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2/17

再会、そして別れ

論理学の用語がちょこちょこ出てきますが、大半はハッタリです。あまり真に受けないでください。


 主戦場からは離れていた。

 だが、論理と論理が鬩ぎ合い、黒き人間たちの情動が虫食い穴だらけの矛盾律を天空高く打ち上げ、不気味な呻りを響かせていた。


 とうに雲は白を失い、蒼穹に血のように鮮やかな赤を湛えている。きっと帰納論理兵器の副作用で水分子による光の散乱に異常が発生したのであろう。今頃世界中の空で同じような光景が見られるはずだ。


 青い空に赤い雲。幼児の下手な水彩画のように、不自然で滑稽な姿である。

 しかし、不具神はこのような世界を愛されたのだ。


 メーガンは穴の中で膝を抱えて蹲っていた。爆撃によって穿たれた穴は依然くすぶり続けている。半時間前まで鬱蒼としていた森林も、人間の英知の前には儚い命だった。そこに住まう命も、そういった命で生を繋いでいるはずの人間も、所詮は儚い。

 網膜に像を結ぶことはない。虚空を睨んでいた。ぼんやりしていたわけでも、あるいは怯えていたわけでもない。


 メーガンは待っていた。この不条理な戦争の陰の主役を。間もなくここを訪れるはずの悪魔を。まだあどけない少女だったメーガンに呪われた運命を下した、神を自称する男を……。


「だから、それはわざとだったんだって」


 少年の跳ねるような声が、生の気配を焼失した荒野に轟く。メーガンは金色の猛禽の如き双眸の焦点を合わせた。この声には聞き覚えがあった。あの男の弟子だ。確か名前はリアンとかいった。


 リアン少年の愉しげな声は、傍らにいるであろうあの男に向けられているはずだ。変質し炭と化したオペランド《被演算子》がメーガンの鼻先をかすめた。術環境は劣悪、先手を打てばほぼ確実に仕留められる。掌に汗が滲んだ。


「この僕があんな初歩的な誤謬を犯すわけないでしょー。失礼な話だよ、全く。アブダクションの要件を満たしてないっつーの、僕が適用原則を知らないと思ってるわけ?」


 声が近づいてくる。警戒する様子は全くない。メーガンにとっては好都合だったが、不用心だなと少し呆れた。


 腰のベルトに挟んであった真如剣に演繹の脈動を与える。排中律スイッチが切り替わり、周辺のオペランドに絶えず変質を迫りながら、その黄金色の刃はあたかも燃えているかのように揺らめき、屹立する。


 泥まみれのメーガンは、その刃に全てを懸けていた。この剣に斬れないものはない。鉄までなら斬れる、しかし一部の特殊合金はさすがに無理だ、などという濁った定義ではなく、理論上この真如剣はあらゆる物理量を両断することができる。二なるものは一と一に。一なるものは自然数の枠に皹を入れて有理数の淀んだ深淵へ叩き込む。


 メーガンは立ち上がった。その直後のことだった。


「連中には論理式の中身を吟味するだけの頭はないさ。その点をお前は理解していない。高水準論理式の美人秘書に導かれるままだ」


 アゼルの声だった。


 その声を聞いた途端、膝の力が抜けた。この男こそを殺してやると息巻いていたのに、躰の芯から冷め切ったようだった。真如剣が被演算子に枯渇し、役目を終えたとばかりに光を失い、融ける。彼女の手には黒い金属片のみが残った。


「俺はコンパイラーに細工しろと言ってやったんだ。そうすれば演繹論理兵器は潰滅するし、帰納論理兵器だって何らかの不具合をきたすだろう。だが、それを実現するだけの頭が向こうになかった。信じられるか?」


