繰り返され、徐々に進行していくものだ。そうした自然の営みを否定し、結果のみを切り取るのが、論理学が創り出す世界と言える。


 毒のある茸がぽつんとそこに生える。それに進化の歴史はない。それが自然なことか。明らかに不自然だ。しかし神の論理が生み出したのはまさしくそれと同一。人間の感覚と論理は甚だ乖離している。


 論理学の倫理を問う命題であり、その是非を本格的に問い詰め始めたら、恐らくメーガンはやがて実践論理学に背を向けることになる。


「そんなこと気にしてないでさあ、ちゃんと逃げ出せるようにしておいてよ。おれは界層飛躍なんてできないんだから」


「そんなこととは何だ。そもそもだな、オレはこんなに数えきれないほどたくさん論理世界を構築するのは反対なんだ。全く空間を有効活用してないし、実世界の資産の価値が急落して景気は悪くなるし」


「そんなことおれに言ってどうするの。おれはまさしく増え過ぎた世界を股にかけて、何とか明日のパンを勝ち取ってる状況なのに」


「そんなこととは何だよ。恩恵を受けているからこそ、疑問符を投げかけるべきなんだろう。それでこそ真実が見えてくることもある」


「そんなことはどうでもいいんだって。もしメーガンちゃんの不手際のせいで捕まっちゃったら、おれは、絶対に庇わないからな。おれはせいぜい罰金か禁固で済むだろうけど、プロは厳罰が待ってるんじゃないかなあ?」


 バートラムがねちねちと言ってくる。メーガンは肩を竦めた。


「そんなこと分かってるって。オレを誰だと思ってる」


 界層飛躍には極めて高度な演算を必要とする。機械に代行させるのが一般的、というより現代の論理学ではその方法しか手がない。だが機械に代行させるのにも論理学の知識が相当必要であり、密猟者がモラルの欠けた論理学者を引き抜いて犯罪に加担させているのも、その所為であった。


 二人は森の中を進む。低層公園は普通、別荘やキャンプ地などが整備され、観光客がいてもおかしくない場所だったが、情報通り、この空間は所有者から見放されているようだった。

 何世代も前の警備システムが稼働していたが、メーガンの手にかかれば、そのシステムの記述を書き換えて無力化するのは容易だった。書き換えは万能端末からチャレンジすることができる。


 システムの管理者は何百何千という空間を掛け持ちしている。実質的な管理は、リペアープログラムがちまちまと修復を進めるだけ。侵入して暫く時間が経っているのに警報一つ鳴らないのがその証拠だ。


「あった! 情報通り、群生地だ」


 バートラムが素っ頓狂な声を上げた。そこは樹木が一掃された草原地であった。小岩や枯れ枝が転がり、苔が生えている。その苔の隙間に拳大ほどの大きさの茶色い茸がぽつんぽつんと生えていた。


 ざっと見た限り量は大したことがない。しかし群生地がこの森に点在しているとすると、かなりの収穫量が見込めそうだった。

 バートラムは今一度手套を嵌め直し、持ってきた紙袋を広げた。そこに摘み取った毒茸を入れていくつもりらしい。


「そんなので大丈夫なのか」


 見晴らしの良過ぎる草原地に入る勇気がないメーガンは、薄暗い森の中に佇んでいた。日差しが降りかかる群生地で、バートラムは陽気に手を振る。かけていたサングラスがずり落ち、彼の瞳が本当に楽しげだったので、ちょっと呆れてしまった。


「大丈夫だって。胞子には毒がないから、間違えて食べない限り、死なないよ」


 しかし信用できなかった。危険な毒物を手袋と紙袋だけで採取するなんて。そんな度胸があったら、もっと割の良い密猟先で荒稼ぎすれば良いものを。

 臆病なのか大胆なのか分からないバートラムは、せっせと採取を続けた。メーガンは欠伸混じりにその様子を眺め、この一帯からぽっかりと樹がなくなっているのは、茸の毒の所為だろうか、と考えていた。


