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追跡者


 重論理犯罪対策室々長リスターは不機嫌極まりなかった。


 事前にアゼルの動きを察知していたにも関わらず、アイレン島を舞台にした局地戦争を阻止できなかったこと。

 戦争に使用された論理兵器の影響を全世界に伝播させてしまったこと。

 アイレン島に潜伏していた特務部隊のいずれもがアゼルと遭遇できなかったこと。

 普段温厚な彼を豹変させる材料には事欠かなかったが、決定的だったのは、部下の裏切りだった。


 アゼルが国際警察組織〈サプレス〉を出し抜けたのは、対策室の誰かが内部情報を漏らしたからだという見方が支配的だった。


 垂直離着陸機のプロペラの騒音に顔を顰めながら、リスターはアイレン島に降り立った。

 傍らに控えるのは特務部隊の解析官ファネル。


「実世界は『不便!』だね。論理機関より熱機関のほうがコストパフォーマンスに優れているなんて、どうかしてる」


 巨大過ぎるコートとサングラスが奇抜な、女情報官ファネルが言った。リスターは無視しようと思ったが、この気難しい女はしばしば仕事を放擲することで有名な若手だったから、鍛練のつもりで相手をしておくべきだろう。


「神の論理は調和を重んじている。人間の文明など、自然の巧緻で渺茫たる営みと比べれば、あってなきに等しいというもの」


 リスターの返答に対し、ファネルはサングラスをずり下ろして不満そうにした。


「リスターさん、そんな優等生的な答えは求めてないよ。もっと『風流!』で『大人!』な答えを頂戴」


 組織内での階級からすれば、リスターと顔を合わせただけで萎縮するのが普通。それなのにファネルは全く奔放だった。

 リスターはいわゆるエリート街道の中央を胸を張って進むような男を部下として迎えることが多く、女性を指揮下に入れることは滅多になかった。

 まして、ファネルの天真爛漫な言動を見ていると、新鮮な気持ち以上に不安感が強くなる。


 本当にこの女は役に立つのか?


「仕事って『面倒!』だよねー」


 くねくねしながら妙な抑揚をつけて喋る彼女は、リスターの呆れ顔にも負けず、爛漫な発言を機関銃のように続けた。

 二人は戦場跡に降り立った。けして大きくはない跡地の、あまりに荒漠とした風景に、リスターは舌打ちを止められなかった。

 無数の爆撃跡、炭化して枯れ木のようになった喬木、鼻をつく矛盾律の香り、そして戦争があってから未だに回復していない黒い空。世界中の論理学者が戦争の傷跡を修復しようと奮闘しているが、成果が出るのは数週間後との試算が出ていた。


 人間の心は青い空の下にいることを平静の条件としているようで、空が黒に染まってからというもの、世界中の犯罪率が数割増になっているとのこと。犯罪予防が至上命令である警察機構の人間としては痛ましい事態だった。


 リスターはこの事態を引き起こしたアゼルへの憎悪を抱えつつも、態度には一切出さなかった。むしろアゼル対策班の設置にも懐疑を表明するほどの慎重派だった。彼独特の哲学なのだが、感情と裏腹の行動を取ることで人は真に理性というものを知る。


 彼が思うに、人間の理性の形は個人差があり、それは尋常の幾何画法ではけして図示できない複雑な形状であり、本能と理性の衝突というダイナミズムの中でしか感じることができない一種の錯覚である。

 だが理性を把握し飼い馴らしてこそ、論理学の権化たる人間には相応しいようにリスターには思われた。彼が周囲から温厚な人間だと理解されているのは、彼が本来激し易く偏見に満ちた性分をしているからに他ならなかった。


 それを理解しているのは恐らく、リスター本人だけだ。死体一つない戦場跡の妙な潔癖さをおぞましく感じながら、彼は跡地に散らばって調査を続ける捜査官数十名の姿を眺め渡した。