 立て、と歯を食いしばって唸ったが、全身が震えていた。産まれたての仔鹿のように、何度も地面に這う。

 オレは今、立ちたくないのか。その事実に愕然とした。


「三百年前の論理学者なら片手間で仕上げられる仕事を、連中は解読不能だと抜かしやがったんだぞ。数論学者の領分だ、とか冗談にしても悪趣味な言い訳を」


 リアンの笑い声がそれに応じた。二人は楽しげに談笑している。メーガンは穴の内壁に凭れて、激しく息を吸った。


 声を出してやろうか、いや無益なことだ。落ち着いて考えろ。今日の為にどれだけの犠牲を払った。金、時間、安全、他人――ありとあらゆるものを犠牲にして今日という日を迎えた。

 ここで目的を果たさなければ、二度目はない。アゼルを殺さなければ。


 しかし、穴の外から聞こえてくるこの声は。メーガンはうな垂れた。筋肉が硬直し体力を奪っていく。しばらく動けそうになかった。標的が歩み去るのを茫然と見送るしかない。


「この辺は静かだね。一人も生き残ってないのかな」


 リアンの声が穴の真上から聞こえてきた。アゼルと思われる足が穴の出口からちらりと見える。立ち上がって手を伸ばせば届く位置にあの男がいるというのに。


「どうかな。案外、穴の中で生き残っている奴がいるかもしれないぞ。覗いてみるか?」


「もしそんな奴がいるなら、今頃ビクビクだろうね」


「そうだな。よし、リアン、ちょっと脅かしてやれよ。きっと悲鳴を上げて――」


 そこでアゼルは口を噤んだ。メーガンは膝をついてうな垂れていた。すっぽりと穴の中に隠れているが、見つかったのだろうか。


 殺される。


 直感したが動けなかった。一二年ぶりにアゼルの声を聞いて、まさか自分がここまで衝撃を受けるとは思わなかった。決心が鈍るどころか、肉体があらゆる命令を拒絶している。まるで彼女の内部で論理矛盾が発生し、即席の短絡回路でかろうじて意識を保っているかのようだった。


「おい」


 アゼルの穏やかな声が一変していた。


「あれは何だ」


 それきり穴の上の二人は絶句していた。メーガンは幾許かの好奇心が湧き、潤滑油を差した機械がたちまち錆を克服するが如く、躰を起こした。

 そして空の異変に気付いた。


 蒼穹が、赤雲が、モザイク処理されたかのようにぼやけ、融け合い、視神経を直接に打擲する強い光を発した。それきり静止したかと思えば黒い斑点が無数に現れ、たちまち太陽を覆い隠す巨大な黒雲となった。

 いやそれは雲ではなく、あくまで空そのもののようではあった。しかし夜空のように深みのある黒ではない。公文書の記述を訂正するときに使う墨のように、自然の営みを根本から否定し美点を塗り潰す、死の黒だった。


 メーガンがあまりのことに絶句していると、アゼルがハハハと笑った。


「そうか、そうか。連中、俺が提供した論理兵器を『改悪』しやがったんだな。せっかくの神の論理もカタナシだな。おい、リアン、どうして空は青いか知ってるか?」


 アゼルの質問に、リアンは困惑しつつも淀みなく答える。


「光の波長が最も短い青は他の色より多く大気中で散乱してしまうからでしょ。湿度が高い日に空が淡く見えるのは、水蒸気が赤い光を散乱させるからだね。それがどうかした?」


「それで考えると、空が黒くなるのは、どういう道理だ?」


 リアンは答えなかった。考え込んでいるのではなく、その答えに驚愕しているようだった。


「……ねえ、アゼル。兵器を提供したって言ってたけど、まさか両国に全く同じモノを遣ったってこと?」


「ああ。どうせ、手持無沙汰の学者連中が改悪を施すことは分かってた。だが、まさかこんな化学反応を起こすとはな。おかげで光がとんでもない偏屈者になっちまった」


 今や世界は暗黒に包まれていた。地上に生きる者たち自身が輝きを放っているかのような、奇妙な感覚が一帯を支配している。世界中が動向を見守る決戦は、こんな形で騒乱の行方を明示した。