 この論理世界の所有者は、意図的に毒茸を栽培している。ことによると毒茸の為の空間という可能性もある。

 もしそうなら、毒茸を市場に流しているか、自らが使用しているということになる。まさか栽培だけして、それで満足するなんてことはないだろう。


 あと、研究目的というのもあるか。毒物の研究は、医学的、農学的、軍事的な用途が考えられるが、論理学が発展した今日、強力な毒物を抽出するのは難しくない。わざわざ毒茸を栽培する意味は、何があるのだろうか。

 答えは見つからなかった。特に関心はない。ただ他に考えることがなかっただけだ。携帯電話の液晶画面上で、ぼつぼつと熱量にむらが現れた。補正の許容限度を超えている。


 樹がなくなり、日差しが草叢に降りかかっているからだろう。ファクトを手動で打ち込む必要がある。こだわって最適な値を弾き出すには推定ソフトを使う必要がある。少しだけ時間がかかった。


 補正を終え、探知を続けると、バートラムの熱は探知できたが、メーガンの熱が探知不能になっていた。

 色々調整を加え、操作を続けたが、改善しない。


「ちっ、安物はやっぱり駄目か」


 以前にもこんなことは頻発していた。些細な問題ではあった。探知ソフトウェアが役に立たなくても、警備の隙間を縫って密猟を成功させたことは、何度もある。

 だが、メーガンは次第に不安に駆られるようになった。どうにも画面上の挙動が不自然なのだ。むらが均一化され、まるでバートラムの熱以外が不可視化されたかのように思われた。


 メーガンは周囲を見回した。風を肌で感じることはない。なのに木の葉が揺れてサワサワと音を立てている。


「……何かいるのか?」


 メーガンはバートラムのほうへ振り向いた。彼は中腰になって茸を摘み取っている。その動作に躊躇がなくなってきた。慣れたのだろう。


 液晶画面に視線を戻す。熱の存在は感じられない。熱のない生き物など、存在するはずがない。論理解析による熱探知は低温迷彩さえも見破る。


「いるはずがない」


 メーガンは自分を納得させた。不安を紛らわせる何かが必要だったが、今は近くに間抜けな密猟者が一人いるだけ。頼るべくもない。

 バートラムが腰に手を当てて小休止したのを見て、怒鳴りつけた。


「何をのんびりやってるんだ、さっさと済ませろ! こんなところに長居する道理なんてないんだからな!」


 バートラムは笑いながら手を振っていた。


「大丈夫だって! 誰にも見つかりやしないよ。ここは楽園だ、何回来たって平気さ。だってメーガンちゃ――」


 バートラムが絶句した。こいつは絶句するのが好きだな。オレの部屋を見たときも言葉を失ったよな。メーガンはそんなことを考えつつも戦慄していた。背後から不気味な音が迫っていることに気付く。


 ――メキっ、シュアシュア、メキっ、ショアアア――


 声ではない。何かが砕ける音、そして、何かが泡になって飛び散る音、とでも表現すればいいのか。

 バートラムが泡を吹いていた。そして絶叫する。


「メーガンちゃん! どうして気付かなかったんだ、弁駁獣だぁあああ!」


 メーガンは振り返った。そこにあったのは異形。

 パッと見は人である。少なくとも二足歩行をし、頭部めいたものがある。大きさは人間の三倍から四倍はある。


 しかしメーガンは、人間の認識能力の曖昧さを痛感した。半秒後には、どうしてこんなものを一瞬でも人間だと思ったのか、自分の知性を疑った。


 確かに二足歩行だったが、それは尋常の足ではなく、カタツムリのような小さな丸い虫が無数に蠢いていた。下半身を埋め尽くすその虫は、一匹たりとも剥がれ落ちることなく、異形の足の上を這いずり回っている。時折緑色の粘液を噴射して瘡蓋みたいにこびりつく。それを虫たちは貪欲に摂食した。

 腰から上は骨が剥き出しであり、あばら骨が濡れた蛇のように自由に湾曲し、血管がワイヤーの芸術のように美しい幾何学美を披露し、血管内をネズミに酷似した小動物が駆け巡る。