「分かるか」


 リスターは傍らに佇むファネルを見やった。彼女はポケットに手を突っ込んだまま黙りこくっている。サングラスに隠れて、彼女の視線がどこに向かっているのか曖昧だった。

 やがて彼女は風に乗って香る、焦げたオペランドに唾を吐き捨てた。


「リスターさん、クラオの残党兵がアゼルを目撃したっていう情報、確かみたいだ。ここで銃撃戦があった」


「分かるのか。解析もナシで」


「解析? してるよ。頭の中で」


 オペランドを採取してからその詳細な成分を突き止めるのに、四〇〇億回の演算が必要とされている。演算装置を用いれば一瞬だが、それを暗算でやってしまうのは、人間の能力の限界を超えている。


 内心驚愕しながらも、リスターは淡々としていた。


「そうか。しかしその程度は探査衛星からの解析情報でリアルタイムに知られていたことだ。もっと何か分からないのか」


「黙って」


 ファネルはサングラスの奥で目を細くしている。見つめているのは無数に穿たれた穴。爆撃の跡、人が数人入って身を隠せるだけのスペース。

 ファネルがゆっくりと歩き出したので、リスターはついて歩いた。


 彼女はブツブツ言いながらいちいち穴を覗き込んだり地面を凝視したり空を見上げたりする。近くで作業をしている捜査官など眼中にないようで、何人か蹴飛ばしたり穴の中に突き落としたり、自分勝手も甚だしい。

 やがて彼女は決然と言った。


「この戦場で使用された論理銃弾の総数は四五一一、その内の四五一〇発の弾道を完璧に追尾したよ。ただ、一発だけ、追尾できないものがある」


 ファネルの言葉に、リスターは首を傾げた。


「追尾できない弾道だと? それは何を意味している」


 出来の悪い生徒に対するようなゆっくりとした口調で、ファネルは、


「つまり、着弾したということ。貫通せずに体内に残ったということだよ、リスターさん」


「アゼルが被弾したのか」


 もしそれが本当なら珍しいことだった。アゼルは一流の兵器開発者であるのと同時に、一流の論理学者であり、戦闘技術も超一級だった。

 ファネルは首を捻っていた。


「どうかな……、不自然な弾道が『無数!』にある。恐らく弾丸をフィルターで弾き飛ばしたんだろうけど、これまで数々の現場を視察してきたファネルちゃんの勘から言って、怪我をしたのはアゼルじゃない。たぶん、弟子かな」


「弟子……」


 アゼルには三人の弟子がいる。弟子の素性は不明だが、名前だけ判明している。すなわち、マノン、シンクレア、リアンである。


「弟子だとすると、リアンである可能性が高いね。とゆーか、それしか考えられない。マノンは荒事が苦手だし、シンクレアは被弾するような間抜けじゃない。だから……」


「ちょっと待て。マノンは荒事が苦手? シンクレアは間抜けじゃない? そんな事実はないはずだが」


 ファネルは面倒に口を尖らせた。


「もうっ、リスターさん、世の中ね、解析官の言葉以上に信じられるものはないんだよ。ファネルちゃんの勘だから『間違いない!』って」


 ファネルとは初対面だ。まして、彼女がいくら凄腕の解析官だからと言って、その解析結果がいつも非公式の文書に埋没する「問題児」である以上、猜疑心は止められそうにない。

 ファネルは追跡、鎮圧、制圧、暗殺等に論理式を活用する特務部隊〈イクスペル〉の解析官であった。凶悪な論理犯罪犯を追跡するには、界層飛躍を繰り返す相手にも後れを取るわけにはいかない。しかし界層飛躍の直接的な追尾は理論上不可能であった。


 解析官は飛躍前のオペランドの動きを統計力学的に解析し、飛躍の目的地を推定する。界層飛躍とはすなわち空間を跨ぐ超科学的移動手段であるから、そこにあるのは純然たる知の応酬であり、勝利者は常に賢き側である。

 非公式ながら、ファネルは重犯罪者の潜伏先を九割以上の確率で突き止めている。今回彼女をアイレン島に招致し、アゼル追跡に尽力させているのは、彼女の噂を聞きつけたリスターが方々に手回しした結果である。こんないい加減な性格だと知っていたら、頼りになどしなかったのだが。


 ファネルは突然、しゃがみ込んだ。とある穴に熱心な眼差しを向けている。


「どうした?」


「追跡不可能な弾道――恐らくリアンはこの穴の中に落ちた。派手にね」

 そう言うが早いか、彼女は穴の中に滑り落ちた。リスターはさすがに中に入る気になれなかった。斜めに抉られた穴であり、ちょうど庇のように土が張っていて、奥が見えないようになっている。