 この戦いの末に未来はない。


 メーガンはゆっくりと、しかし着実に理解を進めていた。これは論理兵器が生み出した矛盾律の結果なのだ。自然の充足律を打ち砕くだけの破壊力を備えたアゼルの兵器にも驚くが、これほど大規模な事象を引き起こす論理の力にも、改めて限界はないのだと実感した。


 神は人類に白紙を与えた。

 しかしその紙は見えない文字で無数に埋まっていた。

 その神の言語は人類に変革の力を与えた。


 機械が機械語によって全ての思考を支配されるのと全く同じように、世界の摂理は神の言葉によってのみ支配された。

 そして人類は、神の記述を改変する栄誉を賜ったのだ。

 神が定めたプロトコルに従い、人類は論理式の構築という形で平坦な世界を変えていく。

 こんな有様を、メーガンは醜いと思った。

 巨大なうねりがいずれ世界を粉々にする。彼女はそう確信していたのだ。


 そして自らを神とする天才アゼルは、非力な人類に神殺しの力を授けようとしている。

 神殺し、すなわち神の論理の破壊――

 この戦争が終結したとき、世界は神の全知に驚くだろう。人類が手を加えた醜い世界がいかに生き難いかを実感し、新たな神が世界をリセットすることを冀うだろう。


 そう、新たな神だ。

 それが、この……。


「伏せろ!」


 アゼルが叫んだ。


 直後、バリバリバリという間延びした雷鳴のような轟音が地面を揺らし、低蓋然性銃弾の雨が頭上を行き過ぎた。空気中のオペランドが粗悪な論理式による蹂躙を受けて損傷する。


 遠く、野太い男の声が喜々としている。


「アゼルを見つけた! 犯罪者を殺せ!」


 メーガンは逃げなければ自分も殺されると分かっていた。平時なら雑兵の一〇や二〇、相手ではなかったが、現在は躰が言うことを聞いてくれない。まともに戦えるとは思えなかった。

 真如剣に再び力を加えようと頭の中のキャンバスに論理記号を並べているところへ、何かが穴の中に降ってきた。


 アゼルとリアンだった。二人はこの荒野に無数に穿たれた爆撃の穴から、よりにもよってメーガンが隠れている穴を選んで、退避してきたのだった。不運と言うべきか、あるいは断つことのできない因縁とでも言うべきか。


 アゼルはメーガンを見て驚いていた。目を丸くし、銀髪を後ろに束ねながら微笑する。


「まさか先客がいたとはな。脱走兵か? 騒ぎに巻き込んで、悪かったな」


 アゼルはメーガンに気付いていないようだった。無理もない。最後に会ったのは一二年前、メーガンはまだ一〇歳の少女だった。

 この桃色の頭髪も、首や手首や腰に巻いた無数のベルトも、炯々とした眼光も、全てアゼルに会ってから身に付いたものだ。見覚えがあるはずない。


 しかしアゼルは、不思議そうな顔になった。


「……お前、俺と会ったことないか? どこかで見た顔だが」


「人違いだろう」


 メーガンはぶっきらぼうに答えた。そうか、とアゼルは釈然としないようだったが、この切羽詰まった状況で、随分余裕があるように見えた。


 ふと、アゼルと共にいたリアンが、くぐもった悲鳴を上げた。見れば、太腿に銃弾を受けている。不良論理式が少年の肉を食い破ろうと拡大を続けている。一つの誤謬は論理式全体を価値のないものに貶めるが、蓋然性の低い論理は、所詮神の論理の産物でしかない人体をも破壊しかねない。メーガンは目を見開いた。


「銃弾が。摘出しないと」


「頼めるか」


 アゼルはメーガンに笑顔を向けていた。ぎょっとする。


「オレが、どうして。アンタがやれよ」


「ふふ。連中は俺が目当てだからな。囮には最適だろ」


 囮だなんて。メーガンは、先ほどまで目の前の男を殺そうとしていた自分が、全く信じられなかった。一二年ぶりに間近に見たアゼルは呆れるくらいに変わりなくて、相変わらず憎たらしい笑顔を浮かべる奴だった。そして彼に惹かれている自分が、何の陰りも迷いもない、真っ直ぐな自分そのものであると信じられる。