 腕は八本ある。ただし元々は二本だったものを四つに裂いてなおざりに縫合したかのような独特のフォルムをしていた。

 頭部は、あるような、ないような……。ミミズの頭と環節が五つ、首の断面から突き出ている。それぞれの先端には短い金属の棒が突き刺さっていた。


「アンテナか、あれ?」


 弁駁獣をコントロールする為にアンテナを突き刺すことはよくある。論理式を電気信号に託し、効率的に書き換えを施す。これはこの獣が管理されているということを意味する。メーガンは度肝を抜かれながらも、冷静に観察を続けた。


 弁駁獣はゆっくりと動く。メーガンに迫っていると思いきや、その進行方法は微かにずれていた。試しに脇にどいてみると、弁駁獣は彼女には見向きもせず、毒茸の群生地へと向かっている。


 メーガンは巨人の背中が予想以上に入り組んだ構造になっていることに気分を害し、視線を逸らした。そして立ち竦むバートラムに叫ぶ。


「お前を狙っているらしい。逃げろ!」


「にっ、逃げろって、どこに!?」


「安全っぽい方向にだ!」


「適当過ぎるよ! おれのボディーガードだろ、メーガンちゃん!」


 弁駁獣は、人が普通に歩くくらいの速度で毒茸の群生地に侵入した。メーガンは蠢く虫の軌跡が幾つかのパターンの組み合わせで表現できると看破し、まさしくこれは一個の生命体らしい、と結論付けた。

 しかし、原型が分からない。弁駁獣は、既存の獣に論理的な工夫を凝らすことによって突然変異を誘発された、生体兵器である。狼をアレンジしてみましただの、象を凶悪にしてみましただの、大抵は開発者の意図が見え隠れするものなのだが、これは違う。

 あまりにもグロテスクで、意味不明で、製作者の悪意が感じ取れる弁駁獣だった。明らかに人間ではないのに、人間のフォルムに近付けようとしている点もぞっとしない。


 いったい何を目的に製作された生き物なのか。


 バートラムが逃げ惑う。その躰が上下する度にぽろぽろと茸が地面に落ちた。弁駁獣はしかし、バートラムにも狙いを定めていなかった。

 その獣が目指しているのは、毒茸だった。

 ミミズが首からにょきにょきと伸びて、象の鼻のように丸まり、毒茸を毟り取った。

 それを首の断面にあるらしい口に運ぶ。


 バートラムが息を切らしながらメーガンの隣に立った。汗だくで、整髪料で固めた髪形が無残に崩れていた。転げ回って逃げたので全身土埃だらけだった。


「ちくしょう、ガセ掴まされた……。弁駁獣がいるじゃねえか。それもとびきりワケの分からねえデカブツがよお! しかも、見ろよ」


 弁駁獣は美味しそうに次々と毒茸を食べている。そして特に悶え苦しむ様子はない。


「毒茸ってのも嘘なんじゃねえのか? 平気で食ってるぜ、あの体格でも、情報通りの毒性なら死は免れないはず――」


 茸の毒性も気になるところだが、目に見えて異様なのは弁駁獣のほうだ。存在意義が全く見つからない。毒茸を食べるだけ? 侵入者を撃退する番犬の役割も果たさないようでは、放し飼いにする意味が全く存在しない。ここは研究施設なのだろうか。