 しばらく待ったが、一向に出てくる気配がないので、声をかけた。


「おい、ファネル、何か見つけたのか」


 すると彼女は興奮を隠しきれない声で、


「早く来てよ、リスターさん。凄いの見つけたよ」


 渋々穴の中に滑り落ちた。ファネルは焦げた砂の前に蹲り、にやにやしていた。サングラスを外して、不健康そうな隈の浮いた顔を綻ばせている。


「何を見つけたんだ」


「血だよ」


「血?」


「恐らくは、リアンの血……。どこに逃げたのか知らないけど、追跡できるかも」


 リスターの心臓が早鐘のように鳴った。血だと? そんな決定的なモノを、あの抜け目のないアゼルの弟子が残したというのか?


「本当か? だが、血らしきものはどこにも――」


「空間が記憶している。ファネルちゃんには分かるんだよね――たとえ消し去ったつもりでもこの眼は誤魔化せない」


 ファネルはふと笑みを消した。その眼はまさしく猟犬のそれだった。緑色の演算素子の線条が浮き上がっている。凶悪犯と日常的に対峙する特務部隊の最終兵器、それが彼女だ。


「ファネルちゃんが対策室の室長だったら、今、この時点で祝勝会の会場の予約を取っちゃうところだけどね――手回しの早い上司って憧れる~」


「それより先に、対策室に連絡して集中演算室の確保を急がせるべきだな。仮に確実にアゼルを追跡可能だとしてもだ」


「面白くない冗談だなあ。それに、追跡できるのはリアン。アゼルを捕まえようたって、未来永劫無理だよ、そんなの」


 怪人ファネルの、唐突な意見にリスターは面食らった。アゼルなど捕まえられない? それは例の解析官として勘というやつだろうか。縁起でもない。


 リスターは絶対にアゼルを捕まえてやるという強い思いを抱いていた。同じような思いを抱いている捜査官は大勢いる。中には組織のあまりに理不尽な制約に堪えかねて、組織に背反し独立でアゼルを追う者もいる。

 そういう奴に限って優秀なのだ。リスターは黒い空が少しは清々しく見える穴の底で、密かに嘆いた。





        *     *





 星歴〈AE〉は終わり、論理歴〈YOL〉が始まった。しかし一般の人々は相も変わらず星歴で通していたし、論理学者以外で論理歴を採用したのは旅行愛好家くらいのものだった。

 暦が変わっただけのことはある大いなる変革が世界に訪れようとしていた。いつの時代も、情報弱者が真実を知るのは事態が収束を迎えつつあるときであり、ゆえにいかなる批判や懸念も空転し一種滑稽な響きを伴い、見せかけだけの解決策が提示され、言論が力を持つなどという幻想が罷り通る。弱者は幻想に慰められる毎日を過ごすのみだった。


 大いなる変革が静かに世界を塗り替えるというのなら、その端緒となる出来事も、日常に連続したありふれた事象に違いない。しかし勘の鋭い者なら自らの運命の異臭に気付き、覚悟を定めることだろう。


 メーガンの鼻がぴくりと動いた。顔に載せていた雑誌が滑り落ちる。ソファで仮眠を取っていた彼女は寝ぼけ眼で身じろぎし、結果ソファからずり落ちた。

 ぼさぼさの髪を掻きながら立ち上がった彼女は、改めて異臭の存在に気付いた。物が散乱したリビング、調理器具が一切ないキッチン、水浸しになっている洗面場と浴室、靴が一足しかない玄関、順に見て回ったが、異臭の原因は見つからなかった。