「オレは……、銃弾なんて」


「できるだろ、やり方が分からないならリアンに教えてもらいながらやればいい」


 アゼルは立ち上がった。そして思い出したように尋ねる。


「お前、名は? 一応、聞いておくよ」


「オレは――」


 メーガン、と答えたが、兵士が痺れを切らしたのか、銃弾を穴付近にばらまいて威嚇してきた。その音に掻き消され、アゼルには届かなかったようだった。


「今、なんて?」


 メーガンは改めて自分の本名を明かす気にならなかった。もし本名を明かしても相手が思い出せなかったら、きっと惨めな気分になるだろう。

 卑屈な自分を味わいながら、コーラ、と偽名を使う。


「コーラ、ね。この恩は必ず返すからな」


 アゼルは白い歯を見せた。そして穴の外に這い上がった。途端、銃弾の嵐が炸裂した。飛び出したのがアゼル以外の人間だったら、きっと死んだと思っただろう。

 メーガンは穴の外を見上げることはなかった。アゼルは初めて彼女と会ったとき、既に命を狙われていた。論理銃弾で殺されるくらいなら、一二年前とっくにくたばっている。


 リアンは脂汗を浮かべ、上半身を起こしていた。栗色の髪、白皙の美少年は、自分で銃弾を摘出しようとしていたが、集中力が続かないらしく、何度も呻き声を上げていた。


「じっとしてろ」


 メーガンは低い声で命じると、少年の傍に躄り寄った。真如剣の原型はベルトに挟んで収納し、肉体の浸蝕を続ける低蓋然性銃弾の性質を見極める。

 論理銃弾は三種類に大別される。矛盾律で貫通力を強めたPOC銃弾、不純なる充足理由律を差し込み肉体の免疫系を破壊するPRS銃弾、練度の低い論理式をあべこべに繋ぎ合わせた低蓋然性銃弾。

 低蓋然性銃弾の銃創は治療が難しい。一度撃ち込まれたが最後、不良論理式は肉体と深く結びつき、ガン細胞のように体中に転移する。ただし、リアンは論理操作を弁えているから、全身への転移は防いでいるはずだった。


 メーガンは実践論理式の教科書の記述を思い出しながら、銃弾の性質を突き止めた。


「どうやら、アナロジー系らしいな。対処法は……」


「どうして偽名?」


 リアンが声を発する。僅かに震えていたが、気丈に振る舞っていた。滴る汗を拭う彼に、メーガンは鋭い視線で応じた。


「何?」


「最初、メーガンって名乗ったのに、二度目はコーラって。どっちかは偽名でしょ? それとも両方偽名?」


 この少年には銃弾に掻き消されたはずのメーガンの声が聞こえていたのか。動揺したが、表には出さないよう努力した。

 少年の太腿の銃創が滲むように少しずつ拡大している。早く処置しないと肢を切り落とす必要が出てくるかもしれない。


「どっちが本名でも、いいだろ。それより、処置法を確認したい。アナロジー性の低蓋然性銃弾は、背理法による演繹補強で無毒化し、物理的摘出を可能にする為に公理罨法をかぶせて炎症を引かせる――どうだ?」


 リアンは形の良い眉を持ち上げた。


「公理罨法なんて持ってるの?」


「この場で作る」


「できるの? A級ライセンシーでも難しいよ」


「オレはA級だ」


 リアンは更に眉を持ち上げて驚きを表明した。A級ライセンスの所有者は、世界中で百名前後しか存在しない。準無制約者とも称される論理学者の内のほんの数パーセント。軍内なら将官クラスに相当する。


