学長の朝
虫の報せか、躰がビクリと痙攣して、顔の上に載せていた雑誌が滑り落ちた。
突然眩しい光に晒されて、メーガンは身じろぎした。ソファの上から転げ落ちる。
「痛てて……」
メーガンはぼさぼさの髪を掻きながら瞼をこじ開けた。いつも通りの小汚い事務所。一念発起して数日前に掃除を敢行したが、ものの半日でいつもの雑然とした状態に戻った。きっと家主が寝ている間に部屋を散らかす悪い妖精さんでも住んでいるのだろう。
「そうだ、そうに決まってる……」
寝ぼけ眼でぼやいたメーガンは大きな欠伸をぶちまけ、尿意を覚えて立ち上がった。
そしてやたら眩しい光を供給する窓を睨む。ブラインド、閉めなかったけ……。
ささやかな疑問はすぐに忘却され、彼女はまた欠伸をしながら便所へと歩み始めていた。
「せっせ、せっせ」
ふと、目の前を横切る黒い影。少年が本を数冊抱え、本棚に押し込もうとしているのを見てしまった。メーガンは目を疑った。
少年は整理整頓しようとしているらしいのだが、小さな腕で重い本を抱えていたおかげで、本棚に押し込める前に取り落としてしまい、バランスを崩し本の上に転倒、慌てふためき滅茶苦茶なステップを踏んだ挙句に紙を破いてしまうという間抜けっぷりだった。
「……いたずら妖精……」
メーガンは呟き、また瞼をこすった。夢だろうか、それとも現実?
「あ、お目覚めになられたんですね!」
少年が嬉しそうな声を発する。メーガンは頷き、少年をまじまじと見つめた。
ごわごわした短髪に太い眉、折り目正しく着こなした何らかの学校の制服、メーガンが最も嫌いな「真面目さ以外に取り得がない」人間のようだった。子供相手に手酷い批評だが。
「凄いです、本物のメーガンさんだ!」
少年ははしゃぎ回った。躰を震わせて歓喜を爆発させる。自分の世界に入って朗々と天に向かって言葉を紡ぐ。
「半年前に世界に訪れた未曾有の危機、そう、それは神の論理に穿たれた誤謬の魔! このままでは全世界が矛盾律に呑まれて消え失せてしまう、全ての無辜の民が運命の過酷さに嘆き瞼の裏に逃げ込んだそのとき、颯爽と神の論理を補完し世界の崩壊を食い止めた大英雄、そう、それがメーガンさん! いやあ会えて光栄ですよ、サイン貰ってもいいですか?」
メーガンは首を横に振った。欠伸をする気さえ起きなくなっていた。
「ていうか、お前誰だよ」
「はっ、申し遅れました、わたくしはジーニアスと申します! ジーニアスジュニアです!」
「ジーニアスね。何の用だよ。営業時間外なんだけど」
メーガンのぶっきらぼうな物言いに、少年は俄然声を大きくした。
「メーガンさんがこの度、論理学の学校を創立するとの情報を得て、是非、入学させていただきたいなと思ったわけです!」
「ふうん」
メーガンは尿意を我慢できるかどうか、その前にこのガキを帰らせられるかどうかを計算していた。それにしても入学希望者なら無下にはできないな、面倒だ。
「入学希望者は私書箱に必要書類を送付して面接試験を受ける――って手筈だよ。ここに来たってどうにもならん」
「ですから、一足早く面接に。書類も持参で」
「面接官は外注してある。オレは教育者って柄じゃないからさ、知り合いが代行してくれてる」
「え」
絶句した少年の額を、メーガンは押した。
「……まあ、形式的にオレが学長ってことになってるけどさ。しかしまあ、今オレは講師陣の確保に忙殺されてるわけよ。入学希望者が予想以上に多くて、できればたくさん受け入れたいし、元々そういう理念なわけだし。アゼルの野郎がもうちょっと手伝ってくれればな……」
半年前、世界の大混乱の中、アゼルはとてつもない額の金をメーガンに渡し、学校でも何でも作れ、俺は俺のできることをする、と言い残して去った。暇な論理学者が、神の論理の完全性を証明した人物の特定に成功し、メーガンは一躍時の人となっていた。雑音に悩まされていたから、事業の立ち上げには不適だった。
そんなとき、手を貸してくれたのがシェリルだった。どうやらマティアスに頼まれて渋々出張って来たらしく、今はメーガンの代わりに様々な雑事をこなしてくれている。
彼女に任せておけば安心だ、と思ったが最後、メーガンは持ち前の怠惰な性格を発揮し、最低限の仕事しかしなかった。メディアの取材攻勢に疲れ果てた、というのもある。
「ところでお前、どうやって事務所に入ってきた?」
「え? 玄関、開いてましたよ。全開です」
少年は平然と言う。メーガンは眉を顰め、そして、馴染みの香水の匂いを嗅いだ。
「あの野郎、勝手に入り込みやがって、どういうつもり――」
そのとき、バートラムが首を捻りながら廊下を歩いてきた。彼の手にあるのは通帳。
「おかしいな、こんだけのはずはないんだけど、メーガンちゃんって浪費家だからな――」
「てめえ! おい、クソ!」
メーガンが絶叫しながら迫ると、バートラムは余裕の笑みを零した。
「おっと、メーガンちゃん、必要経費を頂いておくからね」
「何が経費だ、盗人が!」
「事務員に雇い上げてくれたのは感謝してるけどね、人遣いが荒いんだよ、メーガンちゃんはさ! それに新しい講師を見つけてきたから、検討よろしく」