「……まあ、いいか。逃げるぞ」


「え? ま、まだ全然採取できてないよ」


「あの弁駁獣はやばい。何か分からないが、とにかくやばい。オレの常識を超えている。近くにいたら何が起こるか分からない。やば過ぎる」


 メーガンは逃げ出そうとしたが、バートラムは名残惜しそうだった。弁駁獣が危害を加えてこないと知って、また大胆な部分が頭を擡げるようになったのか。


「おい! 茸に毒性がないって疑ってたじゃないか、もういいだろ」


「そんなこと言ったって、もしかしたら高値で売れるかもしれないし、おれはもう崖っぷちなんだよ!」


 バートラムは泣きそうな顔だった。しかし立ち去るわけでもなく、進んで弁駁獣の横に立って採取を続行するわけでもなく、この中途半端な態度が危険なのだ。


 アゼルの前に立った自分がまさしくそういう状況だった。メーガンは気付き、そういう立場が傍から見たらどれほど愚かか、理解した。

 歯を食いしばり、バートラムの腕を掴んだ。


「行くぞ! 界層飛躍する。この空間から脱出しないと」


「こんなチャンス、二度とないんだ、メーガンちゃん! 借金の取り立てだって、明日までしか待ってもらえないんだ」


「知るか! オレはオレの役割を全うする。お前の身の安全を確保し、密猟を成功させる。お前が駄々を捏ねて自滅しても、もう知らんぞ!」


「密猟成功って、全然、成功してないじゃないか! 見ろよ、茸をたったの一握りしか採取できてない!」


「それはお前がポロポロ落としたからだろうが! お前ビビり過ぎなんだよ、いざってときによお!」


「ビビってるのはどっちだ! メーガンちゃん、言わせてもらうけどね、おれはメーガンちゃんの桃色の髪は好きだけどね、頭の形とか髪の匂いとかも大好きだけどね、その奥に詰まってる傲慢で偏狭で頑固な脳味噌には、ほんと、呆れてるところなんだよ!」


「そんな女に頼ってるのはてめえだろうが! オレの言うことを聞け! 逃げるんだよ!」


「嫌だ! 愛の逃避行ならまだしも、借金取りに逃げる毎日がこれ以上続くのは、おれはもう堪えられ――」


 バートラムが絶句した。本当にこの男は絶句するのが好きだ。


 弁駁獣が悲鳴を上げた。足を覆っていた虫が黒色化し、べりべりと剥がれ落ち、緑色の粘液が体表に流れ出し、膿がその体内から噴き出てきた。

 剥き出しの骨や血管がブツブツと切断され、そこらじゅうに転がり、躰の内容物が飛び出ては膠のように固まった。

 腕はもげ、頭部のミミズは萎れてしまった。巨人がその場に頽れ、激臭が鼻を突いた。

 バートラムは首を横に振った。


「ど、毒茸の毒だ。毒は本当にあったんだ。やっぱり、とことん大量に採取してやる」


 メーガンは死にゆく弁駁獣を眺めながら、不審の念を抱いていた。しかし、何か不自然な点があるのは確かなのに、その正体が掴めなかった。

 手に持ったままの個人端末を見る。液晶画面には一つの生命反応も映し出されていない。メーガンや、バートラムのものも。

 これは何を意味するのか。メーガンは懐に手を差し入れ、自分の体温を感じようとした。

 しかし動揺している所為か、自分の躰が熱いのか冷たいのか分からなかった。






        *     *







 ビープ音が漸く止まった。

 肥培管理室で独り格闘を続けていたオールストンは、冷や汗を拭う。

 無数の計器と操作盤が入り乱れる肥培管理室には、六〇ものモニターがあり、視線を均等に振り分けるだけでも大変なのに、今日は密猟者が現れた。


 二人組の密猟者で、どうやら希少な毒茸を目的に訪れたらしい。最新式の論理駆動リーパーをいっぱしに乗り回し、難なく界層飛躍を達成した。

 論理学を少しは扱えるらしい。セキュリティシステムが一切作動せず、発見が遅れた。警報が鳴ったと思ったら鳴りやまず、意味のない保全プログラムが一斉に走査を開始、システムがパンク寸前にまで追い詰められた。


 事態が収まったときには既に密猟者の姿はなく、プロの手口だと少し感心した。手際が良い上に、システムに無用な打撃を加えない。たとえ被害者が通報しても痕跡は僅かで追跡する手段に限りがある。