「でも」


 リアンはなおも言い募る。


「やっぱり、最低限材料がないと――公理系を何もないところから生み出すのは、それこそアゼルくらいしか」


 メーガンは不敵な笑みを浮かべた。


「いいから。演繹補強を手伝ってくれ。あまり得意じゃないから」


「分かったよ……、ひぐっ! ちょっと! あんまり無造作に触らないでよ」


 銃創の処置を続けている間も、穴の外では銃弾の雨と、榴弾の爆発の音が断続的に聞こえていた。まだアゼルが囮として奮闘している証拠だ。やがて彼の笑い声が聞こえてきた。

 メーガンが興味を惹かれて視線を持ち上げると、アゼルは弾丸全てを素手で弾き飛ばしていた。恐らく全身に精緻化された統計フィルターを張っているのだろう。それが術者にとって益か害かを瞬時に判断し、透過させるか弾き飛ばすかする。


「おいおい、もう終わりか? ジャンクメールの排除フィルターをちょっと弄っただけのお手軽バリアだぞ。そんなものも突破できないのか?」


 アゼルの嘲笑に、兵士たちはムキになって火炎放射器を持ち出した。ゲル化剤の代わりに微粒オペランドが練り込まれた準論理兵器も、アゼルには通じないようだった。彼の高笑いが聞こえてくる。


「ほら、効果は薄いぞ。そろそろ生身で飛び込んできたらどうだ。弁駁獣の餌にしてやる」


 論理式の洗礼を受けた生体兵器、弁駁獣。その怪物としか言い様のないグロテスクな獣どもの姿形は、よく知られていた。その脅し文句は絶大だったらしく、兵士たちの攻勢が弱まる。


「ハハハ! 逃げろ、逃げろ! 俺が尻を捲る前に逃げたほうがいいぞ!」


 どうやらアゼル一人で勝利してしまったらしい。リアンは当然、というような顔をしていたが、メーガンは先ほどまで行われていた交戦の激烈さを知っていた。論理兵器の凄まじい威力を目の当たりにし、あれをたった一人で受け止め切った事実に、


「もはや人間じゃないな……」


 メーガンの呟きはリアンを満足させたようだった。笑みを隠せない。よほどアゼルを崇拝しているのだろう。


「演繹補強はそろそろいいよ。でもさ、公理罨法なんて本当にできるの?」


「できるさ。黙って見てろよ、チビ」


 むっとした少年はメーガンの頭をぺちぺちと叩く。


「何で首とか手首にもベルト巻いてるの? ファッション? 凄く似合ってないけどさあ」


「ファッションじゃない。合理的な計らいだよ、おチビくん」


「コーラはさあ、アゼルの知り合いなわけ? 何か視線にいやらしいものを感じるんだよな」


 この少年はアゼルを思慕する者として、敏感になっているらしい。メーガンは苦笑した。


「別に……。オレはアゼルを知ってるが、向こうはオレを知らないらしい。知り合いとは言えないよな」


「そうそう、コーラはさ、男言葉だよね。どういうわけ? 気取ってるの?」


 次から次へと質問を投げかけてくる。メーガンはうんざりしながら公理罨法を完成させた。さっさとそれを銃創にかぶせる。


「……えっ? どうやって作ったの? 見てなかった」


「麻酔も撃ち込んだ。しばらくしたら腫れも痛みも引く。そうしたら自分で弾丸を摘出しろ」


「それはいいけど……、ねえ、どうやって」


 しかしメーガンは少年を無視して立ち上がっていた。穴から這い出す。


 外にはアゼルしかいなかった。無数の爆撃の跡が荒野を醜く抉っている。本当にここはかつて森林だったのか。そこに住まう動物たちはどこへ消えたのか。考え始めると、ここが呪われた場所ではないかと思えてくる。この無数の穴は墓穴ではないのか。兵士の死体がどこにも見当たらないのが、論理兵器の恐ろしい点だった。論理的に否定される存在は素粒子たるオペランドに分解されるか、矛盾律集合族に送り込まれて永劫そこから出てくることはない。