数枚の履歴書を放り投げたバートラムは信じられないほどの速い逃げ足で走り去った。メーガンは怒りで眩暈を感じながらも、あの通帳はダミーだ、と自分の懐にある感触を確かめながら気を落ち着かせた。
少年が一枚の履歴書を拾い上げて読み上げる。
「ファネル=コーム、元サプレスの特務部隊……。学長、悪の巣窟からの挑戦状みたいですよ」
今やすっかり悪名高き特務部隊に少なからず同情しつつも、メーガンは履歴書を少年から取り上げた。写真でサングラスをかけた女がピースをしている。就職する気があるのか。
「……ま、全員採用だけどな」
「が、学長、正気ですか。悪の巣窟ですよ、信じられません」
「うるせえな。オレたちは立ち向かっていかなきゃならねえんだよ。清濁併せ呑む度量が学長さんには必要なの」
メーガンは一部で英雄と持ち上げられる自分を滑稽に思っていた。実際の功績はクロッソンのほうが大きいと感じていたからだ。あの男は十年にも渡る研究の末、とうとう難攻不落の神の誤謬を証明した。そう、あれは紛れもない誤謬だった。
メーガンは横からその功績を掻っ攫っただけに過ぎない。片や大英雄、片や希代の悪党。英雄の肩書きの有難味も薄まるというものだ。
だが、この立場を利用して、論理世界の無闇な建造は全世界を破滅せしめることを、強く訴えることができた。真理を突き止めた者としてのメッセージは、世界中に厳粛に受け止められたようだ。
利用できるものは利用する。それはメーガンとしての元々の流儀だったが、今回ばかりは規模が巨大過ぎて気後れしていた。
だが、この世界を守る為なら。大袈裟な意味ではなく、明日に前進する力を得られるというのなら。
「学長、面接よろしいですか」
「ああ? お前、まだいたの。面接は外注したって言ったろ」
「でも、せっかく来たのに。田舎から」
「知るかよ」
「じゃあ、話し相手になってください。お願いします。どうしても分からない論理学上の難問を抱えているんです」
何だ、その仰々しい言葉は。少なからず興味を惹かれて、メーガンは促した。
「何だよ、難問って」
「人間も論理式で構築されているんでしょう? それ自体独立した一つの理論だって教科書に書いてあります。けれど、どんな理論も公理がないと証明不可能。人間の公理って何ですか」
なかなか難しい質問だった。それが分かれば学会で賞を貰えるだろう。メーガンは適当にいなそうと思ったが、ふと思いついて、
「両親の論理式が公理だよ。親御さんから産まれたんだからな」
「ええ?」
少年は凄まじく不満そうな顔をした。メーガンはこの瞬間、教育の難しさを痛感した。
「でも、親が死んでも子供は生き続けるじゃないですか。もし両親が公理だったら子供も一緒に死にますよね。分からないなら分からないってはっきり言ってくださいよ」
何だこいつ。殴り飛ばそうと思ったが、踏みとどまり、言葉を探した。
「……つまり、だな、ジーニアスくん」
「はい」
「生まれたとき、人間の公理は両親。これは間違いない。しかし、生まれ出た瞬間、子供は世界と繋がる。色んな形で繋がる。友達とか恋人とか先輩後輩とか近所のおっさんとかと」
「え……? よく分かりませんけど」
「オレにも親はいない。そこの公理は粉砕された。でもオレの中で息衝いている。なぜそれが可能かっつーと、他の公理が支えてくれているから」
アゼルを筆頭に。自分の生きる力を与えてくれるもの。それが人間にとっての公理だ。メーガンは自分の説明に悦に入ったが、
「全く納得できないんですけど、学長! こんなことしか教えてくれないのなら学校に行っても無駄です!」
「何つーことぬかしやがる、てめえ!」
メーガンは憤激して少年を突き飛ばそうとした。しかし少年は極めて機敏であり、メーガンがひっくり返って机の角に頭をぶつけるという結末だった。
「が、学長。大丈夫ですか」
メーガンは頭を抱えて悶絶していた。怒りが失せ、恥だけが残り、ソファに腰掛けたメーガンは弱々しい笑みを見せた。
「おい、お前、入学していいよ」
「えっ本当ですか!」
「その代わり、今見た醜態は全て忘れろ。いいな。約束破ったら即退学だからな」
「分かりました、やった、推薦入学だ!」
少年は用は済んだとばかりに慌ただしく部屋を出て行った。メーガンは苦笑し、やれやれ、尿意もどこかに消え失せたよ、と天井を仰いだ。
それにしても、少年が強引にぶち上げてきた論題は極めて難解だった。
それが解ければ、論理学者は自由に人間を書き換えることができるようになるだろう。
人間の公理は何か。
オレの公理は。メーガンという一人の人間の公理は、何だろう。
案外、さっき自分が言ったようなことなのかもしれない。だから未だ誰にも解明できないのかもしれない。
「だったら、良いんだけどな。一人が他を支え、他が一人を支える世界か。もしそうなら神を尊敬するね。いや、ほんと」
メーガンは呟く。改めて学校を建てようという気力が湧いてくる。本当にこれで世界は変わるんじゃないか。そんな期待が膨らむ。
いつだって現実は過酷だ。いずれ人類はこの世界を滅ぼしてしまいかねない。しかし、人と人の繋がりを感じられる内は、人は滅びないのではないか。心の底からそう思う。
メーガンは囁く。自らの公理の名を。自らを証明する要素を。親愛を込めて。
〈了〉