 暫くボケーッと廊下に突っ立っていたが、異臭の種類を漸く判別することに成功した。


「……もしかして」


 メーガンはその予感にうんざりした。しかし貯金残高の額が昨日とうとう一桁になったことを思い出し、渋々玄関の扉を開けた。

 予想通り、そこには一人の男が立っていた。手鏡を見ながら自慢の金髪に櫛を入れているところで、不意を突いた形だった。


 男――バートラムは慌てて手鏡を衣嚢に突っ込み、整髪料で固めた金髪になお櫛を入れながら、曖昧に笑った。


「あはは、メーガンちゃん。ひっさしぶりだねー。よっ、相変わらず独創的なファッション」


 メーガンは自分を見下ろした。灰色のセーターとジョッパーズ。首と手首と肘と足首と膝と腰回りをきつく絞め上げる鮮紅のベルト。独創的というより、不可解な恰好だろう。

 メーガンは瞼をこすり、欠伸を一つ噛み殺した。


「何の用だよ、バートラム……。朝っぱらからよお……」


「もうすぐ夕方だよ、メーガンちゃん。まあまあ、話は中でしようよ、大事な用件があって来たんだから」


 本当はバートラムなど家に入れたくはなかったのだが、外は思いがけず寒かった。寒風が背筋を撫でて鳥肌が立つ。外で話をするのは苦行に等しい。しかしバートラムの香水芬々たるや凄まじく、狭い室内で向かい合うのも拷問に等しい。

 悩みどころだった。だが、あまりの激臭に鼻が曲がりに曲がり、一回転して、あまり気にならなくなった。恐らく嗅覚細胞が壊死したのだろう。


「……まあいいや。入れよ。死ぬほど嫌だけど」


「あはん、メーガンちゃん、そんなこと言わずにさあ。お邪魔しまーす」



 バートラムはにやにやしながら戸を潜り抜けた。遠慮もなしに奥へと上がり込む。


「いやあ、女の子の部屋に上がるのって、幾つになってもドキドキす――」


 リビングの惨状を見たバートラムは絶句した。というのも、脱ぎ散らかした着替えや食品の残骸、千切れた紙や雑貨など、ありとあらゆるものが床を埋め尽くしていたからだ。

 バートラムは何とかソファに自分の居場所を見つけ、腰を下ろした。


「前から散らかってはいたけど、今日はスペシャルだね……。うへえ、ネズミの死骸」


「それは丸まった靴下だよ、蹴飛ばすな」


「何か臭いしさあ。肥溜めと良い勝負って感じ。――勝負してるの?」


「してねえよ。てかお前こそ、その悪趣味な香水、やめられねえのか」


 メーガンはまた一つ欠伸を繰り出しながら、上着に埋もれて見えなくなっていたスツールを発掘し、そこに腰掛けた。


「で? 仕事持ってきてくれたんだろ。さっさと内容話せ」


「せっかちだなあ。そんなことよりさあ、メーガンちゃん、数か月も行方晦まして、どこ行ってたの? 随分心配したんだよお」


 メーガンはあまりの白々しさに失笑してしまった。


「ちょっと過激なアバンチュールってところだ。オレの話なんかどうでもいいだろ。それより今度の獲物はどんなだ」


 獲物、という単語にバートラムは敏感に反応した。無意味にきょろきょろと辺りを見回し、少しバツが悪そうな顔をしながら、低い声で述べる。


「三〇〇兆番台の低層公園でね。希少な毒茸の群生地が発見された。PCDDの数十倍の毒性がありながら無味無臭。一部の策謀家に大人気」


「何だ、キノコかよ。お前なあ、そんなの狙って楽しいのか」


「楽しいかどうかで獲物は選んでないよ! これで密猟もなかなか大変なんだよ」


 バートラムはいじけた子供のように口を尖らせた。彼はこれでも極悪の密猟者である。他人の敷地に無断で侵入し、希少な資源を根こそぎ奪っていく。密猟は犯罪結社の資金源とも目されており、取り締まりは年々強化される一方だが、バートラムのような男は捕縛されて厳罰を受けるまで過ちを正そうとしないだろう。


 メーガンは彼のような密猟者に協力し、多額の手数料を受け取る仕事をこなしていた。もちろん犯罪である。しかし彼女は世界の有り様、極端な格差社会に疑念を抱いていたので、罪悪感は全くなかった。どうせ密猟者が狙うのは、例外なく富裕層の剰余資産であり、ちょっとくらい拝借したって誰も困らない。

 メーガンは脚を組んだ。膝に掌を置いて溜め息をつく。


「どうせなら仕事にやりがいを求めないと。茸を採取してコソコソ逃げるなんて。自分が情けなくならねえのか? 野獣と対決するとか、猛禽と対決するとか、大蛇と対決するとか、そういうスリルを求めたらどうだ」