「無残なものだよなあ」


 アゼルは荒野を見回してぼそりと呟く。


「論理兵器は本当に、何もなくしてしまう。何もないところから何かを生み出す、それが論理学の神髄だっていうのに。実際に社会に求められているのは、全く逆の役回りだ」


 アゼルのぼやきは、痛いほどよく分かる。水が欲しければ、水を生み出す。金が欲しければ、金を生み出す。論理学を用いれば、それは可能である。しかしそれはとてつもない労力を要するものであり、論理学はどちらかと言えば、何かをなくすほうが得意だった。


 相手が水を持っている。金を持っている。ならば、新たに生み出すより、相手の存在を消して簒奪したほうが、よほど楽だ。


 この精神は肥大し、拡散し、やがて世界を破滅へと導く終末戦争へと発展するに違いない。メーガンは世界のどこかで戦争が勃発したと聞く度、今度こそ終末に繋がるのではないかと危惧した。それほど論理兵器は強烈なツールであった。

 仮にアゼルのような、天才的な論理学者が兵器の水準を飛躍的に高めることがなくとも、人類はコツコツと論理学を軍用に研究し、その力を破滅への道に役立てるだろう。毎日のように発表される論理学の論文は、人類が昏き深淵に落ち込むまでの里程標であり、それが一つ打ち込まれる度にメーガンは、けして後退のできない旅路に絶望感さえ覚える。


「本当、無残だ」


 メーガンは少し遅れて、応じた。アゼルの視線が彼女に向けられる。そして、


「……なあ、やっぱり会ったことないか? その声、どこかで聞いたんだよなあ……。ぶっきらぼうで、でも可愛げがあって、かつ友達にはなりたくないタイプというか」


「酷いな」

 メーガンは苦笑した。アゼルも笑っていたが、その視線は無遠慮に全身に向けられる。

 そして彼の目は見開かれた。


「……もしかして、一二年前、会ってないか」


 メーガンは笑みを消した。二人の間には七歩半の距離があった。その間に一つ、けして浅くはない爆撃の穴があり、二人の隔絶を決定的なものにしている。

 メーガンは腰に手を当てた。


「一二年前、何があったんだ? 何か心当たりがあるようだが」


「……一二年前、俺はまだ、軍に飼われた犬だった。人の為にならない軍事研究に嫌気が差して、脱走し、命を狙われた……」


「それで?」


 メーガンは興奮を押し殺した。アゼルは自分に気付いている、気付いてくれている、その事実が彼女の心臓を鷲掴みにした。ぎこちない鼓動が彼女の血圧を乱高下させる。


「俺は農村に逃げ込んだ。当時弁駁獣の養殖場として指定されていた、穏やかな村だ。お粗末なPOCシールを破壊し、侵入し、とある民家に立て籠もった」


 メーガンは黙っていた。一二年前の記憶が薄れたことはない。あの夜、アゼルは血相を変えてメーガンの家に駆け込み、父母にしきりに謝っていた。


 ――申し訳ない。匿ってくれ。


 やや強引な交渉の末、メーガンの家族は渋々了承したが、はっきり言って、茶番だった。アゼル自身が開発した論理兵器によって、メーガンの家ごと、吹き飛ばされたからだ。

 生き残ったのは、アゼルと、メーガンだけだった。父も母も、姉のコーラも、飼っていた犬も、跡形もなく消え失せてしまった。


「お前はメーガン」


 アゼルは言った。荒野の真ん中で毅然と佇立する彼は、自らの罪を吐露するように、


「俺を恨み、殺したいと願う、ごくごくありふれた、戦争の被害者の一人……。そうだろ?」


「どうだろうな」


「思い出した。コーラはお前の姉の名だ。あの夜お前は、俺が携帯していたナイフを奪って、殺そうとした。使い方が分からなかったおかげで、こうして無事なわけだが」


「ラッキーだったな。ナイフの使い方が分からないような、トンマなガキが相手で」


「ナイフってのは俗称で……、正式な名称は真如剣という。ある程度論理式に熟達しなければ扱えない代物で……、れっきとした論理兵器」


 メーガンは薄く笑みを浮かべた。腰に当てた手を動かし、真如剣を引き抜く。穴の外は新鮮なオペランドが豊富で、剣は輝きを取り戻していた。バックドラフトよろしくその輝きは過剰なほどに眩い。