 周到な準備と綿密な計画があって初めて達成できる。モニターから確認すると、この論理空間で栽培していた「ヒダツキヒダナシホロヨイタケ」がかなり数を減らしていた。


 大した損害ではない。取るに足らない金額だ。問題は茸を密猟されたことではなく、アレを見られたかどうかだ。

 モニターで確認する限り、アレは死んでいる。いや、仮死と言ったほうが正しいのだろう。直視を躊躇われる怪物の死骸はビクビクと動き、毒茸の毒に抗っている。


 今一度、密猟者の姿がないことを確認する。アレを見られたのなら放ってはおけない。だが放ってはおけない、という判断が何をもたらすのかを考えると、オールストンは平静ではいられなかった。

 体中から汗が噴き出し、手の甲で額の汗を拭う。密猟者の存在を覆い隠すのは不可能だ。だが、アレを見られずに済んだ、と報告するのは簡単だ。実際、その可能性もある。しばらくモニターは死んでいて、密猟者がどのような動きをしていたのか、ほとんど把握できなかったからだ。


 しかしあの御方はけしてあらゆる可能性を見逃さないだろう。オールストンには痛いほどよく分かる。少しでもアレを見たかもしれないのなら、その者たちは消してしまわなければならない。

 それが唯一の対応策だ。オールストンは暗鬱な気分で、報告書の作成に取り掛かった。


《オールストン研究員、来客です》


 突然、通話機から機械音声が発せられた。ぎょっとしたオールストンは身を強張らせた。

 まさかあの御方が事態を察知し、怒鳴り込んできたのか?

 いや、そんなはずはあるまい。あの理性的な御仁が。

 そうとは分かっていても、オールストンはますます発汗していた。


「来客……。この辺鄙な農業科学研究所に、いったい誰だ?」


《マティアス=グールド氏という方です。探偵、と名乗っておられますが》


 探偵? これはなかなか穏やかではない単語だった。何か探られるようなことをしただろうか。毒茸の栽培は認可を取ってある。財務状況も健全そのもの、何もやましいことなどない。

 アレを飼っていることだって別に違法ではなかろう。仮に存在がばれたとしても、ある程度は誤魔化せる。萎縮する必要はないはずだ。


「どのようなご用向きか、お尋ねして」


《毒茸がどうのこうの……、とのことです。あまり詳しくお話しなさろうとしないもので》


「分かった。エントランスでお待ち頂いて」


《承知致しました》


 オールストンは管理室を離れることに抵抗を感じたが、まさか探偵とやらをここに招くわけにもいかない。中央モニターには痙攣するアレがいよいよ再生を始めようと蠢き始めた。どんなに好奇心の薄い人間でも、アレの異形には興味を惹かれることだろう。

 念の為にモニターを消してから、管理室を出て、無機質な白一色の狭い通路を足早に通り抜けた。セキュリティゲートを二つ潜った先のエントランスに、その男は立っていた。


 長身の男。栗色の髪は短く切り揃えられており、清潔感がある。受付のクラークロボットにも紳士的な対応を欠かさなかったようで、警戒指数は男性の最低値をマークしていた。

 こういう人間が油断ならないものだ。要するに機械が抱く印象など何の役にも立たない。オールストンは作り笑いを浮かべながら近づいた。


「やあ。マティアスさん、ですか? 私に用件があるというのは」


「すみませんね。すぐに済みます。ちょっと、些細な案件を抱えてしまいまして、お手間は取らせませんので」


 言葉とは裏腹に、口調は冷淡そのものだった。佇まいも、何となく普通の人間とは違う感じがした。威圧感、それから妙な清涼感。

 オールストンは大いに警戒したのだが、マティアスとやらが訊ねてきたのは、本当に些細な事柄だった。むしろ警戒を強めてしまうほど、ありきたりな事実を確認しただけ。


「なるほど。ありがとうございました」


 マティアスが早々に話を切り上げようとしたことに、オールストンは驚いた。


「それだけですか? 話というのは」


 マティアスはメモ帳を閉じながら頷く。今時手書きでメモなど、アナログな人間だが、論理世界で生活しているとそういう行為が愛おしく感じるものだ。分からないでもない。


「ええ。私もくだらない案件を抱えてしまったものだと、途方に暮れているところでしてね。しかし依頼人の要請ですから、無視するわけにも、調査をおざなりにするわけにもいかない。本当はデータベースを閲覧するだけでも調査は達成できたのですが、なにぶん、足で稼ぐことに慣れていまして」