「メーガンちゃんは暴れたいだけだろ! おれはまだ死にたくないの、捕まりたくないの! せっかく警備薄の絶好のロケーションを見つけたんだから、ついてきてよ」


 いつものメーガンなら、単独では潜入できないバートラムの立場の悪さを利用して、何時間でも交渉を引き伸ばし、手数料をギリギリまで吊り上げるところだが、今日は気分が違った。


「警備薄か……。低層公園ってことは、人が入ってるんだろ? それとも弁駁獣を放し飼いにしているとか?」


「完全な無人で、弁駁獣も確認されてないよ。警報が鳴ってからも数分は自由に動ける。……メーガンちゃん、珍しいね。こっちの言い値で動いてくれるの」


 バートラムは意外そうに、かつ怪しむ顔で言った。

 メーガンは彼を鼻で笑う。臆病な男だ。


「まさか。こっちの言い値だ。で? いつ動く」


「できれば明日……。遅くとも三日後」


「また家賃を滞納しているのか。もしかして三か月分か?」


「四か月分だよ。メーガンちゃんがいない間、ずっと仕事がストップしてたからね」


「もっと人脈を広げたらどうだ。オレが死んだらどうする」


「他にも知り合いの論理学者はいるさ。けど、どいつもこいつもメーガンちゃんと比べたら腕は落ちるし、中途半端な正義感を持ち合わせてる。信用できないんだ」


 まるでメーガンが生粋の極悪人であるかのような口ぶりではないか。反駁しようと思ったが、傍から見たら確かにそうかもしれない、と思い直した。

 世界公理委員会に認定されたA級ライセンシーでありながら、いかなる組織にも所属せず、雑多な仕事をちまちまと引き受け、社会貢献は皆無。学会に顔を出すこともなく、よって論文も出さず、論理学者としては低能の烙印を押されている。

 しかも近頃は、アゼルの身辺を探り過ぎ、国際警察機構〈サプレス〉の猟犬どもから睨まれている。裏の世界の人間に、いつの間にかなっていたようだ。


 メーガンは脚を組み替えた。煙草でも吸いたい気分だったが、手元になかった。バートラムは喫煙者ではないから、彼からぶんどることもできない。


「贔屓にしてくれて嬉しいんだが。やっぱり、もうちょっと幅のある生き方をしたほうが良いと思う」


「おっと、メーガンちゃん、心配してくれてるの。暫く見ない内に優しくなったんだ」


「そうじゃない。さすがに申し訳なく思って」


「申し訳ない? どういうこと」


「近く引退しようと思ってる」


「え」


 バートラムは言葉を失った。顔面が蒼白になり、頭髪が整髪料の拘束力を失って、ハラリハラリと崩れ始めた。メーガンは床に落ちた櫛を拾ってやった。


「落ちたぞ……、何だこれ、整髪料でベトベトじゃないか。将来禿げるぞ」


「おっ、おい! メーガン! 貴様、どういうことだ!」


 バートラムが立ち上がって激昂した。彼に指を差されるのは初めてだった。


「おいおい、そんなに怒るなよ……。大丈夫、今はまだ禿げてないから」


「てめえ、メーガン! 引退ってどういう意味だぁー! おれを裏切る気か!」


「ああ、そっちか。裏切りってのは、大抵、こっそりやるものだよな。オレの認識は間違ってるか?」


 バートラムは衣嚢に手を突っ込んでいた。手鏡が入っているポケットとは違う。その膨らみからして、拳銃に手をかけている。


「おれをサプレスに売るのか? 引退ってのはどういう意味だ? メーガン、まさか……」


「まあまあ、落ち着けよ。銃から手を離せ。物騒だし、失礼だぞ」


 メーガンはスツールに腰掛け、両腕を広げてみせた。バートラムの鼻息は荒いまま、座ろうともしない。

 メーガンは少し緊張していた。バートラムとはそれなりの信頼関係を築いてきた。ちょっとした社会契約も結んでいる。しかし打算と策謀が随所に顔を出す、お粗末な信頼だった。ここで問答無用で撃たれることはまずないが、彼は臆病だ。一度疑念を抱けば、行動に余裕はなくなる。