 アゼルの表情が強張る。


「やはり、メーガン……。随分いかつい女に仕上がったな。あのときは美少女だったのに」


「泥を拭えば、今でも美少女だ。きっと惚れるぜ」


 唾を吐き捨てたメーガンは、一歩、歩み寄った。アゼルを前にして、この複雑な感情、道理と矛盾する思惑に、打ち勝たなければならなかった。

 アゼルは家族の仇だ。殺さなければならない。しかし、彼の腕の中で論理兵器の嵐を潜り抜けたあの夜、メーガンは複雑な感情を抱いた。

 好感、恩、あるいはもっと厄介な感情。もし違う形で出会っていれば、彼を恨まずに済めばどんなに素晴らしかっただろう、そんな夢想を繰り広げてしまうような。目を背けたくなるような、剥き出しにするのは憚れるような、欲望めいた塊……。


「どうした、メーガン」


 アゼルの声が鼓膜を叩く。はっとしたメーガンは、頬に手を当てた。


「泣いているのか? お前……、迷っているのか」


 視界がぼやけていた。清涼な風が吹き抜け、土埃を顔に感じる。顔を伏せた。

 迷っているどころではない。そんな表現で足りるものか。オレは……。


「迷っている内はやめておけ。お前は俺を殺す資格がある」


 アゼルの声は遠のく。歩み去ろうとしているのだろう。


「覚悟が定まったら、また会いに来い。俺は生きている限り、同じ過ちを繰り返す」


 同じ過ち……。それが分かっていながら、なお前に進むのか、アンタは。


「それが俺の罪なんだ。贖うには死ぬしかない。道理だろ?」


 メーガンは膝をつき、力がまた抜けていくのを感じた。

 この数か月間、アゼルが戦場に姿を現すという情報を掴み、全力でその追跡に当たった。戦場で彼と相対し、確実に仕留められるように、両国に軍事探偵を差し向けて、密に連絡を取り合いながら彼の行動を監視していた。そして作戦は功を奏し、メーガンに覚悟さえあれば、確実に仕留められるような状況に持ち込むことができたのだ。穴から飛び出し、真如剣を振り下ろせば、全てが終わるはずだった。


 論理的に考えれば、そうだ。全てが終わったはず。しかし完全なる論理を振り翳すのは、不完全で矛盾に満ちた人間。完璧な演繹に野暮な帰納を持ち込めば、その推論はあっという間に揺らいでしまう。それと同じこと。


 メーガンは自分に負けたのだ。各国の諜報機関や国際警察が為し得なかった、アゼル暗殺という大仕事を単独で成し遂げようとしていたのに、全ての労力と金をフイにした。

 そしてメーガンは、アゼルを逃した今、安堵する自分に気付いた。それがなにより恐ろしかった。

 自分に復讐は無理だ。その事実を見せつけられて、もはや立ち上がる気力は残っていなかった。


「ああ、もう、アゼルったら、また僕を忘れて先に行っちゃうし」


 リアンが穴から這い出てきて、恨めしそうに言う。

 そしてメーガンの傍まで這ってきた。肩に手が触れる。少年の小さな手は、意外なほど力強い。


「アゼルを殺したら、僕がきみを殺すよ、メーガン。それだけは忘れないで」


 きっと、リアンの表情は鬼気迫るものだっただろう。

 メーガンは瞑目していた。

 死ぬべきはオレじゃないか。これ以上苦しんで、何になるというのか。しかしアゼルを許せば自分を許せなくなるだろう、メーガンは直感していた。




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