「ほう――仕事熱心なのですな」


「そう言って頂けると、少しは報われるというものですが。この研究所には、研究施設以外にも、論理世界の管理室や飼育施設があるそうですね。見学はできませんか」


 ぎょっとした。どういう意図で言っているのか探りたいとは思うが、表情からは何も読み取れないし、抜け目のない立ち居振る舞いに畏怖していた。余計な発言をしてボロが出ることだけは避けたい。


「残念ながら、見学はできません。申し訳ありません」


「セキュリティの問題でしょうか? 秘密は守りますよ」


「申し訳ありません」


「いえ。突然押しかけて、こちらこそ申し訳ございませんでした。何か御用入りのときは、是非」


 そう言って、名刺を差し出してきた。紙の名刺など初めて貰ったオールストンは、驚き慌てて、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。


「本当は挨拶のときに渡すべきだったのですが。調査員の指名もできますからね」


 名刺には大手興信所の社名と連絡先、マティアス=グールドの名前だけが記載されている。


「ええ、それは頼もしいですね」


 そう答えつつも、オールストンは、誰がお前など指名するものかと毒付いていた。

 マティアスは颯爽とエントランスを横切り、農業科学研究所から去った。その後姿があまりにも物騒な雰囲気を醸し出しており、不思議に思う。元軍人か何かだろうか。


 念の為、クラークロボットに、不審な質問をされなかったか尋ねたが、応接室やトイレを行き来したり見取図を閲覧したりしただけだと教えてくれた。探偵という職業はどうでもいいことを嗅ぎ回る職業なのだろうか。


 肥培管理室に戻ると、通話機が鳴っていた。慌てて出ると、電話の主はあの御方、クロッソンだった。


《何故すぐに出なかった?》


 若く、中性的な男の声。オールストンはその静かな声音に震え上がった。


「いえ、その、来客がありまして」


 事情を話すと、クロッソンは、小さく笑った。


《なるほど……、アゼルの差し金だな》


「何ですって?」


《心配するな、オールストン。貴様は私に言われた通りに、研究を続けていればいいのだ。全ての面倒事はこちらで解決する》


 よせばいいのに、オールストンは余計な質問を口にしてしまった。


「あの……、面倒事を解決する、とはどういう意味でしょうか?」


《私に言わせるのか? この通信で? 決まっているだろう。解決とは問題の解消。私たちにとっての問題とは私たちに関わろうとする全ての事物。そして解消とは、文字通り、消し去ることだ》


 つまり、それは……。オールストンは返事をしようと思ったが、声が出なかった。

 電話の向こうのクロッソンは笑んでいる。きっと満面の笑みで、オールストンの引き攣った顔を想像しているに違いない。


《いいか、想像力を働かせる必要などないのさ、オールストン。貴様はその眼で、何が行われるのかを実際に見ることができるのだから。貴様は神の誕生を、神の奇跡を、その眼で見ることができる幸運な男なのだ》


「幸運……。私が……」


《そうだ。オールストン、我がしもべよ。貴様はただ、忠実であれ。それだけが唯一評価できる能力であり、資質なのだ。私は貴様を買っている。一〇年前から、ずっと、貴様だけを信じている》


 その言葉には異様な魅力が詰まっていた。全身の神経がアクメにも似た興奮で痺れ、この魔の手から逃れることはできない、と確信した。


 それでいい、と彼は思う。この幸福を知らぬまま果てて逝く者の何と多いことか。絶対に支配されるものもやはり、絶対なのだ。同時に、絶対の上にしか絶対は成り立たない。論理学が教える通り、この世界の摂理とは、まさしくそれのみに依拠するべきだ。


 アレが――弁駁獣の究極たるアレが、モニターの向こうで胎動している。いつの間にモニターが点いたのか。

 再び始まる彼の人生に、オールストンは激しく燃え盛るような共感を覚えた。



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