 メーガンがじっと腰を落ち着けているのを見て、バートラムも少しずつ呼吸を整えた。そして衣嚢から手を出した。

 その手には拳銃が握られていた。既に安全装置は外されている。銃口はメーガンの額に定まっていた。


「通常の拳銃だな……。論理兵器はお気に召さないか?」


「いざってときにいかれちまったら、おれには直せないからな。こんなのでも人は殺せるさ」


「バートラム。まずは聞け。オレのことを疑っているようだが、もし裏切るつもりならこっそりやってる。お前に報せることなんかない」


「どうかな。おれはあんたが不合理な人間だってことを知ってる」


「そりゃあ、そうだ。人間は多かれ少なかれ、不合理なものさ。だから信頼関係を築くのは骨が折れる。今お前がしているのは、その貴重な信頼ってものを、反故にする行為だ。分かっているのか」


 メーガンは真っ直ぐバートラムを見据えていた。彼とは何度も密猟を共にしてきた。主導権を握ってきたのは彼女であり、臆病風に吹かれたり、勇み足を犯しそうになる彼を引っ張ってきた。

 バートラムは何か言おうとしたが、結局は口を噤んでいた。目の前のベルト女を信用すべきか、考えあぐねているようだった。


 天井に向かって撃った。それで怒りを吐き出したかのように、拳銃をソファの上に置く。やりきれない様子の彼は髪を無茶苦茶に掻き、うな垂れた。

 しかし眼差しは炎の毒を含んでいた。


「引退って……。どういうことなんだ。本当に裏切りではないのか?」


「二度も三度も同じことは言いたくない。そう難しく考えるなよ。二二歳にして隠居生活だ」


 バートラムは思わずといった風に、笑みを含んだ。両手を持ち上げて首を振る。


「……とりあえず話を聞こうか、メーガンちゃん。おれもよお、メーガンちゃんと出会えなかったら、とっくに捕まってたと思うんだよ。話を聞くくらいの義理はあると思うんだよなあ」


 メーガンは、そんなの当たり前だ、と思ったが、口には出さなかった。天使の微笑(と本人は思っている)を見せただけだった。


 アゼルに復讐する、暗殺する、それだけを願って、この一二年間動いてきた。あの抜け目のない男を追跡するだけでも、相当の危険を覚悟しなければならなかった。メーガンはそれでも進み続け、目的は揺らぐことがなく、やり遂げる寸前までいった。

 しかし、けして成功することのない計画だった。メーガンは彼を殺すことができなかった。目的を、終着点を前にして、自らの複雑な感情を処理することができなかった。


 もう、駄目だ。彼を許すことはできない。彼はそれだけの罪を犯した。だが、彼を殺すこともできない。ならば恨みを抱えたまま速やかに退場するしかない。気持ちの整理はつかないものの、それが最善の形なのだ。

 それが、最善……。言い聞かせても、メーガン自身が釈然としなかった。

 このまま兵器を開発し、戦争を誘発し、世界を混乱に貶めるアゼルの背中を見送ることが、最善だというのか。彼は過ち続けると言っていたではないか。

 過ちだと気付いていても、なおそれを犯し続ける、彼にはその覚悟があるということだ。


「オレにとっては、羨ましい限りだが」


 その強さは自分にはない。メーガンはバートラムにほんの少しだけ真実を話した。とある人物を追っていたのだが、その者はつい先日死んだ。それで引退を決意したのだと、嘘を咄嗟に考え出して口にした。

 バートラムは特に感想は述べなかった。ただ一言尋ねた。


「どうしてそこまで話した? 適当に嘘を言えば済むことなのに」


 メーガンは肩を竦めた。現に適当に嘘を言っているわけだが。すっかり信じ切っている。オレの演技力も捨てたもんじゃない。


「信頼しているからだろ……。たぶん」


 ほんの少しでも真実を教えてしまったのは、もしかすると、罪滅ぼしなのかもしれない。アゼルの行いがメーガンの人生を狂わせたのと同じように、メーガンの振る舞いがバートラムの人生を狂わせようとしている。

 それがたとえ狂ったほうが良い人生だったとしても、その責任から逃れることはできない。決然としたアゼルの眼差しを思い出しながら、メーガンは思った。




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